炎 後編
13の章に性描写があります。具体的な単語は避けていますが、気になる方、読むに堪えない方は、14の章まで読み飛ばしてください。
9
「バカ息子はまだ戻っていないのか」
エディは、夜中に息子がこっそりと出て行くのを目撃していたが、捨て置いた。その代償が、翌朝、心労としてもたらされた。エディは苛立ちを隠さず、悪態をついた。
報告にエディの部屋へ訪れた部下が恐れをなし、それでも何とか逃げずに踏みとどまって、頭を低くした。まるでその頭上を悪態という弾丸が飛び交っているかのようだ。
「お坊ちゃまなら、守備隊に捕まったわよ」
フェムがシーツの中から答えた。シーツからはみ出した足が、艶めかしく伸びている。
エディはその足に目が釘付けになった。生唾を飲み込む。
「捕まった…?」
エディはやっとのことで頭を回転させ、フェムの言葉の一部を反芻した。
「そう」
フェムはシーツの胸元を押さえて上半身を起こした。肩から胸元までの素肌があらわになる。
エディはその肩に、胸に触れたくなるのを必死に耐えた。ベッドの脇に立ち上がり、フェムを見下ろす。そうしていないと彼女の肌に吸い付いてしまいそうだ。
「説明してくれ」
「いいわよ」
フェムは片腕を上げて伸びをすると、上唇をひと舐めした。エディの視線が脇や胸元に釘付けになっていることを承知したうえでの仕草である。
フェムはエディの囲い者、雇われ者だったが、今ではエディの方がフェムに夢中だ。フェムはたっぷりと自分の身体の価値を見せつけてから、昨晩の出来事を説明した。
「何だと…!」
エディは足の力が抜け、ベッドに座り込んだ。バカな息子の不始末をどうすべきか、考えるのも苦痛だった。目の前の美しい肌に手を伸ばし、その柔らかさを堪能する方がいかに有意義か知れない。
フェムはエディの手をはらった。
エディは鋭い視線をフェムに向けたが、フェムは気にする様子もなく、
「ここに守備隊が来ても困りますよ」
と言ってベッドから這い出し、身支度を始めた。
「そ、そうだな」
エディは名残惜しそうにフェムの着替えを眺めた。その間に考えをまとめた。立ち上がるとその後の行動は迅速だった。
入り口に立ち尽くしたままの部下に命じ、残りの部下たちを叩き起こし、すぐに出発させた。
守備隊の調査が入ることを避ける目的と、王都へ行って昵懇の貴族に根回しをする目的のために、早急に立たねばならなかった。
同時にエディはフェムに命じ、ジョシュアの居場所を探らせた。
商隊の準備が整った頃に知らせが届いた。その知らせは、ハンデルとデアダクリとの間にある街道で、アラガント商会の商隊が盗賊に襲われたというものだった。
「よりによってこんな時に!」
エディは苛立って叫んだものの、すぐに自制し、フランクに盗賊被害の方の処理を任せた。
フランクは馬を一頭買い、すぐに旅立つ。
その後を追うように商隊を出発させようとしたが、フェムが引き止めた。
「お坊ちゃまは王都のコプランド男爵の元に送られたわ」
報告した後で、別のことを言う。
「後の計画のために、フェイブル親子は同行させた方がよろしいのではなくて?」
エディは一理あると認め、部下を銀狼亭へ派遣した。
キュリアスは急な迎えに、ジョシュアの件が発覚したなと勘繰った。これを機に、マーサ親子とアラガント商会を引き離す方が安全ではある。迎えを追い返し、キュリアスとドーラでハンデルまで送り届ければ済むことだ。
おそらく、それでは終わらない。キュリアスは深みにはまったかもしれないと、昨夜のうちにフェムと雌雄を決しなかったことに後悔を覚えた。
エディがジョシュアの件をもみ消しにかかれば、目撃者であるマーサ、シドニー、キュリアスの口封じを狙ってくるだろう。暗殺者に狙われるか、フェム直々に狙ってくるか…。キュリアスの悩みの種が増えただけだった。
しかし、考えようによっては、敵の懐に潜り込んでいれば、狙われるタイミングを把握しやすいうえに、相手にいつでも狙えるという油断を生じさせることができる。付け入る隙があるとすれば、この辺りかもしれない。
キュリアスはマーサ親子を引き止めるようなことはせず、迎えの馬車に一緒に乗り込んだ。いざとなれば同行するドーラにも一役買ってもらうことになる。
キュリアスは少しばかり、罪悪感を抱いていた。それはマーサ親子を餌にしている気分があったからだ。エディ・マイザーの元になぜフェムがいるのか、そのことも気になっている。この商隊に紛れていれば、分かるかもしれない。紛れる口実が、マーサ親子だった。
フェムの思惑が分かってからの方がいい。
キュリアスは言い訳のように考えていた。昨夜、フェムと雌雄を決しなかった後悔が、そう思わせたのかもしれない。
昨夜は気後れしたが、フェムを逃すつもりはない。彼女は世間に害悪しかない。ソード隊とともに滅ぶべき存在なのだ。ソード隊を壊滅させた責任の延長線上に、自分がフェムを仕留めなければならないという、使命感に似た思いが、キュリアスを縛り付けていた。
フェムの意図を探り、仕留めるには、このままアラガント商会の懐にいる方が、都合がよかった。マーサ親子を利用しているような格好のため、キュリアスは良心の呵責に苛まれる。
後悔と、良心の呵責に抗うものは、フェムをこれ以上野放しにできないとの使命感だ。だが、馬車の屋根の上では考える時間が多すぎた。使命感一つでは、悩みを解決するには至らなかった。
やはり悔まれるのは、昨夜の件だ。躊躇したばかりに、事態がややこしくなっていく一方だ。フェムの思惑など気にせず、戦えばよかったのだ。何よりキュリアスが自分を許せないのは、気後れしたことだった。自覚すると、不甲斐なく、やるせなかった。
その不甲斐なさが、マーサやシドニーにどれほどの危険を運んでくることか。
今からでもフェムを倒しに行こうかとも考えるが、それではキュリアスがエディの愛人を襲うという事態に至り、ただの犯罪者に成り下がってしまう。キュリアスに正当性はなく、キュリアスを雇ったマーサにも害が及ぶことになる。
キュリアスは煮詰まっていた。眠気が、思考を妨げているのか、堂々巡りの後悔を抱き続けるのだった。
キュリアスの心とは裏腹に、その日も空は晴れ渡った。旅には良い天候が続いている。モンスターや害獣にも出くわさず、順調な旅路でもあった。
商隊は夕暮れ前に王都へ到着した。日は落ちはじめ、西の空を真っ赤に染め上げた。
商隊は、エディとフレデリカの乗った馬車が王都に入っただけで、残りは王都の城壁を迂回して南へ向かった。
「あら?止まらないのですね」
マーサが右側に見える城壁を眺めて言った。
「そのようですね」
ドーラは答えると、馬車の前側の小窓を開けて御者に尋ねた。
「エディ様のお言いつけで、このまま南の街道に入ります。何でもトラブルが発生したそうで、急ぎハンデルへ戻るとのことです」
御者は丁寧に答えた。その声は屋根の上に寝そべるキュリアスにも聞こえた。
キュリアスにとっては好都合だ。王都からの追放処分を受けた身で、中には入れない。マーサ親子の護衛をドーラ一人に任せる一晩が発生するのか、あるいはどうやって王都に不法侵入しようかと気を揉んでいたのだが、案ずる必要がなくなったのだ。
ただ、商隊にフェムが残っている。完全に安心できる状況でもなかった。
その晩は街道沿いで野営を行ったが、その一夜も何事もなく過ぎた。
雨は夜半過ぎから降り始めた。
皆が起きだすころには本降りに代わり、激しく降り注いだ。
森や草花は久しぶりの雨に喜んでいるのか、青々と輝きながら雨粒を受けている。
キュリアスは雨だけで陰鬱だった。感知する気配に雨粒の一つ一つの動きが加わり、とてつもない情報量が頭に飛び込む。もはや人がどう動こうが、獣やモンスターがいようが、大量の雨が塗りつぶした世界が、キュリアスの頭の中に広がっていた。
キュリアスはいつものように馬車の屋根に上ろうとした。雨にぬれても構わないと思っていた。ところが、シドニーが強く反対し、キュリアスを無理やり馬車の中へ引きこんだ。
「風邪をひいてしまいますわ!」
シドニーはまるで母親のようにキュリアスを気遣った。
雨の様子が眼に見えなければ、余計に気配の情報が頭にあふれ、苦痛を感じると思っていたキュリアスは、丁重に断りたかった。が、シドニーの無垢な瞳に負けた。
シドニーのおかげで杞憂に終わる。
シドニーが他愛の無い話をつづけ、マーサやドーラが加わる。キュリアスにも時々同意を求められるので聞き入ってなければならないのだが、どうしたことか、シドニーの話に耳を傾けていると、雨の情報が僅かに薄れた。頭の隅に追いやられたような感覚で、膨大な情報にもかかわらず、珍しく、耐えられるものになっていた。
ただ、キュリアスの気配感知は雨のために役立たずだった。馬車の動きも街道を行き交う人々の動きも把握できていない。
把握できなければできないで、キュリアスに不安をもたらすのだった。
その不安は現実のものとなる。
雨の勢いは一向に衰える様子を見せず、昼を過ぎても馬車の屋根を叩き続けた。
雨がひときわ激しく馬車を打ち付けたかと思うと、馬車が停まった。
キュリアスとドーラは顔を見合わせた。
「何事かしら?」
マーサが馬車の昇降口に近づいて外を眺めようとした。キュリアスはすぐにマーサの前に割って入ると、外の様子を窺った。
「盗賊だ!」
誰かが叫んでいる。
激しい雨の中、多数の人が走っているのが見えた。
「襲われたらしい」
キュリアスは呟くように言うと、
「ドーラ。ここを任せる。皆はここから出ないように」
と指示を出し、馬車を飛び出した。
飛びだしたキュリアスと、見知らぬ男がぶつかった。
次の瞬間、キュリアスは相手の男を突き飛ばしていた。男の手に剣が握られていた。商隊の護衛ではない。商隊の人間でもない。その証拠に、男はすぐにキュリアスめがけて剣を振り下ろした。
キュリアスは腰の大型ナイフを抜き放つと、僅かな動きで相手の剣を避け、ひと突きに倒した。
右からも左からも凶悪な煌めきが迫った。キュリアスは素早く動き、襲い掛かる盗賊たちを次々とナイフで倒していった。間に合わない相手には蹴りや拳が飛ぶ。
マーサたちの乗る馬車の一つ前、アラガント商会の馬車の一つが横転していた。積み荷が散乱している。
激しい雨の中、動き回っているのは武器を持った、盗賊たちだけだった。アラガント商会の他の馬車にも群がっているようだ。
これほど大人数の盗賊団には出会ったことが無い。キュリアスは驚きつつも、淡々とあたりの盗賊を一人、また一人と倒していった。
マーサたちの馬車に盗賊がたどり着いた。しかし、盗賊はすぐにひっくり返って倒れた。ドーラが倒したようだ。
激しい雨のため、戦況が分からない。
商隊が抱える護衛もいれば、ギムやルークと言った冒険者もいるはずで、それぞれ持ち場付近で戦っていると思われるが、打ち付ける雨の音しか聞こえない。激しい雨のためにすぐ後ろの馬車の様子すら見えなかった。
マーサたちの乗る馬車が動き始めた。御者が制御して逃げ出すのだろう。
キュリアスは馬車に群がろうとする盗賊たちを引き付け、次から次へと倒した。
キュリアスの回りは敵しかいなかった。達人でもこの人数に囲まれれば、無事では済まない。
後続の馬車が、キュリアスを生贄に通り過ぎた。御者の顔が笑っていたようにも見えたが、恐怖に歪んだ顔だったのかもしれない。
キュリアスは他の馬車の様子を見ている場合ではなかった。迫り来る剣をかわし、敵の身体を盾にして凶刃を避ける。
馬車はもう一台後方にいるはずだったが、現れなかった。最後尾にはギムとルークの二人がいた。二人が頑張って守っているのかもしれない。あるいはすでに略奪の限りを受けているのかもしれなかった。
キュリアスは敵を斬り、殴り倒し、蹴り飛ばして道を作ると、後方へ走った。しかし、そこに馬車はなく、代わりにギムとルークが変わり果てた姿で横たわっていた。
脈を診るような余裕はない。次から次へと盗賊たちがキュリアスに襲いかかった。相手は恐怖を知らないのか、キュリアスに仲間を殺されても構わずに飛び込んできた。
群がる盗賊たちの顔には一様に、キュリアスの顔が大金にでも見えているかのような欲望にまみれていた。
キュリアスには相手の表情の意味を考える余裕などなかった。ナイフを振り、殴り、蹴飛ばした。
キュリアスは群がる盗賊たちに向かって、力任せにナイフを振った。普段使う剣ほどではないが、衝撃波が発生し、雨粒と共にかなりの人数を同時に斬り倒した。
すかさず飛び込んで辺りを蹴散らし、今度は前方へ向かう。
横転した馬車の傍に空箱が転がっていた。馬車につながれていたはずの馬は見当たらない。馬や御者の遺体もなかった。
キュリアスは盗賊たちを振りきってさらに前方へ走った。
滝のような雨がキュリアスを濡らし、視界を塞ぐ。手で顔をぬぐい、頭を振った。
視界は悪いが、幸いなことに、街道の石畳の上に障害物はなかった。雨さえ気にしなければ、走って行ける。
前方にいるはずの、アラガント商会の馬車たちは、行けども行けども見当たらなかった。かなり先まで逃げたようだ。
さらに走ると、街道を塞ぐように一台の馬車が停まっていた。激しく矢を受けている。馬車につながれていた馬は全て、全身に矢を生やして倒れていた。
近づいて確認すると、馬車はアラガント商会のものではなかった。キュリアスたちとは逆に、王都へ向かって進んでいた馬車のようだ。
馬車の昇降口の窓に、怯えたような眼があった。
「おい!馬車が何台かここを通過しなかったか?」
キュリアスは大きな声で尋ねた。
昇降口の窓に手が現れ、震えながら、南方向を指差した。
やはり通過したのか。キュリアスは手を上げて礼の代わりにすると、南へ向かって走った。
雨のためによく分からないが、盗賊たちがついてきていないようにも感じられた。キュリアスの足が速すぎて追いきれていないだけかもしれない。
矢を受けて停まっている馬車が襲われるかもしれない。キュリアスは立ち止まって振り向いた。
激しく降り注ぐ雨しかない。雨の向こうに人影など皆無だった。
盗賊たちは奪うものを奪って逃げたのだ。キュリアスに数十人倒され、それ以上の損害を出してまで追う価値はないと判断したのかもしれない。
キュリアスは街道の石畳に眼を落としながら南へ走った。街道から外れて森や脇道へ向かった痕跡は見当たらない。
シドニーは無事だろうか。うまく逃げ切っているのだろうか。マーサや、ドーラも、運命を共にしているはずだ。
キュリアスは護衛対象と仲間の安否を気遣いつつ、出来得る限りの速度で走った。
夜になり、雨は幾分弱くなった。だが、キュリアスの足をもってしても、馬車には追いつけなかった。
キュリアスは夜通し走り続けた。それでも馬車に追いつけない。一体どこまで逃げ続けているのだろうか。
明け方には雨が止んだものの、マーサやシドニーの乗る馬車の姿は見当たらない。
キュリアスはひたすら走った。
日が昇り、大地を乾かす。
人々が街道を行き交う中、キュリアスは走り続けた。
再び日が暮れた。
キュリアスは不眠不休で走り続けた。体力の続く限り、走った。もはや馬車に追いつくこと以外、何も考えられなかった。
空が白染み始めるころ、前方に町の明かりが現れた。ハンデルの街路灯は日が昇るまで灯される。
キュリアスは眠そうな門番の前を駆け抜けた。
ハンデルの路地も石畳で、馬車の痕跡を追うことができない。それどころか、未だにマーサやシドニーの乗る馬車も、その気配すらも感じられなかった。
なぜいない。
キュリアスは焦るばかりだ。
街道は、襲撃場所から南の国へ続く。ハンデルはその道から東にそれる。キュリアスは当然のごとく、目的地のハンデル方向に進んだ。そして逃げた商隊の馬車もハンデルに向かっているはずだ。
だというのに、姿かたちすらない。訳の分からない状態に、キュリアスは混乱した。
ハンデルに向かったのだから、町を通り越して東に向かうはずもない。やはりハンデルまでに追いつけなければおかしい。
混乱したキュリアスの頭では、それ以上の考察もできなかった。これだけ走り通して追いつけないのは、何か異常事態が起こっていると考えるべきなのだが、不眠不休のキュリアスの頭は、動きを止めていた。
護衛対象を見失うという失態を犯したキュリアスは、さらなる失態を重ねることになる。
キュリアスは路上で倒れ込み、そのまま意識を失った。
10
キュリアスはベッドの上で気が付いた。
ハッと飛び起きる。
見覚えのない小さな石造りの部屋で、ベッド脇の壁にキュリアスの黒い服がかかっていた。その横のテーブルにキュリアスのナイフもある。
キュリアス自身は、自分のものではない肌着姿だった。
部屋には窓が一つあった。
キュリアスは駆け寄って外を眺めた。見覚えのない、石畳の町並みが広がっている。青い空を雲が泳ぎ、小鳥たちが気持ちよさげに飛んでいた。
雲を運ぶ風が、キュリアスに向かって流れ込んだ。涼しく心地よい風は小さな部屋の中を回り、どこかに消えた。
石畳の町並みと、近くの建物の屋根が見える。下に通りを歩く人の姿もあった。
人の気配は多数ある。キュリアスの感覚に異常はないらしく、町の人々の気配が頭の中に飛び込んできた。
近くで集団が規則正しく動いていることが分かった。キュリアスにも馴染みのある動きで、軍隊の戦闘訓練と分かる。
窓の外の景色に、ほとんど覚えはないが、路地に街灯が立ち並ぶ様子から、ハンデルだと予測できた。そしてハンデルの兵士がいる場所はと考えて、キュリアスは自分の居場所に見当がついた。
喉が張り付いている。異常なほど渇いていた。
キュリアスは部屋の中を見渡し、テーブルの上に置いてある水差しに飛びついた。傍にあるコップには目もくれず、水差しから直接水を飲んだ。
一気に飲み切る。
空になった水差しをテーブルに戻すと、キュリアスはやっと一息付けた。身体がもっと水分を求めているが、後はテーブルに置かれた手洗い用の水しかない。
キュリアスは手洗い用の水を覗き込んだ。水に映った自分の顔は、自分の物ではないように思われた。
水をすくい、映った顔をかき消すと、乱れた髪を撫でつけ、顔を洗った。
特に身体に異常はないようだった。が、このままでは人前に出ることができない。
キュリアスはテーブルの上に並べられていた自分の持ち物を眼で追った。小さな小瓶を手に取り、中から一粒の錠剤を取り出すと、口に放り込んだ。
すぐに効果が表れる。キュリアスがもう一度髪を撫でつけると、いつもの黒髪にまとまった。
キュリアスの服は誰かが洗濯したらしく、汚れが付着していなかった。服を着替え、持ち物を身につけていく。
眠ったおかげで頭はさえているようだ。着替えの間に気配の判別を行っていたが、キュリアスがこれから行くべき気配の元を見つけることができた。
身支度を終えると、窓と反対側にある扉を開けた。廊下に人はいない。キュリアスは監禁されていたわけでも、見張りがついていたわけでもなかった。
見知らぬ廊下を歩いて階段に出ると、一つ下の階へ下りた。その廊下の奥に、キュリアスを待つ人物の気配がある。厳密には待っておらず、自身の職務を果たしているだけである。
キュリアスは目的の扉を、ノックもせずに開けて入り込んだ。
机をはさんだ窓際に男が座り、机の上の書類にサインしていた。男は人の気配に顔を上げたものの、キュリアスを一瞥すると作業に戻った。
「せめてノックくらいしろ」
男は書類に眼を通しながら言った。
キュリアスは扉の内側からノックする。
男は視線を上げると、ため息をもらした。
「俺はどれくらい眠っていた?」
キュリアスは挨拶を省いた。相手はキュリアスの兄代わりであり、剣の師匠でもある、よく見知った男だった。
「丸一日」
マルス・ジャストゥースも挨拶を省いて、簡潔に答えた。最後の書類にサインし終えると、マルスは弟の様子を窺った。
「まさかお前が行き倒れになっているとは思いもしなかった」
「俺もだ」
キュリアスは答えると、何か食べ物はないかとせがんだ。
「病気や怪我ではないらしいな」
マルスは安堵したように言った。身体に傷がないことは、キュリアスが眠っている間に確認していた。病気や毒に侵されていることも心配していたが、大丈夫な様子だ。食事を催促するくらいだから、問題ないなと、マルスは判断し、安心したのだった。
「守備隊の食事にケチ付けるなよ」
マルスはそう言うと、キュリアスを一階の食堂に案内した。
「なんだっていいさ」
キュリアスは激しい空腹のため、味など気にしていられなかった。
マルスが手配した食事を、キュリアスは瞬く間に平らげた。
「それで、何があった?」
マルスはキュリアスの向かい側に腰かけ、食べ終わるのを待って、尋ねた。
「盗賊団に襲われた。護衛対象は先に逃げたんだが、目的地のここにたどり着いても追いつけないどころか、姿かたちすらない」
「ほう」
マルスは唸った。
「始めから、詳しく話してみろ。できるだけ詳細に」
打つ手を失っているキュリアスにとって、マルスの存在はありがたかった。おかげで気持ちのゆとりができた。それでも、何があったのか、いまいち理解できていない。頭を整理するためにも、そして彼の意見を聞くためにも、語る意味があると感じた。
イクウィップでの殺人事件から、フランク・アラガントと出会い護衛を引き受けたこと、ライプへ行き、ジョシュアの殺人に関わったこと、再びイクウィップに戻ってアルバートの手を借りてジョシュアを捕らえたこと、そして王都の南の街道で盗賊団に襲われたことを話した。
マルスは黙って聞いていたが、時々眉間にしわが寄っていた。キュリアスの話が終わると、幾つか確認したいと言った。
「なんでもどうぞ」
「どこから突っ込むべきか…」
マルスは頭を抱えるようにして言った。
「お前はフェム・ファタルが襲ってくると考えていたんだな」
「そうだ」
「ま、それに関しては、俺も同感だが。あの残忍非道な女だからな…」
マルスも元ソード隊の生き残りだ。キュリアスと共にソード隊を壊滅させた人物でもある。キュリアスと同程度に、フェムのことを熟知していた。
「思いつくものから行くか」
マルスは考えをまとめるように呟いた。
「盗賊団は前の夜ではなく、雨の日中に襲って来たんだな?」
「そうだ」
「おかしいと思わないか?雨とはいえ、街道は馬車が行き交う。雨でも徒歩の旅人もいるだろう。そんな中で襲うか?」
「襲って来たんだから仕方ないだろう」
「夜に仕掛ければ、目撃されることもない。少人数で決行できただろう。だというのに…。聞く限りだと軍隊並みの人数だな。盗賊団ではありえない規模だ」
「そうだな。俺が倒した数…数えちゃいねぇが、それだけでも盗賊団の一つ分は十分あるな」
「その通り。欲と我の強い盗賊たちがそんな大人数でまとまるはずがない」
「冒険者がまとまらないのと同じ理屈だな」
キュリアスは冗談を差し挟む余裕が生まれていた。
「茶化すな」
マルスは注意したものの、笑っていた。
「どこかの私兵だったと?」
キュリアスも推理を加える。
「いや、そうとも限らない。そこは少し保留にして…。盗賊たちは商隊の荷を盗んでいったのか?」
「だと思うぜ。空箱が転がっているのは見た」
「ふむ…。商隊側に死者は?」
「二人見かけたな」
「商隊の?」
「いや、雇われ冒険者だ」
「御者や馬の死骸は?」
「街道の先にあったな」
「アラガント商会の馬車の、だ」
「いや。馬も御者も死んでいるのは見てない」
キュリアスは記憶を掘り返して答えた。
キュリアスの答えを聞き、マルスはため息をもらす。
「証拠はない。動機も分からない。が、候補の中で一番可能性が高いのは…」
「何か分かったのか?」
キュリアスは思わず身を乗り出していた。
「単純に盗賊団がたまたまその商隊を狙ったという仮説はできるが、これはないだろう」
マルスはそう言うと、キュリアスを見つめた。
「襲撃を雨の最中に選んだのは、エッジ対策と思われる」
「俺?盗賊団に知り合いなんぞいねぇぜ?しかも俺の気配感知が雨に弱いことを知っている奴は限られる」
「フェム・ファタル」
「あ」
キュリアスは椅子に身体を投げ出した。
「でもよ。盗賊団とあの女がどこでつながる?」
「さあな。ただ、お前の能力を半減させる時を狙ったと考えれば、日中の、それも雨中を選んだと推察できる。そこから見えるのは、お前かお前の周りが狙いだった、あるいはその両方だったということだ」
キュリアスや、その周りにいたマーサ、シドニー、ドーラのうち、誰かが狙われる理由ですぐに思いつく事柄は一つしかなかった。ジョシュアの犯行の目撃者だ。
「俺や目撃者を殺すため?だったらどうしてマーサやシドニーをその場で殺さなかった…」
「気付けるじゃないか」
マルスはからかうように言った。ようやくキュリアスの頭脳は目覚めたようだ。マルスはさらに言った。
「そこは矛盾の一つだ」
「一つ…?」
「死体の無さがもう一つ。馬は?御者は?商隊には冒険者以外にも腕利きがいただろう。それに商人の死体だってあってもいい」
「確かに…」
「お前が見た空箱も疑問だな。初めから何も入っていなかったのではないか?」
「そんなのは知らねぇよ」
「横転した馬車。これも不自然だ」
「どこが?」
マルスはキュリアスを睨んだ。
「まだ眠っているようだな」
「そうか?」
「まあいい。馬車が転倒するということは、車輪が外れてそうなる場合と馬がやられて転倒する場合がある。どちらにしろ、つながれていた馬は倒れ、足でも折れば動けなくなるものだ。だというのに、馬はいなかったのだろう?」
「そう言えばそうだな」
「それに御者だ」
「御者…そうか、突然に転倒したなら、投げ出されて負傷する…転がってれば盗賊が殺す、か…」
「その通り」
「他には?」
「いいね。調子が出てきたな。エッジ」
「うるせぇ。で?」
「商隊が逃げ出すのは当然として、なぜ護衛のお前を振りきってまで逃げる?少なくとも、そのマーサ親子か?その親子が乗った馬車は適当なところで待っているのが当然だ。自分たちの護衛なのだからな」
「が、どこにもいなかった」
「これらの事実から、推理ができる」
「どんな?」
「その前にもう一つある」
「なに?俺はそんなに色々見逃していたのか?」
「いや、もう一つは違う角度から見ないと分からん。…盗賊団のことだ」
キュリアスは首をひねって考えたが、思い当たるものはなかった。
「分らんな」
「昨年、小麦不足の折に盗賊団が小麦を盗んで回っていたことがあっただろう?あれは各地の街道沿いで発生していた。何のつながりもない別々の盗賊団が、同じ目的を持って行動していた」
「小麦に異常値が付き、高く売れると思ったからじゃねぇのか?それとも複数の盗賊団にわたりをつけたやつがいると?」
「あるいは、複数の盗賊団を統率する人物がいる。もしそうなら、今回の異常な人数も説明がつく」
「おいおい。あの事件と今回の件が絡むというのか?」
「断定はできんが」
「駄目だ。俺にはさっぱり分からん」
キュリアスは諦めた。
「何か別の目的があったのではないか?その人物は盗賊団にコネを持ち、マーサ親子を連れて行く必要があった…ここが分からんが、何かに利用するつもりだとすれば…」
「誘拐が真の目的だったと?」
「あくまで憶測だ」
「誘拐して…身代金の要求か?」
「深読みしすぎかもしれんな。単純に、女は慰みものに、子供は売り飛ばすためにさらったのかもしれん」
「それなら、商会の馬車まで消える必要はないだろう」
キュリアスは冷静に言った。商会の馬車には、フェム・ファタルがいた。彼女はキュリアスやマルスと匹敵する強さを誇るのだ。前方にも盗賊たちが死屍累々と転がっていなければならなかった。
「そう言えば、盗賊たちの死体もなかった」
キュリアスは思い返して言った。なぜ今まで気づかなかったのか、キュリアスは自分の頭が情けなくなる。一番の矛盾点がそこにあったのだ。
「フランベルジュのいた場所に」
「あの女なら、喜んで死体の山を築いただろうさ」
マルスも指摘する。
キュリアスはいかに自分の頭が役に立っていなかったのかを思い知らされ、恥じ入った。不眠だったと言い逃れはできるが、マーサやシドニーが無事に戻らない限り、その言い訳は通用しない。
一人の兵士が食堂に入ってきた。
「こんなところにいらっしゃいましたか」
兵士は隊長を探していましたと、駆け寄った。そしてマルスの耳元で何かを報告した。マルスの表情が硬くなっていく。
「動機が分かるかもしれんぞ」
マルスは意味深に言うと、部下に出かけると告げ、キュリアスについてくるように促した。
「ところでお前、剣はどうしたんだ?」
マルスの質問に、キュリアスはうんざりした。
11
マルスがキュリアスを連れ出した先は、貿易都市ハンデルの領主の館だった。二階建ての大きな屋敷で、一階は執務や社交の場、二階が領主やその家族の住まいのようだった。
二階にはメイドや執事の立ち働く気配があるのに対し、一階の気配は雰囲気が違った。
二階の気配に集中してもマーサ・フェイブルとシドニー・フェイブルの気配はない。
マルスは館を警護する私兵に声をかけた。何度か訪ねてきたことがあるらしく、私兵は心得た様子でマルスと同伴のキュリアスを中へ通した。
大きな玄関をくぐるとホールになっている。幾何学模様の絨毯が敷かれ、端の方にソファーとテーブルがあった。
ホールの正面に二階への階段がある。階段を避けて右側と左側に廊下が続いているようだ。
マルスは階段ではなく、その右側の廊下へ入り、すぐに現れた右への廊下へ進んだ。扉がいくつか並ぶうちの一つをノックして入る。
そこは大きな窓と大きな机が部屋の大半を占める執務室だった。窓辺にキュリアスと同年代の二十代半ばに見える青年が立ち、窓から外を眺めて何やら思案にくれていた。
青年が来客に振り向く。その仕草と眼がマーサと似ている。口元は少し大きくすればシドニーのようだった。
「マルス隊長」
「デビット様」
二人は互いに会釈した。
「こちらはキュリアス・エイクードと申します。私の古い友人でございます」
マルスはキュリアスを紹介すると、キュリアスにデビットを紹介した。フェイブル男爵家の長男だという。
「お会いできて光栄です」
デビットは気さくに右手を差し出した。
キュリアスは黙ってその手を握り、会釈した。普段ならぶっきらぼうに答えるところだが、マルスに睨まれても困るので、口を慎んだ。
マルスは大きな机の前に進み出た。
デビッドはキュリアスとの挨拶を済ませると、机の上に置かれた紙きれをマルスの前に差し出した。
「拝見します」
マルスは紙切れを手に取って一読した。読み終えると、キュリアスに突き出す。
キュリアスは紙切れを受け取った。そこには、
「妻と子供は預かった。返して欲しければ領主の地位を捨て、町を出ろ」
と、短く書かれていた。
「何かこの文章の根拠となるものはありましたか?」
マルスはデビットに尋ねた。
「母上が愛用されているポーチと、その中に妹のものと思われる髪の毛がひと房ありました」
「そうですか。それで、領主様は?」
「お分かりでしょう?これを読んだ途端に卒倒しました。今は起き上がって荷造りを始めていますよ」
デビットは恥じ入るように言って二階を指差した。
「細かいことを言わせていただければ、添えられた物だけではマーサ様とシドニー様と断定しきれません。ポーチは盗まれたのかもしれません」
「私もそのことは気付きましたが、父上は聞き入れてくださいません」
「それに」
マルスはキュリアスの手から紙きれを取り戻すと、
「領主の座を捨てて町を出ろと?なんとも珍妙な要求ですな」
眉をひそめた。紙切れを机の上に置く。
「そうですね。身代金やそれに相当するものの要求ではないことが不思議です。まるでこの町を手に入れたいような…」
デビットはそこまで言って口を噤んだ。自分の憶測があまりにもばかげているように感じたのか、頬を赤らめた。
「まずは母上と妹の安否を確認したいのですが…」
デビットは現実問題を口にした。
「そのことなのですが、三日前から行方が分からなくなりました」
マルスは答えると、この者がその時に居合わせましたとキュリアスを示し、説明するように促した。
キュリアスは省略できるものは省いて話した。
話を聞き終えると、デビットの表情は青くなっていた。脅迫文に真実味が増し、母と妹の身を案じていた。
「アラガント商会が怪しくねぇか?」
キュリアスは、地元の人間がアラガント商会をどう思っているのか知りたくて、そう言って反応を見た。
「損害を恐れて抵抗せずに捕まったのかもしれません」
デビットは疑っていない様子だった。
「空箱もたまたま、その馬車にあったのでしょう」
デビットの説を採用するのであれば、馬の綱もたまたま切れて馬が逃げたし、御者もたまたま怪我することなく、別の馬車に拾われたことになる。少々偶然が重なり過ぎだった。
さらに、キュリアスやマルスはフェムの性格と行動をよく知っていたがために、矛盾が生じていることを理解していた。デビットの説はあり得ないと感じている。
それでもキュリアスは指摘しなかった。代わりにアラガント商会の評判を尋ねた。
「町に大きく貢献してくださっている貿易会社です。ハンデルがこれほど整備されているのは貿易商たちが多額の寄付をしてくださるからなのです」
デビットは答えた。
「建前ではなく、本音では?無理を押し付けられたりしないのか?」
「いいえ。そのような事はありません」
キュリアスの期待する答えは、デビットの口から聞くことができないようだ。キュリアスは追及を諦めた。
今度はマルスが尋ねる。
「指示の通り、ここを明け渡しますか?あなたのお考えは?」
「私としては、無視したかったのですが…。母上と妹が行方不明と分かった以上、無下にもできません。とはいえ、領地を見捨てて逃げだすのもいかがなものか…」
デビットは家族と、領民とを秤にかけ、苦悩していた。
「お逃げなさい」
マルスはあっさりと提案した。
「なんですって?」
「ここは指示に従い、お逃げなさい」
「しかし!」
「幸い、領主様は…その方向で有名な方です。さしたる支障はございますまい」
「ですが!ここは祖父の功績によって得た領地です。手放しては祖父に申し訳ありません。しかも民を見捨てて逃げるなど…」
「だからといって、マーサ様とシドニー様をお見捨てになれますか?」
マルスは平静な顔で冷酷なことを言った。デビットは二の句が告げられなくなる。
「領地の所有者は本来、国王様になります。領主は代理に過ぎず、盗賊に明け渡したからと言って、盗賊が町を支配できる道理はございません」
マルスは諭すように言った。
「であれば、家族の無事を優先し、機をみて奪還にかかるのがよろしいかと。恥も外聞も領主様がかぶってくださいます」
「あなたは平然と、それも父上をないがしろにするようなことをおっしゃる」
「最小の傷で済みます」
マルスはあっさりと肯定した。
「デビット様のそのお気持ちは、町の奪還という形でお晴らしくださいませ」
「奪還できるとお考えですか?母上も妹も無事に戻ると?」
「町の奪還は可能でしょう。相手の出方を見極めねばなりませんので、少々時間を要します。後手後手の動きになるので難しくもありますが、対処してご覧に入れましょう。ご家族については、申し訳ありません。最善を尽くしますが、保証は致しかねます。ただ、気休め程度ですが、相手の指示に従わないよりは従う方がご家族の危険は少ないでしょう」
「母上と妹の身柄は、徹底抗戦よりは、可能性がある、と」
デビットは考え込み、一言一言確認するように呟いた。
「はい」
デビットはマルスを見つめた。マルスも見返す。デビットはマルスを少し見上げる格好だ。背丈の差が、視線の向きに現れた。
デビットの表情に光が差したように見えた。
「分りました。父上をダシにして逃げるとしましょう」
デビットは砕けた言い方をして、口角を上げた。
「私どもが全力を挙げてサポートさせていただきます」
マルスはそう言ってキュリアスの背中を叩いた。マルスはマルスで、思惑があった。
守備隊はその町を守る役目だが、総括責任者は領主にあたる。町単位の軍隊だ。総括である以上、フェイブル男爵に従う必要がある。
守備隊の多くは貴族の息子である。それぞれの親に身分があり、領主の指示に従わない者も多い。
また、ハンデルの守備隊の中にはマルスの存在をよく思わない一派がある。マルスが町を見捨てて領主と共に行くと分かれば、必ず反発して残る者が現れる。
マルスはその造反が、町を守る布石になると考えていた。どのような敵が現れるか分からないが、その初動を押さえる役目を、造反組が担うだろう。
不測の事態の備えとなり得る上に、隊内の不協和な勢力を洗い出す意味でも利用できる。だからこそ、マルスは即決でデビットをサポートすると約束したのだった。
マルスにはさらに打算がある。キュリアスの存在だった。こと戦闘、小規模な戦争にでもなれば、キュリアスの能力は絶大な効果を発揮する。守備隊を二分しても、キュリアスで埋め合わせできるとの考えだった。
キュリアスは「俺もか」と思わず言いそうになったが、マーサやシドニーに対する責任がある。そして、どこの誰が首謀者か分からないが、出し抜かれたまま黙っているキュリアスでもなかった。
マルスと行動すれば、いずれは二人をさらった相手と対峙することになると分かっている。その役目を人に譲るつもりなど毛頭なかった。
「任せておけ。俺が敵を一掃してくれる!」
「なんとも勇ましいお方ですね。御噂は聞き及んでいましたが、しかし、ナイフ一本で可能なのですか?」
「ナイフ一本でも百人隊だろうが千人隊だろうが相手してやるぜ」
キュリアスはうそぶいて見せた。ただ、デビットの言った噂と言うものが気になった。世間一般に伝わる噂であれば、いわゆる悪評だ。
デビットの眼には、悪評に影響されたような、敬遠するようなものはなかった。まるで英傑に出会ったかのように眼を輝かせている。
「イリーナ様から聞き及んでおりました」
デビットはキュリアスの視線に応えた。
「イリーナ?」
「私は王宮の学術研究会に属していたこともあるのです」
「イリーナ・ハートか?」
「おいこら。慎め!」
マルスはキュリアスの言葉を諫めた。王族を呼び捨てにするものではないと、いかめしく睨んでいる。
「シャイラベルからだな。一体何を言ったのやら…」
キュリアスはかまわず、もう一人の王族も呼び捨てにした。
「お前の横暴ぶりだろうよ」
マルスは呆れて言った。
「第一王女様は聡明で慈悲深いお方です。見識も深く、私は多々学ばせていただいたほどです。私より二つ年下とは思えないほどのお方でした」
デビットは思い出に浸っていた。キュリアスの不埒な言動には無頓着だった。
12
ハンデルの南に名のない村があった。そこはフェイブル家が男爵位を得る前に過ごしていた場所で、今も旧宅を別荘として残している。
フェイブル家が男爵位を得たことで、近隣の一部の人々はその村を「フェイブルズ」と呼んでいる。
ハンデルの領主とその一家、そして私兵はフェイブルズへ移動した。
マルス率いるハンデルの守備隊も、一部を除き、領主と行動を共にした。一部は、守備隊の副隊長を筆頭に、マルスに対して反感を抱く者たちで、反発して町に残った。
マルスは予想通りの結果に頷くと、離反した者と交友のある隊員を集めた。
離反組と戦うことはほぼないが、もしもの場合、戦闘もやむなしである。マルスはそのことを集めた隊員に説明した。
隊員たちは言葉に詰まった。
「友を助けにここから立ち去ってもらって結構。残るのであれば、貴殿らはここで領主様の警護に当たってもらう。作戦に従事すれば、最悪の場合、旧知の仲の者と剣を交えることになる。それは忍びなかろう」
マルスの言葉に、安堵する隊員がいれば、迷いを見せる隊員もいた。また、自分は戦えると勇敢に唱える者もいた。
マルスは隊員に配慮した配置を指示した。とはいえ、即座にどこかの勢力と戦闘になるわけではない。マルスは時期が来るまで待機だとも指示した。
マルスはさらに、守備隊の中で信頼のおける隊員を選び出し、私服に着替えてもらい、ハンデルの様子を見張る任務を与えた。
バーンフォード・フェイブル男爵は別荘に引きこもり、もっぱらデビットが諸々の処理や作戦会議に対応した。
「まじめで優秀な子息だな」
キュリアスはデビットの感想を言った。
「同い年の相手を捕まえて何を偉そうに」
マルスは態度の大きいキュリアスに苦言を呈した。
「お前よりよほど責任感の強いお方だ」
「俺も責任感は強いぜ」
「無責任な行動が多いのはどういうことかな?散々破壊して後から責任取るのは…」
「おっと」
キュリアスは痛い所をつかれた。ニヤリと笑い返す。
「さて、これで男爵夫人と息女が無事に戻ればいいのだが…」
マルスに打てる手は今のところ、無かった。
「俺はアラガント商会に潜入してくる」
キュリアスは行動で解決策を見出したかった。アラガント商会を見張れば、人質の居場所が分かるかもしれない。
「マディはどうした?」
マルスはキュリアスの傍に必ずいる女性のことを尋ねた。そのマデリシアがいれば、調査がかなり楽になる。こういう時こそ必要な人材でもあった。
「お前にひっついて離れないのに、今度に限っていないとは」
「イクウィップに用事があるって残った」
「ああ」
マルスもイクウィップにジャックとローザがいることを知っていた。短い時間だが、マルスもキュリアスと共に冒険者をやっていたことがある。ジャックとローザはその時の仲間だったので、彼らの実力は熟知していた。
そしてマルスはマデリシアが絶えず暗殺者に狙われていることも知っていた。危険を秤にかけた結果、ジャックとローザの傍であれば安全と判断し、マデリシアは残る決断をしたと推察できた。
察すると、マルスの関心は他所に移った。
「ローザに子供はできたのか?」
「おお。そうだ。この前生まれたぜ」
「生まれたか!」
マルスは自分の子供が誕生したかのように喜んだ。
「それで?男か女か?」
「女の子だ。確か、ミアだったか」
「もう名前も決めたのか。ミア・ストレイダー。いい名じゃないか」
マルスは祝福の手紙を送ろうと言って笑った。
「あのジャックもついに子持ちか」
マルスは感慨深げに言った。その表情に影が差す。
マルスは祖国スペリエントに妻と子供を残している。
マルスはキュリアスと共にソード隊を壊滅させ、国から逃げた。国に属する組織を壊滅させたのだ。捕まれば死罪となるだろう。
そして、その妻子となれば、罪人として捕らえられている可能性が高い。マルスは苦境にあると思われる妻と子供に、自らの手を差し伸べられないことに苦悶していた。
マルスはキュリアスと共に冒険者をやっていたが、一山当てると引退し、今度は守備隊の隊長となった。その根底に、妻子を取り戻して安定した暮らしをしたいとの思いがある。
妻子を取り戻す財源に、一山当てた古代遺跡の権利をあてた。その財源を元手にすれば、囚人であれ、秘密裏に亡命させる手立てがある。裏組織との取引になり、かなりの金が必要にはなるが、幸いにも遺跡の権利はそのかなりの金を補って余りあった。
キュリアスは確認こそしないものの、マルスが妻子の救出を裏組織に依頼していると分かっていた。
能力的にはキュリアス自身の手でも可能だが、万が一のことを考えると、人に任せた方が安全なことも多い。特に裏社会ともなると、少々勝手が違うのだ。
キュリアスもマルスのためであれば手を貸すつもりがある。が、混ぜ繰り返して迷惑をかけるわけにもいかないので、傍観していた。
「調査は任せる」
マルスはいつの間にか現実に戻っていた。
「こちらはいつでも立てるようにしておこう。が、食糧問題がある。長引かせたくはない」
マルスは事を短期で収めるためには、キュリアスの行動いかんにかかっていると考えていた。
「分ってる」
長引くにつれ、マーサとシドニーとそしてドーラの命運は、やせ細っていくに違いない。
キュリアスはすぐに村を発つと、ハンデルの豪華な屋敷が立ち並ぶ中の一軒に侵入した。
その辺りは貿易で財を成した豪商たちの住む地区で、各館に私兵まで配置されている。
キュリアスは私兵や使用人に見つかることなく、易々と塀を乗り越え、館の中に侵入を果たした。
エディ・マイザーの館に、主人の姿はなかった。エディの妻、フレデリカも不在だった。フェム・ファタルも当然いない。
キュリアスはアラガント商会の社屋へ向かった。社屋にもエディやフェムの姿はなかった。しかし、立ち働く人々の中に、事情に通じる者がいるかもしれない。キュリアスはしばらく社屋に侵入したまま、見張ることにした。
町の中に人が集まる場所があり、その気配が気になっていたものの、キュリアスの身体は一つしかない。キュリアスは社屋に狙いを定めていた。
人の集まった場所は、領主の館前だった。
「町の運営を放棄するなど前代未聞、言語道断だ」
誰かがフェイブル男爵を糾弾していた。賛同の声が上がる。人々の勢いは増し、日々の不平不満を吐き出す。その中に、次の叫びも含まれた。
「我々が納めた税金や寄付金が、果たして町のために利用されていたのか、はなはだ疑わしいものがある」
誰かが声高らかに言い、フェイブル男爵が私腹を肥やしていたと訴えた。
別の誰かが、
「私たちは町の発展に貢献してきた。これからもそうするつもりだが、領主は違ったようだ」
と嘲笑った。
賛同の声が上がる。
「もう領主など必要ないのではないか!」
「そうだそうだ!我々で運営すればいい!」
「私たち富める者が、その務めを果たせば、町はより豊かに、暮らしやすくなるでしょう!」
「そうすれば貴族に搾取される時代は終わる!」
別の声が上がった。
「商人のいいようにされてなるものか!」
誰かが反対の意見を述べようとしたが、その主張はすぐに遮られる。
「我々商人は将来を見越した投資を行います。投資を円滑に活用するためには、商売に詳しい我々が率先して道を示すことが肝要かと存じます。投資を活用し、町が発展すれば、我々はより利益を得ることが可能となります。その利益は従業員の、延いては町に暮らす人々の生活も豊かになります。我々はそのために行動したいのです。決して私利私欲のためではないと、宣言しておきましょう!」
商人らしい中年男が高らかと言った。拍手が沸き起こり、賛同の声が上がる。
エディ・マイザーはライプへ向かう前に数人の豪商と会見し、領主に搾取される現実や、ハンデルの運営に関する不満など、話し合いを重ねていた。その中で、評議会制の導入はいかがかと、伺いを立てていた。
エディのその根回しが影響し、豪商たちは町の代表になるべく、言葉巧みに、領主を非難し、今後の町の発展を謳った。
この場にいないエディに不満はない。町に滞在していても、自分は参加するつもりはなかった。裏から金の力を利用して、自分の意見を通せばいいだけの話だった。表に立つのは、目立ちたがり屋に任せておけばいいのだ。
エディの思惑も、町の熱気も、気配ではキュリアスに伝わらない。気にはなるものの、キュリアスはマーサとシドニーの行方の情報に集中した。もちろん、ドーラも無事に助け出したい。
二日潜入を続けて、アラガント商会の隠し倉庫が何か所かあることを突き止めた。町の北側の山中。街道の西側。王都から南へ向かう街道に入り、東の森に分け入ったところ。
街道をハンデル方向へ東に曲がったのではなく、そのまま南に直進したのであれば、キュリアスが見逃していてもおかしくない。キュリアスは一ヵ所に目星をつけた。
キュリアスは聞き及んだ話からおおよその位置を導き出し、町を後にした。キュリアスは気配を感知できる。わざわざ誰かを締めあげて場所を聞き出さずとも、目星をつけた方向へ進み、人の気配の集まる場所を見つければよかった。
さらに幸運が味方する。
キュリアスが森の中を南へ突き進んでいると、二人連れの気配を感知した。キュリアスはすぐにその二人連れに接近し、相手を確認した。
顔が毛に覆われ、表情の見えない男が二人、ハンデル方向へ向かって山中を歩いていた。二人とも横幅のある体系で、一人は戦斧を背負っている。もう一人は腰にモーニングスターと呼ばれる武器を携行していた。
「ユード兄弟じゃねぇか」
キュリアスは二人の前へ飛びだした。以前、ゴブリン退治に出かけた折に出会ったことがある。
二人は一瞬警戒したものの、武器を手にするようなことはなかった。ただ、キュリアスを見ても思い出せない様子で、いつでも対処できるように身構えている。
「俺だ。キュリアス・エイクードだ。覚えてねぇか?」
「ああ、エッジ殿か」
戦斧を背負ったガイツ・ユードが、ため息をもらすように言った。一気に身体の緊張が解ける。
「こんなところで何してるんだ?」
弟のランツ・ユードが尋ねた。
キュリアスは僅かに思案すると、単刀直入に言った。
「この辺りで商人の隠し倉庫や盗賊のアジトに心当たりはないか?」
「商人の倉庫なら、この南の尾根を越えたあたりに馬車の轍がある。その轍を東に行けばある」
ガイツは事情も聞かずに答えた。
「盗賊は分かんねぇな」
ランツも同様だ。
「助かる」
キュリアスは礼を言うが早いか、駆けだした。
「待て!」
ランツが呼び止めた。
「俺たちも手を貸そうか?」
キュリアスは立ち止まった。断ってもいいが、戦力になる人材がいるに越したことはない。特にガイツは自分と戦えるほどに強いと、キュリアスはみていた。
「頼めるか?」
「お安い御用よ!」
ランツは請け負った。ガイツは弟の決めたことに反対しなかった。
三人は並んで森を南へ進んだ。
「この辺りでゴブリン退治でもしていたのか?」
キュリアスは尋ねた。ユード兄弟はゴブリンハンターを自称していたと、記憶にあったからだ。
「そうだ。仕事を終えてハンデルに戻るところだった」
答えたのはランツだ。装備品を見なければ、二人の見分けがつかない。髭と髪との境が分からないほど顔中、毛に覆われている。体系もよく似ている。
「そっちは?」
ガイツが短く言った。
「護衛対象が攫われた」
キュリアスも短く答える。
「おやおや。またヘマしたもんだ」
ランツは言ったものの、笑いはしなかった。
なだらかな森の斜面を登りきり、下りに入った。森の中を抜ける風が冷たい。
「この前の雨のおかげか、少しばかり涼しくなってきたな」
ガイツが言った。
「秋が近づいてるな」
ランツも同意した。
キュリアスはしばらく気候の変化に無頓着だった。
「言われてみれば、そんな気もするな」
間の抜けたことを言う。
ガイツとランツは毛の塊を揺らして笑った。
「エッジ殿でも切羽詰まることはあるんだな」
ガイツはそう言って大きな声で笑った。ランツも一緒になって笑う。
「おうおう。笑いものにしてやがれ」
キュリアスは不貞腐れて言ったものの、気持ちはここ数日になく、晴れていた。冒険者仲間と言うものは、ありがたいものだ。キュリアスは二人の笑い声に癒された。
ユード兄弟は自分たちの矜持を持ち、認めた相手には協力も惜しまない。そのような冒険者の呼称があった。アドベスタである。
キュリアスは二人を、アドベスタだなと、認め、心強く感じていた。それは自分にないもので、憧れのようなものでもある。
キュリアスは依頼を受けるまでは選ぶが、受けてしまえば、それが悪事につながろうとも、少々は気にしないところがある。また、悪人を追い詰めようとしても証拠をそろえられなかった時、暗殺も辞さない。これはさすがに、アドベスタではないなと、キュリアス自身で結論付けていた。
「ところでお前さん」
ランツが言った。
「剣はどうしたんだ?」
キュリアスはうんざりした。この話は行く先々で聞かれる。
「折れちまった」
無愛想に答えた。
その反応が滑稽だったらしく、ユード兄弟は笑った。
応接室のソファーに老人は腰かけていた。痩せているものの、眼に力強い光をたたえ、壁掛けの一枚を凝視している。しかし、その眼はもっと遠くを見つめていた。
老人はワイングラスを口に運び、優雅に飲んだ。
ソファーの背後に、細身の老人が控えていた。黒い服に身を包んだ執事だ。執事は主に報告を終えた。
主人は反応しない。聞いていなかったのかもしれなかった。
「ルキウス様」
老執事は主人の名を呼んだ。二人きりの時にだけ許された、親しみのある呼び方だ。人前ではテナクスナトラ卿と呼ぶ。
ルキウスはグラスを見つめた。グラスを揺らすと中の液体が揺れ、琥珀色にも、赤褐色にも見えた。
「わしとしたことが見誤っておったわ」
ルキウスは立ち上がると、グラスを傍のテーブルに置いた。
「どうやらわしは追い詰められておるらしい」
ルキウスは言葉とは裏腹に、愉快そうに口角を歪めた。
「近い将来、わしは隠居することになる」
そう予見してみせ、ルキウスは老執事の眼を見た。ルキウスの眼がいたずら小僧のように輝いている。
「また悪巧みをお考えのようで」
「悪巧みとは心外な」
ルキウスは即座に言い返したが、笑った。
「政界を離れる前に少々やっておかねばならぬことができたわ」
笑いを収めると、ルキウスは言った。
「第二王女様の件でございましょうか?」
ルキウスは第二王女、シャイラベル・ハートの政策にことごとく反対の声を上げてきた。ただ、政策が精査され、賛成に回ると、大きな益を生む。そのことを真に理解しているのは、ルキウス当人と、シャイラベルだけかもしれない。
「彼女の指導は楽しいぞ。が、その件ではない。孫息子の件じゃ」
ルキウスは言った。
「あれが第二王女や、フェイブルの倅のようであれば何の心配もないのじゃがな」
ルキウスは短い時間に思案を巡らせた。
「まずはハンデルの問題に手を付けるとするかの」
「ハンデルがどのようにお孫様に関わるのでしょうか?」
「分るまい。ま、後を楽しみに見ておればよい」
老執事は頷いた。
「ハンデルには二人、いや、三人、事を収められる人物がおるが、一人は若輩者故、まだまだ導きが必要じゃ。一人は若さ故に逸り、放っておけば事を闇に葬ってしまうじゃろう」
「その方がルキウス様には都合がよろしいのでは?」
「後々に取り返しがつかなくなるわ。先を見て行動せねばならんのよ。よって、わし自らハンデルへ出向き、若人を導こうと思う」
「承知いたしました」
旅支度のため、退出しようとする老執事を、ルキウスは呼び止めた。
「例の調査はどうなっておる?」
「例の、と仰る…風見鶏のことでございましょうか?」
老執事は一度小首をかしげ、顔を起こすと言った。
「男爵をつかまえて風見鶏とは…」
ルキウスは笑った。
「あなた様のお言葉をそのまま利用させて頂いております」
老執事は遠慮なくやり返した。
「そうであったかの」
ルキウスは笑いながらとぼけた。
「風見鶏が入手し、あるお方に献上した物については、出所が不明でございます。その他に関しましてはただいま資料にまとめておりますので今しばらくお待ちください」
「あれの出所は分からんか」
ルキウスは嬉しそうに言った。自分の予測が間違っていない裏付けになったと考えている。
「やはり、わしの眼を欺いて裏で暗躍する者がおるようじゃ…」
ルキウスは誰に言うともなくつぶやいていた。
老執事は頭を下げて退出した。自分に語りかけているのではなく、主人が自分の考えをまとめるために独り言をつぶやいていると分かっていた。
部屋に残ったルキウスはワイングラスを手に取ると、のどを潤した。
「さてさて、小物ばかりの暗躍と見間違えておったが、どれほどの者が影に潜んでいるのやら。楽しみじゃわい」
ルキウスは不敵に笑った。
13
ドーラは武器も鎧も取り上げられた。マーサとシドニーと共に、どこか小さな倉庫のようなところへ押し込まれている。
明かりはなく、窓もない。締め切られた扉の隙間から洩れ入る明かりで微かに、互いの顔を確認できる程度だ。今が昼なのか夜なのかも分からない。
三人は、微かな明かりに、すがり付くように集まっていた。
微かな明かりから外れると、そこは暗がりしかない。暗がりは意味もなく不安な気持ちを湧き起こす。その闇の中から何が出てくるか分かったものではない。閉ざされた部屋だと分かっていても、何かが出てきそうに思われた。
小さな物音ひとつですら、背筋が凍る。
扉の向こうに足音が聞こえれば、何をされるか分からないという恐怖が込み上げてくる。殺されるのかもしれない。拷問されるのかもしれない。奴隷商に売り渡されるのかもしれない。
ドーラはマーサとシドニーを守らなければと思い、気持ちを張り詰めているが、武器もなく、駆け出しの冒険者に一体何ができるのだろうか。多数の男たちに取り押さえられ、なす術もなく、被害に遭うのではないか。
油断するとその不安に飲み込まれ、泣きたくなる。
シドニーが不安そうにドーラの顔を見ていた。今にも泣きだしそうだ。ドーラは少女の不安を和らげようと、笑顔を作り、同時に自分の心も奮い立たせた。
鍵をかけられた扉の向こうに、荒くれ者が数人いる。分かっているのはそれだけだ。ここに連れ込まれるとき、目隠しされたので、ここがどこで、どの程度の人数がいるのかも分かっていない。
目隠しを外された一瞬で見たものは、商人とは思えない、人相の悪い男たちだった。彼らの腰に使い古した剣があるのを見ている。
格好から、盗賊の類と思われる。その盗賊たちと、アラガント商会の御者が仲良く話し込んでいたのを目撃した。あれはどういうことなのか。
閉じ込められて時間が経つにつれ、御者と盗賊の繋がり、そして自分たちが捕らえられた経緯を考え、一つの答えにたどり着いた。
盗賊と御者がグルで、私たちを、いえ、マーサとシドニーを攫ったのだ。自分はただのおまけでしかない。ドーラの考えは確信めいたものになっていた。
すると、マーサとシドニーはまだ利用価値があるが、ドーラにはない。いつ殺されてもおかしくなかった。
不安と恐怖が絶えず襲ってくる。
シドニーが母親にしがみつき、泣きじゃくった。
だめだ。私が不安がっていたら、シドニーが怖がってしまう。何とかして二人を助けなきゃ。ドーラは何度も自分に言い聞かせた。
マーサは気丈に振舞い、怯えの色さえ見せなかった。娘を守る一心がそうさせているのか、強い女性だ。
ドーラはマーサを尊敬した。自分にない強さを、この人は持っているのだ。
何時間、あるいは何日、閉じ込められていたのか分からない。疲労のために意識を失い、恐怖と不安に目を覚ました。
意識が朦朧としていた。その意識を呼び戻したものがある。「お頭」だとか「姐さん」だとか呼ばわる複数の声だ。
ドーラは朦朧とした頭のまま、耳に意識を集中させた。
「貴婦人と子供はまだ生かしておきなさい」
女性の声が聞こえた。男たちが下卑た声で返事している。
「女冒険者は好きにしていいわ」
「そう来なくっちゃ!」
湧き起る歓喜の声を、どうやったのか、女が沈めたらしい。
「いい子ね」
女の優しげな声とは裏腹に、扉の向こうは静まり返っていた。
「事が終わったら、貴婦人も子供も好きにしていいわ。奴隷商に売るもよし。もてあそぶもよし」
歓喜の声が再び上がるものの、すぐに収まった。
そこから先は内容が聞き取れなかった。ドーラの耳に、人の声らしき音は聞こえるものの、内容を聞き分けることができなかった。ドーラは自分の感覚器官すら、思うように操れなくなっていた。
しばらくすると女は立ち去ったのか、別室へ行ったのか、声が聞こえなくなった。あるいはドーラの意識が再び遠のいていたのかもしれない。時間の感覚が薄れ、眠っているのか起きているのかも定かではなくなっていた。
不意に扉の鍵が開いた。
ドーラは身を硬くした。意識が鮮明になる。待ちわびた行動の瞬間だった。
扉が開いた瞬間に襲いかかる。そして剣を奪って…。ドーラは扉が動き、光が漏れ広がった瞬間に飛び掛かった。
「おっと!」
男は胸に飛び込んできたドーラを難なく捕らえた。
「活きのいい女じゃねぇか!おい!俺が一番でいいよな?」
男は後ろに向かって言った。反対の声は上がらない。どうやら、この男がリーダーのようだ。
男は素早くドーラの両手をつかみ、もう一方の手でドーラの身体を抱き寄せると、足で扉を閉めた。
ドーラは逃げ出そうともがいたが、男の力が強く、手を解くことも、身体を振り回して逃げ出すこともできなかった。
ドーラは自分でも気づいていなかったが、言葉にならない声を発して叫び続けていた。
別の男が、開きかけた扉を閉じた。マーサが果敢に出てこようとしていたが、失敗に終わった。鍵がかかると、扉を強く叩く音が一度響いた。
男たちがどっと笑う。
「いくらでも喚け。叫べ。誰も助けに来てくれねぇけどな」
男が耳元で言い、嘲笑った。
辺りに見える男たちは嘲笑い、物色するようにドーラの身体を見つめていた。ここにドーラを助けしてくれるようなもの好きは一人もいない。皆、ドーラの身体が目当てなのだ。そうと分かると、ドーラは震えあがった。声を失う。
「物わかりのいい子だ」
男は静かになったドーラにそう言うと、ドーラの身体を持ち上げて別の部屋に移動した。
そこは硬いベッドのある小さな部屋で、ランプの明かりに怪しく満たされていた。男は足で扉を閉めると、ドーラをベッドに押し付けた。
ドーラは逃げ出そうともがいたが、男は軽々と片手でドーラの両手首を押さえ付け、上から覆いかぶさった。
ドーラが叫び声をあげると、男は手で口をふさいだ。
「耳元で叫ぶな。別の声なら喜んで聞いてやるがな」
ニヤニヤと言い、男はドーラの頬をなめた。
ドーラは背筋が凍った。男の舌が触れた瞬間、身の毛がよだつ。
だめだ!大人しくてチャンスを待つんだ!そう決意しても、涙があふれた。男に触れられると、汚物にまみれた虫が這いずったように感じた。
逃げたい気持ちが勝り、暴れると、男に押さえつけられ、馬乗りに身体の動きも抑制された。
男はドーラの両手首を押さえ、口を押さえたまま、顔をドーラに近づけ、耳から首筋に向かって舐めだ。
「気持ちよくしてやる。抵抗しなければな」
男はそう言って、口を押さえていた手を放した。
ドーラは思わず叫んでいた。
頬が激しく痛んだ。男に平手打ちされたのだ。痛みで声が途絶える。
「痛くされたいか?俺はそれでもいいぜ?」
男はそう言って、もう一度平手打ちした。
「どうやら男を知らないらしいな。大人しくしていれば、お互い気持ちいいんだ。ま、俺に任せておけ」
男は身勝手に言うと、空いた手でドーラの胸を鷲づかみにした。
ドーラは身震いした。気持ち悪くて、逃げ出したい。しかし、抵抗を続けていても逃げだすチャンスは生まれない。逃げ出さなければ、マーサとシドニーを助けられない。ここはドーラが奮い立ち、チャンスを待たなければならなかった。
「どうだ。いいだろう?」
ドーラの嫌悪の身震いを男は勘違いした様子で、執拗に胸を触った。
ふいにドーラの服を引きちぎった。あらわになった白い肌に、男は顔を近づけ、舐め回した。ドーラのもう一方の胸も、手でまさぐった。
舌の感触が気持ち悪い。男の鼻息に身体が汚される。男の手は虫が這うようだ。ドーラは暴れたくなるのを、必死に耐えた。身体が拒絶して、どうしても仰け反り、悶える。
男はその反応を、ドーラが順応していると勘違いし、喜んだ。
「もっと気持ちよくしてやるぜ」
男はささやくように言うと、ドーラの胸の突起を吸った。
ドーラにとって、今までで一番気持ちの悪い行いだった。思わず身体がはねて逃げようとした。
「感度がいいじゃねぇか」
男は喜んだ。
「そうだ。もっと楽しめ」
男はさらにドーラの胸に吸い付き、もう一方を強く揉みしだいた。
いやだ!逃げだしたい!ドーラはもがいた。
だめ!私がしっかりして、皆を助けなきゃ!一方で自分を諫め、耐えることを続けた。
ドーラの手首を押さえる手は、一向に力が緩まなかった。まだその時ではない。ドーラは必死に耐えた。
男の手が、ドーラの腹部を這った。
ドーラはお腹を引っ込めたが、逃げようがなかった。
男の手が、荒々しく服の破れを広げ、下腹部に伸びた。
敏感なところに、汚らしいものが触れた。ドーラは例えようのない怒りと、屈辱と、恥ずかしさと、そして何よりどうしようもない気持ち悪さに襲われた。
男は執拗に指をうごめかせたが、気持ちよくなどない。気持ち悪さが増す一方だ。耐えようと決心していたにもかかわらず、ドーラは骨盤を逸らせたり、左右に振ったりして避けようともがいた。だが、男の手は離れなかった。
「感じてるわりには濡れないな。ま、初めてではそんなものか」
男は自分勝手に言い放った。ドーラの手首をつかんだまま起き上がり、もう一方の手でドーラに残った布切れを引きはがした。
ドーラは身をよじって隠す。
男はその仕草を喜んだ。そして手首を引き上げ、ドーラの股の間に身体ごと分け入って広げると、顔を近づけた。
「しっかり見ていろ。その方が気持ちよくなる」
男は言うと、ドーラの股間に顔をうずめた。
ドーラの敏感なところに男の歯が当たった。強烈な痛みに襲われ、ドーラは恥ずかしさよりも、痛みに恐怖した。
男の吐息が触れる。それだけで身もだえするほど気持ち悪い。だというのに、男の舌が、ザラザラと舐め上げる。気持ち悪さと、舌の感触の痛さとで、ドーラは我慢できなくなった。
耐えることも忘れ、ドーラは暴れた。
男はドーラの顔を叩き、腹部に拳を打ち込んだ。
ドーラは痛みで身体の自由を失った。
抵抗がなくなったとみて、男はドーラの手首を放した。
男はベルトに手をかけ、ズボンを脱ぎにかかる。
ドーラは力なく、横を向いた。もう抵抗する力もなかった。マーサやシドニーのことも頭から消えた。
ベッドの横に、男のものと思われる剣の柄が見えた。
ドーラは諦めていた。何をしても逃げられない。避けられない。犯されて、殺されるだけだ。気持ち悪い思いを延々と味わわされ、感情もなくなるほどもてあそばれて、ごみのように捨てられる運命なのだ。
男の言うように、身を任せれば、気持ちよくなれるのかもしれない。その方が何も考えなくて済む。苦しい思いをしなくていい。
何も考えず、身を任せれば、あるいは男たちが飽きるまで、大事にしてくれるかもしれない。
「痛いのは初めだけだ。たっぷりと楽しませてやるぜ」
男は勢いよく立ち上がると、いきり立った一物を誇示した。
それは、諦めたドーラの心に恐怖を与えた。好きでもない相手のそれは、決して受け入れられるようなものではなかった。
ドーラは無意識に横の剣に手を伸ばした。
次の瞬間、男の一物が宙を舞う。
ドーラは憑き物に憑かれたように剣を振った。
気持ち悪い指を、気持ち悪い手を、気持ち悪い口を、気持ち悪い眼を、汚れを吐き出す鼻を、次々と斬った。
男が悲鳴を上げたかどうかも分からない。自分が声を出しているのかさえ分からなかった。ドーラはただ、恐怖にかられ、怒りに任せ、剣を振るい続けた。
14
キュリアスは木々の先に眼をやった。木々に遮られて遠くは見えない。が、気配が東から迫ってくることを認識していた。
三つの気配がある。その内の一つは子供のようだ。後ろを気にかけながら、真っ直ぐに歩いているところをみると、轍に沿って道を歩いているのだろう。
三人を追いかけるような別の気配はなかった。
人数と、子供が含まれることが、キュリアスに一つの可能性を導き出させた。
「先に行く」
キュリアスはユード兄弟に言い置くと、木々の合間を、風が抜けるように走った。
木々が途切れ、下草が生い茂る。キュリアスはその下草を飛び越えて森から出た。
そこは森と森の間に偶然できた空き地で、その空き地を利用したらしい轍が東西に続いている。
風の通り道にもなっているようで、強い日差しを和らげる涼し気な風が吹き抜けた。
轍を追って東を向くと、三人の人影があった。三人は前方に飛びだしたキュリアスに驚き、足を止めていた。相手がキュリアスと気づくと、三人の中で一番小さな影が、キュリアスに向かって駆けだした。
キュリアスは小走りに、シドニーを迎えた。シドニーはキュリアスに飛びつくと、激しく泣きじゃくった。
「もう大丈夫だ」
キュリアスはかけるべき言葉が思いつかず、同じ言葉を何度も繰り返しながら、シドニーの小さな背中を優しく叩いた。
あとの二人はゆっくりと歩み寄った。
ドーラは白い布を身体に巻き付けただけの格好で、素足は土で汚れていた。手には安物の剣が握られ、黒く固まった血が付着している。ドーラの顔に表情がなく、眼もどこを見ているのかさえ分からなかった。
マーサはドーラを気遣うように支え、ふらふらと歩くドーラを導いていた。
「よく無事で!」
キュリアスはドーラとマーサに声をかけた。
「ドーラ様のおかげで脱出できました」
マーサは簡単に説明すると、ドーラを気遣った。
ドーラの様子がおかしいので、そのことをキュリアスが尋ねようとした矢先に、キュリアスの背後から毛むくじゃらの男が二人現れた。
ドーラが獣のようにうなり、剣を振り上げた。
「味方だ!」
キュリアスは泣きじゃくるシドニーを押しやると、ドーラの前に立ちはだかった。相手を見ずに振り下ろされたドーラの剣を、懐に飛び込んで手元を押さえ、受け止めた。
キュリアスの手が触れた途端に、ドーラの表情が変わった。無機質だった表情に、怯える唇と怒りをたたえた眼が現れた。
ドーラは飛び下がり、剣を両手で構えた。
「ドーラ様!大丈夫です!キュリアス様ですよ!」
マーサが必死に言って聞かせても、ドーラの耳には届いていない様子だった。
キュリアスは後方の二人に手を出すなと合図すると、ドーラの振り下ろされる剣の下に潜り込んだ。
剣を振り下ろしたはずのドーラは次の瞬間、草むらに倒れていた。手にしていた剣が宙を舞い、森の中に消えた。
マーサはすぐさまドーラに駆け寄り、頭を抱きかかえた。
マーサの腕の間から、ドーラの怯えた眼が覗いた。その眼がやっとキュリアスを認識したのか、大粒の涙を流した。
シドニーも駆け寄り、三人で抱き合い、二人は声を立てて、一人は声を押し殺して泣いた。
キュリアスは頭を掻き、ユード兄弟に回りの警戒を頼むと、子供のように泣き立てるドーラの視線の先に腰を下ろした。
「あたし、あたし…」
ドーラは言葉遣いも子供に戻ったのようだった。
「何もできなかった」
泣き声と混ざり、かろうじて聞き取れる程度だった。
「そんなことはありません。ドーラ様のおかげで私たちは助かったのです」
マーサも涙声になっていた。頬を涙で濡らしても、気丈に振舞い、嗚咽をもらさなかった。
「そうだよ!ドーラが私を助け出してくれたんだよ!」
シドニーの嗚咽にまみれた言葉は、少し脳内で変換しなければ理解できないほどだったが、状況やマーサの言葉が答えになっていた。
「あたしのせいで…」
ドーラはマーサの胸の中で泣き続けた。母親にすがり、助けを求める少女のようだ。そしてマーサは幸いにも母親だった。他人の子であっても、我が子のように優しく包み込んだ。
ドーラは支離滅裂にもらした。冒険者失格だとか、自分がいたせいでだとか、気持ち悪かっただとか、同じ言葉を何度も繰り返した。
キュリアスは辛抱強くドーラを見つめた。言葉が見つからず、見守るしかなかった。何があったのかも、ドーラの言葉からは推測できない。
やがてドーラは落ち着いてくると、悔いるような表情を見せた。
「私、人を殺した…」
言葉にするとその重みがのしかかって来たのか、恐怖するように自分の手を見た。
「人を殺しちゃったの!」
「自分の身を守るためでしょ?」
マーサは慰めるように言った。
キュリアスはドーラの頭を撫でようとしたが、ドーラの身体がビクリと跳ね、恐怖の色を浮かべてキュリアスの手を見るので、ひっこめるしかなかった。
「ドーラ。お前はよくやった」
キュリアスは努めて優しく言った。
「人を殺したのよ!」
「ああ。よくやった」
「人殺しなのよ!」
「お前は仕事をした。見てみろ。マーサもシドニーも無事だろう?立派に仕事をこなした証拠だ。そしてお前自身も生きて帰ってきた。これほど優秀な冒険者はいない。断言しよう。ドーラ。お前は立派に仕事をこなした。よくやった!」
「人を殺したのに?」
「そうだ」
ドーラはマーサの腕から逃れ、上体を起こした。身体に巻き付いている白い布はシーツだ。シーツがずれ、ドーラの白い肩が覗く。下には何もつけていないように見える。そのシーツのずれを、マーサが直した。
「ドーラ。お前が自分の欲望のために相手を殺したのであれば、いくらでも悔め。悔めないのなら、殺人鬼になるだけだ。そうなったときは俺が引導を渡してやる。だがな…」
キュリアスは言葉を止め、マーサとシドニーを見た。マーサは優しく頷き、ドーラの手を取った。シドニーは泣きはらした眼でドーラを見上げている。
キュリアスの視線を追って、ドーラはマーサとシドニーを見た。眼が合うと、マーサもシドニーも微笑んだ。
「お前は立派に依頼を果たした」
指摘され、ドーラもやっと自覚できたのか、マーサの手を握り返し、シドニーの涙と鼻水に汚れた頬をなでた。その手が汚れていると思うのか、すぐに離して両手を見つめる。
マーサとシドニーは素早く、ドーラの手を取った。強く握りしめ、大事なもののように優しく、両手で包み込んだ。
ドーラは戸惑い、二人を交互に見つめ、それぞれに握られた手を眺めた。その手を慌てて引っ込める。汚れた手に、二人に触れてほしくなかった。
ドーラは感情に任せて人を殺したことに後悔し、自責の念に捕らわれている。そのことはキュリアスにも理解できた。
これだけ悔いているのであれば、キュリアスのように人を殺すことも手段の一つと考えることはない。そしてジョシュア・マイザーのように、快楽のために殺すこともない。キュリアスはそう判断し、かける言葉を探った。
忠告は必要ない。ドーラ自身がよく理解しているのだ。依頼人を守るため、自分の身を守るために人を殺めなければならないこともあるが、それについては追々、ドーラ自身で自分の心と折り合いをつけていくことだ。
やはりここは賛辞を贈るべきだ。
キュリアスの思考はそこへ行きつく。できるだけ簡潔なものがよかった。
キュリアスは、冒険者の中の一部に憧れがある。自身の矜持に準じ、権力や金の誘惑に負けない人々。アドベスタと呼ばれる者たちだ。
キュリアスはアドベスタに憧れると同時に、自分はなれないものだと自覚していた。キュリアスはいざとなれば暗殺もいとわない。それが正義を成す行為だったとしても、暗殺事態が間違った手段だと自覚している。そしてアドベスタの選ぶべき手段ではないとも考えていた。
対して、ドーラは間違っていると思えば依頼を断ることも辞さなかった。そして受けた依頼は身をていして成し遂げた。これはキュリアスの思い描くアドベスタの理想そのものだ。
ドーラが手の震えを止め、立ち上がることができるのならば、彼女は必ずアドベスタになる。キュリアスはそう確信を持った。
「お前も立派なアドベスタになる」
「私が?アドベスタに?」
ドーラは勢いよく顔を上げ、おこがましいと言わんばかりに叫んだ。
ドーラにとっても、アドベスタは憧れの象徴だった。冒険者は簡単になれても、その中のほんの一握りが、行動や業績を称えられて呼ばれる、称号のようなものだ。
そしてドーラはまだ冒険者になることができたかどうかにも、不安を抱いていた。
「まだ冒険者にも…」
「すでにお前は立派な冒険者だ。その仲間入りを果たした」
キュリアスは言下に、冒険者仲間だと認めた。
キュリアスの言葉に反応したのか、マーサとシドニーがドーラの手を強く握った。
ドーラの表情が緩んだ。が、それでも自分を諫めないと気が済まないらしく、マーサとシドニーから自分の手を取り戻して、汚れた手を恨めし気に見つめた。
それが正しかったかどうかよりも、人を殺めたという一事に、ドーラは自責の念を抱いていた。
ドーラは同時に、おこがましいとは思いつつも、冒険者や憧れのアドベスタの仲間入りと言われ、嬉しく思う気持ちもあった。湧き立つ気持ちと、自責の念に押しつぶされ、手が震えていた。
間違いなく、ジョシュアにはならない。
キュリアスは確信を持った。
そして、ドーラには救いの手もあった。
マーサとシドニーが、大事なものを取り戻すかのように、ドーラの手をそれぞれ握り、今度は離さなかった。
ドーラは戸惑ったものの、手の震えが治まっていった。震えが止まっていくと、代わりに涙が溢れ出す。
ドーラの涙に誘われて、マーサもシドニーも涙を流した。
堰を切ったように、シドニーが泣き声を上げると、ドーラも一緒になってわんわん泣いた。
マーサは二人の娘を優しく抱きしめ、いたわった。
ドーラは声が枯れ、涙が枯れると、やっと落ち着きを取り戻した。
シドニーが泣きはらした眼で笑った。つられるように、ドーラも笑う。
ドーラは立ち上がった。顔は赤みを帯び、表情豊かに戻っている。眼には意志を感じさせるものがあった。巻き付けてあったシーツが緩み、身体からずれる。ドーラは慌てて手で押さえた。
マーサはあらあらと言いながら、ドーラのシーツを整え、服に見えるよう体裁を整えた。
バツが悪そうに顔を赤らめたドーラが、辺りを見渡して、見知らぬ男が二人いることに気付いた。その視線を追うように、マーサとシドニーも見る。
一瞬、三人とも身体をこわばらせたように見えた。
キュリアスはすぐさま、ユード兄弟を紹介した。
「ゴブリンハンターって冒険者で、皆の護衛を手伝ってくれる。毛むくじゃらで顔が分からないが、あれでも微笑んで挨拶しているらしいぜ」
「らしいとはなんだ。この眩しい笑顔が見えねぇのか!」
ランツはそう言って笑った。笑っているらしい。
「変なの」
シドニーは思わず呟いていた。思わず口を押さえたが、時すでに遅しで、皆の視線が集まっていた。
ユード兄弟は声を上げて笑った。
「ちげぇねぇ」
キュリアスも笑った。
マーサも警戒を解き、娘の非礼を詫びたが、笑っていた。
ドーラも、皆につられて笑った。少々ひきつった笑いではあったが、その笑いは立ち直りのきっかけを示すものでもあった。
「あー」
キュリアスはおかしな声を上げてユード兄弟の視線を集めると、
「三人をフェイブルズっていう村へ案内してもらえるか?」
と頼んだ。
ユード兄弟は快く請け負った。
「お前はどうするんだ?」
「俺は…確認してくる」
キュリアスは東を指差した。
「すぐに追いつく」
心配そうに見上げるシドニーに、キュリアスはウインクしてみせた。シドニーは気恥ずかしそうに微笑んで受け止めた。
轍に沿って進むと、木々の枝に隠された道へ入り込んだ。生い茂った枝をかき分け、隠された道を進む。生い茂った枝を抜けると、簡素な山小屋にたどり着いた。
中に入るまでもなく、血の臭いが充満している。
いたるところに、盗賊と思われる男たちの遺体が転がっていた。建物の中は特に損傷の激しい遺体があった。原形をとどめないほど切り刻まれた無残なものだ。
血まみれの部屋に、血まみれのベッドがあり、破れた服が散乱していた。血溜まりの中に肉片が散らばっている。指と分かるものもあれば、元が何なのか分からないものも多い。
血溜まりの中に男性器と思しき肉片もあった。
女性関係に疎い、さすがのキュリアスも、察しがついた。ドーラは犯され、あるいは犯されそうになって、相手を切り刻んだのだ。怒りに任せて滅多切りにしたのだ。これだから女性を怒らせるものではないと、キュリアスは物言わぬ遺体に、遅すぎる忠告を与えた。
思い返してみれば、ドーラはシーツを身体に巻き付けていた。衣服をはぎ取られ、そこにある布で代用したのだ。
実際は、怒り狂ったドーラが裸で盗賊たちを切り刻むので、見かねたマーサがシーツを巻き付けて隠したのだった。
ドーラがキュリアスの手を怖がったのも、合点がいった。男に襲われたため、異性に恐怖心を抱き、キュリアスの手にも拒絶反応を示したのだ。それほどの恐怖体験を、彼女はこの血まみれの部屋で味わった。
恐怖を与えた人物は、ドーラの怒りを一身に浴び、部屋中に散らばっている。その人物の身から出た錆だ。同情の余地はない。
ドーラは微塵切りにしたことを悔いていたのかもしれない。キュリアスは戻ったら、もう一度よくやったと褒めるつもりになった。その肉片は当然の報いを受けた結果なのだ。ドーラが悔いる必要はない。
キュリアスは他の部屋も確認して回った。
行商の荷と思われるものがあった。ただ、どれもアラガント商会の紋章はついていない。複数の、他の貿易商の紋章しかなかった。盗賊団の戦利品のようだ。
ここがアラガント商会の所有と証明できる物は何もなかった。どう見ても、盗賊団の根城のようにしか見えない。
一つ気になることは、アラガント商会の紋章が見当たらないことだ。色々な商隊が襲われたとうかがい知れるが、アラガント商会の荷がないということは、アラガント商会だけが襲われていないことになる。
しかし、肝心の証拠となり得るものはなかった。
見つかったのは、ドーラの武具くらいのものだ。彼女たちと一緒に消えたアラガント商会の荷も、馬車もない。
キュリアスは捜索を諦め、ドーラの武具を持ち帰った。
森の中を一直線に進み、日暮れ前に先行する五人と合流を果たした。
キュリアスは無造作に、ドーラの武具を持ち主に差し出した。
ドーラは一瞬身体を硬直させたものの、大事そうに受け取った。武器がなく、心細かったのかもしれない。自分の剣にすがり付いた。
フェイブルズにたどり着くと、兵士とひと悶着あったものの、マーサが諫め、キュリアスもユード兄弟も、誘拐犯として捕まることはなかった。
すぐさまフェイブル家の別荘に案内され、マーサとシドニーはデビットと抱き合った。バーンフォード・フェイブル男爵は夫人と娘の無事を知らされると、安堵のあまり卒倒したため、デビットが出迎えたのだ。
デビットの計らいで、ドーラは手厚く歓迎された。ユード兄弟には報酬が支払われ、食事に招かれたが、彼らは丁重に断って旅に戻った。
時間をかけて身体を洗い、マーサの古着を借りたドーラは、高貴な身なりの娘になった。歩くと操り人形のようにぎこちなかったが、じっとしていれば、令嬢に見える。
「綺麗な娘さんがいると思えば、ドーラじゃねぇか。見違えたぜ」
キュリアスは、慣れない服に緊張して立ち尽くすドーラに声をかけた。思わず出た言葉だが、相手がマデリシアであれば、言わないように気を付ける言葉でもあった。マデリシアであれば、しばらく絡まれることになる。
ドーラは頬を真っ赤に染め、うつむいてしまった。
マデリシアの反応と違い過ぎて、キュリアスは戸惑った。
「あー。キュリアス様。女の子を苛めてはいけませんわ」
着替えを済まし、女の子から令嬢に戻ったシドニーが非難がましく言った。口調は貴族らしからぬ、砕けたもののままだ。
「いや、苛めてねぇよ。奇麗だって褒めただけだ」
「あら、私はきれいじゃなくって?」
シドニーは頬を膨らませた。
「見違えた。奇麗な女の子だ」
キュリアスの答えに満足し、シドニーはキュリアスの手を取った。シドニーがもう少し大人であれば、手を差し出し、
「エスコートしてくださる?」
と優雅に言ってのけたのだろうが、まだ自分の感情に正直な、純粋無垢な少女だった。
二人の後ろで、ドーラは頬を赤く染めたまま、キュリアスの背中を眩しそうに見つめていた。
「あらあら」
マーサは三人の様子を眺めてほほ笑んだ。
マーサも、シドニーも、ドーラも、少なくとも表面上は、誘拐された恐怖を乗り越え、温かな家庭に戻ってくつろいでいた。
15
エディ・マイザーは自室のソファーに深く沈み込み、煙草をふかした。
ここまでは計画通りだ。
ハンデルを評議会制にし、自分は裏から金の力で支配する。そうすれば、しがらみを気にせず、町に入る税金という名の膨大な資金も思うように流用できる。自分の懐を潤すのは別の方法でいい。商売が優遇されるように導けば、それで十分だ。後に大きな利益を生むと分かっている。
自身が表立って動く必要もない。目立ちたがり屋で口うるさい一部の人間に任せておけばいい。
それにはもう一つ裏の考えも影響していた。
男爵夫人とその令嬢を誘拐して乗っ取ったので、評議会は王国から糾弾される恐れがあった。危険があるのならば、表に出ないに越したことはない。
王国が口を挟まないのであれば、評議会を操って利益を生み出せばいい。口をはさむのであれば、評議会を生贄に逃げればいい。評議会がつぶされる前に、いくつか要望を通しておく必要はあるが。
どちらに転ぼうとも、エディに利益がある。
評議会制が通れば、商売が優遇される。
王国が口を挟めば、取引先の一つである、とある貴族に恩を売れる。これはこれで大きな利益を生む。
元々、後者の理由で、そのとある貴族から、ハンデルに反乱を起こせないかと尋ねられていた。エディはその持ちかけを利用したに過ぎない。
その貴族はハンデルで問題を起こさせ、誰かを失墜させたかったようだ。すると、フェイブル男爵に恨みでもあったのかもしれない。間違いなく、フェイブル男爵は爵位をはく奪されるだろう。
暗躍するその貴族とエディは同類だった。ただし、貴族は自身の手を汚さないが、エディは自分の手を汚すこともいとわない。
エディは煙草の煙で肺を満たし、ゆっくりと吐き出した。過去の記憶がその煙の中に浮かんでは消える。
エディは元々、アラガント商会の使用人に過ぎなかった。フランク・アラガントの父親の商会で、エディは商人になりたくて押しかけた。
フランクが行商人として修業に出ている間に、エディは実権を握るつもりだったが、社長に拒まれた。そこでエディは社長の家族を殺し、社長にエディに商会を譲ると念書を書かせた上で、家族の元へ送ってやった。
会社はエディのものとなり、思うように商売を進めようとした。ところが思い描いたようにはいかず、アラガント商会は倒産の憂き目に遭った。
そんな折にフランクが戻り、彼はエディの下で、アラガント商会の再建を果たした。倒産しかけた商会を先代から託されたとエディが説明すると、フランクはうのみにし、エディの片腕として尽力した。
フランクは先代の子で、本来なら商会の社長はフランクになるはずだ。エディがフランクの弱みでも握っているのではないかと、陰口も立った。
エディは面白くないのだが、フランクがいなければ商売が破綻しかねない。仕方なく、フランクを使い続けた。
フランクは従順に立ち働いている。しかし、その裏で、エディを追い出す算段をしているかもしれない。その可能性を排除するために、フランクを追い出したいのだが、商売のために、できずにいた。
頭の痛い問題だ。
エディは煙を吐き出した。息子の姿が煙の中に見えた。
自身も人を殺したことがあるが、ジョシュアのように見境なく殺したわけではない。自分の栄華のために、一部の邪魔な人間に消えてもらっただけだ。
そしてヘマもしていない。人に見つかり、捕まるようでは商人など務まるはずもない。エディはジョシュアを見限り、切り捨てるつもりになっていた。
妻のフレデリカは納得いかないようで、王都に残り、昵懇の貴族を頼ってジョシュアの減刑を頼んでいる。
煙の中に若かりし頃のフレデリカが浮かんだ。
美しい女性だった。ただそれだけだ。
手に入れてみると、エディの財力に眼がくらんだだけの、放蕩な女だった。身体も美しく、夜は楽しませてもらったが、それだけだった。
その点、フェム・ファタルはいい。
美しく、若く、そして無教養を装っているが、頭はよく、狡猾な女であると見抜いていた。エディはそこがいいと思えた。
裏の仕事を任せると、フェムほどエディの望みに応えてくれる者もいなかった。
どういう伝手か分からないが、エディが長年かかって集めた盗賊の数倍を、フェムは短期間で集め、従わせた。
商売敵の暗殺を任せたこともあった。あの事件はいまだに犯人が分かっていない。そして残忍な殺し方に、人々は恐れ、エディは余計に喜んだ。
エディはロナルド・カウェ・カネムに暗殺組織を作らせた。そこを利用するようになってからは、フェムはもっぱら愛人のようにふるまっている。が、フェムの裏社会とのつながりは濃密に残ったままだ。
ロナルドの暗殺組織が摘発されると、エディは一つの手段を失い、嘆いた。そこでフェムは一人の暗殺者を紹介し、つい先日までその暗器使いが働いてくれていた。その男は数日前から連絡がつかない。
エディはため息とともに煙を吐き出した。新しい煙草に火をつけ、深く吸い込む。
暗殺の方は、またフェムに立ち働いてもらわなければならないだろう。商売敵は次から次へとわいてくる。盗賊に妨害させてもなかなか潰れてくれない。そういうしぶとい相手は、暗殺に限る。
失敗もある。鉱物の取引に手を出そうとし、邪魔だてした商人を暗殺したものの、信用のないエディの入り込める余地はなかった。
それに、仲買人に騙された苦い経験も付きまとった。ただの石ころを鉱物と鑑定され、信じてしまった。荷をしっかり確認すればよかったのだが、怠ったばかりに手痛い結末となった。
フランクに任せれば、そのような失敗は起こりえなかっただろう。しかし、暗躍を好まないフランクでは、取引そのものが成立しなかったに違いない。フランクには表の仕事だけ、させておけばいいのだ。
ライバルが減れば、表の仕事の業績が上がる。そういう意味では、この度のハンデルの騒動を反乱とみなし、王国が介入してくることが望ましかった。そうなれば、評議会に名を連ねた豪商たちは罪に問われる。取引先はこぞって商売に行き詰まり、アラガント商会に伝手を求めるようになるだろう。
エディは皮算用に気分を良くし、気持ちよく煙を吐き出した。
万が一、評議会がうまく機能した場合は、ライバルたちが生き残り、儲け話は転がり込まない。金に目のないエディにとって、こちらの結果は好ましくないものの、裏表通して仕事のしやすい環境を作れるという利点はある。
エディは前者の結果を強く望むものの、後者でも構わないと考えていた。ライバルたちがいよいよ邪魔になれば、フェムに動いてもらえば済むのだ。
エディの吐き出した煙に、フェムの裸体が浮かんだ。美しく、豊満な女性だ。裏の顔があるとは思えないほどに、妖艶な肉体が目立つ。
フェムを抱けるのならば、一晩にいくらでも出すと言い出す男も多い。実際に、エディにそう持ち掛けた好色な男たちがいた。貴族も商人も、兵士すら、金のある男であれば同じ反応を示す。
その女を、エディは囲っている。人にはないものを所持している、この優越感は、エディにとって最高に心地よかった。
フェムの豊かな胸に、心行くまで触れたい。エディの手が物欲しげに動いた。しかし、フェムはフェイブル男爵夫人とその令嬢の様子を見に行ったまま、まだ戻っていない。
男爵夫人と令嬢は、家族の元に戻ることはないだろう。フェイブル男爵が指示に従わない場合の脅しとして使うため、生かしておいたが、男爵はあっさりと町を出た。人質は既に無用となっている。
大人しく帰すほど、エディは甘くない。人質は何を目撃しているか分からない。僅かでも不安になり得る要素があれば、排除するに越したことはなかった。
その始末も、フェムが付けてくれるだろう。エディは人質のことを頭から取り除いた。
問題はこの先だ。
大人しく事の成り行きを見守る、というのが一番安全な方法だ。だが、それはエディの流儀ではない。
ここはひとつ、事を面白くしてやろうじゃないか。エディは口角を上げて、薄く開いた唇の間から煙を、広げるように吐き出した。
一番稼げる方法をとればいい。そしてその手駒は、腐るほどある。
エディの思いついた方法のためには、フェムと連絡を取る必要があった。が、それもエディは考えを改めた。
フェムは隠しているようだが、非常に残忍で狡猾な女であると、エディは見抜いていた。狡猾なフェムであれば、この事態を利用して馬脚を現すに違いない。エディはその事態を利用すればいいだけだ。
エディは非常に楽な位置に立っていた。漁夫の利を得ればいい。これほど美味しい話があろうか。思わず笑いが漏れていた。
気分がよくなり、エディは書斎に置いてある秘蔵の酒を開けることにした。前祝の、そして必ず来る勝利の、祝杯だ。
その祝杯を、誰かと分かち合うつもりなど、エディには毛頭なかった。自分さえよければ、それでよかった。息子も、妻も、眼中にない。
全ては自分のため。それがエディの信条だった。
16
ハンデルの元領主の館に、権威ある人々が集まっていた。日が暮れ、玄関ホールに幾つものランタンが掲げられている。
ランタンがきらびやかに照らし出したホールに集まったのは、有識者と見物の人々だった。
有識者は、貿易都市と呼ばれるだけあって、大半が商人だ。
商人たちは己の技量を生かし、耳あたりのいい言葉で皆を説き伏せ、自分たちが有利になるように話をまとめた。
商人から五人選出し、その五人の評議によってハンデルの運営を行うというものだ。
集まった人々は、館の階段に上った五人に拍手を送った。
彼らを守るように、守備隊が警護している。マルス隊長の指示に逆らい、町に残った者たちである。彼らもまた、町はこれから良くなると信じ、希望に眼を輝かせて壇上の五人を見つめていた。
五人のうちの一人が挨拶をしようとした矢先に、館の扉が勢いよく開いた。
現れたのはマルス・ジャストゥースと彼が率いる守備隊、領主の名代であるデビット・フェイブル、そしてキュリアス・エイクードだった。
「今さら何用ですか?」
代表者が壇上より言った。
「町の領有はフェイブル家にあります。勝手な行動は慎みください」
マルスが答えた。
「町を捨てて逃げだしたフェイブル男爵に、今後も任せられるとお思いですか?」
壇上の男は嘲笑うように言った。聴衆たちも賛同して笑う。
守備隊を造反した副隊長以下の兵士が、聴衆を守るように前へ出た。
守備隊も迎え撃つべく身構えたが、マルスが手と威圧的な眼で部下たちを押さえた。
「いったん町を離れる必要があったのです。決して民を見捨てて逃げたのではありません」
デビットが一歩踏み出し、叫ぶように言った。
「どのような理由がありましょうや!逃げだす口実など!」
壇上の人々、聴衆、すべてが大きな声を上げて笑った。
デビットは紙切れを取り出し、文面を相手が見えるように掲げた。
副隊長が駆け寄り、紙を覗き込んだ。自信に満ちていた顔が、青くなり、身体も震えた。デビットから紙を奪い取ると、壇上の五人の元へ、聴衆をかき分けて駆けた。
五人に動揺が広がる。
「待ってくれ!私ではない!」
「なんということを!あなた方は…!」
「違う!私ではない!このような卑劣な真似を…!」
口々に言い立て、言い訳を始める。
「これでは我々が町を略奪したようではないか!」
代表者が言った。
「それはない!これは事実無根だ!」
脅迫文の書かれた紙を激しく振り立てた。
「いや、そもそもこの文章は我々を貶めるための…」
一人がデビットを非難するように言った。その言葉を遮って、マルスは声を大にした。
「男爵夫人とその令嬢が誘拐されていたことは事実です」
マルスの、誘拐という言葉に反応して、聴衆にどよめきが走った。
「幸いにも優秀な冒険者が、男爵夫人と令嬢を救出してくださいました」
デビットは二人が無事であると、皆に知らせた。
「しかし、このままではあなた方は誘拐犯の一味と言わざるを得ませんな」
マルスは敢えて、相手を貶めるように言った。
五人は即座に、このまま評議会制を導入すれば、誘拐犯の汚名を着ることになると理解した。だが、動き始めた以上、すぐに投げ出す決意もつかない様子だった。
五人は互いに、互いの裏工作かと疑い、言い争った。
争いが争いを呼ぶ。
聴衆の中で喧嘩が始まる。
マルスに反発する副隊長は、戦ってでもこの場を切り抜ける覚悟を決め、自分を慕う兵士とともにマルスの前に立ち塞がった。
騒然と、収拾のつかない方向へ雪崩を打った。
もはや話し合いでは何も解決しない。振り上げたこぶしの下ろし先が、どうしても必要なのだ。
「そこまでじゃ」
よく通る声が、マルスたちの背後から上がった。老人ではあるが、背筋が伸び、威厳のある立ち振る舞いのその人物は、視線だけで、守備隊の兵士たちを退け、悠々と館の中に入った。
キュリアスはその老人の顔に見覚えがあった。カークロス・ハート国王の傍に控えていた老人だ。ルキウス・テナクスナトラ侯爵その人が、供回りの者もつれず、単身乗り込んできたのだ。
「双方、事を荒げるでないぞ。この場はこのルキウス・テナクスナトラが預かる」
聴衆たちはどよめき、殴り合っていた人々も慌てて頭を下げた。
「まずは兵士どもよ」
ルキウスは前後に控えるマルス派と副隊長派の守備隊に声をかけた。
「盗賊どもが町を包囲しておるぞ。盗賊を放置してここで同士討ちするつもりか?それとも務めを果たし、町を守るか?」
ルキウスの言葉を、マルスは確認する術を持っていた。
「どうやらそのようだ」
キュリアスはマルスの視線に応え、ルキウスの言葉を認めた。群がる気配に、キュリアスは顔をしかめている。
「デビット様はこちらにおいでください」
マルスはデビットに言うと、返事も聞かずに、部下に指示を飛ばした。指示を受けた兵士たちは次々と外に向かって走り出す。
マルスは副隊長にも声をかけた。
「守備隊としての気概があるのならば、手を貸せ」
副隊長はためらったものの、侯爵の言葉を否定するわけにもいかず、憤りを込めて答えた。
「共闘はせん!皆のもの!出るぞ!」
副隊長は部下を引き連れ、館を飛び出した。
マルスは苦笑しつつ、先に送り出した部下たちを追った。
キュリアスも後を追う。盗賊たちの中に、懐かしく、凶悪な気配が混じっている。その気配は間違いなく、フェム・ファタルだ。フェムの相手はキュリアスかマルスにしか務まらない。そしてマルスは隊の指揮に忙しい。よって、キュリアスが相手するしかなかった。
ナイフ一本では心もとないが、これ以上先送りのできないところまで来ていた。
そろそろ引導を渡してやる。
キュリアスは決意を胸に走った。
領主の館は、デビットの戦場となった。
デビットはルキウスから発言の許可を取り付けると、聴衆に宣言した。今後は民の声を聞く場を設け、町の運営に役立てていくことを。
デビットの思わぬ申し出に、壇上の五人は威厳を保てたと安堵した。が、即座に思惑が外れたことを理解する。
「商人の代表者、市民の代表者、共に話を聞きましょう。そして、臆病者の謗りある我が父でありますが、男爵は話し合いをまとめ、役立てていくことに関しては、誰にも負けないでしょう。あなた方の意見を尊重し、時に否も申しましょうが、町の発展に尽力することをお約束します」
誘拐犯の汚名を着るわけにはいかない人々は、デビットの熱意ある言葉を受け入れるしかなかった。そして聴衆の、何の権力も持ち合わせず、弁もたたない人々は、自分たちの意見を聞き入れてもらえると聞き、喜んだ。
あっさりと終った領主の館での戦いに、ルキウスは内心喜んだ。デビットの今後がうかがい知れる場面を目撃できたのだ。デビットは将来有望な貴族になると、ルキウスは見込んだ。
民の声を素直に聞ける貴族は少ない。そして意見を汲み過ぎても、統治は成り立たない。デビットはそのことをすでにわきまえている。良き領主となり得る素質を持っていた。
当面のハンデルは、デビットがいれば問題ない。ルキウスは当初の予定を変更し、ハンデルの運営には口を挟まないことに決めた。
多数の盗賊たちが町に入り込み、略奪の限りを行おうとした。だが、ルキウスの知らせが早かったため、盗賊たちが略奪を始める前に、守備隊が迎え撃てた。
ただ、守るべき場所は広範囲で、盗賊の数も、まるで軍隊が攻めてきたかのような大人数だった。
ハンデルの主要な門は、町の北側にある。その門を出れば、東西にのびる街道だ。街道からの入り口にあたるこの門は、早々に盗賊たちの手に落ちた。
副隊長率いる守備隊は、門の正面に布陣した。
「ここから先、一歩たりとも踏み込ませるな!」
副隊長の号令の下、路地を利用して盗賊たちを退ける。押し寄せる盗賊をものともせず押し戻すさまは、鉄壁を思わせた。副隊長の指揮の下、守備隊は使命に燃え、敵の圧倒的な数にひるむことなく、堅牢に守った。
副隊長の指揮は、守備に適していた。マルスは即座に見抜くと、正面は副隊長に任せ、左右の路地に兵を配置した。ただ、人数は、副隊長の部隊よりもさらに少ない。
一部を町の裏側へ回したためだ。この配置はマルスの戦略的見地から行ったものだが、見事に的中し、モンスター除けの壁を乗り越えて侵入する少人数の盗賊をことごとく討ち果たしていった。
マルスは左側の路地に入り、多数の兵を右側の路地へ配置した。右側の兵には堅牢に守ることを指示した。
盗賊たちは人数の少ない路地を見つけると、我先にとなだれ込んだ。
マルスは兵士を三人一組にし、それぞれに番号を振って指示を出した。そしてマルス自身は敵の只中に飛び込む。
マルスはキュリアスの剣の師匠だけあって、美しい輝きを放つ曲刀を鮮やかに扱って、盗賊たちを次々になぎ倒した。
この曲刀を使うことも、副隊長がマルスを嫌う理由の一つでもあった。どこの馬の骨とも分からない、元冒険者が隊長かと、忌み嫌う中には、騎士の予備軍である守備隊は、直刀を使うものという観念からくる、マルスを騎士とは認められない思いが含まれていた。
マルスはすぐに盗賊たちに取り囲まれる。だが、マルスは部下を巧みに操り、マルスの背後を狙う盗賊たちに三人一組の部隊をぶつけた。
「一番前!二番右!三番下がれ!四番前から左へ!」
マルスは盗賊を斬り倒しつつ、絶えず叫び続けた。
まるで手足のように部隊を動かし、少人数ながら、敵を翻弄していく。
これがマルスの真骨頂だった。彼はキュリアスと同様、ソード隊に属していた。前衛中衛共にこなせる彼は、バスタードというコードネームで呼ばれた。
前衛に立てば、キュリアスより優れた剣技で敵をなぎ倒す。キュリアスでさえ、マルスの剣術には手を焼く。キュリアスはマルスの剣技に対抗するため、体術を混ぜるようになった。
盗賊如きがマルスの剣技に敵うはずもなかった。
盗賊たちはマルスの部下を狙い、状況を打破しようとした。
マルスは読んでいたかのように部隊に短い指示を飛ばし、敵を翻弄し、部下を勝利に導いた。この中衛としての指揮能力が、マルスのバスタードたる所以でもあった。
マルスはソード隊を抜けた時、コードネームは捨てた。キュリアスのように、あだ名になるようなこともなかったからだ。
マルスは自分の価値を、部隊の中にあると理解していた。だからこそ、冒険者を資金稼ぎの足掛かりとし、目的を達成すると即座に軍人へと転身したのだ。
副隊長の堅牢な守りと、マルスの戦術とが、うまくかみ合い、守備隊の数倍に上る盗賊たちの侵入を見事に防いだ。
キュリアスは単身、町の東側に回った。そちらに主要な門はないものの、広大な馬牧場と、商隊が通行する簡易門があった。
マルスはこちらにも、少ない人数から手勢を回そうとしたが、キュリアスが断った。正面が手薄になり、そこが崩れては元も子もない。
そして、キュリアスであれば、少々の人数は物の数に入らなかった。さらに、この東側に、フェムの怪しい気配が漂っていた。兵士がいると、かえって犠牲者が増えるだけだ。
キュリアスは大型ナイフを携え、闇に溶け込むように迎え撃った。
盗賊たちは初めこそ、闇に仲間が斬り倒されると恐怖したものの、キュリアスの姿に気付くと、ナイフ一本であることを嘲笑い、人数に任せて攻め込んだ。
それは愚の骨頂だった。
キュリアスは盗賊たちの中を風のように抜け、その後に死体の山を築いた。
キュリアスに向かって飛び込もうとしていた盗賊が数人、背後からの攻撃を受け、倒れた。
炎のように揺らめく刀身を持った、半裸に近い女性が、不敵な笑みを浮かべて立っている。
盗賊たちは危険を察知し、遠巻きに離れた。
キュリアスの前に立ちはだかる女は、任務以外にも多数の、関係のない人々を殺害した。それも相手を麻痺させ、生きたまま切り刻むのだ。さらに、ソード隊という組織に属していながら、組織の指示にもあまり従わなかった。
フェムはそれでも任務だけは達成した。どれほど困難であっても、やってのけた。そのために、ソード隊はフェムの横暴について、何の対処もしなかった。
結果さえ伴えばよしとされ、フェムや他のメンバーの規律は崩壊した。そしてソード隊自体も暗殺を請け負う成金主義に身を落としていった。
罪のない人間まで、金さえもらえば暗殺するようになり、キュリアスはソード隊を見限った。
キュリアスはマルスと共にソード隊を壊滅させた。ただ、その時に取りこぼした数名の、残虐な隊員がいる。以前戦った、狂気に陥ったサム・ガゼル然り、フェム・ファタル然り。まだ行方の分かっていないブレイドのコードネームを持つ男然り。
殺人を快楽とするような彼らを野放しにしておくわけにはいかない。キュリアスは冒険者となった今も、彼らの消息が分かり次第、対決する覚悟だった。
フェムも、出会ったすぐに戦えばよかった。そうすれば、町が盗賊に襲われることもなかった。マーサやシドニーが怖い思いをせずに済んだかもしれない。ドーラが男を怖がるようにならなくて済んだはずだ。
キュリアスに一抹の後悔がよぎる。使い慣れていないナイフでの決闘に、臆したと自分で自分を責めた。
だが、面と向かって対峙した以上、もはや避けるわけにはいかない。避ければ、ハンデルの町は盗賊たちに荒らされるだけだ。そして、キュリアスのプライドも、逃げることを許さなかった。
フェムは不敵な笑みを浮かべ、キュリアスを見返した。フェムはキュリアスを楽に殺すつもりなど毛頭ない。それは自身の趣味からくるものだけではなかった。過去の遺恨も加わっている。
キュリアスはフェムの恋人を殺した。その仇を撃ちたいわけではない。もっとも憎らしいことは、代わりに恋人になれと言ってもキュリアスがなびかなかったことが、屈辱だった。
これほどいい女を無視する唐変木に、当然の報いを与えねばならない。楽に死なせはしない。フェムは残虐な笑みを浮かべた。
「エッジ」
感情を押し殺したフェムの声が響く。
「フランベルジュ」
キュリアスも返す。
二人の間に殺気が満ちていなければ、旧交を確かめ合うかのようでもある。
「相変わらず人をゴミのように扱いやがる」
キュリアスはフェムの回りに倒れた盗賊たちを見回しながら言った。フェムのそういうところが、キュリアスには受け入れられない。
ただでさえ、マーサやシドニーやドーラを攫った盗賊と、目の前に群がる盗賊が重なり、静かな怒りに燃えているところに、フェムの残虐非道な行為が加われば、キュリアスの気分も悪くなると言うものだ。
「あまりにも役立たずだもの。私に殺されるくらいしか価値はないのよ」
フェムは利用価値のない人々を、自身の快楽のために殺す。そのことを隠すつもりもなかった。
役立たずというからには、役に立たせるために集めたに違いない。キュリアスは浮かんだ推測を確認するように言った。
「お前が集めたんだろう?」
「あら?よく分かったわね」
「今や盗賊の頭領か」
押し殺す声になる。同じ盗賊なのだ。マーサやシドニーを攫い、ドーラの感情を奪い、キュリアスの手を怖がるように仕向けた張本人が、フェムとしか思えなくなっていた。
「そういうあなたは人に媚びへつらう仕事をしているようね」
フェムは勝ち誇ったように言った。冒険者より、自由気ままに暮らせる盗賊の方が勝っていると考えているのだ。顎で使える男たちを従え、女帝さながらである。
「てめぇの価値観で量るな」
フェムの言葉に、頭が燃え上がりそうだ。だが、感情に任せて動けば、手痛いしっぺ返しを食らうだろう。
キュリアスのその予想は正しかった。
フェムは炎のように波打つ刀身の剣を一度鞘に戻し、無防備を装った。鞘に仕込まれた毒に、刀身を浸すための行為だと、キュリアスは冷静に見抜いていた。
「あらそう?それにしては、剣も買えないほど貧相に見えるけど?」
最近、人から剣のことを聞かれることが多いためか、フェムのその言葉はキュリアスの頭に血を上らせた。
「うるせぇ!てめぇなんざ、こいつで十分よ!」
キュリアスは大型ナイフの刀身を叩いた。
「ふん。私はあんたが苦悶する姿を見れればどうでもいいわ。武器が悪かったと後で悔まないでね」
舌戦はフェムの圧勝だった。
キュリアスは頭に血を上らせ、一足に詰め寄った。
無造作に構えていたフェムは、キュリアスの直線的な踏み込みを、口が裂けんばかりに微笑んで迎え撃った。自身のコードネームと同じ名の武器、フランベルジュを抜きざまに振る。
波打つ刀身の剣はまるで炎のようにキュリアスを焼いた。炎が触手を伸ばし、キュリアスに触れようとしたが、キュリアスはいつの間にか、横に飛んでかわしていた。
キュリアスがナイフを振ると、フェムはフランベルジュで受けようとする。波打つ刃は、たとえナイフの刃で受け止めたとしても、持ち手や腕をかすめる。キュリアスは寸前で下がるしかなかった。
フランベルジュの刀身にはたっぷりと、麻痺性の毒が塗られている。フェムは相手を麻痺させて、相手の恐怖を煽りつつ切り刻むことを好む。間違いなく、麻痺毒だと、キュリアスは確信を持っていた。
かすりでもすれば、すぐさま身体の自由を奪われ、フェムにもてあそばれることになる。フランベルジュの刃に触れるわけにはいかなかった。
フランベルジュは刀身を波打たせてあるため、強度は弱い。横から刀身を叩けば折れる。
だが、フェムは嘲笑うかのように刀身の向きを変え、キュリアスの攻め手を利用して毒を与えようとした。
実際に、フェムは嘲笑っていた。キュリアスであろうとも、ナイフでは攻め手がない。対してフェムは、かすり傷でも与えれば、キュリアスの自由を奪うことができる。後は好きに切り刻めばいい。結果の見えた戦いだった。
フェムは毒に頼り、剣技がおろそかかと言えば、そうではない。並大抵の者では太刀打ちできないほどの技を持つ。だからこそ、キュリアスの攻撃に合わせて刀身の向きを変えることが可能だった。
そして、キュリアスに一太刀浴びせる努力も惜しまなかった。ために、キュリアスは攻撃しては逃げなければならなかった。絶えず動き回っていなければ、フェムの炎に巻き込まれてしまう。
フェムはキュリアスを誘うように、動きを止めた。
誘われていると分かっていても、キュリアスは飛び込まざるを得なかった。
キュリアスは唐突に横へ飛んだ。
先ほどまで立っていた場所に矢が刺さる。二人の戦いを傍観していた盗賊たちが、フェムに加勢して矢を放ったのだ。
その矢にも毒が塗られているに違いない。キュリアスはフェムの考えそうなことだと、うんざりした。
フェムとの間合いを取ると、キュリアスは首を回して腕の力を抜いた。
「いいぜ。すべての敵を迎え撃ってやるぜ!」
好きな物語のセリフを叫ぶことで、キュリアス自身に気合が入る。
キュリアスが大型ナイフを振ると、離れたところで弓をつがえていた盗賊が、上半身と下半身に分かれて倒れた。その周りも数人、巻き添えを食らって斬り裂かれた。
「あら。ナイフでも出ちゃうのね。さすが何でも斬り裂くエッジだこと」
フェムはおかしそうに笑った。その笑いはすぐに引っ込む。キュリアスの放った衝撃波を、慌てて避けなければならなかったからだ。
キュリアスは戦場を駆けた。ナイフを振って衝撃波を放つ。
衝撃波であれば、フェムの毒を気にかける必要などない。そして、フェムを外しても、巻き込まれるのは盗賊たちだ。キュリアスは気兼ねなく、ナイフを振り回せた。
フェムが何かを投げた。それはキュリアスの走り込む先に転がった。暗くて何かは判別できない。しかし、毒のついた何かであることは間違いない。
キュリアスは転がった先を予測し、避けた。
フェムは次々と周りに、その何かをまいた。
キュリアスは面倒になり、盗賊たちの中に踊り込むと、次々とその何かの転がるあたりへ盗賊たちを蹴り倒した。そしてキュリアスはその盗賊の上を走り、フェムに肉薄した。
「ひどいことするじゃないのさ!」
フェムは嬉しそうに言った。その口元に手を上げると、何かがキュリアスめがけて飛んできた。
毒針か!
キュリアスは即座に横へ飛び、衝撃波の置き土産を残して盗賊たちの中に飛び込んだ。
衝撃波はフェムの手に隠れていた吹き筒を壊した。
「後どれくらいおもちゃを隠してやがるんだ?」
キュリアスは周りの盗賊をなぎ倒しながら言った。
「さあて、どうだったかしら?」
フェムはしらを切る。
キュリアスは盗賊を蹴り上げ、その背に強烈な蹴りを入れてフェムにぶつけようとした。
フェムは喜んでその盗賊を斬り裂いた。
その背後からキュリアスが飛び込む。
フェムは避けきれず、キュリアスの蹴りがフェムの左肩をかすめた。
フェムはかまわず、振り向きざまに剣を振った。だが、キュリアスは既に離れ、代わりに衝撃波が迫っていた。
フェムはやむなく、腰の鞘を投げて衝撃波を防いだ。
さすがのフェムも、笑顔が引きつり始めていた。
「どうした?ナイフ相手なら、余裕だったんだろう?」
キュリアスは逃げまとう盗賊たちを蹴散らした。数人を、毒のついた何かの上へ転がす。
「まったく!あんたってバケモノね!ジャックナイフといい勝負だわ!」
「そいつは嬉しい評価だ」
狂気に落ちたとはいえ、ジャックナイフことサム・ガゼルは、キュリアスの師匠にして父親代わりだった。その人物と同等とみなされることは、キュリアスにとって賛辞に等しかった。
キュリアスは尊敬するサムのように、変幻自在に駆けた。それも足場の悪い、盗賊たちの身体の上である。
フェムは余裕を失い、必死の形相でフランベルジュを振った。
キュリアスは正面から突っ込むと見せかけて横に飛び、衝撃波すらも囮にしてフェムの側面を捕らえた。
フランベルジュで受けに来た。そこまではキュリアスの読み通りである。
キュリアスは素早く、さらに横へ回り込み、フランベルジュの刀身の側面をナイフで叩いた。フランベルジュはいともたやすく折れる。
だが、キュリアスは身体を逸らさなければならなかった。フェムは左手に何かを隠し持ち、下から突き上げていたのだ。
キュリアスは咄嗟に、かわすと同時にフェムの左手を蹴り上げた。
フェムの左手がキュリアスの目の前をかすめ、何かがキュリアスの頬を斬り裂いた。それはさらに弧を描き、フェム自身に戻っていく。
フェムは目を見開いて震えた。左手に持っていたものが、どういう拍子か、自分の胸に刺さっている。
フェムの手の力が抜ける。そこに小さな握りが残っていた。キュリアスは重くなる身体を操って近づくと、その握りを掴んで引き抜いた。
握りの先に、長い針のようなものがついている。ニードルダガーと呼ばれるものだ。そして、それはフェムの恋人であり、キュリアスが殺した暗殺者の持ち物でもあった。
「お前にしては珍しく、後生大事に持っていたんだな」
キュリアスはニードルダガーをフェムの手に戻した。
刀身に毒が塗られていたのだ。フェムは震えるばかりで動けず、ゆっくりと倒れた。キュリアス自身も、歯を食いしばって意識を保たなければ、動けなくなると分かっていた。
「せめてもの手向けだ。俺があいつの所へ送ってやる」
キュリアスは死を宣告し、フェムに止めを刺した。死してなお、フェムは妖艶な笑みを浮かべ、キュリアスを見上げていた。
キュリアスは昔の仲間のまぶたを閉じてやり、冥福を祈った。
「殺しておいて…偽善だな」
キュリアスは自嘲すると、辺りの気配に気を配った。麻痺毒が回り、身体の自由が奪われつつある。もはや立っているだけで精いっぱいだ。今盗賊たちに襲われれば、生き残れる自信はなかった。
無数の死体が転がる戦場に、キュリアスだけが残っていた。他の盗賊たちは逃げ去っている。
多数の死体が転がる、地獄絵図と化した世界を、血を吸い込んで赤く光る月が見降ろしていた。
月は、赤く、冷たい炎で世界を清めようともがいていた。
キュリアスは、月の力に押さえつけられ、死体の山に倒れ込んだ。




