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アニーにつれられ、坊っちゃんが扉の向こうへ姿を消した後である。
坊っちゃんもいないし、することもないので惰眠をむさぼるべく、自分のスペースに戻る。
自分のスペースには古びたカゴと布が敷かれ、坊っちゃんと遊ぶための道具がある。
坊っちゃんがいない時に寝台に入るつもりはなく、ここで十分だった。
さて、寝ようと寝床に潜り込んだ時、部屋に向かってくる足音が聞こえた。
耳を立てれば、メイドの足音だとわかる。
だが、誰だかはわからなかった。
最近この館は人の出入りが激しい。
古参のメイドの大半が暇を出され、新人ばかり。
そのくせ館は広くて人ではいくらあっても足りないので、使用人の数が多すぎて覚えきれないのだ。
どちらにしても、おそらく掃除か何かか。
坊っちゃんと一緒の時の私は使用人達にとってはかしずく存在だ。
かつて金持ちの友達のところにいた猫と同様、美味しいものを食べさせてもらって、大事にされる。まさにお猫様というやつだ。
しかし。今は坊っちゃんがおらず、一匹だけだ。
この状態だと使用人の態度は人によりけりで激しく変わる。
猫好きな人はご飯をくれたりするが、嫌いな人間には威嚇され追い払われる。
たまに危害を加えようとする輩もいて、気が抜けないのだ。
メイドたちも私に対する意見は千差万別。はてさて、今日はダレだろう。
こんこん、とノック音がしたが、もちろん猫の身では返事もできない。
そもそも鳴き声を上げたところで、相手が気にするはずもないのだ。
とりあえず、相手を確認すべく、寝床を抜け出し扉の前に歩いて行けば、かちりと、音が鳴ってメイド服の女性が三人、入ってきた。
彼女らが見えた途端、思った。
これはハズレだ。
三人のうち、ピンク混じりの赤髪をツインテールにしたメイドが扉の前に座った私を目ざとく見つけ、歓声をあげた。
「あ、シェインだ、おはよう~!」
やや間延びした声とは裏腹に俊敏な動きで腕が伸びてくる。私は慌ててその腕から逃れ、脱兎の如く逃げ出した。
坊っちゃん以外になでくりまわされるなんて勘弁だ。
この赤髪のメイドにはうっかり一度、捕まったことがあるのだが、そらもう全身なでくりまわされ頬ずりされたのだ。
よほど猫が好きらしいが、元人間の私としては坊っちゃん以外に触れられたくない。
人間どころか猫の尊厳さえ踏みにじられかけた時、坊っちゃんが見つけてくれて事なきを得たのだが、それ以来館内で私の要注意人物になっていた。
坊っちゃんの部屋で一番高い棚に乗り移り、相手を威嚇のポーズで迎え撃つ。
しゃーっ、なろー!
「あーあ、今日もあんな高い場所に……」
残念そうなツインテールの少女を、その他の青いオカッパ頭のメイドと、金髪をポニーテールにしたメイドが、呆れた顔で見ている。
「こら、ミーシャ! あなた、お猫様にちょっかい出して」
「だって~、猫、好きなんだもん。アルドラもかわいいと思うでしょぉ?」
「ラミアの言うとおり、あまり坊ちゃまの飼い猫にちょっかいを出すのはどうかと思いますわよ?」
赤髪のミーシャ、青髪はラミア、金髪ポニテはアルドラと言うらしい。
信号トリオ、自己紹介ご苦労って感じだ。
こちらの人は色素とか遺伝子とか無視してとっても頭が鮮やかだったりする。
同意が得られなかったミーシャが口を尖らせれば、ラミアが腰に手を当てた。
「今はこんな部屋の掃除など一刻もはやく終わらせて、行くべきところがあるでしょう?」
「ええ~、そんなとこあったっけ?」
間延びした動作でミーシャは首をかしげる。
そんなミーシャに苛立ちを押さえられないようで、ラミアがいきり立った。
「もう、何言ってるの!今、サフィル伯爵様がお友達を連れていらっしゃってるって言ったでしょ!」
その言葉に私はぴくりと耳を立てた。
サフィル伯爵。たしか坊っちゃんの遠い親戚に当たる人だ。
前の奥様、坊っちゃんの生母のアマリエ様の葬儀の時に見た気がするが。
私、坊っちゃん以外の男に興味ないから、いまいちはっきり覚えていないのだが、柔和な顔立ちの男臭い美丈夫だ、とメイドが言っていた気がした。
「サフィル伯といえば、今社交界でも話題の方。その周囲の方も今をときめく殿方ばかりですもの。そんな方に見初められれば、私達も貴族の仲間入りを果たせるかもしれないのよ!」
なるほど、メイドたちが早く掃除を終わらせようとしている理由がわかる。
玉の輿狙いか。
うっとりと、顔を輝かせるラミアにミーシャは関心なさ気に尋ねた。
「でも~、私達、館メイドじゃない? お貴族様の社交は普通、表のホールでされるでしょう? 私たちが行っても上級メイドに邪険にされるだけじゃないの?」
メイドには種類があり、上級メイドというのが存在している。
行儀見習いの貴族のお嬢様たちだったりするのだが、彼女たちは基本的に、掃除などの家事は行わない。
館主催のパーディや茶会で給仕をしたり、主人が来るまでの客の接待など、対外的なもてなしに参加する。
対してミーシャの言う館メイドは、使用人。つまりは掃除をしたり、ベッドメイキングや、繕い物、倉庫の整理など、館の主人家族が快適に暮らせるよう、母屋の雑事を取り扱う。
彼女たちは大抵平民で、金銭で雇われている。
そんな彼女たちと上級メイドたちの間には身分という壁があり、上級メイドたちははっきりメイドを下に見ている。
貴族の集まる社交場は上級メイドの領域であり、彼女たち館メイドには近づくことすらできない場所で、普段であれば、ほとんど貴族を目にすることもできない立場なのだ。
しかし、どうやら今回坊っちゃんの見合いを兼ねたごく内輪なお茶会らしく、珍しく母屋で執り行うということらしい。
坊っちゃんのお見合いがメインなので本来、独身で男であるサフィル伯などお呼びじゃないのだが、どうやら近くを通りかかったとかで前触れもなくやってきたらしい。
それでも邪険にされず、茶会への参加が許されるのは、彼が坊っちゃんの継母のお気に入りだから、との事だった。
「とにかくチャンスなのよ、これは!貴族たちの誰かに目を止めてもらって、あのいけすかない上級メイドをギャフンと言わせてやる!」
「……ラミアの言い方だとだとまるで貴族の若君のほうがおまけに聞こえるよぉ?」
「こほん、とにかく今はさっさと掃除を終わらせましょう? 何にしてもそれからですわ」
アルドラの声にラミアとミーシャが頷く。
ようやく掃除に取り掛かるらしく、それぞれの持場に散っていく彼女たちを見下ろす。
やれやれ、女子が集まればかしましいな。
元女子だが、転生して猫になれば、あんなふうに盛り上がって話すこともない。
それが寂しいと感じることもなく、今が幸せなのはひとえに坊っちゃんのおかげだ。
寝て起きて、坊っちゃんが帰ってきたらいいな、と思いつつ、戸棚の上でうつらうつらし始めたときだった。
「ねえ~、アルドラ?」
すぐそばでミーシャの声がして、警戒にしっぽをピンと立ててしまった。
周囲を素早く見れば、どうやら戸棚の下を掃除中のようだ。
手がとどく範囲ではない事に安堵しつつも、驚かせるなと思わず睨み下ろせば、話しかけられたアルドラとの会話が聞こえてくる。
「なに、ミーシャ」
「お貴族様のところに行くのはいいんだけど、あなたは気をつけてねぇ」
「どういうことですの?」
「さっきちらっと、聞いたんだけど、サフィル伯のお仲間には、メルヴィル子爵もいるって話だからぁ」
「メルヴィル子爵、て?」
「あれぇ、知らない? 金髪好きなかなりの女たらしらしくてね。
しかも一夜限りの遊び人らしくて、捨てられた女の数は数知れず。ラミアはとにかくあなた金髪でしょ?気をつけて……」
「なにが私はともかくなのよ」
二人の背後から近づいたラミアに、ミーシャとアルドラの悲鳴が聞こえたが、私としてはそれどころではなかった。
私は急いで、立ち上がり、棚の奥に隠された抜け穴から一も二もなく部屋を飛び出した。