第1話 沈黙の聖女
レイヴェル王国で、聖女ミレイアの名を知らぬ者はいない。
神に愛されし奇跡の乙女。千年に一度現れる、歴代でも類を見ない強大な加護を持つ聖女。病を癒し、正気を払い、祈り一つで荒れた土地に花を咲かせる。
そのうえ、彼女は美しかった。陽光を溶かしたような淡い金髪に、雪のように白い肌。伏せられる長い睫毛は人形のように繊細で、祈りを捧げる姿は一枚の絵画のようだと言われている。
そして何より、人々を惹きつけたのは——その沈黙だ。聖女ミレイアは、神託を伝える時以外に決して声を発さない。神殿に仕える者ですら、その声を聞いた者はほとんどいない。問いかけには静かに微笑み、嫋やかな動作で短く文字を書き記すだけ。その慎ましさが、より一層彼女を神秘的に見せた。
「なんと慈悲深いお方……」
「今日も治療を受けた少年のために、涙を流されたそうだ」
「聖女様はお声を持たぬ代わりに、祈りで語られるのだ」
王都の市場でも、貴族の茶会でも、彼女を讃える噂は尽きない。誰もが信じていた。聖女ミレイアは、この世で最も清らかで、お優しい女性なのだと。
◇ ◇
王都中央神殿。祈禱室の隣の治療室で、ミレイアは今日最後の治療を終えた。治療による魔法の光が消え、寝台に横たわっていた老貴族が感涙しながら彼女の手を取る。
「聖女様……ありがとうございます。この老いぼれ、まだ孫の成長を見届けられそうです……」
ミレイアは、柔らかく微笑んだ。そして侍女が差し出した筆記板を受け取ると、筆を持ってさらさらと文字を書く。老貴族は書かれた文字を見て、さらに感激したように目を潤ませた。
「おお……『どうかお身体を大切に』……なんとお優しい……」
笑みを絶やさぬままにミレイアは部屋を出て、そのまま美しい動作で廊下を歩く。すれ違う神官達に微笑みかけながらしばらく歩き、私室に入った瞬間。ミレイアは深々と息を吐き、その顔から笑みを消した。
「酒の飲みすぎでここに来られるのほんと迷惑だわ。酒臭くて治療どころじゃないのよ」
侍女セシルは、青ざめた顔をして声を潜める。
「お、お嬢様……! 誰かが入ってきたらどうするのです!」
「ここは私室よ。誰も入ってこないわ」
鈴のように澄んだ声だ。透き通るように美しい、聖女にふさわしい声。だがその内容は、まったくふさわしくない。
「ていうかあの爺さん、孫の成長を見たいとか言ってたけど本音はまだまだ賭け事がしただけじゃない。見え見えなのよ。うんざりする」
セシルは慌てて周囲を見回した。
「しっ……! お声が大きいです!」
「聞こえないわよ。わたしの声は軽やかで鈴のように澄んでいるらしいからね」
そう言いながら、ミレイアは聖衣の裾を乱暴に持ち上げて、ソファーにどさりと腰かけた。その姿は、王国の人々がひれ伏す聖女様の姿とは思えない。
「次の予定は?」
「……王太子殿下への祝福の儀です」
「最悪。あの顔だけ男と会わなくちゃいけないの?」
「お嬢様!」
ミレイアは机に突っ伏した。長い金髪が、肩から流れてさらりと床に落ちる。神々しい容姿でも、やさぐれた空気が台無しにしていた。
「どうせまた、『聖女殿の祝福は国の希望です~』とか言いながら、頭の中では私を政略結婚に仕えないか考えているんでしょ。あーやだやだ」
彼女には、人の本音が聞こえる。神託を受けてきたことの副作用であると考えられる。話者が口にしている言葉ではなく、その裏にある濁った感情が耳に入ってしまうようになったのだ。そのため、数多くの綺麗事を聞くたびに腹が立つ。
幼い頃は耐えていた。だが、十五を過ぎた頃に一度、限界が来た。一度ぽろりと本音を口にして以来、「お前は喋るな」と神殿のお偉い方全員から言われるようになった。あまりにくどく言われるものなのでイライラを募らせた彼女は、ついに決意したのだ。
——もう、人前では口を開かないようにしよう。
その結果が、今の『神秘の聖女』である。彼女の評価は上がった。信徒も莫大に増えた。神殿も王家も満足している。本人だけが、毎日ストレスで胃を痛めているだけだ。
「……ほんっと、ばかばかしい」
そう呟いた時、コンコン、と扉が叩かれた。彼女は手慣れた様子で居すまいを正し、セシルがそれを確認してから声を出す。
「どなたですか」
扉の向こうから、低い声が聞こえた。
「聖女様の護衛任務を拝命致しました。騎士団所属、ルーク・アステルです」
その言葉に、ミレイアは顔を顰める。新しい護衛が付けられるという話は聞いていたが、今日だったか。面倒くさい、と小さく舌打ちして立ち上がる。それと同時に、扉が開かれた。
現れた青年を見て、ミレイアはぴたりと動きを止めた。黒髪に、夜を閉じ込めたような深い青の瞳。整った顔立ちをしていて、騎士服を着こなし、長身で、派手なわけではないが目立つ男だった。
第一印象は、顔がいい。
次に、うわ、こいつ絶対面倒なやつという感想が浮かんだ。
じっと青年を見つめていると、彼女の耳には、彼の心の声が流れ込んできた。
(……綺麗だな。想像以上だ)
ミレイアの眉がぴくりと動く。どうせ下心か、政略か、何か裏がある。そう思ってさらに意識を向ける。
(でも、すごく不機嫌そうだ。俺が何か気に障ることをしてしまったのだろうか)
……は?
ぽろりと声が漏れそうになった。が、彼女は長年の理性を繰り出し、なんとかその声を抑え込むことができた。声の代わりに笑みを深めると、彼もふっと優しく笑う。
「お姿を拝見することができて光栄です、聖女様」
その笑顔が妙に自然で。取り繕った打算も、媚びも何も感じない。何故か腹が立って、ミレイアはとっさに視線を逸らした。
何なの、この男。王族も貴族も神官も、初めて会えばたいてい同じだ。表向きは敬意を示していても、その裏には欲望や打算が透けて見える。美しい聖女だ。王家に取り込めるか。神殿との関係を有利にできないか。その中でも多いのは、女として品定めされ、反吐が出そうなほどの劣情を抱かれることだ。
それが当たり前だった。だから彼の心の声も、その一種だと思ったのに。
(なんだろう。怒らせた……?)
本当に困惑していると分かる声が聞こえた。裏がない。あまりに素直すぎて、逆に不気味に思えるほどだ。ミレイアはすぐに表情を作り直し、いつものように筆記板を受け取ると、流れるように字を綴る。
『以後、護衛を頼みます』
完璧だ。慎ましく、穏やかで、神秘的な聖女にしか見えないだろう。目の前の青年は彼女が書いた文字を読み、胸に手を当てて一礼した。
「この身に変えても貴女様を守ります」
その声は低く落ち着いていて、不思議と耳に残る。ミレイアは小さく頷き、それ以上関わる気はないとばかりに椅子へ戻ろうとした。だが、その時。
「あの……聖女様。お疲れではありませんか?」
予想だにしていなかった言葉に、ミレイアの肩がぴくりと揺れた。セシルもぎょっとした様子で彼を見ている。普通なら、聖女に対してそのように私的な問いをかけるなど、無礼とまではいかないが随分と踏み込んでいると判断されるだろう。しかし彼は、気にした様子もなく続けた。
「少し、顔色が優れないように見えました」
ミレイアはゆっくりと振り返る。彼は、穏やかな表情をしているが、その心では何を思っているのか。
(治療を続けていたと聞いていたし、疲れているのは当然だろう。神殿の者達は彼女に無理をさせているのでは?)
思わず眉が寄った。本気で心配している。初対面の相手に、こんな風に思うものだろうか。ミレイアは、無言で筆を走らせた。
『問題ありません』
そして、少しだけ迷ってから、続けて一行足す。
『余計なお気遣いは不要です』
セシルが見たら悲鳴を上げそうな冷たい文面だ。しかし彼はそれを見て、優しく目を細めた。戸惑うのでもなく、驚くのでもない。
(やっぱり、怒っていらっしゃるのか。でもこの文字、とても丁寧で美しいな)
「……」
ミレイアのこめかみに青筋が浮かんだ。この男は何を見ているのか。普通なら今の文字を見て、突き放されたと思うだろう。それなのに彼はなぜか楽しそうだった。気に入らない。ものすごく気に入らない。
無視して背を向けようとしたその時、彼がまた口を開いた。
「聖女様」
ぴたり、とミレイアは止まる。
「私は、護衛として常にお側におります。何か必要なことがあれば、遠慮なくお申し付けください」
(……できれば、この人には少しでも楽に過ごしてほしいな)
その声に嘘はない。本音を聞いてもよく分かる。セシルが不思議そうに二人を見比べる中、ミレイアだけが固まっていた。
何、それ。意味がわからない。まだ出会ったばかりで、名前しか知らないくらいの相手なのに。どうしてそんなに綺麗なことを思うのか。
彼女は思わず彼を凝視した。整った顔立ちに、涼し気な瞳。礼儀正しい立ち姿。どこからどう見ても、王都の令嬢が騒ぎそうな優良物件だと一目で判断できる。だが、それだけで……特別な何かがあるようには見えない。それなのに、聞こえてくる本音は妙に真っ直ぐで、気味が悪いほどに飾りがない。彼はミレイアにじっと見つめられて、少し困ったように首を傾げた。
「……あの、私に何か?」
ミレイアは、あんた何なの? と口に出しかけたが寸前で飲み込む。危なかった。セシルが、祈るように彼女を見ている。セシルが慌てるほどに、顔に出そうになっていたのかもしれない。
ミレイアはゆっくりと息を吐いて、自らを落ち着かせるためにも文字を書いた。
『今日は下がってください。休みます』
「承知しました」
彼は素直に一礼した。扉へ向かうその背中を見ていると、彼の思考がまた聞こえてくる。
(やっぱり、綺麗だな。皆が美しいと言うのも分かる。……でも、すごく警戒されている。俺が気づかないところで何か粗相をしてしまったのだろう。嫌われたかな)
「…………」
扉が完全にしまったことを確認した、数秒後。ミレイアは筆記板をソファーに叩きつけた。
「何なのあいつ!!」
突然の言葉に、セシルが飛び上がる。
「お、お嬢様!」
「意味わかんない! なんであんなに普通なの!? 普通に心配して普通に褒めて普通にへこむって何!? 逆に怖いんだけど!」
「お声が大きいですお嬢様!」
ミレイアは苛立たしげに髪をかき上げた。彼女の胸の奥は妙にざわついている。今まで、誰の本音を聞いてもこんな気持ちになることはなかった。打算であれば切り捨てればいい。欲望なら無視すればいい。嫌悪なら慣れている。
だが、あの男の心は違う。裏表がなさすぎて、逆に対応が分からない。
「……絶対に何かある」
ミレイアは低く呟いた。
「顔がいい男なんてろくでもないに決まっているわ」
そう結論付けて、無理やり納得する。
しかしその日の夜、眠りにつこうとして目を閉じた時に脳裏に浮かんだのは、あの黒髪の騎士の笑顔だった。
あの自然な声色。打算も媚びもない、ただ本当にそう思っていた声。ミレイアはがばっと起き上がり、枕を抱きしめた。
「……最悪」
なぜか、あの男の本音をもっと聞いてみたいと思ってしまった自分が、一番腹立たしかった。




