【小話】初めての夜
クリスさんと一緒に過ごす時間が増えるごとに、彼が人間とは全く違う生き物だと実感する。
例えば、真夏の日差しの下でも汗をかかずに涼しげな顔をしていること。彼が言うには、気温の高い低いは分かるけど、それを暑いとか寒いとか、快適とか不快とかには感じないらしい。だから正直、初めてキョーコが汗をかいてるのを見たときはちょっとびっくりした、と笑っていた。
例えば、大抵の傷ならすぐに治ってしまうこと。何度か料理を手伝ってもらったとき、包丁で手を切っても一分もしないうちに綺麗さっぱり傷がなくなっているのを見たことがある。初対面の時もかなりの深手を負っていたのに満月の次の日にはほとんど治っていたし、魔力さえ足りていれば体は自然と元の状態でキープされるらしい。
他にも、満月の夜には翼が光ることとか、何日も食事をしなくても平然としていることとか、逆に満月が雲で覆われてると少し元気がなさそうなこととか、枚挙に暇がないくらいには彼の『人間らしくない』ところは目撃している。見た目には翼があるかないかというくらいしか差がないけれど、彼の体は人間とは構造も仕組みも全然違うのだろう。
だから、そう。それを思い返してみると、一つの疑問に行き当たる。
『……何もしない自信が、ない、から……』
『何もしない自信がなくても、私は構いませんよ』
ここでのクリスさんのしたいことと私の想定は、果たして同じことなのだろうか、と。
「……って、このタイミングで気付くのもどうかと思うけど……」
落ち着かない気持ちを宥めるために、小さく口に出して呟いてみる。けれど全然効果はなかったので、乾かしたばかりの髪を手櫛で整えながら溜息をついた。あの大きなベッドに腰掛けて、私はクリスさんを待っている。
先にお風呂を済ませて(以前は井戸で汲んだ水をそのまま浴びるだけだったが、ヘンリックさんたちの増改築によってお湯も使えるようになった。とてもありがたい)彼と入れ違いに部屋に入ったときは、緊張はしてたけどそこまで不安はなかった。彼なら信頼できるし、身を委ねても大丈夫と確信していたから。でもそれはあくまで私の想定が当たっていたらの話であって、そもそも前提とすることが違うとしたら?いや、世界も種族も違うのだから、こういうことも違うと考える方が普通なのでは?そう思うと、軽々しく了承したのは失敗だったかもしれない。彼がしたいことならよほどのことでなければ断らないつもりだけど、もうちょっと事前の確認とか、心の準備をしておきたい。でもこんな直前で言うのはどうなんだろう。もう少し前に気付いていたらそれとなく遠回しに聞くこともできただろうけど、もうそんなことをしている猶予はない。だからといって、私はこういうことを予想してたんですけどクリスさんはどうですか、って正面から直接聞くのは流石に……同じ場合も違う場合も気まずいし、恥ずかしい。でも何も言わずに事が進んで、途中で怖じ気づいて拒否するのも失礼だし。いや、そんなに恐ろしいことをするかは分からないけど、一般的な魔族がとても凶暴で荒々しいということを考えると、否定はできない。どうしよう。
ぐるぐる考え込んでいるうちに、小さくドアをノックする音がした。飛び上がりそうなくらい驚きながらもかろうじて条件反射でどうぞ、と返したものの、声が思いっきり上擦ったのが自分でも分かる。顔を上げた先で、お風呂上がりだからかほんのりと頬を赤くしたクリスさんと目が合った。
「……ええと、待たせちゃった?」
「いえ、そんなには」
クリスさんの口調はいつもよりゆったりとして、気遣わしげだった。たぶんさっきの声の動揺が伝わってるんだろう。気を遣わせて申し訳ない。
何とか平静を装って返事をすると、彼がゆっくりと近づいてきて、拳二つ分くらい間を空けて隣に腰を下ろした。ふかふかのベッドが沈んだ感覚と、彼の翼がシーツに擦れる音。否応なしに伝わる彼の存在感と気配に、期待なのか不安なのか分からない熱が顔に上ってくるのを感じた。
ここまで来たらもう、腹を括るしかない。意を決してクリスさんの方に顔を向ける、と、彼は俯いて緩く指を組んだ自分の手を見つめていた。いつも浮かべている笑顔が抜けたその横顔は、固い。
「……緊張してます?」
きっとこういうことは軽々しく聞くことじゃないんだろうけど、いっぱいいっぱいの頭はそんな正常な判断をする余裕がなくて、気付いたら思ったことがそのまま口から出ていた。こくり、と彼が一つ頷く。
「……僕、こういうことは、政略結婚の相手としかしないと思ってた。それも魔王の務めだから仕方ないって、……思ってたけど」
クリスさんの視線が、私に向けられる。さっきよりも赤みが増した顔で、ゆるりと眦を緩めてはにかんで、
「こうやって、本当に好きな人とできるのが、夢みたいで」
だからすごく緊張してる、と告げる声は、自惚れじゃなければ、緊張よりも嬉しさが滲んでいた。
なんだかもう、胸が苦しい。不安とか心配じゃなくて、クリスさんにこんなにも想われている喜びと彼への愛しさで、いてもたってもいられないくらい苦しい。
何も言えない私の手にクリスさんの手が重なる。肌が触れたところが驚くほど熱くて、心臓が大きく跳ねた。そしてもう片方の手が頬に添えられて、逃げ場を与えるように、あるいは確実に追い詰めるように、じりじりと距離が縮まる。金色の睫毛の一本一本が見えるくらいの距離。私を真っ直ぐに見つめる青い瞳に見たことのない熱が宿るのを見て、忘れかけていた不安が咄嗟に彼の口許に手を伸ばした。
「すみません、あの、一つだけ聞きたいことがあるんですけど」
こんなタイミングで止められたら普通は気を悪くしそうなのに、クリスさんは口に触れた手を優しく退けて「どうしたの?」と聞く態勢に入ってくれた。といっても距離は変わらないので、吐息が唇を掠めて落ち着かない。
彼に応えたいと心から思う。直接聞くのは恥ずかしいとも思う。だから一つだけ、一番怖いことだけを確かめさせてほしい。
「その……これからすることって、すごく血が出たりとか、すごく痛かったりとか、しますか?」
「えっ?いや、痛くはしないつもりだけど……?」
クリスさんは完全に虚をつかれたような顔をした。そんなことを聞かれるとは夢にも思わなかったし、どうして聞かれるのかも分からない、という様子だ。それを見る限り、本当に痛いことはないらしい。
「そうですか。いえ、そうですよね。じゃあ大丈夫です。クリスさんの好きにしてください」
話が終わった合図と、さっき遮ってしまったお詫びを兼ねて、残り僅かだった距離を私から詰めて軽く唇を重ねる。痛くないのなら怖がることはない。これから何が起こってもクリスさんなら無体なことはしないと信じられるから、あとは全部任せてしまおう。
ようやく肩から余計な力が抜けて、心から安心して端正な顔を見上げる。目を合わせて彼を窺うと、なぜか彼は驚いたような顔で固まっていた。……そんなリアクションをされるような変なことをしただろうか。
たっぷり数秒間そのまま沈黙していた彼が、やがてすっと目を細めた。
「……キョーコ、それ、わざと?」
「はい?」
それ、とは何を指してるんだろう。キスをしたのは当然わざとというか自分の意思だけど、わざわざ確認するようなことでもないのに。
なんだかよく分からないけれど、彼の顔から余裕が消えて、私を見る目にさっきよりも大きな熱が灯っている。意図せず何らかのスイッチを押してしまったことを理解したが、きっと時すでに遅し。それでももう止める気はなかったので、遠慮のない深い口づけを甘んじて受けた。
彼と私の想定が全く同じだったことを、私はすぐに思い知ることになる。