14.魔女の棺
彗に倣って蔓の梯子を登るのは、慣れていないわたしにとって、非常に大変な事だった。簡単に思えるけれど、登るにつれて腕が痛くなってくる。背中の翅で空を飛べる迷が羨ましくなるほど。勿論、飛ぶのだって大変であることは分かっているつもりだけれど、軽々と上へ上へと飛翔していく迷の姿は実に優雅だった。
勿論、こんな所でめげるつもりはない。ここまで来たのだ。千夜を取り返すまでは絶対に諦められない。その一心で彗を追いかけ続け、そうしてようやくわたし達は、食虫花の城の頂上──その玉座があると言われている場所へとたどり着いたのだ。けれど、到着したのはいいけれど、辺りはしんとしていた。
先に到着していた迷がわたし達の傍へと着地する。彼女は彼女で疲れているように見えた。もしかしたら飛び慣れていないのかもしれない。羽化してからずっと、千夜の城にいたと聞いているから。
「誰もいないようよ」
迷がそっと囁く。その声が妙に反射した。梯子の正面には奇妙な香りを放つ泉がある。蜜食妖精を狂わすという匂いの元凶なのだろう。
迷は大丈夫だろうか。少し心配になって、わたしはそっとその手を掴んだ。もしかしたら、そんなわたしの心境を、怖がっていると捉えたのだろうか。迷はわたしの手を強く握り返し、軽く引っ張ってきた。
「誰もいない事はないよ」
と、迷に答えたのは彗だった。
「あれをご覧」
そう言って指差したのは、泉の向こうで宙づりになっている奇妙な袋だった。
植物で出来たその袋は、大人の妖精の背丈よりも大きい。そんな袋が泉の向こうで左右二つずつ、吊るされていた。
「あれは何……?」
わたしは当てもなく問いかけてしまった。
袋、と言ったが、よくよく見れば、どうも違うようにも思える。目を凝らしてみてみれば、その正面には縦に亀裂が入っており、ぱっかりと開く構造になっているようだった。
「あれは……棺だよ」
彗は言った。
「──棺?」
不穏な単語に迷の表情が険しくなる。
「誰の棺なの?」
迷の問いに、彗は淡々と答えた。
「魔女の棺……そう聞いている」
「──魔女の」
繰り返しかけて、わたしは遅れて彗の言わんとしている事に気づいた。
「じゃ、じゃあ、城主様はあのどれかの中に……?」
思わず足を踏み出したその時、目の前の泉を囲っていた蔓が突然動き出した。
慌てた迷が、わたしの腕を強く引っ張った。その力のままに後退りすると、蔓は巨大な蛇のようにわたしを威嚇してきた。そして、その後ろ──泉のさらに向こう側にある大きな花の蕾がふわりと開き、中から見慣れぬ妖精の姿が現れた。
花の妖精だ。間違いない。ただ、わたし達のような種族とはだいぶ違うだろう。その目つき、そして雰囲気は、怯えというものをまるで知らないかのよう。異様なまでに整ったその顔をこちらに向けると、彼女はぱちりと目を開いた。
「妾の眠りを妨げるのは、お前たちか」
淡々と呟くように彼女は言った。
気怠そうというよりも、この世の全てに飽きてしまっているかのよう。
そんな彼女の姿に呆然としていると、隣にいた彗が武器を構えた。
「……食虫花」
憎しみが込められたその声に、食虫花もまた興味を抱いたのか表情を変えた。
「亡国の民もいるとは。誰かは知らぬが、妾に歯向かうとは、なかなか気骨のある者のよう。だが、それだけに哀れでもある。強い流れに逆らわず、常に何かのせいにして、身を任せていれば楽なものを」
「ごちゃごちゃ煩い。それよりも、女王蟻様を──私たちの陛下を返せ!」
キッと睨む彗に対し、食虫花は全く表情を変えぬまま、ちらりと視線を逸らした。
その先にあるのは、魔女の棺。そのうちの東側にあるうちの一つだった。
食虫花がじっと見つめると、棺がもごもごと動き出した。正確にはそれを支える蔦が動いているのだ。だが、棺自体は開かなかった。
「女王蟻。その名は、夕映だったか」
と、食虫花が呟くように言った。
「妾の名、夕闇と近くて遠いその名。そうか。滅んだ国の夢から覚めずにここまで来たか。なおさら、哀れだ。お前の母はもう目覚めぬ。夕映の心身はすでに妾のものとなっている。返せと言われても、返せぬ。諦めることだ」
「そんなの嘘だ。信じるものか」
彗の言葉に、食虫花──夕闇は軽く目を細めた。
「疑うならば、あの棺を開けてみればいい。開けられるものならばね」
静かなその挑発に、彗はさらに怒った。傍にいて伝わるほどに殺気だっている。そして、わたしや迷が止める間もなく彼女は、駆け出していた。
これまで耳にした、どの鳥の咆哮よりもさらに激しく叫びながら、彗は泉を飛び越え、そのまま真っすぐ魔女の棺の一つへと向かっていった。女王蟻──夕映がいるというその棺へ飛び掛かる。けれど、棺を引き裂こうとした石の短刀は弾かれてしまった。
一度、後方へと着地すると、彗は悔しそうに棺を見上げた。
「か、硬い……」
焦る彗に対し、夕闇はさらに告げた。
「いい事を教えてやろう。この棺が開くかどうかは中にいる者次第だ。夕映がいまも出たいと強く願えば、棺も簡単に開く。けれど、もう遅い。彼女の意思はもうないに等しい。中にいるのは生ける屍。今更迎えに来たって、お前の声は届かぬ」
彗を絶望の淵に落とそうかというその言葉は、そのままわたしにとって、そして迷にとって、恐ろしい言葉となった。
「では、城主様は……」
わたしの手を掴んだまま、迷が震えながら呟く。
「城主様はどうなってしまったの……」
その声にわたしまで絶望しかけた。
けれど、その時、わたしはふと異変に気付いた。それは魔女の棺の一つの様子である。
彗が救い出したいと求める女王蟻──夕映が入っているらしき棺のその隣。もっとも東側に吊るされた棺がぶるぶると震えていたのだ。そして、凝視しているうちに、わたしは気づいた。棺を盾に割るあの裂け目。怪獣の牙のように左右に噛み合うその裂け目が僅かに開いたことに。




