13.point of no return
13.
9月2日(水)
色が考えてるようなことは、全部ちゃんとわかってる。
大丈夫。
由稀
/
夏休みの県美は、小さな子供でごったがえしていた。騙し絵展が開催されていたからだ。美術館というのは一般的に静粛な場所だけれど、県美は施設の大部分を市民スペースとして開放していて、多少の喧噪も黙認されていた。
「見ろよ園村、ここ、階段があるのに階段が無いぞ!」
「階段が無いのにあるように見せてるだけよ」
「三上お前それ、俺が言ってることと何がちがうわけ?」
相馬君と加奈子ちゃんが楽しそうにしてくれているのを見て、私は内心ホッとしていた。運動部の貴重な休みをわざわざ割いてもらっているのに、つまらなかったらどうしようかと心配だった。二人とも、一つ一つの作品にリアクションをとっては笑い合っている。相馬君は、カーキのカーゴパンツに白いシャツ。加奈子ちゃんの方はデニムのホットパンツで、奇跡みたいに長い脚が目立っていた。
「すげー、にいちゃん空飛んでる!」
「ういてる! まほうつかいだ!」
「ちげーよ。仙人だ俺は。野球仙人だ!」
意味不明なことを口走りながら、相馬君はガラス台に描かれた騙し絵の上で座禅を組んでみせた。これが集まった子供達に異常にウケて、フロアの一画では俄かに座禅ブームが起きた。
「馬鹿みたい」
傍にいるのが恥ずかしくなったらしく、加奈子ちゃんは相馬君から離れて私の隣に来た。罵りながらも、緩んだ口許は優しい。久しぶりに間近で見る加奈子ちゃんらしい表情に、私は胸が温かくなった。
「良い顔」
指で作ったフレーム越しに私を見つめながら、加奈子ちゃんがにっこり呟く。
「私も、カメラ持ってくれば良かったなぁ」
彼女が動かした視線の先には由稀の姿があった。彼はアリス先輩と並んで、私たちより少し後方をゆったり歩いていた。今は、絵から飛び出した天使の腕に包まれる、幼稚園児くらいの小さい女の子を見つめて、二人で眼を細めている。由稀はクレリックシャツにベージュのチノパン。アリス先輩は、大人びた白いノースリーブブラウスを着ていた。由稀のズボンのポケットは、片方だけ大きく膨らんでいる。コンパクトカメラを無理矢理納めているからだ。彼は最近、写真が趣味になっていた。
こちらに気付いた先輩が、微笑みながら腰の近くで小さく手を振る。加奈子ちゃんは恐縮したように頭を下げた。当たり前のことだけれど、相馬君と加奈子ちゃんはあまり先輩に馴れていない。自然、この日はずっと三対二にグループが分かれてしまっていた。私にはそれが、少しだけ寂しかった。
展示を見終わったあとは、隣接する海浜公園に出た。コンクリートのオブジェや椅子が点在する綺麗な場所で、バスケットコートも幾つか設けられていた。用意していたボールを使って、私たちはしばらく身体を動かして遊んだ。相馬君と加奈子ちゃんは、さすが現役運動部といった感じで、先輩と由稀も、そつない身のこなしをしていた。私の活躍具合は言わずもがなだった。
一番最初に脱落した私は、近くのベンチに座って、みんなのことをぼんやり眺めていた。スポーツの力か、本人の人徳か、相馬君たちとアリス先輩はすっかり打ち解けた様子だった。安心した私は、バッグの中から小さなスケッチブックを取り出して開いた。美術館ではしゃぐ相馬君や、シュートを決めて喜ぶ先輩を、忘れないうちに描き留めておく。三枚程スケッチを終えた頃、加奈子ちゃんがコートを出て、こちらにやって来た。彼女は私が絵を描いていることに気付くと、眼を丸くして笑った。
「家族旅行に仕事の書類を持ってくるパパみたい」
「ごめん」
「やだ、立派だってこと」
隣に座り、肩をぶつけてくる加奈子ちゃん。由則おじさんからはもう十分だって評価をもらったけれど、もっともっと頑張らなきゃダメだってことは、自分が一番よくわかっていた。勉強してみて改めて、絵の奥深さを知った。私はまだ、高々一年、必死にもがいただけだった。
「一年って、全然短くないよ。私たちなんてさ、一週間のテスト勉強や、一ヶ月の合宿ですら、ひーひー言って、サボったり逃げ出したりしちゃうのに」
偉いよ、と、加奈子ちゃんは言ってくれた。感謝の気持ちを込めて、私はスケッチブックを閉じた。それからしばらく、二人で他愛無い話をした。私の身長が一センチ伸びる間に、加奈子ちゃんはまた五センチも大きくなっていたこと。相馬君が最近、クラスの女子にモテていること。加奈子ちゃんが、部活の後輩の女子に告白されたこと。くすくす笑ってじゃれ合っていると、相馬君が大声で加奈子ちゃんを呼んだ。
「三上、アイス賭けてワンオンワンしよーぜー」
「いいよ。ハーゲンダッツのストロベリーね!」
「気が早ぇーよ!」
「勝てると思ってるわけー?」
強気に応えて立ちあがると、加奈子ちゃんはコートに戻っていった。入れ替わりで、アリス先輩が私の隣に来る。
「楽しいね」
先輩の真っ白の肌は、仄赤く火照っていた。ノースリーブから伸びる細い二の腕に、薄ら汗が滲んでいる。
「潮風が気持ちいい」
結い上げていた髪をほどき、緩やかに二三度首を振る先輩。同性の私でも見蕩れてしまうような、色気のある仕草だった。
「ようやくしっかり話が出来たみたいね、ユキちゃんと」
「はい」
胸を張って、強く頷く。
「良かった。とても良い顔してる、今の園村さん」
加奈子ちゃんと同じことを言って、先輩は眼を細めた。
「こういう日が、なるべくゆっくり続くと良いね」
遠く海の方を見やって呟く。先輩の真似をして海を眺めながら、私は、昔この公園で由稀に抱きついた時のことを思い出した。それから、自分が手放そうとしてきたものと、今傍にいてくれる大切な人たちのことについて、考えた。目眩がするような、永く短い追憶だった。
「あのね、園村さん」
どこか決意を帯びた声で、先輩が私の名前を呼ぶ。続く言葉を待ったけれど、先輩はそれ以上何も言わなかった。由稀が、バスケットコートを出てこちらに歩いてきていた。
「ユキは加奈子ちゃんと勝負しないの?」
私が問うと、由稀は口を斜めにして肩をすくめた。
「あんなフィジカルモンスターに張り合う程馬鹿じゃない」
「逃げるんだ、かっこわるー」
由稀は無表情でしばらく私を見つめると、ポケットからデジカメを取り出して、私に押し付けた。
「持ってろ。ジャマだから」
そう言い残し、彼はまたすぐ相馬君たちの方に戻っていった。どうやらムッとさせてしまったらしい。なんだかおかしくって、私は笑った。ひとしきり笑ったあと、話が途中だったことを思い出して、先輩の方を窺った。先輩は穏やかな顔で、いいのよ、と首を横に振った。
「やっぱり、今日はやめておきましょう」
/
あの時アリス先輩が言おうとしていたことがなんだったのかわかったのは、夏の終わりのことだった。おばあさんの病気がよくならないということで、先輩の一家はフランスに引っ越すことになった。中学生活もあと僅かだというのに、夏休みが明けたら向こうの学校へ転校しなければならない。進学先も、もう向こうで決めてしまったのだと言う。本当は去年の夏の段階から、そういう話は出ていたらしい。どうして先輩が一年日本に残ってくれたのか考えると、私は胸が張り裂けそうになった。
心の底で覚悟していた、けれど早すぎる別れだった。せめて少しでも恩返しをしようと思い、夏休み最後の日、私はせっせと送別会の準備をしていた。午前中を全部使って内装の飾り付けを済ませ、次は飲食物の用意をしようとパーティションの奥に入った所で、美術室のドアが開いた。
「あら、素敵な飾り付け」
先輩の声だとわかり、私はすぐにパーティションから出ていこうとした。けれど、仕切りの隙き間から、彼女のすぐ近くに由稀が立っているのを見て、なぜだか脚が動かなくなった。先輩は髪を下ろしていた。
「色がいませんね」
「そうね」
不思議そうに頷き合う二人の様子が、かえって私に引っ込みをつかなくさせた。言葉にできないざわつきに自由を奪われ、私は息を殺していた。
二人は窓のサッシに並んでもたれ、しばらく無言で内装を眺めていた。やがて、気まずそうに眼を伏せ、由稀が静かに言う。
「卒業されたらお別れだとは思っていましたが、フランスは、ちょっと遠いですね」
「寂しい?」
冗談めかして問う先輩に、少し間を置いてから由稀は曖昧に頷いた。
「ありがとう」
「会いに行きますよ」
「上手なことは言わなくていいわ」
「色は必ず行きます」
由稀が断言すると、アリス先輩は困ったように薄く微笑んだ。躊躇うように俯いたあと、やっぱり顔を上げて、先輩は言った。
「こういうことは以前もあったから。今でもね、懐かしいな、会いたいなって人はたくさんいるの。あなたたちにも、きっと会いたくなると思う」
寂しげに眉を寄せ、先輩は続ける。
「だけど、例えもう一度会えたとしても、昔に戻れるわけじゃない。お別れするって、そういうことよ」
それは、先輩なりの、精一杯上手な別離なのだと思った。夏休みの後半を費やして、先輩は学校中の人たちとお別れの挨拶を済ませていった。先輩から会いに行くこともあれば、向こうから美術室を訪ねてくることもあった。泣いている人も、笑っている人もいた。先輩はいつも、飛び切り優しい顔で微笑んでいた。優しく、優しく、その姿を憶えていて欲しいと、願うように。
「私、あなたたちと過ごしたこと、きっと忘れないわ。救われたのよ。あなたたちは、人を好きなまま、絵を描き続けていいんだっていう、私の希望」
沈んだ空気を払う、朗らかな声だった。それは、初めて言葉を交わした時、先輩が話してくれたことだった。今ならば、先輩が抱えていた痛みが私にも少しはわかる。寂しくて仕方なかったと、言っていた。私のことを、普通の人だと言ってくれた。
「ユキちゃん、あなた、園村さんがあなた一人を選ぶために、他の全部を投げ打ってしまおうとしていることが、嫌だったんでしょう」
由稀は無言で、ばつが悪そうに頭を掻いた。そんな彼から視線を逸らし、漏れ零れるような儚さで、先輩は囁いた。
「私は、あなたが、そういう理屈を言い訳に、彼女の気持ちを拒もうとしているのが許せなかった」
由稀は何も応えなかった。大きく一度、吹っ切るような溜め息をついたあと、先輩は由稀を柔らかく叱った。
「向けられた好意は、ちゃんと受け止めてあげないとダメよ」
「勘弁してください」
「慣れないのね」
その瞬間、私は、とても大事な感情を、先輩が粗末に振り払ってしまったことに気付いた。けれど狡い私には、決定的な一言を遮る勇気がなかった。弟を慈しむ姉のような顔をして、彼女は由稀に告げた。
「私も、ユキちゃんのこと、好きよ」
先輩が一歩足を踏み出してから先に起きたことを、私は直視できなかった。二人の人間が触れて離れるのに十分なだけの時間が経った後、どちらからともなく、由稀たちは密やかな笑い声を立てた。
「優しいのね」
「すみません」
「どうせ振られるなら、卒業式の方が、風情があって良かったかしら」
少し一人で泣いてくるわ。そう言い残して、先輩は美術室を後にした。由稀はしばらく、彼女の背を追うようにドアの向こうを見つめていた。やがて彼も、静かに美術室を出て行った。一人残された私は、壊れたように高鳴る胸を抱え、その場にへたり込んでしまった。
この日から、私は由稀の顔を素直な気持ちで真っ直ぐ見ることが出来なくなった。
/
9月1日(火)
アリス先輩、行っちゃったね。私、言いたいこととか、言わなきゃいけないこととか、たくさんあったはずなのに、ぜんぜん上手く伝えられなかった。いっぱいいっぱい、お世話になって、楽しい思い出も、山程あったのに。
難しいね、こういうのって。もどかしいよ。
園村色




