遺書 その②
テストの点数を見た瞬間、母の表情は一変した。
「この点数はなに? 私は100点をとって来いって言ったでしょ!」
母がテストの点数を気にするのは、いつものことだ。だが、最近の母は、病的なまでにテストの点数を気にしていた。
100点はとれなかったものの、テストの点数は98点だ。たった一つ間違えただけで、ここまで怒る母が、ケイトには理解できない。
「ごめんなさい。次はがんばります」
どんな言い訳をしても、火に油を注ぐ結果になるのはわかっている。だからケイトは、素直に頭を下げた。
「謝れば許してもらえると思ってるの? 甘いのよ!」
言葉だけでは収まりがつかなかったらしい。なんの躊躇もなく、母はケイトをビンタした。
頬に痺れるような痛みが走り、ケイトは自分がビンタされたことに気がつく。
驚くようなことではない。母は手の出やすい性格で、ビンタされたことなら過去にいくらでもある。驚いたのは、ケイトが母にビンタされたぐらいのことで、父が激怒したことだ。
「バカ野郎! なにしてるんだ!」
父が猛然と走ってくる。その勢いを拳に乗せて、父は母を殴り飛ばした。
台所にある椅子をなぎ倒して、母が床を転がる。母の手を離れたテスト用紙が、ヒラヒラと宙を舞った。
巨漢の父に殴られたら、ケイトならば身を縮めて、許しを請うだろう。しかし、母は怯えるどころか、殺意を漲らせた。
よろよろと立ち上がった母は、プッと口からなにかを吹きだす。乾いた音を立てて床を転がったのは、血のついた歯だった。
父を睨みつけながら、母は炊事場に移動すると、包丁をつかんだ。怒りで震える包丁の切っ先を、父に向ける。
「アンタのせいで、歯が折れたじゃない! また包丁で刺されたいの?」
その言葉通り、過去に母は、父を包丁で刺したことがある。幸いにも内蔵を傷つけていなかったため、父は一命を取り留めたが、そのときにできた傷痕は、今も父の腹に残っている。
睨みあう両親を、ケイトは見守ることしかできなかった。この二人の喧嘩を仲裁するなんて、私には絶対に無理だ。下手に口を出せば、私が包丁で刺されかねない。
緊迫した空気に相応しくない子供の笑い声が、台所に響いた。目を向ければ、ケイトの弟と妹が、楽しそうに笑っている。
双子の弟と妹は、ケイトより9つも年下で、7歳とまだ幼い。しかし、両親が喧嘩していることは、二人ともわかっている。信じられないことに、弟たちは夫婦喧嘩を楽しんでいた。
両親が夫婦喧嘩をするのも、それを弟たちが楽しんで見物しているのも、我が家ではいつもの光景だ。猿のように騒ぐ弟たちを無視して、父は酒焼け声を張りあげる。
「今が大事な時期だってことを忘れたのか? ケイトの顔に傷がついたら、どうするんだ?」
今が大事な時期? 最近特に、母がテストの点数を気にしていることと、なにか関係があるのだろうか?
母がハッとした顔になる。
「ごめんなさい。殴るなら、お腹にしておけばよかったわね」
殴らないという選択肢は、ないのだろうか? お腹だって殴られたら痛いし、ケガもする。
ケイトの抗議の視線に気づいたのか、母がこちらを向いた。条件反射で、ケイトの背筋が伸びる。
「そんなところに突っ立てないで、自分の部屋で勉強しなさい!」
この場から逃げだせる母の指示に、ケイトは喜んで従った。自室に逃げるように駆けこんで、ホッと安堵の息を吐く。安らげる場所は、自分の部屋だけだ。
窓から外の景色を眺めれば、酔いつぶれて路上で寝ている男がいた。その男に、足音を忍ばせて、老人が歩み寄る。老人は男の懐に手を入れると、慣れた手つきで財布を抜きとった。10秒もかからずに仕事を終えた老人は、男の元を離れていく。
いつもの光景だった。被害が財布だけですんで、マシなぐらいだ。ひどい場合には、酔いつぶれた男が殺されることもある。
この村で殺人は、夕食でシチューが出てくるのと同じぐらい、ありふれたことだった。なにせ、村人の死因で一番多いのが殺人だ。村では暴力も殺人も許可されていたし、人を殺しても、それを責める村人はいない。何人殺したかを、自慢する村人さえいた。
家族も含めて、この村の村人とは、どうも価値観が合わない。それに気づいたとき、どうすれば他の村人と上手くやっていけるのかを考えた。今ではそれが無理だとわかり、村から出ていく方法を探している。
村から出ていくための一番よい方法は、成績優秀者に選ばれることだ。成績優秀者に選ばれれば、村の金で、海を渡った先にある国へ留学させてもらえる。
母に怒られないためだけではない。村から出ていくためにも、今の私には勉強が必要だ。
ケイトは自分を鼓舞すると、勉強にとりかかった。
辛い家庭環境から逃れるように、勉強に集中する。宿題はすぐに片付いた。続けて数学の予習をするために、鞄から教科書を取りだそうとした。すると、鞄の中に見覚えのないノートが入っている。クラスメートのノートを、誤って持ち帰ってしまったのだろうか?
表紙を見たり、裏表紙を見たり、様々な角度からノートを眺めてみる。表紙は光沢を放つほどに美しく、このノートが高い技術で作られたことがわかる。しかし、肝心のノートの持ち主の名前は、どこにも書かれていなかった。
なにか書いてあれば、筆跡からノートの持ち主がわかるかもしれない。表紙をめくってみると、表紙の裏に、奇妙なルールが書かれてあった。
〝このノートに書いたことは、もう一つのノートにも書かれる。もう一つのノートに書いたことは、このノートにも書かれる。
このノートにはルールがある。
ルール1。ノートに書いたことを、ノートの持ち主以外の人間に見られると、ノートは消滅する。
ルール2。ノートの持ち主が死ぬと、ノートは消滅する。〟
意味がわからない。死ぬとか消滅するとか、正直ちょっと気持ち悪い。
ページをめくっても、他にはなにも書かれていなかった。真っ白だ。
間違ってノートを持ち帰ったことが、ノートの持ち主にバレたら、きっとノートの持ち主は激怒する。暴力を振るわれる可能性だってありえた。
仕方ない。明日の放課後、クラスメートが帰ったあとで、教卓の上にノートを置いて帰ろう。明後日になれば、ノートの持ち主が、ノートを持っていくだろう。
「ケイト、ご飯ができたから、台所に来なさい」
「すぐ行きます」
母に呼ばれたケイトは、慌てて椅子から立ちあがった。




