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エピローグ

 3月下旬、桜の季節。

 冬服の制服の上にジャケットを着て、星凌大総合病院の入院病棟の個室、その部屋にいつも通り入ろうと扉を開け、だが駿は入り口で立ち止まった。

 部屋の中にいた人物が気付いて声を寄越す。


「駿君、お帰り。今学校終わったの? 毎日来てくれてエライね、皆勤賞だ」


 明るい声でそんな言葉を寄越したのは、丸顔で丸眼鏡を掛けた、沙耶の主治医の11先生。

 駿の顔が強張る。


「……沙耶になにかあったんですか?」

「ん? ああ、今日は急患が入ったから、入院患者の午後の回診が遅れただけ。君が心配するような事はなにもないよ」


 その返事を聞いて駿は緊張を解き、部屋の中にゆっくり入る。

 一緒に同行していた女性看護師が、沙耶の枕元に置いた血圧計をしまいながら、駿に笑顔を向ける。


「駿君、手に持ってるのそれ桜?」

「はい。沙耶は桜が大好きだから喜ぶと思って」

「沙耶ちゃんは桜が好きなんだ。病院の中庭にも桜の木が植えてあるよ。まさかその木から折って持ってきたりしてないよね?」


 満開の桜の花が付いた枝を持つ彼に、久遠は冗談半分でそんな事を言ったはずが、男子高生は黙ったまま。

 どうやら病院の桜を花泥棒してきたらしい。


「今の話は聞かなかった事にしておくよ。そうしよう」

「沙耶、ただいま」


 部屋の中央に置かれたベッド。

 傍に行き駿がそう言うと、ベッドの中で眠る沙耶の、布団から出ている左指が、一瞬ほんの少しピクリと動く。


「沙耶ちゃんは駿君を認識してるみたいだ。僕達がいくら話しかけても、少しも反応してくれないのにな。駿君は特別な存在なんだろうね」 


 すい臓癌の手術当日。

 心停止のアクシデントもあったが、蘇生を施して彼女は再び息を吹き返した。

 終わってみれば12時間という、長時間の大手術を久遠はほぼ1人で行った。

 誰かの手を借りる余裕などなかった、時間との勝負、自分の経験と勘と手先だけが頼り。

 沙耶のすい臓には複数の腫瘍があったが、癌の位置が幸い、周辺の臓器に転移がなかったのも幸い。

 癌細胞を無事取り除く事ができた。


 手術が終わり部屋から出ると、手術室前の長椅子に駿がじっと座っていた。

 終わったよ、ひと言そう告げると彼は立ち上がり、深々とお辞儀をしたのが印象的。


「先生、沙耶はいつ目覚めますか?」

「僕も分からないよ。なんで起きないのか、起きたくないのかなぁ」


 ベッド脇で沙耶を見ながら、久遠のそんな呟き。

 手術から1時間後に麻酔が切れ、目覚めるはずだった沙耶は今も眠ったまま。

 起きる気配は全くない。原因は不明。

 あれから4ヶ月ずっと眠り続けている。


 術後は抗癌剤を点滴投与している成果か、腫瘍マーカーと呼ばれる癌の兆候を示す血液検査は、基準値で癌の再発兆候はない。抗癌剤の副作用もない。

 血圧正常、脈拍正常、顔色良好、体の傷口も綺麗に塞がった。

 今の沙耶は普通にただ寝ているだけにしか見えない。


 桜の枝を持ったまま、眠る沙耶の顔をじっと見つめている少年に、久遠が言う。


「眠り姫の話を知ってるかい? ずっと眠り続けていたお姫様が、王子様のキスで目覚める話。駿君、試してみたら? 案外本当に起きるかもよ?」


 僕がすると犯罪になっちゃうから、そんな言葉を付け加えて、軽くウィンクをして久遠は病室を出て行く。

 同行していた女性看護師は、駿にもう一度笑顔を向けて、医師を追うように出て行った。




「純愛ですね」


 回診が終わり外科診察室に戻ると、一緒に同行していた看護師が、感慨深げにそう言った。

 駿の事を話しているのだと久遠はすぐ気付く。


「手術日から1日も欠かさず毎日病院に見舞いに来てくれている。いまどきあんな男子高生いませんよ、私も駿君みたいなイケメン男子に一途に想われてみたいわ。私が10才若かったらなぁ……残念」


 10才若かったらどうだというのだ。

 今年50才、推定体重85キロの彼女のそんな呟きを、右から左に聞き流す。


「沙耶さんのお母さん、新薬の開発に成功されたみたいですね。新聞ご覧になられましたか? 今日の朝刊に大きく掲載されていました」


 そう言って看護師は、机の上に折り畳まれて置かれていた新聞を、久遠に手渡して自分の仕事に戻って行った。


 認知症治療新薬の開発に成功。

 そんな見出しで、沙耶の母親の笑顔の写真付きで、新聞の一面トップに大きく記事が掲載されている。


 沙耶の母親は1度も病院を訪ねて来ない。

 たった1度病院に電話連絡があったが、それは手術代と入院費の支払いについての問い合わせだった。


 誰がどう見ても、育児放棄ネグレクト。

 だがこの病院でそれを通報する事も、誰一人口にする事もないのは、沙耶の母親が日本を代表する『製薬会社リトマ』という巨大な組織の人間だから。

 新薬研究で数々の実績を持つ母親は、リトマで今やトップ部類の地位に位置づけされているらしい。その彼女を組織が守るのは当然、そして容易い。

 社員の負になる事柄が公になる事は絶対ない。

 母親を訴えたとしても、受理される事なく簡単に揉み消され、そして訴えた人間の末路は闇と決まっている。

 大人の裏の世界の事情。

 いつの世も力のある者が勝利し、犠牲になるのは力を持たぬ弱い人間。不条理で、理不尽で、不均衡な摂理。


 正義が勝つのは漫画や映画の世界だけ。

 敗北が見える戦いに敢えて挑む者などいない。

 久遠もしかり。妻や子供……守るべき家族を犠牲にできない。


「自分の娘より、そんなに仕事が大事なのか?」


 怒りを含んだ声で小さくそう言い、久遠はグシャリと新聞を握り潰した。


 * * *


 星凌大総合病院の入院病棟。

 南側に位置する日当たり良好の静かな個室、ここが沙耶の部屋だ。

 主治医の計らいでこの部屋に大部屋料金で入室できた。窓から見える景色もいい。

 駿は100均で買った一輪挿しの花瓶に、部屋の隅にある洗面所で水を入れて、手に持っていた桜の枝を挿した。


 沙耶は桜が大好きだ。

 あれは中3の春だった。学校の校庭に植えられた満開の桜の木の下で、放課後、沙耶はずっと桜を見上げていた。


「私の『沙耶』っていう名前はお父さんがつけたの。お母さんは『桜』って名前にしたかったんだって。私の名前がもしも桜だったら、お母さんはもっと、私の事を大事にしてくれたかなぁって時々考える」


 母親不在の家で1人暮らす沙耶。

 駿にそう話して、少し悲しげに笑ったその顔が、不本意だが、綺麗だと駿は思った。

 そんな昔をふと思い出す。


「お前の好きな桜を持ってきたぞ、ホレ」


 沙耶の顔のすぐ目の前に、花瓶を差し出しそう言う。

 ぶっきらぼうな物言い。

 だがそれに対して、沙耶が頬を膨らませる事も、なにか文句を言う事もない。

 少しの間そうした後、諦めてベッドサイドテーブルの上に、静かに花瓶を置いた。


 駿は海外留学を辞退した。

 沙耶がすい臓癌手術をした11月20日以降、駿は毎日病院に来ている。

 平日は学校が終わった後に来て、面会終了時間ギリギリまでいる。学校が休みの土日祝日は、ほぼ1日をこの病院の中で過ごしている。

 寂しがり屋の沙耶が目覚めた時に、自分が傍にいてやりたいと思うから。そんな理由。


 沙耶のクラスの担任や級友達は、手術後1週間ほどは興味本位で見舞いに来てくれたが、今では来る人は誰もいない。

 友達作りの下手な沙耶には親友と呼べる友人がいない。沙耶が心を開いて話せるのは駿だけ。

 生徒会長の蘭堂は1度だけ見舞いに訪れた。

 その時に、蘭堂が沙耶の病気を知った経緯を駿は聞かされた。

 駿を意識してか、それ以降蘭堂が見舞いに訪れる事はなかった。

 そして沙耶の母親も1度も病院に来ていない。


 眠り続けて目覚めない沙耶に、駿は何度も名前を呼び、何度も話しかけた。

 興味を惹くような話をしてみたり、沙耶の大好物のスイーツやポーチドエッグを作ってきて、目の前で美味しそうに食べるフリをしてみたり。だが沙耶が反応を示す事はなかった。

 後に残るのは虚しさだけ。


 ベッド脇に置かれた簡易イスに座り、駿はぼんやり窓の外を見た。

 春の天気は気まぐれで変わりやすい。

 つい先程まで太陽が見えていたが、今は一転、雲がかかり雨が落ちていた。

 ベッドの中で眠る沙耶に視線を戻した後、駿が言う。


「沙耶……お前いつまで寝てるつもりなんだ? いい加減さっさと起きろ、しばくぞ」


 まるで4ヶ月前までの2人の日常を再現するように。

 声が聞きたい。

 話がしたい。

 笑ったり怒ったり、ふざけ合ったり、くだらないおしゃべり、一緒に食事して、一緒に駆け足で登校して、2人で過ごしてきたありふれた日常が今はない。 


「寝飽きるくらいもう十分寝ただろう。だからさ、そろそろ起きないか? なぁ、起きろよ……起きて話をしよう、沙耶」


 駿は顔を寄せて、沙耶にキスをした。

 駿の目に涙が浮かび不覚にも、ポロリ、沙耶の頬に1粒落ちる。

 すぐに顔を上げて、何事もなかったかのように窓際に歩いて行く。

 外の暗い雨空を少しの間眺め、窓の外を見たままで言う。


「お前の大好きなポーチドエッグをたくさん作ってやるよ。それを持って、一緒に桜を見に行かないか? 今日はすごく天気がいい」

「嘘つき。雨が降ってるよ」


 唐突に駿の耳にそんな声が届く。

 後ろを振り向くと、4ヶ月間昏々と眠り続けていた少女は、ベッドの中でパッチリと目を開けて、駿を見ていた。


 沙耶の視界に、ベッドサイドテーブル上の桜が見えた。

 満開の綺麗な桜。

 寝起きの少し掠れた声で、不思議そうに沙耶が言う。


「桜……? なんで11月に桜が咲いてるの?」

「今は3月だ」

「3月? 今、11月でしょ?」

「今日は3月20日だ。沙耶、お前は4ヶ月間ずっと眠っていたんだ」


 沙耶の傍に戻った駿が、イスに座りながらそう伝える。

 パチリパチリ、と沙耶は何度か瞬きをした。

 頭の中が混乱中。記憶は11月20日で止まっている。


 起き上がろうとした沙耶を駿は片手で制し、静かに問いかけた。


「気分はどうだ?」

「いいよ。ねぇ……私の手術終わったの? 成功した?」

「ああ、手術は成功した。体の中にあった癌細胞を取り除いて、術後に抗癌剤の点滴を投与して、今は癌の再発も見られないし副作用も起きていない。血圧正常、脈拍正常、顔色良好、体の傷口も綺麗に塞がったと11先生が言ってた」


 その言葉にホッと安堵する。


 良かった……。


 相変わらず綺麗な顔の我が王子の顔。

 毎日見ていたはずだけど、そういえば久しぶりに見るような気もする。

 頭の中が混乱したまま、ぼんやり思い出して沙耶が訊く。


「今日は3月20日……ねぇ、海外留学の帰国は3月25日じゃなかった? 早く帰ってきたの?」

「海外留学は行かなかった」

「え……」

「辞退した」


 沙耶を真っ直ぐに見て駿がそう伝えた。

 静かな個室。

 この部屋には沙耶と駿の姿しかない。沙耶の母親の姿はない。

 駿はきっと今までそうだったように、今回も自分の傍にずっといてくれたんだろう。


 当たり前のように……自分を犠牲にして。


 ベッドの中で駿を見たまま黙り込んだ沙耶に、駿は顔色ひとつ変えずに言う。


「自分で決めたんだ、後悔してない。大体海外留学なんて、そんなものにどれほどの価値があるって言うんだ? お前と秤にかけるまでもないだろ」


 さらりとそんなセリフを投げて寄越す。

 真っ直ぐに沙耶を見て、珍しく真顔で、そこに揶揄のひとつもない。

 海外留学より沙耶のほうが大事と。


 沙耶にとってそれは嬉しい言葉だが、入院と手術を延期してまで守ろうとした駿の海外留学、沙耶のその努力がムダに終わった事になる。

 でも。 

 考えてみたら人生なんてムダの連続なのかもしれない。

 間違えたり失敗したり、色んなムダを積み重ねながら、ムダじゃないものが出来上がっていく。自分がムダと思っていたものも、実はムダじゃないのかもしれない。


 主治医に沙耶の目覚めを知らせるため、ベッドの頭上にあるナースコールを押そうと、手を伸ばした駿の服を沙耶が掴む。

 視線を寄越した我が王子を見上げ沙耶が言う。


「聞こえてたよ」

「うん?」

「駿が私を呼ぶ声、全部聞こえてた。返事をしようと思ったんだけど、なかなかうまくいかなくて、返事する事ができなかった」


 夢の中で聞こえ続けていたあの駿の声は全部現実。

 今なら確信でそう言える。

 何度も何度も名前を呼び、痛いくらいに必死で呼び続けて、あの声をハッキリ覚えている。

 駿の服を掴んで離さないまま、沙耶が言う。 


「私……駿の傍にいたい。この先もずっとずっと、駿と一緒に生きていきたい、駿と生きたい」


 気付けばいつも傍にいてくれた。

 当たり前のように傍にいてくれて、一人ぽっちの自分をいつも支えてくれた。

 たくさんの苦しい事も悲しい事もだから乗り越えてこれた。

 神様が寂しがり屋の少女に与えてくれた王子様。

 唯一無二の王子。


 この先もずっと傍にいたい……。


 少し不安げに見上げる彼女の顔をじっと見つめた後、駿は小さく頷いた。

 そして、一語一語を、噛みしめるように言った。


「沙耶と生きたい!」


 いつしか窓の外の雨はやみ、雲間に一筋の眩しい光。


 ねぇ。

 私達の未来は、きっと想像以上に光り輝いている。

 そう信じてみる。




【END】


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