7.思わぬ誘い
迷に突然、その話が来たのは、千夜たちが西の地から戻ってきて二晩ほど経た後の事だった。
事の発端は、東の魔女の使いの一人が楽園に持ち帰った一つの卵であったという。その卵は、迷が産んだもの。命の宿らぬ卵であって、肉食妖精たちにとっては好ましい食物でもあったようなのだが、千夜はそれを口にしなかった。迷を食べているようなものだと拒んだのだ。
だが、そうなると今度は扱いに困ったのだろう。迷の卵は手下蜘蛛たちも持て余すようになり、とりあえず保管されていたらしい。それをたまたま見つけたのが、東の魔女の使いだった。種族は最初に来た蝶ではなく、天道虫だったという。女神への土産として引き取ってもいいかどうか訊ねられ、手下蜘蛛たちはそれを承諾した。そして持ち帰られる事となったその卵が、思わぬ話のきっかけになったのだ。
「迷が……楽園へ?」
教えてくれた世話係の名も無き蜘蛛を前に、わたしは茫然としてしまった。彼女は粛々とわたしの衣服を整えながら、静かに答えた。
「ええ、どうやら、昨晩のうちに、楽園から朝焼様宛に伝令が届いたそうなの。向こうの女神様が迷様を頂きたいのだと希望している。迷様が楽園へ来てくれれば、女神の力をもっと強大なものに出来そうだと」
そう語る彼女の表情は、とても暗い。それもそうだろう。その希望を飲むという事は、迷がこの城を──千夜の元を去るという事なのだから。
「それで、城主様はなんと?」
「何にも。けれど、きっとお断りしたいのでしょうね。だって、あんなに愛されているのだもの。でもね、迷様が悩んでいらっしゃるようなの」
「えっ」
それは、わたしにとってもショックな話だった。迷が悩んでいる。ここを去ろうとしている。それだけで、非常に寂しい気持ちになってしまったのだ。
どうして、迷は悩んでいるのだろう。
その事を確かめられたのは、朝食の時だった。二人きりにされてすぐに、わたしは迷に真正面から訊ねたのだった。
「蜘蛛から聞きましたよ。ここを去ろうか迷っていらっしゃるのだと」
すると、わたしの衣服を脱がそうとしていた迷は、ぴたりとその手を止め、そのままわたしの正面にちょこんと座り込んだ。
「ええ、そうよ」
隠すつもりもないらしく、彼女は堂々と答えた。
「どうしてです。城主様がきっと寂しがりますよ」
本当はわたし自身が寂しいのだ。それはきっと迷にだってお見通しだっただろう。しかし、そこを敢えて突いてきたりはせずに、迷は真摯に答えてくれた。
「その城主様の為でもあるの」
「──どういう事です?」
「東の女神様はね、今、本当に困っていらっしゃるみたいなの。前に駆け落ちした蝶と花の話をしたわね。その蝶は、女神の愛し子という、とても大事なお役目を担っていたそうなの」
「愛し子……」
「ええ。愛し子は女神の力を強大なものにする。だから、楽園はいつだって安全で、邪な者たちに荒らされずに済むのですって。けれど、その愛し子が女神様の元を去ってしまって、力は弱まる一方。そこを狙って夕闇は東を乗っ取ろうとしていたみたいなの」
淡々と語るその目には強い意志が宿っている。つまり、いなくなった蝶の代わりに迷が愛し子となって東の女神の力となり、夕闇に対抗するため。延いては千夜と共に戦いたいからなのだろう。それでも、わたしは納得できなかった。
「それでも、城主様は迷がいなくなることを望んではいないはずです。傍で支える事だって重要なお役目ですよ。第一、女神の愛し子は迷でなくたって──」
「いいえ、アタシでないと駄目なの」
必死に引き留めようとするわたしを言い聞かせるように、迷はそう言った。
「朝焼様がその件を申し出た際、アタシもその場にいたの。控えている部下の蜻蛉たちも、そして、城主様の答えを見守る手下蜘蛛たちも、望んでいる答えはどう見ても一つだった。これで女神様のお力が増すのであれば、当然ながら此処の安全性も増す。けれど、もしもそこで私情を挟んで拒んだりすれば、彼らの期待を城主様は裏切ってしまうことになる」
「そんな……そんなこと……」
ない、と、わたしは言い切れなかった。ここに仕える蜘蛛たちは、城主である千夜を慕ってはいるが、それは千夜がただの妖精ではないからだ。この地を治める強い魔女であり、彼女に従えば安全が約束されているから。そういう者も多い。中には、わたしや迷のように純粋な気持ちで慕っている者もいるかもしれない。しかし、その純粋さだけで生き延びれるほど妖精の世界は甘くない。
もしも、ここで皆の安全よりも迷を優先するならば、千夜に失望してこの城を去る者も現れるだろう。それも、少数ではないかもしれない。迷はそれを恐れているのだ。きっと、誰よりも、千夜よりも。
「これがアタシの気持ちよ。分かった?」
囁かれると同時に床に寝かされそうになり、わたしは慌てて迷の肩にしがみ付いた。
「でしたら、せめてわたしも連れて行ってください」
「……銀花」
「お忘れですか? わたしは城主様からあなたに贈られた花なのです。あなたがここを去ってしまったら、わたしはお役目を失ってしまう」
けれど、迷はそんなわたしを宥めるように背中を擦ってきた。そのまま、今度こそ床へと寝かされてしまった。起き上がろうとする前に体の上に覆い被さられ、身動きが取れない状況で、迷はわたしの耳元で囁いてきた。
「連れて行きたいのは山々だけれど、女神様は一人で来るようにと希望されているの。もし行くなら、あなたの事は城主様にお返しすることになる」
「そんなの嫌です! だって……だってわたしは……」
「あなたの役目はきっと変わってしまうかもしれないわね。不安になるのも分かるわ。でも、安心して。城主様は約束してくださったわ。あなたは思い出の花。アタシと城主様の絆の象徴。どんな役目になろうと、無理をさせたりはしない。大切にするって」
「……わたしは」
わたしはただ、迷に恋焦がれていただけなのだ。迷の事が好きだから、千夜を取り戻せた。迷に笑って欲しかったから、わたしも頑張る事が出来た。
では、わたしはどうしたらいいのだろう。迷と離れたくない。迷の傍にいたい。でも、その希望は、迷を困らせてしまうかもしれない。迷の希望は千夜の力になる事で、その為には東へ行かねばならないかもしれない。となれば、わたしはどうしたらいい。
分からない。正解が何処にあるのか。しかし、はっきりしている事もある。どんな選択を迷がしようと、わたしにはそれを強制的に変えることが出来ないのだという事だ。
やがて、意気消沈し、大人しくなったわたしの衣服を、迷は脱がしていった。その手で蜜を奪われると、悦楽と共にいつも以上に虚しい気持ちがこみ上げてきた。




