9.たとえ向こう見ずなのだとしても
再び沈黙が戻ってきてからしばらく。わたしは茫然としたまま、千夜の消えた先を見つめていた。
迷の手が離れても、動くことが出来ない。現実を受け止めきれなかった。
しばらく経って、自分が涙を流していることに気づいたちょうどその時、わたし達の周囲で異変が起こった。地鳴りのような轟音と共に、糸の城が大きく揺らいだのだ。
何が起こったのか、すぐには分からなかった。ただ、迷の横で狼狽えているうちに、城の天井が崩れ始めた。
「い、いかん……」
そう言って立ちあがったのは、先ほどまで倒れていた老兵蜘蛛の朔だった。彼が動いたかと思うと、その直後、視界を遮られ、わたしと迷は瞬時に暗闇に包まれた。
振動と衝撃の中で、迷と抱き合ってただただじっとしていると、ようやく周囲が落ち着きを取り戻した。
「う……うぐぐ……」
呻き声が聞こえ、わたしはハッと目を開けた。
気づけば朔が、迷とわたしを庇うように覆い被さっていた。崩れてくる糸の塊に体をぶつけたのだろう。苦しそうな表情を浮かべ、そのまま再びひっくり返ってしまった。
「朔爺……!」
迷が声をかけると、朔はわたし達へと視線を向けた。
「やれやれ。主を失い、城を築いていた魔法が完全に解けたらしい。お前たち、どうやら傷はないようだな。お前たちに何かあれば、城主様に顔向けできん」
「朔さん……しっかり」
わたしの言葉に、朔はゆっくりと頷く。
「ああ、心配はいらんよ。ワシらの体はお前たちの軟な体よりも丈夫に出来ているからね」
彼が語ったちょうどその時、わたし達の周囲で糸の塊を払い除けて起き上がる者たちが複数いた。手下蜘蛛たちだ。全員ではない。気絶しているだけならいいが、残念ながら命を落としてしまった者もいるらしい。
「ワシはちと年を取りすぎたからね。彼らに比べ、回復するのには時間がかかる。やれやれ、ワシがもう少し若ければ、あんな輩に城主様を連れていかれずに済んだというのに」
「朔爺……アタシはどうしたら」
迷が心細そうに問うと、朔はやや険しい顔をしてみせた。
「悪い事は言わん。ここから去れ。こうなってしまっては、この場所にお前たちのいる理由などない。城主様に代わってこのワシが、お前たちに自由をやろう」
「他の皆はどうするのですか?」
わたしはそっと訊ねた。
「城主様を助けに向かうんですよね?」
縋るようなその問いに、朔は目を瞑った。
そして、ややあってから彼は呟くように言った。
「この城は終わりだ。戦いに負け、城主様を失ったのだから」
彼がそう言った傍から、周囲に動きがあった。無事だった手下蜘蛛たちの一部が、何処かへと去っていったのだ。
「ねえ、何処に行くのですか?」
わたしが声をかけても、彼らは振り返りもしない。名残を惜しむ様子すら見せず、何処かへと消えていってしまった。
後から起き上がった手下蜘蛛たちも同様。皆、この場を去り始めていた。
「みんな、何処に行くの……?」
「銀花」
迷が諭すようにわたしを抱きしめてくる。その抱擁の意味が分からず、わたしはただ困惑していた。そんなわたしへ朔は言った。
「彼らもまたお前たちと同じ。自由になったのだよ。他に強い妖精がいればそこに仕え、新たな城を築く手伝いをするかもしれぬ」
「じゃあ、城主様は? 城主様はどうなるのですか!」
朔を問い詰めると、彼は深くため息を吐いた。
「それは攫った者次第……というのが妖精の定めというべきだろう」
「そんな──」
認めたくなかった。こんなにもあっさりと、千夜が見捨てられてしまうなんて。
だが、確かに、妖精の世界なんてそういうものなのかもしれない。絶対的な存在であったからこそ、この城の者たちは千夜に仕えたのだ。そうでなくなった今、彼女を取り戻してまでこの居場所を元に戻したい者はいないということだろうか。
「皆、城主様の事が好きではないの?」
絶望のあまり呟くわたしに、朔が答えた。
「そんな事はないさ。お前たちには見えぬかもしれんが、本当は誰しも悲しんでいるのだよ。中にはワシと同じように、城主様がまだ姫様であった時代から仕えた者もいるのだからね。けれどね、諦めるしかない。それが妖精の世界の定めなのだから」
定め。その言葉を耳にした時、わたしの中でふつふつと何かが沸き起こってきた。
朔が言っていることは嘘ではないだろう。朔自身もひどく落ち込んでいるし、新たに去っていく蜘蛛たちもまた、よくよく見れば非常に暗い表情をしている。
皆、わたしよりも強いはずの肉食妖精たち。そんな彼らでさえ、運命を呪うしかない状況というものはあるのだろう。
けれど、だとしても、わたしは諦めきれなかった。
「わたし、行ってきます」
「何?」
朔が戸惑いの声をあげる。咎めるような視線を向けられるも、怯みは生まれなかった。
「皆が行けないのなら、わたしが西の地へ行ってきます」
「何を言いだすかと思えば……お前のような花の妖精に何ができる。ここでの役目を忘れたか。お前の役目は蜜食妖精たちを満足させ、その血を増やす事のみ。決してワシらのように戦うことではない」
「それでも行かないといけないんです。ここで追いかけないと、わたし、きっと一生悔やむことになる。何も出来ないかどうかなんて、やってみなければ分からないでしょう。だから、行ってきます」
「銀花……」
せめてもの武器となるものを探し出すわたしを、迷が困惑した様子で見つめてきた。止めるべきかどうか迷っているのだろうか。そんな彼女に、わたしは言った。
「迷は安全なところで待っていてください。絶対に城主様を取り戻してきますから」
「……ならん、ならんぞ」
迷の代わりに言ったのは、朔だった。
「止めないでください、朔さん」
「いや、ここで止めぬわけにはいかん。みすみす死なせるようなものだ。分かっておるのか、銀花。決して賢い道ではない。向こう見ずは妖精を早死にさせるのだぞ」
「それでも、わたしは、行かねばならないのです」
糸の塊を探り、見つけたのは残党兵と戦った時に使っていた木の棒だった。頼りない武器ではあるが、ないよりはずっとマシである。
準備らしい準備などこのくらいしかない。そろそろここを去って西へと向かおうと立ち上がると、ふと視界の端でわたしと同じように手頃な武器を見つけ出した者の姿が見えた。
「……迷」
そう、迷だった。
しなやかな枝と、千夜の残した糸を手に取ると、糸を枝の両端に器用に結び始める。出来上がったのは、木の弓だった。
小さな枝を数本集め、それを束ねて別の糸で結ぶ。全ての準備が整うと、彼女はわたしの元へと歩み寄ってきた。
「アタシも行く。一人ではとても行かせられないもの」
「迷は……戦えるのですか?」
「さあね。でも、蛹化する前はこういう玩具で遊んだこともあったの。長く使っていないから腕は鈍ってしまったかもしれないけれど、ないよりはマシでしょう」
目を細める彼女を見上げ、わたしは一気に心強さを感じた。
彼女とふたり一緒なら、きっと。
「ああ、なんてことだ」
朔は唸りながらわたし達を見つめてきた。
「お前たちの蛮勇を、今のワシは止める事も出来ないとはね」
「朔爺」
迷が口を開いた。
「銀花とアタシを助けてくれて、ありがとう。それと、今までお世話になりました」
手をぎゅっと繋がれて、わたしは迷と朔とを見比べた。
朔はもう何も言わず、ただただ項垂れていた。
きっと、わたし達の未来が決して明るくないのだと信じ込んでいるのだろう。そして、彼の予想の方が現実的なのかもしれない。
だが、怖気づいたりはしなかった。たとえ向こう見ずな道なのだとしても、わたしにとってはこれが納得のいく道なのだから。