11.solid dream
11.
相馬君や加奈子ちゃんとのことに少しも好転の兆しを見出せぬまま、日々はどんどん過ぎ去っていった。私は一つ、人間関係とは別の課題を抱えていた。コンクールに向けての制作だ。美術部の先生、お父さん、由則おじさん、アリス先輩、果ては由稀に至るまで、皆口を揃えて、出来るだけ多くの出展を勧めた。私の中間テストの成績を重く見てのことだった。一番歯に衣着せず説得してきたのはアリス先輩で、教育委員会や県庁主催のチラシを持ってきては、「これなんか出しておけば、受験にも有利なんじゃないかしら」と真顔で告げた。
要するに、学力に頼って高校受験に臨む事は諦めた方がいい、という話だった。失礼な扱いを受けている自覚はあった。けれど、勉強だって頑張れば大丈夫、なんて言えるわけもなく。絵を描くだけでどうにかなるなら安いものだと考えて、やれるだけやってみることにした。
幸い、描き貯めしてある作品を出すだけで済むような募集要項も幾つかあって、膨大な数の割には、少しの頑張りでなんとかなりそうだった。既存の作品のうちどれを出展するかは、全部由則おじさんに選んでもらうことにした。私の古い絵は由稀の努力のおかげで既に倉庫に移っていたし、おじさんなら、審査の傾向もある程度わかるはずだからだ。
「どうせ打算なんだから、可能な限りあざとくいこうじゃないか」
おじさんが選んだ絵を持ってきてくれたのは、父も母も仕事で出払ったとある週末のことだった。留守番していた私は一人で玄関の鍵を開け、おじさんを自室に招き入れた。まともに顔を合わせるのは三回目。流石の私も、いい加減打ち解けてくる頃だった。由稀もおじさんも、まるで親戚か何かみたいに親しく感じられた。
打算とはっきり言い切って選ばれたのは、私が少し前、四月の末に描いた絵だった。アリス先輩から新しい刺激を受け、水彩の人物画に取り組み始めた頃の最初の作品だ。
「色ちゃんは中学校に上がって、人を綺麗に描けるようになったね」
せっかくおじさんが褒めてくれたのに、私は笑顔の一つも上手く返せなかった。目の前に広げられた絵が、私にそれを許さなかった。学ランに坊主頭の相馬君が、お昼休みの教室で、窓のサッシにもたれて笑っている。隣にいるのは加奈子ちゃんだ。腰に手を当て、優しい瞳で相馬君を睨んでいる。隠し切れない目許の穏やかさを、どこか芝居がかった仕草で補うのが、人を叱る時の加奈子ちゃんの癖だった。誰にどんなに叱られても、笑顔を絶やさず不貞腐れないところは、相馬君の美点。この絵を県のローカル新聞社が主催するコンクールに出すよう、由則おじさんは勧めた。素材、形式、サイズは自由。テーマは「友情」。
「おじさん、私、画家になれるかな」
それは、私にとっては、自然な連想の末に行き着いた質問だった。そんな事情知るわけもないおじさんは、暫く不思議そうにこちらを見つめてから、言った。
「それは、色ちゃんの御両親がケーキ屋さんや大学で働いてるのと同じように、大人になってからの仕事として、絵画一本でやっていけるかっていう、質問?」
「うん」
「じゃあ、無理だ」
笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、ただ無感情におじさんは告げた。一瞬にして耳の後ろの方が冷たくなり、全ての音が、やけに鋭く感じられた。
「秋仁さんは、昔、僕が色ちゃんの絵を買いたいと申し出た時、もうしばらく待って欲しいと言ったね」
古い手帳を繰るみたいに目を伏せて、おじさんは淡々と話す。
「別にあの時のことを根に持って、今君に意地悪を言うわけじゃない。ただね、悠長なもんだな、とは、思ったよ正直」
そこでおじさんは、理解度を伺うように私の目を覗き込んできた。やがて哀れむように眉を寄せ、問う。
「神童も二十歳過ぎればただの人、って、聞いたことあるかい? 色ちゃん」
/
そしてあっという間に期末試験のシーズンになり、私は全教科で赤点をとった。補講には、例の如く私と相馬君だけが参加していた。今回は、二人の席のどちらにも山程のプリントが用意されていた。私は極力頭を空っぽにして、片っ端から適当な答えを書き込んでいった。
「おい、園村」
声をかけられたので顔を上げると、相馬君が曖昧な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「なに」
「いや、お前それ、ちゃんと考えて書いてるのかよ」
「どーだっていーじゃん。ジャマしないで」
相馬君が表情を変える早く、私は再び顔を伏せた。それが一ヶ月ぶりに彼と交わした会話だと気付いたのは、プリントをあらかた始末し終えた頃のことだった。相馬君のマネしてるんだよ、なんて笑って答えたら、良い仲直りの機会になったかもしれない。まるで遥か遠い昔の過失を振り返るみたいに、ぼんやりと、何の痛みもなく、考えた。
「園村いるかー?」
そう言って突然教室に入ってきたのは、担任の先生だった。背後に見たことない大人を二人引き連れている。一人は四十歳くらいの、笑顔が硬いおばさん。もう一人は三十歳くらいの、目線が忙しないおじさんだった。どちらもクールビズで正装している。
「お前、なんかのコンクールで、賞取ったんだってな。大したもんだ」
興味があるのかないのかわからない半端な褒め言葉を前置きに、先生は二人の来客を紹介した。彼女たちは、コンクールを主催していた新聞社の人間で、受賞者の私を記事にするために訪ねてきたらしい。
「写真撮る都合で、職員室や校長室より教室が良いらしいんだが。園村、今ちょっと大丈夫か?」
「でも、私補講が」
「そんなの多少遅れても構わんさ」
へらりと答える姿には威厳が感じられなかった。腹筋に力を入れた私が声を出すより早く、相馬君がおずおずと手を上げる。
「あのー、それじゃ俺、ちがう教室にうつった方がいいっすか」
「ああ、すまんな」
「待ってください」
割り込んだのは、新聞社のおばさんだった。集まる視線に動じる素振りも見せず、作り物臭い柔らかな物腰で、相馬君に話しかける。
「絵に描かれてる男の子って、あなたでしょう。園村さんと、仲良しなのかな?」
「はい? 俺?」
相馬君ははっきりと返事をしないまま私を見た。私は努めて、彼と目を合わせないようにした。名案を思い付いたと言わんばかりに、おばさんが手を打つ。
「せっかくだから、もう一人の女の子も一緒に、三人で写真を撮りましょう。あの背の高い子も、お友達でしょう?」
「あぁ、そりゃ多分、三上でしょうね。今は外で部活やってるはずですが、呼んできましょうか?」
「やめて!」
あんまり大きく叫び過ぎて、自分の耳が痛かった。動悸に急かされながら、早口で続ける。
「加奈子ちゃん、今、総体前の大事な練習なんです。ジャマしないでください」
「やっぱり俺、他行っときます」
大人たちが反応するより早く、相馬君は教室を出て行った。酷く醒めた表情をしていた。先生が、意味深な視線を新聞社の二人に送る。二人は訳知り顔で頷いた。私の心を見透かしたつもりでいるんだ。そう思うと、暴れまくってやりたいくらい腹が立った。誰も、私の気持ちなんてわかるはずないのに。
/
気がつけば夏休みだった。おばあさんが重い病気を患われたそうで、アリス先輩はしばらくフランスで過ごすことになった。私は一人きりで美術室に篭り、描いて描いて描きまくった。両親や由稀は何度も息抜きを勧めてくれたけれど、全部断って絵画に打ち込んだ。出したコンクールは、すべて最優秀賞だった。
やがて夏休みが終わり、二学期が来た。先輩はまだ帰ってこなかった。始業式の表彰で十枚の賞状を受け取った私は、一躍校内の有名人になった。新聞や雑誌にも、何度か取り上げられたらしい。色んな人が声をかけてくれたけれど、どれも煩わしいばかりだった。邪魔をしないで欲しかった。寸暇を惜しんで私は絵を描いた。授業中は、教科書の陰に隠して美術書を読んでいた。体育や音楽の授業をサボって、教室で絵を描くこともあった。誉め称えられていたのも束の間、私の名前は悪い意味で轟くようになっていった。不快感を隠さず、私のことを怒鳴りつける先生もいた。舐めてるのかと彼らは責めた。よっぽど本気だと、怒鳴り返せたらどれほど良かっただろう。痛いくらい真剣に、私は考えていた。あなたたちが私の何かを肩代わりしてくれるのかと、詮無い問いが込みあがっては喉を苦しくさせた。描くしかなかった。どうか邪魔しないで欲しい。どうか、私から大事なものを奪わないで欲しい。
/
「色、キャッチボールをしましょう」
ある日の夕方、母がそう告げた時、いよいよ来たかと思った。学校から家に連絡があったのだろう。往生際の悪い私は、適当に理由を付けて断ろうとしたけれど、母は有無を言わさぬ凄みを利かせ、夕飯抜きにするわよ、と脅した。
「気付いてると思うけど、母さん怒ってるの。でも、叱ったりしないから、とにかく一緒にやりましょ」
驚くべきことに、昔とは比べ物にならないくらい、私はキャッチボールが上手になっていた。特に練習をしてきたわけではない。小学生の頃みたいに、必死で投げているわけでもない。なのにボールはちゃんと母の胸元に届き、私のグラブに収まった。
「おっきくなったんだよ、色が」
目を細め、母が呟く。なるほど、道理で軽く投げられるわけだった。ふっと肩の力が抜けて、零れるみたいに自然に、ずっと気になっていたことを、私は尋ねていた。
「母さん。どうして、ケーキ屋さんになったの?」
「そりゃ、それが一番の取り柄だったからだけど」
答えた後、母はボールを投げようとする手を止めて、思案するように空を見上げた。私もつられて視線を上げる。紅みの深い秋の夕暮れだった。
「秋仁さんとのことも、大きいかなぁ、やっぱり」
あんたがもっと大人になってから話すつもりだったのに、と自嘲気味に前置きして、母は昔話を始めた。
子供心に薄々察していた通り、母は学生時代、あまり真面目な生徒じゃなかったらしい。好きな家庭科や得意な体育の授業だけ出席して、他の時間は屋上でサボっていたとのこと。実は煙草も吸っていた。先生からは何度も叱られたけれど、改める気はなかったと言う。
「だって、授業サボろうが煙草吸おうが、割を食うのは結局、私の人生と、私の身体じゃない。喧嘩や万引きしてるわけでもなし、放っときなさいよって」
教師の台詞は全部、秩序を守るための方便に聞えた。薄っぺらくて、本当に自分に向かってかけられた言葉なのか、実感が湧かないくらいだった。そんな折現れたのが父だった。
「秋仁さん、私たちのクラスの委員長だったの。いけ好かない男だと思ったなぁ」
どきりとすることを、母は平然と口にする。
「ガリ勉で、ひょろひょろでさ、馬鹿なマネしちゃいけないとか言って、煙草取り上げようとするわけ」
大人に叱られるならまだしも、同い年に偉そうな説教される筋合いはない。軽い脅しのつもりで胸ぐらを掴むと、なんと簡単に体が宙に浮いた。
「もやしにも程があるでしょ? 母さん笑っちゃった。それでも秋仁さん、一生懸命言うの。せっかく料理が上手なのに、煙草なんて吸っちゃダメだって」
そんな風に叱られたのは初めてだったと、母は言う。わざわざそんなこと伝えるために、この男は空中でぷらぷら苦しそうにしているのかと思うと、涙が出た。
それから母は、煙草をやめ、授業もサボらなくなった。曰く、教室にいた方が、秋仁さんの近くにいられるから、だそうで。なんとか高校を卒業し、調理の専門学校を出るとすぐ、父と結婚した。
「そりゃあもう、押せ押せよ」
と、母は笑った。当時まだ、父は美大の学生だった。当然周囲からも父本人からも反対があったけれど、ただ待っている日々の方が怖かったのだという。
「住む世界が違っても、せめて住んでる家が同じなら、安心できるじゃない?」
親族の中で、祖母、つまり父のお母さんだけは、二人の学生結婚に賛成だった。元気な娘が欲しかったのに根暗な息子しかできなくて、というのが今でも口癖な人だ。祖母は親族の中で一番声が大きく、押しが強かった。
「思い返せば母さんも、色んな人を困らせながら、好き勝手やってきたわ」
少し苦そうに微笑む様は、それでもやっぱり満ち足りた表情で。私は目を細めた。
「だから、色も、何考えてるのか知らないけど、自分が望むようにしたらいいと思うよ。ただし、家訓は必ず守ること」
「カクン?」
園村家の人が守らなきゃいけないルールのことだと、母は説明した。どんな厳しいことを強いられるのかと身構える私に、胸を張って母が告げる。
「愛しのマイハニーは捕まえたら離すな!」
「……なにそれ」
母さんは守ったわよ、なんて言って、母は誇らしげにしている。なんだか可笑しくって、私は笑った。久しぶりのことだったから、ほっぺたが少し痛かった。




