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Missing  作者: 逢坂
恋情パースペクティブ
19/33

10.go alone

10.


 6月30日(日)


 あんまり気にするな。

 アイツは馬鹿なうえに良いヤツだから、そのうち忘れて元に戻るだろう。


 由稀


 /



 驚くべきことに、土曜日の補講に出席していたのは、クラスの中で私と相馬君だけだった。これは由々しき事態。だって相馬君は、そもそも最初から勉強する気がなかった。どーせ頑張っても赤点だから、テスト前は部活に専念して、潔く補講を受けるわって、周囲に宣言していたくらいだ。

 授業もちゃんときいて、テスト勉強までして、それでもここにいる自分って一体なんなんだろう。私が打ち拉がれていると、相馬君は無邪気に、なんだよ園村も勉強サボったのかよ、と笑った。


「ごちゃごちゃ喋ってないで、昼までにはさっさと終わらせろよ。職員室にいるから、仕上がったら持ってくるように」


 淡白に告げ、担任の先生は教室を出て行った。残されたのは私たち二人と、課題プリントの山。国語一教科だけなら大した量でもないけれど、全教科赤点の相馬君の方は、凄まじいことになっていた。


「終わるの? それ」

「よゆーよゆー」


 およそ頭を使って物を考えているとは思えない速さで、さらさらとペンを走らせてゆく相馬君。見なかったことにして、私は自分のプリントに専念した。文法がわからなかったら教科書で調べ、漢字が思い出せなかったら辞書を引き。ゆっくりゆっくり解いたせいで、やり終える頃には正午を過ぎてしまっていた。学校に来たのは朝の九時だったから、都合三時間は頑張ったことになる。由稀みたいな精神力を持ち合わせていない私は、もうすっかりへとへとだった。


「よっしゃー! しゅーりょー!」


 私がペンを置いて脱力したのと、相馬君が叫び声を上げたのは、ほとんど同時のことだった。俄に信じられなくて、私は隣に座る彼の机を覗き込んだ。乱暴に書きなぐられた各プリントの回答欄には、私ですら間違いだとすぐ見抜けるようないい加減な答えが踊っていた。


「ちゃんと考えて書いたの?」

「お、園村、今ちょっとユキににてたぞ」


 私の質問には答えずに、眉間を押さえてけらけら笑う相馬君。似てるというのは、どうやら表情のことらしい。フケるからやめとけよ、なんて冗談飛ばして、彼は私の背中を叩いた。


「もう帰るんなら、どっかで一緒にメシでも食うかー?」


 荷物をぽいぽいエナメルバッグに放り込みながら相馬君は言った。由稀以外の男の子からこんな風に誘われたことがなかった私は、どきどきしながら、精一杯丁寧に首を横に振った。


「今日は、加奈子ちゃんとお弁当食べるの」

「三上? あいつ土曜は一日中部活だろ?」

「うん。でも、今日は女子の一年、加奈子ちゃんだけなんだって」

「なんで?」

「わかんない」


 うーんと二人で首を傾げ、二人で一緒に吹き出した。笑った後、相馬君は少し寂しそうな顔をした。


「相馬君は、今日部活休み?」

「そーだぜー」

「でも、外で野球やってない?」


 グラウンドからは、金属バットの打球音が定期的に届いていた。もちろん、目で確認したわけじゃないから、ソフトボール部あたりと勘違いしているのかもしれないけれど。


「今日は練習試合だから、レギュラーとベンチ以外は休みなんだよ」


 答えた後、相馬君は滅多に見せない苦い表情を浮かべた。


「レギュラーとベンチって何?」

「上手いヤツのことだよ」

「相馬君はレギュラーやベンチじゃないの?」

「そーだよ」


 さすがにこの辺りになると、私も相馬君の不機嫌を察していた。でも、彼みたいに部活熱心な人がそういうメンバーに選ばれていないことが、私にはどうしても不思議だった。


「毎日頑張って練習しててもダメなの?」

「そんなの当たり前だ」


 それは、頑張ってもダメなことが当たり前なのか、頑張るのは誰でも当たり前ってことなのか。吐き捨てるような口ぶりからして、恐らく両方の意味なのだろう。

 机の上に腰掛け、相馬君は暫く無言で自分の両の手を見つめていた。私もそんな彼を黙って見ていた。やがて彼は右手を握りしめ、左の掌にぱしんと打ち付けた。


「園村はさ、将来どうすんの?」


 日頃使わない鋭い視線で、相馬君は私を射抜いた。何て答えても意地悪をされそうな、冷たい空気があった。


「高校行くの?」

「うん、多分」

「その後は? 大人になったら、絵、描いて暮らすの?」


 問われてすぐ、由則おじさんのことを思い出した。私の絵を買ってくれると言っていた。今はまだ、私は子供だし、絵だって未熟だから、現実味のない話だけれど。ちゃんと頑張って、絵を描き続けて大人になったら、そういう未来もあるかも知れない。もし由則おじさんが私の絵を売り買いしてくれるのなら、私はずっと、生涯由稀の近くで絵を描いていられるだろう。少なくと、世間知らずな私が考え得る将来設計の中では、それが一番魅力的で、同時に、自分らしい生き方に思えた。

 そんな内心が、果たしてどんな風に表に出ていたのだろうか。まだ何も答えていないのに、相馬君は失望した表情で私を睨んでいた。


「そっか。まぁ、園村ならそうだよな。俺、美術はよくわかんないけどさ」

「相馬君は、プロ野球選手になるの?」

「なりたくたってなれるかよ、そんなもん」


 馬鹿にしたように相馬君は笑う。私だけじゃなく、自分自身まで貶すような痛々しい笑みだった。


「でも、頑張れば」

「がんばったってなれやしないんだよフツーの人間は!」


 拳で机を殴りつけ、相馬君は低く唸った。決して大きな声ではなかったのに、叫び声に打ちのめされるような衝撃があった。私はびっくりして、恐くて、だけど何より、相馬君が自分の努力を悲観してしまっていることが辛くて、懸命に言葉を紡いだ。


「でも、まだそんなの、やってみないと」

「決まってるんだよとっくの昔にもう、才能の有る無しなんてさぁ!」


 園村みたいな天才と俺たちはちがうんだよ。絞り出すような声で相馬君が言った瞬間、がらりと音がして、教室のドアが開いた。パステルブルーのシャツを着た加奈子ちゃんが、タオルを首にかけ、疲れた顔で立っていた。


「何、騒いでんの」


 必要以上に落ち着いた、威圧感のある声だった。小さく舌打ちした相馬君は、鞄とプリントを引っ掴んで、駆け足に教室を出て行ってしまった。加奈子ちゃんは入り口に立ったまま、彼の姿をちらりと目で追い、すぐにこちらへ視線を戻した。説明しなきゃと思ったけれど、喉が詰まって言葉が出て来なかった。加奈子ちゃんは目を細めて、そっと首を横に振った。


「ごめん。本当は、さっきからずっと聴いてたんだ」


 涙が溢れて、もう、どうしようもなかった。


/


「多分、夏の総体に出してもらえないんだと思う、相馬君」


 窓際の席で頬杖をつき、スポーツドリンクをちびちびやりながら、加奈子ちゃんが呟く。机を挟んで反対側に座っていた私は、ようやく乾いてきた目許を腕で拭い、頷いてみせた。運動部にとって夏の総合体育大会が一番大事だってことは、アリス先輩から聞いて知っていた。勝ち上がってゆけば全国大会に繋がるし、大抵の三年生にとっては、それが引退試合になるらしい。


「一年生なんて、出れないのが普通なんだよ。だから、相馬君も、気に病む必要はないんだけど」


 一生懸命頑張ってたから、人一倍悔しいんだろうね。気怠げな、だけど優しい表情で、加奈子ちゃんは言った。


「加奈子ちゃんも、総体には出れないの?」


 まだちょっと鼻声な私の質問に、加奈子ちゃんは答えなかった。曖昧に笑う彼女の髪を、窓から吹き込む生温い風が微かに揺らしていた。お昼にしよっか。そう提案する声には、幼子をあやすような響きがあった。

 私のお弁当は、母に作ってもらった小さいものが一つと、フルーツばっかり詰め込んだ別の容器が一つだった。加奈子ちゃんの方は、男の子が使うような大きな二段重ねのお弁当に、コンビニで買ったらしいサラダとプロセスチーズが添えられていた。


「それ、全部食べるの?」

「うん」


 不思議なことは何もないと言わんばかりに、無表情で頷く加奈子ちゃん。彼女は元々、自分の身長をコンプレックスにしている節があって、これ以上大きくならないようにと、体格に合わない小食を貫いていた。つい前日まで、チビの私と同じくらいの量しか食べていなかったのに、一体何があったのだろう。


「果物、後でちょっともらっていい?」


 一足先にお弁当を食べ終わった私は、無意識のうちに、まじまじと加奈子ちゃんの食事ぶりを観察してしまっていた。慌てて頷く私に、彼女は指で鼻の頭をそっと撫で、やっぱりちょっと恥ずかしい、と苦笑した。


「もうね、観念したの」

「何に?」

「身長。自分が持って生まれた物に、感謝しようって、思って」


 理屈はなんとなく理解できる。スポーツをやっている身なら、背が高くって困ることはないだろう。むしろ、しっかりご飯を食べて、もっともっと成長した方が良いに決まってる。問題は、どうして今日から、急に心変わりしたのか、という点だった。鈍い私には、そこを察することができなかった。


「色ちゃんはさ、絵が上手いせいで、歳上の人にやっかまれたり、したことある?」


 林檎をしゃくしゃく噛みながら、加奈子ちゃんは問うた。視線は窓の外に向けられていた。


「ある、と思う。多分」


 あの夏のことは、どうしても忘れることが出来ない。由稀と仲直りできたし、アリス先輩との繋がりも出来た日だから、悪いことばかりじゃなかったけれど。胸ぐらを掴まれた時の恐怖や、怒りで真っ赤になったあの顔は、中学にあがってからも、時々夢に見る。


「どう思った? その時」

「恐かった」

「それだけ?」


 加奈子ちゃんは、不思議とどこか寂しそうな顔をして、私の目を見つめた。


「腹が立ったり、しなかった?」


 そんな風に考えたことはなかったので、私は思わず首を傾げてしまった。ずい、とこちらに身を乗り出して、加奈子ちゃんは続けた。


「だって、色ちゃんは、自分なりに頑張って絵を描いただけなんでしょ? 文句言われる筋合いねーだろとか、逆恨みしてんじゃねーよとか、ムカついてきたり」


 しない、よね。尻すぼみに呟き、加奈子ちゃんは自分の椅子に身体を沈めた。最近短く切ったばかりの髪を、忌々しい物みたいにぐしゃぐしゃとかき混ぜる。


「ごめん。なんか今、ちょっとダメだ」


 頭を抱え、うなだれる加奈子ちゃん。彼女の悩みが、私にはわからなかった。相馬君が怒った理由も、正直まだ、よくわかってはいない。わからないことばっかりで、悲しかった。


「私、変わっちゃったよね」


 加奈子ちゃんの言葉は事実だったから、私は隠さず頷いた。


「うん」

「変かな」

「ううん。好き」


 それは唯一、私がハッキリわかっていることだった。確かに今の加奈子ちゃんは、昔の彼女とは違うけれど。私はちゃんと、すごく好きだった。


「ありがとう」


 目を伏せたまま言って、加奈子ちゃんは立ちあがった。お弁当を手早く片付け、手櫛でさっと髪を直す。


「そろそろ、部活戻るね。変な話して、ごめん」


 不自然に明朗な口調だった。爽やかに振られた手を振り返すだけで、私は精一杯だった。

 一人残された教室で、加奈子ちゃんの真似をして窓の外を眺めてみる。昼の日差しが眩しいばっかりで、全然何も見えなかった。


/


「そう、それで最近、元気がなかったの」


 二人のことをアリス先輩に打ち明けたのは、補講から一週間くらい経ってからのことだった。各部活で描いた絵に水彩絵の具で色を付けていた先輩は、ゆっくり話しましょうと言って、一旦、美術室のパーティションの奥に消えた。


「夏になったら、水羊羹も素敵ね」


 葛饅頭の載ったお盆を運びながら、先輩は微笑んだ。なんでこの人の前だと、こんなに安心できるんだろうって考えた。同時に、どうしてそんな先輩に、今まで悩みを隠していたんだろう、とも。多分、今回の件については、自分が悪いって自覚があったんだ。

 結局あれ以来、相馬君とは一言も口をきけていない。加奈子ちゃんとは表面上いつも通り接していたけれど、互いの間に溝があるような感覚が、ずっと付いて回っていた。


「私ね、世の中の大抵の悩みは、“よくあること”で済ませられると思うの」


 ペットボトルの緑茶を紙コップに注ぎながら、先輩は言う。


「その方がいいのよ。特別なことじゃない、みんな同じだって考えたら、気が楽になってくるものだから。あなたに会うまで抱え込んでた私の悩みも、もちろんそう。相馬君って子が怒った理由も、三上さんがイライラしてた理由も、二人には申し訳ないけれど、決して珍しいものじゃないと思う」


 はい、と手渡されたお茶に、私はすぐ口を付ける。先輩は、ただ話を聞いただけで、二人の悩みがわかるんだ。きっと、それが普通なんだろう。先輩の大人びた部分や、察しの良さを差し引いたとしても。私みたいに、まったく相手の気持ちがわからないなんておかしい。


「だからって、自分はおかしいなんて、思っちゃ駄目よ」


 見透かした目で、先輩は叱る。


「園村さん。私と自分、どっちの絵が上手い?」


 唐突に、先輩らしからぬ質問が飛んできた。鈍色の瞳が、逃げることを許さない強さでこちらを見据えていた。


「人物画は、多分まだ、私の方が描き慣れてる。それくらいの傲慢さは、私だって持ってるわ」


 じゃあ、他は? と、先輩は続ける。パーティションの奥には、先輩が一年生の頃に描いた絵が、何枚かストックされていた。大半は得意の人物画だったけれど、中には、風景画や抽象画も一部含まれていた。一応、全部一度は見たことがある。


「そう、それでいいの。あなたが最優秀を取った、あの夏のコンクール、私はただの入選だったんだから」


 まだ何も答えていないのに、先輩は頷いた。いい加減私も、自分の顔にどんな表情が浮かんでいるか想像出来た。お前より絵の上手いヤツなんていない。幼い由稀の静かな声が、もう一度聞えた気がした。


「あなたはおかしいわけじゃない。幼なじみのことが大好きな、普通の女の子よ。でも、自分が他の人と違う才能を持って生まれてきたことは、ちゃんと自覚して、そのことに関しては、精一杯悩むべきだと思う」


 アリス先輩はそこで話を終え、にっこりして葛饅頭に取りかかった。返す言葉がなくて、私も黙々とお菓子を食べた。

 本当は、ずっと前からわかっていたことだった。でも、そんな風に考えることは、おこがましい思い上がりな気がしていた。相馬君のことも、加奈子ちゃんのことも、説明してもらえれば、理解は出来ると思う。けれど、共感することはきっと出来ないだろう。その鈍感は私の身勝手だった。寂しい寂しいと言いながら、誰とも歩調を合わせようとはしてこなかったからだ。描くことをやめられなかった。描けば描くほど遠く離れると知っていながら、それでも。


「ユキちゃんには、相談した?」


 ハンカチで口もとを拭いながら、思い出したように先輩が問う。嘘をついても仕方ないので、正直に首を横に振った。


「駄目よ、話さなきゃ」


 たしなめる声には、幾分同情の色が伺えた。伝える機会はなかったけれど、多分先輩は、私と由稀の過去についても、ある程度察してくれているのだろう。

 そんな顔しないで、と、先輩は薄く微笑んだ。

 

「私だって頑張るから。中学生の間くらいは、あなたの傍にいてあげられるはずよ」


 あまりに優しい言葉だった。私は心底自分を恥じた。甘やかされている。由稀にも、先輩にも、ずっと。


/


 6月24日(月)


 どう話していいか、よくわからないんだけど。この前の補講の日、相馬君とちょっとケンカをしました。私が無神経なことを言って、怒らせちゃったの。それからずっと、話せてなくて。謝った方がいいのかな。でもね、よくわからないまま口だけ謝るのは、ダメな気がするの。上手く言えないけど。


 ごめんね、知るかよって思うよね。今さらだし。ただ、ユキに話しておきたかったの。ごめん。


 園村色

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