8.崩落する居場所
大丈夫。
大丈夫だから。
わたしの中でその言葉が脆くも崩れ去ったのは、その時がやってきてからだった。
見張り蜘蛛も、手下蜘蛛も、残党兵の進軍を止められない。
間もなくこの城にやってくる。
その知らせを耳にした時、わたしは絶対なんてものはないのだと、思い知った。
城内ではあっという間に混乱が広がり、戦いに備える者と、身を隠す者とが行き交い、糸の城を文字通り揺るがしていた。
その中で、身の回りの世話をしてくれていた蜘蛛の妖精の一人が糸の壁を崩し、幽閉されていたわたしを部屋から出してくれた。
「お逃げなさい。城主様には内緒よ。ここはもう駄目かもしれない」
彼女に諭されながら外へ出るも、わたしが真っ先に気になったのは、迷の事だった。
迷の部屋へと直行する道すがら、わたしは千夜の姿を見かけた。
いつも傍にいる朔と言う名の老兵と、腕に自信のあると思われる手下蜘蛛の兵たちを引き連れて、何処かへと向かうところだった。
そんな彼女を離れた場所から見送る者がいた。迷だ。
「……迷」
千夜に見つからぬよう、こっそりと近寄って声をかけると、迷は振り返り、わたしをそっと抱きしめてきた。
「怖がらないで、銀花。城主様がきっと──」
「迷。ここから逃げましょう。もう駄目かもしれないって噂されているんです」
「いいえ、出来ないわ。だって、城主様が──」
「……迷」
ふと気づくと、千夜がこちらを見つめていた。
勝手に外に出て、咎められるのではないかと不安になったが、千夜はただ愁いを帯びたような眼差しをこちらに送っただけだった。
結局彼女は何も言わず、そのまま兵を連れて姿を消してしまった。
「残党兵だろうと、城主様が負けたりしない。……しないはず」
震える迷の言葉を聞いて、わたしもまた悲しくなってしまった。
本当は、迷も怖いのだ。
城内にいる他の蜘蛛たちと同様、千夜が負けるのではないかと疑っている。そんな事があるはずないと必死に思おうとして、強がっているのだ。
迷は、千夜の事を愛している。
相手が自分を食べるかもしれない肉食妖精であろうと、毎晩、抱かれているうちに、情が移ってしまったのだろう。
そんな彼女らの関係に、わたしは少しだけ疎外感を覚えてしまう。そう、これは、チャンスでもあるのだ。ここで迷を無理矢理連れ出せば、彼女を独占できる。
しかし、しかし、そんな事が出来るはずもない。千夜を見捨てる事なんて、迷は出来ないだろう。そんな事を提案できるはずもない。迷を悲しませたくなかったし、わたしだって千夜に死んでほしくなかった。
「何をしている、お前たち」
と、抱き合っていると、慌ただしく行き来していた手下蜘蛛の一人に話しかけられた。
「今に残党兵が来るぞ。ここは危険だ。安全な場所に隠れていろ!」
迷はその指示に頷くと、わたしの手を掴んだ。
引っ張られるままに共に城内をさまよい始めると、いつの間にかそこかしこから怒声が聞こえてくる事に気づいた。
戦いが始まっている。攻め込まれている。
混乱の中、どうにか身を隠せないかと、迷とわたしはさまよい続けた。だが、良い場所が見つかるよりも先に、わたし達の行く先にて、戦う蜘蛛と残党兵の姿がはっきりと見えた。
急いで引き返そうと振り返ったが、背後も同じ状況だった。
そうこうしているうちに、行く手で戦っていた手下蜘蛛がやられてしまった。苦しそうな悲鳴と共に、倒れ伏すその光景に、足が竦んでしまう。
糸だけでは心許ないと、せめてもの武器にしていたのだろう。棒切れがころころと転がってきた。対する相手が手にしているのは、鋭く磨かれた石の剣であった。
「蜘蛛以外もいるのか」
残党兵が口を開く。
淡々としたその女性の声には、あまり感情を感じられない。
「いい手土産になる。命惜しくば、大人しく従え」
そう言って、彼女は迫ってきた。
怯えてしまったのか、迷の手から力が抜ける。わたしもまた、絶望を覚えていた。けれど、その恐怖が限界まで達した時、わたしの中で真逆の感情がこみ上げてきた。
このまま彼女に従えば、迷はきっと遅かれ早かれ命を奪われる事になる。
そんなのは嫌だ。
直後、わたしの視界に入ったのが、先ほど敗北した蜘蛛の持っていた棒切れだった。武器としては心許ない。しかし、ないよりずっとマシだった。飛び出すように棒切れを握りしめると、わたしは残党兵に飛び掛かった。
「銀花!」
迷の悲鳴染みた声に、むしろ背中を押された。
まさかか弱い花がそんな行動に出るとは思いもしなかったのだろう。わたしが振り下ろした棒切れを、彼女は避ける事も出来なかった。
大きく、鈍い音が響く。ぐらりと残党兵の体が揺れ、そのまま床に倒れ伏した。
動かなくなった彼女の姿を見つめ、わたしは肩で息をした。興奮と闘志が冷めてくると、後からじわじわと恐怖がこみ上げてきた。泣き出しそうになるわたしを、迷は慌てて抱きしめてくれた。
「……銀花」
優しい声が耳元に伝わってきた。
「落ち着いて、銀花……もういいの……あなたが勝ったのよ、銀花」
迷に褒められて嬉しい気持ちで、少しだけ意識が保たれた。
棒切れを手にしたまま、わたしは迷と共に無理矢理こじ開けた道をさらに進んだ。身を隠す場所なんて恐らくないだろう。となれば、目的地は千夜のいる場所だった。
せめて、共に戦いたい。この場所を護りたい。そんな思いで千夜がいるだろう場所を目指し始めるわたしに、迷は静かについてきた。そして、とうとうその場所に辿り着いたのだった。
場所は、玉座の前。わたしが初めて千夜に引き合わされたあの場所である。そこに広がっていたのは、絶望的な状況だった。
千夜と共にいた兵たちは、皆、傷つき、倒れている。
千夜だけが無事で、残党兵の一人と戦っている。きっと幹部と呼ぶべき戦士なのだろう。険しい表情を浮かべ、彼女は千夜に向かって告げた。
「諦めなさい。ここはもう終わりだ」
千夜は黙ったまま幹部を睨みつけている。
「貴女が負けを認めぬなら、ここにいる蜘蛛は全員命を落とすこととなる。その後ろにいる、愛玩奴隷たちもね」
そう言って、幹部はわたし達の方へと視線を向けた。
「……迷、銀花。来てしまったのか」
動揺を見せる千夜に、迷は言った。
「城主様……」
その声に、またしてもわたしの闘志が蘇ってきた。棒切れで幹部に勝てるとは思えない。けれど、やって見なければ分からない。迷を悲しませたくない。その為にも、千夜を護らなくては。
だが、身構えたわたしの姿を目にし、千夜は項垂れた。
「──分かった。認めよう」
「城主様!」
驚いて、わたしは前へと一歩出た。
「待ってください。わたしも戦います。戦えます!」
しかしそんなわたしを、千夜は鋭い眼差しで振り返った。
「迷、銀花を捕まえておくんだ。いいか、二人共。手出しをするな。この者たちを怒らせてはならない。西から来た戦士よ、これでいいだろう。満足したなら、私を連れていくがいい。私に何の用があるのかは知らないが、もうこの場所の妖精たちを傷つけないでほしい」
「城主様……」
わたしの言葉など、千夜には届かない。
幹部は丁寧に礼をしてみせた。
「端から、我らの目的は貴女だけですよ、蜘蛛の魔女。言葉通り、これ以上ここを荒らす事はやめましょう。皆にそう伝えよ」
厳しい口調で幹部は部下と思しき残党兵に指示を送った。
「……そんな」
止めようと動くわたしの手を、迷が強く握った。
「駄目よ……銀花」
彼女を振り返る事も出来なかった。
成す術がない。目の前で、事は運んでいく。
瞬く間に残党兵たちが集まってきて、千夜を取り囲む。そして、泣き叫ぶわたしなど気に留めず、彼女らは千夜を連れて行ってしまった。




