16.蜘蛛と食虫花
夕闇の殺意が迷へと向けられる。焦りや戸惑いもあったのだろうか。自分の意思で動かせる蔓や蔦の全てを用い、迷を捕獲しようと試みた。
迷は迷で千夜を助け出すのに夢中だった。棺から引きずり出されても尚、千夜は目覚めていない。逃すものかと棺の中の触手のような蔓たちが抵抗を試みるが、迷の力の方が上らしい。
だが、それではいけない。千夜を助け出せても、迷が捕まってしまう。
「め……い……!」
わたしは必死に叫ぼうとした。けれど、声が出なかった。どうしても止められない。そんな絶望の中で、とうとうわたしの耳に迷の悲鳴が届いたのだった。
蔓や蔦に攻撃され、迷の体が大きく揺らいだ。しかし、その衝撃のお陰もあっただろう。迷の目的は達成された。千夜の体は完全に棺から抜け出し、迷と共に床へと落下していった。
ぶつかる前に、迷の翅が風を受け、落下の衝撃を和らげた。そして、千夜の体をそっと寝かすと、弓を構えて自身を狙う、蔓と蔦を睨みつけた。
もはや、わたしの相手をしている場合でないと判断したのだろう。夕闇は迷の相手に集中し始めた。怒りもあったのかもしれない。それだけ表情は険しかった。もしも捕まれば容赦はないだろう。
迷は決して弱くなんてない。けれど、夕闇の力は強すぎる。千夜を護りながら戦おうとしていた事もあるのだろう。善戦はした。しかし、捕まるのは時間の問題だった。
苦しそうな迷の悲鳴が再度聞こえてきて、いよいよわたしは泣きそうになった。悲鳴をあげさせるだけで、夕闇は満足しないだろう。
「憐れな蝶よ。けれど、許しはしない。手古摺らせた罰として、苦しみぬくがいい」
強く、強く、絞めつけているのだろう。
千切れそうな翅を震わせて、迷は藻掻いていた。
「助けて……城主様……」
か弱く、けれど、透き通るようなその声が、わたしの元に届く。
迷が苦しんでいる。それなのに、何も出来ない。自分の無力さに震えていたその時だった。倒れていた千夜の体がぴくりと動いたのだ。真っ先にそのことに気づいたのは、わたしと、そして夕闇だった。
即座にその警戒が千夜へと向く。直後、千夜は目を覚まし、そして、周囲を見渡した。
「……迷?」
あの声で、我に返ったのだろうか。やがて迷の陥っている状況に気づくと、千夜は慌てたようにその力を放った。
北の地に城を築いたあの糸が、迷を捕らえる蔓や蔦を攻撃する。その勢いはかつての印象よりも弱く感じたけれど、迷を解放するのには十分だった。
拘束が緩み、意識を失った迷の体が解放される。真っ逆さまに落ちていく迷を、千夜は糸で受け止めると、夕闇を振り返った。
「ずいぶんと、約束が違うようだ」
淡々とした千夜の言葉に、夕闇は静かに返した。
「言ったでしょう、絶対ではないって。それに、この子たちさえ大人しければ、こうはならなかった」
「いずれにせよ、迷に手を出されたからには、ただじゃおかない。その綺麗な花弁を全て引きちぎってやろう」
そう言って、千夜は迷を床に寝かせ、すっと立ち上がった。
その様子を見て、咳込みながら、わたしも立ち上がろうとした。その時、わたしの傍に何かが飛んできた。研ぎ澄まされた石の短刀だった。見れば、怪しい泉の傍では彗がかつての姉妹たちと戦っている。傷だらけになっていたが、すでに何人か倒しているようだった。
この武器も、倒された者のうちの一人のものなのだろう。それが、わたしの前へ。これこそが、好機というもの。石の刃を握りしめ、わたしは呼吸を整えた。
夕闇は千夜の方にばかり気を取られている。
「来なさい」
千夜に対し、彼女は非常に冷たい声でそう言った。
「あなたはまだ、万全ではない。それに、すでに半分以上は妾と同化していた。抗おうとも、抗えぬ。真正面から戦ったところで──」
と、夕闇が話している途中で千夜が先に動く。
だが、その鋭い糸の攻撃を、夕闇は蔓で弾いてしまった。
「通用はせぬ」
目を細め、夕闇は続けた。
「だが、しばし戦い、夢を見せてやってもいい。さあ、来なさい」
その言葉通り、有利なのは夕闇の方なのだろう。
彼女の言う通り、千夜は万全ではない。強がってはいるけれど、本当は立っているだけでも限界なのだろう。それでも戦おうとする彼女の姿を、夕闇は嘲笑うように見つめている。やがて、千夜がふらついたその時、夕闇が攻めようと蔓を向けた。その意識が完全に千夜へと向いていた。
そこへ。その背中へ。
わたしは飛び込んでいった。
きっと油断していたのだろう。わたしとの戦いはすっかり終わったものだと、そう判断していたのだろう。石の刃は間違いなく夕闇の背中にぐさりと突き刺さった。わずかな沈黙の後、呻き声があがる。夕闇が苦しみだし、周囲の蔓や蔦がうごめきだした。
「お、おのれ……」
振り向きざまに殴られそうになり、わたしはすぐさまその場を離れた。そんなわたしを強く睨みつけ、彼女は呪うように言った。
「よくも、よくも妾の体を……」
背中には武器が突き刺さったままだ。体液が漏れ出し続け、みるみるうちに顔色が悪くなっていく。その様子を震えながら見ていると、彗と戦っていた残党兵たちが夕闇の周囲に集まってきた。
彼女らに庇われながら、夕闇は言った。
「銀花……覚えたぞ、その名前。……お前だけは許さぬ。いつか……この日を後悔させてやろう」
そして、夕闇はそのまま項垂れた。直後、城全体が大きく揺らぎ始めた。残党兵たちが彼女を奥へと運んでいくと、揺れはさらに酷くなった。
足元のおぼつかない状態のまま、わたしはどうにか千夜と迷の元へと向かった。彗もまた慌てたように、わたし達へと近寄ってきた。
「崩れるみたいです」
彗が千夜に対してそう言った直後、夕闇が消えていった先で変化があった。花弁で出来た扉が閉じ始め、それに伴って絡み合っていた蔓がほどけ始めたのだ。吊るされていた四つの棺が大きく揺らぎ、夕闇の去った先へと引っ込んでいく。彗が解放を求めた女王蟻──夕映が入った棺もまた、そちらへ移動してしまった。
怪しい香りを放っていた泉の液体が溢れ出し、わたし達へと迫ってくる。触れてはいけないと本能的に分かるその液体から逃れるように、千夜たちと共にここへ上ってきた梯子へと後退していくと、下から声が聞こえてきた。
「城主様!」
朔だった。
蝙蝠はいない。どうやら彼が勝ったらしい。
「早くこちらへ!」
その言葉に頷き、千夜は糸を操った。解けて崩れそうになる植物たちを糸が縛り付け、地上へと戻る足場が出来ていく。
その足場を頼りに、わたし達は城を脱出した。




