第十講:別なる世界へ行く、その前に
Iu(単位元指数)=0.7
Ii(逆元指数)=0.8
θ(極座標で、z軸正の向きとなす角度、0≦θ≦π)=5/12π (75°)
φ(極座標で、x軸正の向きとなす角度、0≦θ≦2π)=1/6π (30°)
俺はそれがメモされた端末の画面を見る。発端は先週の九回目の講義が終わった、その金曜の夜のことだった。
『補足と来週からの実習に向けて』
履修しているし、たまたまその時来ていたメールが少なかったから分かったが、そうでなければきっと見逃していただろう。すぐ紛れてしまいそうな地味なタイトルも、いかにも教授らしい。
履修生各位
履修生のみなさんに軽い課題を出します.
こだわっても適当に決めても構いません.ただし履修生どうしで全ての値が被ることがないように.
課題)履修生のみなさんは次回から,各々が望んだ並行世界に行き,そこで感じたこと,この世界と異なる点などをまとめてレポートとしてもらいます.今回の講義で単位元指数,逆元指数について触れましたが,あと二つ,みなさんには指定してもらいたいパラメーターがあります.以下に示す範囲に留意して,それぞれで値を定めてください.
①単位元指数 Iu 0<Iu<1
②逆元指数 Ii 0<Ii<1
③極座標の角度θ 0≦θ≦π
④極座標の角度φ 0≦φ≦2π
①,②については本日の講義で説明した通りです.概念が分からない者は他の履修生に聞くか,庵郷まで聞きに来るように.土日を除く日中時間帯であればほぼ在室しています.
説明を忘れていましたが,これら二つに関しては,0や1などの極端な値をとる世界は存在しません.その点にも留意してください.
また,これら二つはあくまでその世界に漂う濃度をある程度数値化したものにすぎないため,該当する世界が無数に存在します.特に分岐元と分岐先の世界で,分岐点が最近である場合,IuとIiは一致することが非常に多いです.そこでさらに絞り込みを行うため,③④を決めてもらいます.
極座標は最初の方に説明した通り,直交座標とともに並行世界の住所を直接示すものになります.下にx,y,z軸を示しますが,ここではθはz軸正の向きとなす角,φはx軸正の向きとなす角と考えてください.この時θ,φは緯度,経度とおおよそ考え方が一致します.この世界を基準とした際の気候・気温,および時差の希望を聞いていると考えてください.
③④について以下,主な注意点を示します.
・θは緯度に近い発想ですが,完全一致ではありません.φも同様です。
・たとえばこの世界の日本に相当する世界を希望する場合、θ=11/36π (55°),φ=1/4π (45°)です.θは北緯90°を0°,南緯90°を180°.φは東経180°を0°,イギリス・旧グリニッジ天文台を180°,西経180°を360°と考えると分かりやすいと思います.ただし,これを基準に世界を指定しても,その並行世界の事情により気候などの条件が一致するとは限らないことに注意してください.
加えて「時間進行関数」「移動先の世界で守るべきルール」について説明の必要がありますが,長くなるためここではしません.
次回の講義,よろしくお願いします.
「……あの人、こんな言葉遣いもできるんだな」
しゃべり方一つで分かる変人度合い。本人は半ば流れ着くようにして、というふうだったが、大学教授になるべくしてなった人だと俺は思う。自分の持つ知識、知見を他人に授けるというのもそうだが、何より自分の理論の共感者を探して、一緒に追究しようと本気で考えている。それは高校までの先生に求められるのとは、きっと全く別の才能だ。
俺は週明けに瀬川、来栖の二人と相談して、課題に取り組んだ。だがどうも二人はそれほど乗り気ではないようだった。四つのパラメーターもあまり気にせず適当に決めているようだった。対して俺はできれば日本と同じような気候がいいとか、治安はこれくらいがいいとか、あれこれ考えていたから、教授は俺たちの心理をよく分かっている。
「なんか、危険な香りがすんだよな。あの教授」
「だな。ブラック研究室ってああいうのを言うんじゃねえかなって」
どう考えても俺と二人とで、教授に対する印象が違ってきている。二人が人を疑いすぎなのか、それとも俺が毒されているのか。おそらく傍から見ても、俺が毒されている方が可能性は高いと思うが、だからと言って俺が間違っているとも思えない。もちろん変な世界に行って死んだり危ない目に遭ったりするのはまっぴらごめんだが、今のところ俺は並行世界に合法的に行けるのであれば、これほど楽しいことはないと思っている。
「別に私を胡散臭いと思った結果、研究室の選択肢として除外するのは一向に構わないぞ。確かに後継者探しに躍起になっているのは事実だが、嫌がる人間に強いるようなことはしない」
「げっ」
今回は最初から集合場所が教授の研究室に指定されていたから向かっていると、後ろから教授が追いついてきた。まったく、いつどこで話を聞かれているか分かったものではない。
「盲目的にのめり込む方がかえって危ない、という見方もある。君たちがこれまで培ってきた感性をもとに判断した結果なのであれば、それは何より尊重されるべきだ」
「結局どっちなんスか。研究室に来てほしいのか、来てほしくないのか」
「どちらでも構わない。しつこく勧誘をする気はないからな。私の研究室は特別な事情があって、何人入研させなければならない、といったノルマがない。君たち三人が誰一人として来なくとも、一向に構わないわけだ。私はこれからも本や論文で考えや見聞きしたことを発信するつもりだし、今すぐでなくとも、いつかそれらが誰かの手に取られればいいと思っている。一昔前であれば、私の著作物も奇書、オカルトの類と扱われていただろうが、そうもいかない事情が差し迫っている」
「な……なんですか、それ」
「それについては、追って話そう」
教授がホワイトボードを引っ張り出して、「時間進行関数」「拾得禁止」「ドッペルゲンガー則」の三つを書き記した。それから紙を一枚ずつ、俺たちに渡してきた。
「初めに断っておく。今回から実際に別なる世界へ飛び立つわけだが、当然、向こうで数日過ごす間にこちらでは一切時間が進まない、などという都合のいいことは起こらない。場合によっては、向こうでの数日がこちらの一日、ひと月、あるいは一年になることすらある」
「……っ!?」
「つまりこちらに帰ってきた時、ある程度時間が飛んでいることは承知してもらいたい。その同意書だ。もちろん、時間の進み方に大きなズレがないような世界を、あらかじめこちらである程度は選定しているから、そこは安心してほしい」
俺は少し悩みこそしたものの、すぐにサインをした。二人も俺に追従するように名前を書いた。
「では、座学としては最後になるが、早速説明に入ろう。まずは時間進行関数。これはざっくり、並行世界における体内時計だと考えてもらえればいい。並行世界はそれぞれで時間の進み方が異なる、というニュアンスで話をしたが、その正体は世界固有の時間進行関数だ。1秒の定義がセシウム133に基づいているか、1分が何秒か、1時間が何分か、1日が何時間か。驚くべきことに、ほとんどの世界は60進法で動いた方が都合がよいと知っているのか、私たちの世界と同じだ。だが例外も存在する」
「時間の進み方が違うってだけなのに、ここまで大げさに取り上げる必要はあるんですか?」
「ある。なぜなら自分の体内時計と照らし合わせた結果、適合する世界と不適合になる世界とがあるからだ。時間の進み方がある程度一致していないと、その世界で暮らすことはできない。より正確には、降り立つことも生活することもできるが、体内機能に支障をきたしすぐに死に至る」
「え……」
瀬川が純粋に引いていた。俺も来栖も声にこそ出さなかったが、死という言葉が出てきたことに驚きを隠せていなかった。
「……というのは、あくまで極端な場合だ。よほど合致しない世界に行った場合はそうなるが、少々ずれている程度であれば極度に眠たくなるとか、少し食欲が減退するとか、その程度の症状で済む」
「症状は出るんですね」
「私としても、時間進行関数の不一致については重く見ている。そこにある転移装置にも、移動者との時間進行関数の一致度に最も重きを置いて計算させているんだ。たとえ今日宿題で決めてきてもらった四つの値で絞り込んだ結果、無数に世界が出てきたとしても、時間進行関数ひとつで世界が定まることがほとんどだ。君たちの想像以上に、時間進行関数は多彩だからな」
つまり俺たちが心配することはない、というのが教授の結論らしかった。それで安心する方が難しいとは思うのだが、いったん信じてみることにする。
「ここからは、遠足の注意事項についてだと言えるだろう。行先を一つに定めて、実際に降り立ってから気をつけてもらいたいことだ」
教授が改めて、「拾得禁止」「ドッペルゲンガー則」の二つを大きく丸で囲んだ。
「まず一つ目。基本的に、向こうの世界の物品をこちらに持ち帰ることは控えてほしい。お金がかかっていようとかかっていまいと、だ」
「お土産だとしても?」
「だとしてもだ。さっき説明した時間進行関数の話にも関わってくるが、時間の法則に従っているのは世界自体や、生物だけではない。その世界に存在するもの全てが対象になる。人工物であっても長い時間の中で分解され環境に還る。その時間の定義が変われば、歪みが生じると考えれば分かりやすいかもしれない。どんなに小さな物品であっても、持ち帰った時点から徐々にねじれ、歪みが発生し、最悪の場合並行世界どうしが無茶な形で融合することにもなりかねない」
「そこまで……!」
「あくまで最悪の場合、ではあるがな。過失である分にはある程度仕方ないが、少なくとも故意に移動先の世界のものは持ち帰らないように」
続いて教授は俺たちについてくるよう合図をして、立ち上がった。少し移動して、並行世界への転送装置の前まで来る。
「ドッペルゲンガー則は少々厄介だ。分岐してから日が浅いなどで、その世界における自分、あるいは知り合いに出会う可能性があるだろう。しかし出会い、互いに顔を認識しもう一人の自分だと認める行為は、世界どうしの融合にいずれ発展する」
「たった一人分なのに、そこまで影響するものなんですか」
「一人が同一人物に出会ったということは、それだけ世界どうしが位置的に近い可能性が高い。となれば、向こうの自分をよく知る人間も多い。同一人物が二人いる、と認識する人が増えるだろう。それはどんどん世界どうしの区別がつかなくなることにつながり、やがて無理やり一つになってしまう。歪な力を持ったままな」
「こっちが知らないフリしときゃいいんじゃないスか」
「そうもいかない。ドッペルゲンガー則については故意、過失に関わらず、並行世界どうしの融合が進んでしまう。知り合いや自分のいる可能性の少ない場所に行く、あるいはそもそも座標の近しい並行世界に行かないなど、こちらが対策を取らなければならない。ちなみに、この対策については、こちらでするつもりだから安心してほしい」
そこまでしゃべって、では、と一区切りつけてから教授が俺たちの持つメモを回収した。ふんふん、と声を漏らしつつ機械を操作し、やがて俺のものを一番手前に持ってきた。
「一見して、田宮君の選んだ世界が一番いいだろう。初めて並行世界に行くのに適したところだ。違いも見つけやすく、また身の危険もない」
「行ってもないのに、そこまで断定できるんですか」
「私の経験則によるところが大きいな。この程度の差であれば、治安がどうなっていて、どういう時間の進み方か、おおよそ見当をつけられる。もちろん、外している場合もあるが。今回は安全だ」
一通りの操作を終えたらしい教授が、装置から離れるよう俺たちに指示する。それから教授自身も離れて少しすると、転移するために座るらしいソファのような椅子の真上で、装置が口をがばっと開けた。大人一人であればすっぽり包み込みそうな大きさだ。
「さあ、行こう。一人ずつの転送になるから煩わしいが、理解してほしい」
その言葉に従って、来栖と瀬川が先に転移する。俺が続き、最後に監督者である教授が座ることになった。
深く腰かけたのを確認して、教授が装置を作動させる。直後、あの大きく開いた口に飲み込まれた。心なしかひんやりとしていて、立ち上がれはしないが少し身体を動かせるくらいの自由度がある空間だった。目をつぶれ、と教授の指示があったので従うと、一瞬チカッ、と強烈な光が差すのを感じた。それを合図に、猛烈な眠気が襲ってくる。それに抗おうと考える暇すらないまま、俺は深い眠りに落ちてしまった。