唐の脅威と東アジア外交
西暦六三〇年代。西の大陸では、隋の混乱を収拾した超大国『唐』が誕生し、第二代皇帝・太宗(李世民)の治世のもとで強烈な拡大野心を剥き出しにしていた。
唐の軍勢は高句麗への大規模な侵攻を開始し、その余波を受けて朝鮮半島の情勢は激しく動乱した。百済と新羅は生き残りをかけ、相次いで日本へ救援や軍事同盟を求める使者を派遣してきたのだった。
「大王様! 新羅と同盟を結び、百済を討つべきです! 朝鮮半島に我が国の拠点を築く絶好の機にございます!」
「いや、伝統ある親密な百済を助け、唐の東進を食い止めるべきだ!」
小墾田宮の朝廷では、臣下たちが二分し、激しい議論が巻き起こっていた。
しかし、玉座に座す飛鳥大王(聖徳太子)は、静かに首を振った。
「どちらにも加担してはならぬ。半島での泥沼の戦争に兵を送り込むことこそ、唐の真の狙いである」
太子の「天眼」には、史実における悲劇――『白村江の戦い』の情景が明確に映し出されていた。
無謀な海外派兵によって何万もの兵士が海に沈み、国力を使い果たして唐の脅威に怯えるという愚行。それを太子は断じて許さなかった。
「我が日本は、他国の覇権争いの道具にはならぬ。だが、ただ引きこもるわけでもない」
太子は、百済・新羅・高句麗の三者、さらには唐の使者に対し、驚くべき宣言を発した。
「我が国は『絶対的中立』を貫く。ただし、東シナ海の制海権は我が飛鳥水軍が完全に掌握する。他国の軍船が我が領海を侵せば、容赦なく水底に沈めると思え」
圧倒的な製鉄技術で造られた鉄甲船と、強力な海上防衛力。
武力を背景にした太子の絶対中立外交によって、日本は海外の戦火に巻き込まれることなく、自国の平和を確固たるものとして誇示するのであった。




