第二章 不本意な決闘と剣の道
第二章 不本意な決闘と剣の道
……どうしてこうなった。
「~~だからね、剣道っていうのは、竹刀を防具の有効部位に当てて一本になって――」
夕希にその場のノリというか……完全に勢いだけで勝負をふっかけてしまった、翌日の昼休み。
僕は「友達なら絶対お昼ごはんは一緒に食べるんだよ!」と主張して聞かないゆとりと一緒に、机を挟んで向かい合いながら昼食をとっていた。
しかし、正直、購買で買った人気メニューのやきそばパンとハム卵サンドの味なんて、ちっともわからなかった。原因はもちろん、ストレスである。
あー……。今日も空が青いなー。春だもんなぁー。
「聞いてるの!? 神無君!」
「うん。聞いてる。今日も空が青いよなー」
「え? う、うん。そうだね。にゃはは。こういう天気のいい日は、お外でお昼にした方がよかったかな?」
「うーん……でも、わざわざ外に移動するのも面倒だしなー」
「ええー。神無君、お年寄りみたーい。若いうちから面倒だって行動しないのはよくないよー」
「いやいや。無駄なことにエネルギーを使わず、重要な場面まで節電するのは、非常に有効だと僕は思うけどな。ほら、『いつか使うかもしれない』と筋トレするのが嫌いなタイプなんだよ、僕」
「あー。ちょっとわかるかもー。あたしも筋トレきらーい」
「だよなー。しんどいよなー」
「そうだよねー。しんどいよねー」
ズズズっと二人してお茶とジュースを飲む。
いやぁ……今日も平和だねー。
「……って、そんな和んでる場合じゃないよ!? 一週間後には試合なんだよ!?」
ちっ。ゆとりが現実を見やがった。
「……はぁ。ほんと、どうしてこうなったんだろ……」
「え。そ、それは……あたしの剣道部入部のために、神無君が頑張ってくれるって……」
なんか頬を紅潮させながら、両手の人差し指をつんつんするゆとり少女。
……暑いのか? 確かに今日は気温もそこそこ高いし、この席窓際だから直射日光だしなー。
「……はぁ~。どうして僕がこんなゆとりを助けなくちゃいけないんだろう……」
「それは……友達だから?」
「いや、友達じゃないし」
「友達だよっ!!」
ガタン! と席を立ち上がって大声で叫ぶ。教室中の視線独り占め。
うぅ……ここで断ったら、かなり感じ悪い生徒になっちゃうじゃないか……。
「そうだな。一応、友達……みたいな関係かな」
「むぅ。妙に言葉がふわふわしてるけど、まあ、いいよ……」
この日本語の曖昧な感じが好き!
……と、冗談はさておき、いい加減、僕も現実を見ることにしよう。
なんの因果かは知らないが(自業自得だというツッコミは不可)、一週間後に夕希と剣道で対決することになってしまった。僕が勝ったら、目の前のゆとりが剣道部に入部。負けたら入部不可。
ふむ。つまり……
「僕は試合に勝たなくてもいいんだな」
「なんで!? 勝ってよ! あたしが剣道部に入部できないじゃない!」
「いや、勝っても僕にメリット無いし……」
「うぅ~……。仕方ない。それなら、今度の試合に勝ったら、あたしが一日デートしてあげるよ!」
「さらにデメリット増えたー」
「それはさすがにひどいよ!?」
ゆとりのバックに『がーん』という文字が浮いた気がした。
「しかし……実際、一週間で勝てるわけないだろう? 相手が夕希だというのもあるが……見ての通り、僕は運動が得意な方じゃない」
優等生に必要なのは、品行方正な態度と真面目っぽい身だしなみ。あとは学業成績だけだ。
運動ができて悪いということはないが、逆に勉強しかできない方が教師の印象はいい。おそらく、勉強に特化している生徒が珍しくて目立つのと……なんでもできる天才は、やはり生徒と言えども鼻につくのだろう。
「その点は大丈夫だよ! なんたって、あたしの指導力は天下一品だからね!!」
「それ、僕のハッタリですよねぇ!」
「そんなことないよ! あたしは剣道をするだけじゃなく、教える方もうまいのだー!」
その根拠の無い、自身満々な態度が物語っている。
お前は絶対に指導力が欠如している。これは確信にも似た直感だった。
「……はぁ~~」
今日何度目かのため息と共に、僕は机からルーズリーフを挟んだバインダーを取り出した。
本当に今日は、ため息ばかりだと思う。ため息一回につき一つの幸せが逃げてしまうなら、僕は今日だけで一生分の幸せを逃してしまう自信がある。
「ん? なにそれ?」
「僕なりに、剣道について調べて来たんだよ」
「ええー! すごい! やっぱり神無君は『ゆーとーせーさん』なんだね!」
「そのキラキラした目はかなりウザいな……。まぁ、いい。調べたのは概要だから、違ってるところがあったら言ってくれ」
剣道のアウトライン ~神無紘レポート~
一、剣道とは、竹刀・防具を装備した二人の剣士が、勝負が決するか、規定の試合時間が経つまで技を出し合うスポーツである。
一、勝負は基本的に三本勝負の二本先取制。一本となる有効打.の大まかな分類としては、面、小手、胴、突きの四種類。
一、試合場は9mないし、11mの正方形、または長方形。制限時間は通常5分で、決着が着かなかった場合の延長戦は3分が基準。
一、反則は2回で一本とする。
一、勝敗は審判3人の判定からなる。三本勝負の場合は、試合時間内に二本先取した剣士、または、一本先取して試合時間が経過した剣士の勝利。試合時間内に勝敗が決しなかった場合は、一本勝負の延長戦を行う。
「と、こんなところなんだけど……」
「うんうん! 合ってるよ!」
……随分ご機嫌だな。剣道が好きだというのは本当か。
「それじゃあ、逆に僕から質問。『一本』の打つ場所は分かったんだけど、定義がかなり曖昧でな……。ネットで見た【全日本剣道連盟】によると、『充実した気勢、適正な姿勢を持って、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるもの』となっていたんだが……これは、どういうことだ?」
「うーん……それを言葉で説明するのは難しいよ……」
にゃはは……と、困った笑顔を浮かべるゆとり……もとい剣道少女。
……どうやら、こいつがゆとりだからじゃなく、本当に難しいらしいな。それでも、『一本』の定義は知っておかないと話にならない。
「じゃあ、完全じゃなくていいから、お前の分かる範囲で説明してくれ」
「ん~……そうだね……。こう言っちゃうと悪いけど、剣道の審判って結構フィーリングなんだよ。実際の試合では、力の無い審判の人が試合を判定することもあるし、その場合は同じ面でも、面金にあたって一本になる場合もあるし」
「なんだそりゃ。面金って、面の金属部だろ? そこは『打突部位』じゃないじゃん」
「だから、結構フィーリングなんだよ……」
説明に困ったように首を傾けるゆとり。
「うーん……フィーリングねぇ……」
「基本的に『声』と『音』と『残心』で判断されるかな? ほら、剣道熟練者で高齢の人とか、竹刀が打突部位に当たる瞬間を目で追うなんて不可能でしょ? だから「一本とるぞー」とか「一本とったぞー」みたいな大きな声と、竹刀が防具を叩く音と、その後の身体の動きで判断するの」
「結構いい加減だな……」
しかし、そういう曖昧な部分は、必ずしもマイナス要素になりえるかと言えば、そうでもない。逆に、そういった『偶然』とか『運』に左右されるルールが存在するのは頼もしい。
なぜなら、たとえ『誤審』だったとしても一本は一本だし、勝利は勝利だ。
夕希と真っ向から勝負して勝てる可能性が低い以上、そういった『偶然』のルールは僕の方に大きな力を与える。
「なるほどな……。それなら、偶然を味方につければ勝てるかもしれない」
「あ、それは違うよ」
頭をいい感じに回転させながらの発言だったが、珍しくゆとりにはっきり否定されてしまった。……生意気な。
「なんでだよ。そういう曖昧な部分を利用するのが悪いとでも言うのか? 勝負の世界は非情なんだぞ?」
「ちがう、ちがう。そういうことじゃなくて。……剣道って、『偶然』はないんだよ。
実力がはっきり出るの。試合で実力以上のものを出せる人もいるかもしれないけど、そんな人はほとんどいないと思うし、逆に、実力以下の結果が出ることも少ないの。もし実力が下と思われてる人が勝ったら、それが誤審でも、その人にはそれだけの実力があったんだよ」
「……くやしいけど、よく、わからない」
「えっとね、だから……たとえば、誤審で神無君が雪城さんに勝ったとするでしょ? でもそれは、神無君に審判を誤審させるくらい力があって、審判が誤審してしまうような技を出したってことじゃない? だから、やっぱりその場合、神無君は『当然』勝ったんだよ」
「ふーん……。ちなみに、『偶然』の対義語は『必然』だけどな」
「はにゃっ!」
ゆとり少女は恥ずかしそうに「うぅ~!」と唸っていたが、僕は密かに、心中で感心していた。
ただのアホの子、ゆとり少女だと思っていたが、存外に深いことを言う。なるほど。そういう考え方をするなら、確かに、剣道に『偶然』は存在しない。『必然』しかない。
夕希にラッキーパンチで勝とうと考えていたが、その作戦を実行するためにはまず、ラッキーパンチを打てるだけの力が必要になり、それが打てるなら、それ自身が既に僕の実力であるということ。
剣道、か……。
引き受けた当初は面倒だと感じていたが……いや、今もその気持ちは変っていないんだけど……
「ちょっと、面白そう……かな」
「でしょ、でしょ!? やったー! 神無君が剣道に興味を持ってくれたー!」
「ちょっとだけだからな!? 本当に、ほんのちょ~~~っとだけだからな!?」
なにがそんなに嬉しいのか、両手を振り上げて喜ぶゆとりに、僕は必死になって弁解しながら昼食を楽しんだ。
変だな。今のやきそばパンとハム卵サンドは、いつもより大分美味しく感じる。
放課後。
非常に残念ながら、本日より僕の放課後の自由は無くなった。
もちろん、一週間後の試合に向けて剣道の特訓をするためである。
夕希も所属する剣道部から防具と竹刀、剣道着は借りられることになったので、それを取りに来たのだが……。
「無理よ。場所は、貸すことができない」
「ええー! なんで!?」
……という具合に、初っ端から問題に衝突していた。
「ごめんね~。見ての通り、うちの剣道場ってかなり狭いのよ。隣の畳エリアは空手部が使っているし、悪いけど源さん達に貸してあげらるほど、スペースに余裕が無いのよ……」
主将さんが申し訳なさそうに告げる。
「仕方ないさ。僕たちは部員じゃないしな」
「うぅ~! でも、じゃあ、どこで練習するの?」
「……僕はグラウンドでもいいぞ。ちょっと恥ずかしいけど」
「恥ずかしいとか以前に、そんな場所じゃあ足捌きの練習ができないからダメー!」
うるさいな。見ろ。主将さんも困ってるじゃないか。……夕希は『当然だ』みたいに堂々としてるけど。
「まぁ、ここにいたってどうしようもない。場所は僕たちで考えよう。それじゃあ、防具に竹刀に剣道着、しばらくお借りします」
「いいのよ。どうせ余ってるやつだから、気にせず使ってね」
本当にいい人だな、この主将さん。
年上好きの僕としては、ちょっと興味が湧いてきたぞ。
「む~~」
なおも食い下がろうとするゆとりを引きずって、どうにか格技場の外まで出る。
主将さんが笑顔で手を振って見送ってくれ、夕希は黙って場内に戻った。
「ああ……最近変な女の子にしか絡まれなかったから、余計に主将さんがいい人に見える……」
「それ、誰のこと?」
場所が見つからないこともあって、ゆとり神様はご機嫌ナナメだ。
「そう怒るなよ。仕方ないじゃないか。近くに剣道の道場とか無いのかよ?」
「うーん……ここからだと車で1時間はかかるよ……」
朝霧学園は超有名な私立高校だが、ある理由で、交通の便も悪いような田舎町にある。
元々この町に住んでいる僕はそこまで気にならないのだが……こういう時は非常に不便だ。
「そうか……。じゃあやっぱり、外で練習するしかないんじゃないのか? 体育館だって他の運動部が独占してるだろうし……」
「じゃあ神無君は、毎日裸足で地面をすり足して、足の裏がズタボロになって血まみれになってもいいって言うんだね?」
「よし。なんとか場所を探そう!」
変わり身の早い僕だった。
「でもなぁ……ほんと、どこにそんな場所が――」
「はっはっは。お困りのようだな、神無少年!」
女性が使うには不適格と思われる豪快な笑い声と、自信満々な口調が僕の背後から聞こえた。
「ふ、ふぇ!? 学園長先生!?」
「如何にも! 私が学園長だ!」
本人のお気に入りらしい真紅のドレス。腰まで届く、艶やかな長い黒髪。全身からみなぎる自信のオーラ。実年齢は知らないが、とても年配には見えない……下手したら17歳くらいにも見えてしまう容姿。
どこからどう見ても、朝霧学園の学園長だった。
「どうして貴女がこんなところにいるんですか……」
驚いているゆとりと違い、若干うんざりしながら対応する僕。
「なんか面白そうな展開の空気を感じた」
「相変わらず伏線もなんもねぇな!」
思わず全力でツッコんでしまった。
「あれ……? 神無君、学園長先生と仲良しなの?」
「いや、そんなこと――」
「その通りだ」
「いつ僕とアンタが仲良しになった!?」
「ひどい! 私、初めてだったのに……」
「ええ!? 神無君と学園長先生、そんな関係なの!?」
大好きな彼氏に浮気をされた少女のような泣き真似をする学園長と、その演技を真に受けるゆとり。
それを見た僕は、僕の正直な気持ちを吐露した。
「うわー。超めんどくせー」
「こらこら。ツッコミを放棄するのは関心せんぞ、少年。一緒に模擬戦で戦った仲じゃないか」
そうなのだ。この人、模擬戦で僕と戦ってからというもの、なにが楽しいのか時たま僕に付き纏うようになった。
頻度で言うと週に3日くらいは付き纏われている。学校に通うのが週5日だから、2日に1回以上のペースだ。……本来、こんな年上美少女にストーキングされたら嬉しいものだが、この人は例外だ。外見は最高だが、内面に問題があり過ぎる。この人と付き合っていたら、厄介事に巻き込まれる確立105%くらいだと思う。もちろん、5%は消費税だ。消費されるのは僕の精神である。
今度はどんな厄介事に巻き込まれるのかとビクビクしている僕の隣で、学園長はドレスのポケットからパイポを取り出し、口に咥えた。
「そう警戒するな。いつもお前に迷惑をかけるばかりの私でもない。剣道の練習をする場所が無くて困っているのだろう?」
「……どうして貴女がそんなことを知っているんですか」
その問題が発生したのは、たった今のハズなんですが。
「学園長だからな」
「答えになってねぇ!」
「まぁ、そんなことはどうでもいいじゃないか。どれ、学園長権限を使って、格技場の部活を全て廃部に――」
「 や め て く だ さ い 」
腕まくりしつつ、格技場に歩き出した学園長を必死に止める。
この人に常識は通用しない。やると言ったら絶対やるに決まってる。ある意味この女もゆとりだ。
「むぅ。せっかく少年のためを思って行動しようとしたのに……」
「もっと方法を考えてください」
そして、その少しの間だけでも大人しくしておいてください。
「な、なんかすごい人だったんだね、学園長先生って……」
周りを見ない自己中なゆとりも、さすがに驚いているようだった。
「さて、冗談はさておき、朝霧学園の体育館の二階に、昔使っていた剣道場がある。そこをお前たちに貸してやろう」
「本当ですか!?」
ゆとり少女は素直に喜んだが……僕は疑いの眼差しで状況を見守る。
「本当だとも。まぁ、ずいぶん長い間使っていなかったから、掃除は必要だがな。それでも、ちゃんと剣道場として機能はすると思うぞ? 床は板だし」
「わー! ありがとうございます!」
「うむうむ。感謝したまえ」
満足げに頷く学園長。
そして、そのまま視線をずらして僕を見てきた。
「……(ニヤリ)」
「そのカマボコみたいないやらしい目をやめてください。なにを考えているのか知りませんが、対価なら先に言っておいてくださいね」
「おお、話が早くて助かるぞ、少年! 実はな、近々隣町にオシャレなフランス料理の店が――」
「ご提案ありがとうございました。遠くの道場に通うことにします」
踵を返して立ち去ろうとすると、学園町が回りこんで道を塞いだ。
……くそぅ。スレンダーな体躯のくせに、運動能力は異常に高いな。
「つれないことを言うな。出世払いで構わないさ。道場に通うにしても、片道1時間で往復2時間。放課後のみの練習時間、しかもあと1週間しか無い今、その移動にかかる時間がどれだけ貴重か、お前もよく分かっているだろう?」
……『どうして道場までの所要時間を知っているんだ』とか、『どこで夕希との勝負の話を聞きつけたんだ』とか、色々と言いたいことはあったが……面倒なのでやめておいた。
どうせいつものストーキングと、学園長権限を乱用した情報収集だろうし。
「……はぁ。仕方ありません。学園長の仰ることは全て的を射ていて、確かにその場所を使うことは僕たちにとって大きなプラスになりますからね……」
「そうだろう、そうだろう」
満足げに頷く学園長。
くそ……こういう人の弱みに付け込んで自分の希望を叶えてしまうそのスタンス、いちいちムカつくぞ。さすが朝霧学園の学園長だけのことはある。
……そういう所がなかったら、普通に美人だし、僕も喜んでお友達になるというものを……。
「ほら、ゆとり少女。これがそこの鍵だ」
「ありがとうございます……って『ゆとり少女』!?」
「ん? 違うのか? 神無少年はずっとそんな風に呼んでいるが……」
「……か・ん・な・く~ん?」
うっ。ど、どうしてそれを……!
その呼称は地の分でしか使ってないのにっ!
いくら学園長だといっても、人の心の中までは読めないハズだ!!
「ふ……。神無少年の考えなど、目を見ればわかるさ」
「すごい迷惑です!」
獲物を威嚇する猫みたいに「うう~!」と唸るゆとり少女……もとい、ゆかり。
「もう! 神無君のバカぁ!」
そう言い残してゆとりは走り出してしまった。
思わず追いかけようとしたが、向かう先が体育館の方面だと気づいたので、とりあえずほっとこう。どうせ僕も後でそこに行くし。
「……それじゃあ、まぁ、一応礼を言っておきます。ありがとうございました」
どんな条件を突きつけられようと、助かったことは事実なのできちんと頭を下げた。
……こういうところは、普段から優等生を演じている副作用みたいなものだ。
「ああ。気にするな。ちゃんと対価は貰うんだしな」
パイポを美味そうに吸いながら告げる学園長。
黙礼をして立ち去ろうとした僕の背後に――もう一度、声が掛かった。
「――次の戦いはいつかな? 神無少年」
その言葉に足を止めた。
振り返らず、言葉だけを返す。
決してこちらの表情を見られないようにしながら。
「『次』なんて無いですよ。僕の願いはもう、叶わないんですから」
そうだ。僕の願いは叶わない。
たとえ『世界で最も夢に近い場所』である朝霧学園でも、叶わない望みは存在する。
もう僕は――二度と、あの笑顔を見ることはできない。
「そうか……残念だな。私は君がお気に入りなんだ。できればもう一度、本当の舞台で手合わせしてみたかったのだが――」
そう告げる学園長の声に、ふざけたような雰囲気は無かった。
おそらくは本当に、心から僕と戦うことを楽しみにしていたのだろう。
「願いが無いのに、戦う意味なんて無いでしょう?」
無理矢理笑いながら、言葉を返した。
顔まで笑っている自信は無かったけど、少なくとも言葉の雰囲気だけは飾れたと思う。
「――私は信じているよ、君を。君はきっと、新しい夢を見つけられると」
「――っ」
まるで心を見透かしているかのようなその発言に、思わず振り返った。
その先には、真紅のドレスと美しい黒髪をはためかせながら遠ざかる、学園長の威風堂々とした後姿だけがあった。
……まったく。ほんと内面に問題ありまくりですね、貴女は。
学園長と意外と長く話し込んでしまったのもあるが、体育館を見つけるのにも、二階へ上がる階段を見つけるのにも、かなり時間がかかってしまった。
先程ご機嫌ナナメのまま立ち去ったゆとり少女が、さらに怒っているんじゃないかと不安に思いながら剣道場の扉を開けると、
「あ~~~! 遅いよ、神無君!! あんまりにも遅いから、もうあたしだけで掃除しちゃったよ!! ひどいよ! あたしにだけ掃除させるなんてぇ~!」
という、ゆとりの怒声が響き渡った。
「悪かったよ。学園長に随分長い間つかまってな……」
「もう……。あたしだって掃除は大っっ嫌いなんだからね!? でも放課後の時間も少ないし、仕方ないから嫌々やったんだよ!?」
「だから悪かったって……。お詫びに今度、甘いものでも奢るよ」
「ほんとうに!? わーい! やったー!」
困った時は甘いもの。
僕のワンパターンな戦法だが、どうやら、ゆとりにはクリーンヒットしたらしい。
「さて。それじゃ、お前の作ってくれた時間を無駄にしないためにも、練習に励みますかー」
「うん! あそこが更衣室になってるから、神無君は剣道着に着替えてきてね!」
「うぃー。……ん? お前は着替えないのか?」
「だって、最初は初歩の足捌きからだもん。制服で十分だよ」
「む。なんとなく対等じゃなくて不満だが、仕方ないから従ってやる」
「いや、あたしが教える側なんだけど……」
たとえそれが正論でも、感情を抑えることができないことも、人生にはある。
剣道着への着替えは非常に手こずった。
剣道部の主将さんにイラスト付の説明書をもらったので、それを見ながらなんとか着ることができたが……正直動きづらいし、着脱面倒だし、この道着の利点がまったくわからない。
強いて言えば見た目の点で、防具との相性だけは良さそうだが……まさか見た目重視で道着をデザインしたんじゃないだろうな!? え!? どうなんだよ、剣道開祖様!?
そんな文句を心中で叫びながら、更衣室を出る。
すると、すぐそこに立っていたゆとりとぱっちり目が合った。
「ふわぁ~……。剣道着似合うね、神無君! カッコいい!」
「褒められて悪い気はしないけど……そこまで嬉しくもないぞ。僕はこの道着、嫌いだしな」
「えー。せっかく戦国時代の剣士ってカンジなのにぃー」
「戦国時代に剣道着着て馬に乗っていた武将なんているんですかねぇ!」
「いるよ! きっと竹刀で相手の鎧を叩いて、「安心せよ。峰打ちじゃ……」とか言うんだよ!」
「次の瞬間、そいつが安心できないけどな」
つーか、竹刀に峰打ちもへったくれもないだろう。
「ようし! それじゃあ、まずは足捌きから――」
「待て、ゆとり少女。焦るな。焦りは禁物だ」
「む。どういうことかな?」
「いいか……焦ることは絶対によくない。焦って昼ごはんを食べると、なんと二倍も体重が増えることが、アメリカのサラニマス教授によって最近、証明されたんだ」
「ええ!? あたし、今日のお昼ごはん、ちょっとだけ焦って食べちゃったよ……」
もちろん、そんな話は嘘である。
こういう知らない情報を与えて会話の主導権を握った方が、自分の要求はスムーズに通るのだ! ……よい子のみんなは、マネしないでね。
「ということで、焦らず、まずは話し合おう。練習メニューと計画を立てることは勝利のために絶対だ」
「う、うん。そうだね?」
よくわかってないけど、とりあえず合わせとけー、というオーラを感じる。
「よし。それじゃあ、ゆとり。僕たちの目的はなんだ?」
「えっと……剣道で雪城さんに勝つこと、だよね?」
ゆとり少女発言もスルーするくらい、テンパっているらしい。
よし。このまま僕のペースだ!
「そうだ。夕希に剣道で勝たなきゃいけない。それも、そのための準備期間は一週間しかない。だから、何の作戦も無く、ただ普通に剣道の練習をしていたんじゃ、絶対に勝てない」
「う、うーん。確かに、そうかもね」
「そこでだ。お前としてもいろいろやり方があるんだろうが、今回は特殊なケースだし、僕が考えるやり方に付き合ってもらえないだろうか?」
「神無君の考えるやり方?」
「うん。夕希に勝つために絶対に必要な技術、それは『一本をとれる技術』。どんなに防御を固めても、相手から一本を取らないと勝てないスポーツなんだよ、剣道って」
「そ、それくらいはあたしだって知ってるよ!」
む~、と口を尖らせるゆとり剣士。
「おお! なら話は早い! それなら、この一週間は、『一本をとれるようになること』を最優先でやっていこう!」
「うん、そうだね。あたしも、それがいいと思う」
にゃはは、と僕を心から信じている笑みを浮かべた時――
計 画 通 り !
と、僕は心中でニヤリと笑った。
実際、必要な技術はそこだ。そして、そこだけだ。
剣道に限らず、スポーツは美学でもあるのか、やたら基礎を練習する節がある。
そんな地味で面倒な努力、僕は嫌いだ。
勉強でもそうだが、僕は自分で学習する時、初めての問題はまず答えを見る。
そして答えの流れ、回答の導き出し方を学んでから、もう一度問題に向き直る。
これがベストの勉強法だ。頭の固い教師に言わせれば、『それは考える力を低下させる』だの、『時間をかけて一生懸命解いた問題の方が記憶に残る』だの不平不満を言うが、僕はこの勉強法でずっと勉強してきて、朝霧学園入試ランキング第一位を勝ち獲ったのだ。
綺麗事と現実は違う。
いつだって僕のやり方が正しくて効率が良く、一番の正解なのだ。
さらに言えば、今回は一週間だけの剣道だ。正直、基礎からちまちまやって大器晩成に成長する気なんて、さらさら無い。
だから、本当に必要な部分を最優先で学習できるように仕向けたのがだが――思いの外、スムーズに事が運んだな。
「よし、それじゃあ、一本をとれるようになる練習を始めようじゃないか!」
「うん、そうだね!」
ゆとり少女もご機嫌で指導してくれるようだ。
「さて、それじゃあ……一本をとるためにはまず、なにから練習すればいいかな?」
「うん。じゃあ、足捌きからだね!」
おかしい。
最初と練習内容がまったく変わっていない気がするぞ。空耳か?
「えーっと、そうじゃなくて。基礎はいいから、一本をとるために、本当に必要なことから始めよう! 最初は、なにから練習すればいいかな?」
「ん? あ、そうか。足捌きの前に構えからだよね。……あ。その前に竹刀の持ち方からかな?」
まさかの後退だった。
空耳を期待して聞き返したのに、状況をさらに悪化させてしまったらしい。
……というか! どんだけゆとりなんだ、こいつ!!
時間無いんだぞ!? 分かってるのか!?
「それじゃあ、まず竹刀の持ち方ねー。えーっと、まずは竹刀の柄の先を左手で持って――」
……文句は山ほどあるのだが、いくら理屈を説いても、このゆとりに伝わるとは小指の先ほどにも思えない。
僕は半泣きになりながら、竹刀の握り方を学ぶのだった。
ずる、ぺた。
ずる、ぺた。
剣道の練習を始めて二日目。
結局昨日は、竹刀の握り方と構えだけに大半の時間を使ってしまった。
左手で竹刀の柄の端を掴み、右手は添える程度の力で竹刀を持つ。野球のバットと違い、竹刀は横からではなく、上から握るらしい。
そうやって握った竹刀を体の真ん中(左手が腹の真ん中くらい)で真っ直ぐに構える。剣先は相手の喉元を狙っておくのだとか。
そして、『気をつけ』の姿勢から握りこぶし一つ分くらい足を開き、同じく右足の踵と左足のつま先の間に握り拳一つ分くらいの空間ができるように左足を下げる。この時、左足の踵は薄い紙が入るくらいに浮かし、体重は後ろの左足に多めにかける。
――以上が、ゆとりから昨日教わった竹刀の握り方・構え方の全てである。もっとも、ゆとり剣士にはこんな風に完結明瞭に説明できるほど指導力が無かったので、僕が質問したり、考えたりした成果による部分が大半を占めているわけだけど。
それ以外に教えてもらったことは……この『すり足』とかいう歩行方法だけだ。
左足を引き付けて、右足を前に出す。
左足を引き付けて、右足を前に出す。
こうやって剣士は進んでいくらしい。……なんのこっちゃ。
「む~……。神無君、もうちょっと真面目にやってよぉ~。なんかぺちぺち、ぺたぺた音がしてカッコ悪いよぉ~……」
「そうは言うがな、これはお前に教えてもらった歩き方をまんま実行しているハズだぞ? なにか問題があるなら、お前の指導の方が間違っているんじゃないのか?」
「そ、そんなことない! ……と、思うけど……」
昨日やたらと僕に突っ込んだ質問をされ、しどろもどろに回答することを余儀なくされた影響か、ゆとりは自身なさ気だ。
「あー。飽きた。もう、ほんっと、飽きた。どうしてこんなつまらないことをやっているんだ、僕は。どう考えても合理的な移動法じゃないぞ、これ。普通に歩いた方が絶対にうまくいくって……」
あー。愚痴が止まらねー。
さっさと一本をとる練習に移らないと、ほんとヤバいと思うんだけどなぁ……。
でも、それをゆとりが理解するとは思えんし、なにより自分のやり方を否定されたら絶対不機嫌になる。最悪、拗ねる。……子供か!
「あー。もう、なんか他の事したい。せめて、竹刀振りたい。いや、竹刀振るのもしんどいから、やだ。一本とる練習したい。最低限必要なことだけ、したい」
実は昨日、少しだけ素振りも教えてもらった。
見た目や口で言う分には簡単そうなのだが……しかし、実際にやってみると、これまた意外と難しかった。ただでさえそうなのに、今まで運動せず、筋トレも一切してこなかった僕には異常にしんどい作業だったのだ。
そういう意味でも、もう詰み。降参。僕の負け。
「まぁいいかぁー……。別に僕が負けたって僕にデメリットがあるわけじゃなし……」
「うぅ……神無君のテンションがガスガス下がってるよ……」
「当然だろう。なにが面白いんだ、このスポーツ」
以前ほんのちょっとだけでも『面白そう』と感じたのは、絶対、気のせいだったに違いない。
「うみゅ~……仕方ない! じゃあ、他の事やらしてあげるよ!」
「マジか!?」
ちゃららっ、ちゃっちゃっちゃ~!
カンナヒロ は レベル が あがった !
「うん! 試合には絶対に必要な『蹲踞』を教えるよ!」
「なに!? 『試合に絶対に必要』だと!?」
そう、それ!
そういうのを僕は練習したかったんだよ!
こんな意味もワケも分からないような歩き方とかどうでもいいんだよ!
そんなことより、本当に試合に必要な『解答』をプリーズ!
「それじゃあ、まずは構えてー!」
「おう!」
もうすかっかり馴染んできた感のある構えをとる。随分長い時間練習してるからな。
「そのまま、しゃがむ~」
「ほう……。これで、いいか?」
ちょっとだけフラつきながらも、なんとかそのまましゃがんだ。
竹刀を持って中腰になるとか、なんか新鮮だな。
「はい、よくできました~。それが、『蹲踞』です!」
「? 蹲踞? これが??」
「うん、そう。剣道ではね、試合前に一礼して、三歩で試合場の中心まで入って、そこで蹲踞をして、「始め!」の合図で立ち上がって試合が始まるんだよ~」
「…………」
つまり、あれか。
これは、礼の類であって……これもまた、勝つために、一本をとるために必要な技術じゃないのか。
「はぁ……そろそろ剣道やめようか……」
「まだ二日目だよ!?」
「僕には向いてないと思うんだ……」
「そ、そんなことないよ! 剣道着姿の神無君、カッコいいよ!」
「本当に? 女の子にモテる?」
「うん! きっとモテるよ!」
ゆとり少女が、ちょっとだけ頬を赤く染めながら言った。
たとえそれが嘘やお世辞だとしても……まあ、悪い気はしないかな。
僕は調子に乗って、さらに聞いてみた。
「じゃあ、お前も、惚れる?」
「はにゃっ!?」
カーッと、ゆとり少女の顔が真っ赤になる。
なんだよ。こんなの挨拶みたいな冗談だろう? どうしてそこまで照れる?
『うん、惚れちゃうよー』とか、『調子に乗んなー』とか、軽く返せばいいのに。
ちなみに『みんなは惚れるかもしれないけど、あたしはその程度じゃあね……』みたいな、少し皮肉を込めた切り替えしが個人的には好みである。
「えーっと……えーっと……その……。……。……。う、うん……」
迷った末、普通に肯定することを選んだようだ。
つまらないな。これだから、会話の切り返しが楽しめる年上の女性の方が僕は好みだ。
「まぁ、別にお前に好かれても、剣道をするモチベーションは全く上がらないわけだが」
「がーん!」
なんか本当に『がーん!』という表情だった。
うーん……ちょっと傷つけたか? 女心はよくわからん。
「う、うぅ……。い、いいもん! そんなことより、蹲踞の練習するよー!?」
やっぱり少しご機嫌ナナメになってるっぽい。
原因が分からない以上は、スルーしておくのがいいか。
「おうー……って、蹲踞なら今したろ」
「ちゃんと相手がいないとねー。今日はあたしも竹刀持ってきたから、お互いに試合開始まで練習してみよー!」
そう言って、ゆとりは、現在地とは反対側の白線の外まで走っていった。
「いーい? そこで礼をして、一歩だけ中に入ってまた礼して、そこから三歩で試合場の中心にある白線までくるんだよー?」
なんだそのシステム。
面倒この上無いな。
「了解。じゃあ、礼、と」
お互いに礼をして一歩だけ試合場内に入り、そこでもう一度礼をして、三歩で中心の白線まで進む。
「わわっ」
……三歩の目測を見誤ったらしく、ゆとり少女が最後の一歩を無理矢理大きくして距離を稼いだ。……そんなんでいいのか。
「い、いいんだよっ! 三歩で出ればいいんだから――」
ちょっとだけ焦ってそう言っていたが、呆れながらしゃがむ(蹲踞)僕を見て、はた、と、なにかに気づいたように言葉を止めた。
「? どうした?」
なにか間違っただろうか。教わった通りにやったつもりだが……。
ゆとりは今この場、試合場の中心でミスをしたというように、おずおずと告げてきた。
「あ、あのね、神無君! 今日、あたし、剣道着じゃないんだ!」
「見ればわかるけど」
今日はたまたまみたいな物言いだが、昨日だって制服だっただろう。
「えっとね……その……す、スカートだから……あ、あんまり下、見ないでねっ!!」
「!!?」
一瞬、ゆとり剣士がなにを言っているのか分からなかったが――一瞬後には、全てを把握した。
確かに、制服姿で蹲踞(構えの姿勢で足を開いたまましゃがむ)をすれば、その……スカートが、あられもない感じになるのは目に見えている。
「う、うぅ~……み、見ないでよぉ~……」
「い、いや! 別にそういう訳じゃあ!?」
気づけば僕は、普通にスカートを見ていた。
違うんだ! 僕は変態じゃない!!
ただ最初の一瞬、『スカートが何だ?』と思った時に、視線がそっちに行ってしまっただけで、スカートが大変なことになるのを見ようとしてるわけじゃない!
心中で誰かに向かって必死に言い訳をしている間も、ゆとり少女は徐々にその体を下げている。
つまり――
「み、見ないでって言ってるのにぃ~……」
……違うんだ! 信じてくれ!
神に誓って、これは違う!!
別に、ゆとりのスカートが気になるとか、あまつさえ下着が見たいとか、そういうことじゃあ決して無いんだっ!!
でもさ!? だって、目の前に女の子のスカート(それも、自分が通う学校の女子生徒の制服)があったら、つい、見ちゃうだろ!?
男の子って、そんなもんだろ!? 仕方無いんだよ!!
『このゆとりだから』なんてことは、断じて無いっ!! 神に誓って無い!!
ただ僕は、健全な男子高校生として、目の前にある女子高生の制服のスカートに、本能的に目を奪われてしまっただけであって――
「うぅ……」
ぐはっ!?
ギリギリだ! それ以上は本当に、危険が危ない!!(?)
涙目のゆとり少女。戸惑うような、恥らうような、その声。徐々に乱れ、見えるか、見えないかの境界で揺れるスカート。
365日24時間、常に冷静沈着な僕も、この時ばかりは思考を鈍らせてしまっていた。
それでもどこかで、最後の冷静な僕が言う。『蹲踞、やめさせればいんじゃね?』と。
その通りだ。今すぐにでも、やめさせればいい。
無理して蹲踞する必要はないんだ。また明日、ちゃんと剣道着に着替えてから教えてくれても――。
だが、そんな言葉は、一切、僕の口から零れなかった。
そして――
「う、うぅ……もう、恥ずかしいから、一気に……えーいっ!!」
ゆとり少女がギリギリの体勢から、一気にしゃがみこむ――!
その瞬間、最後の冷静だった僕もどこかへ行ってしまい、結局、最後まで目が離れないままスカートを凝視し続け――――
「ふっっざけんなぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!!」
叫んだ。力の限り、叫んだ。
僕の視界には、乱れて空いてしまったスカートの隙間から、青い 体 操 服 が映っていた。
「……なにしてるの?」
叫ぶほどに何かが高揚していた僕に、北極の吹雪よりも冷たい一声がかかる。
「ゆ、夕希さん……?」
ぎちぎち……と、壊れた機械みたいな音をさせて首を回し、入り口を振り返ると――そこにはなぜか、最悪のタイミングで最悪の人物が立っていた。
「…………」
無言が痛い。視線が痛い。空気が痛い。
女の子の最強武器は『涙』だが、その次に強い武器は無言の視線という事実が判明した。
うん。今日も神無紘は、学びながら生きています。
「…………」
……なんとか現実逃避をしようと試みたが、見事に失敗した。状況が全く変わらない。
神童と呼ばれ、自他共に認める優等生であるこの僕も、さすがに今の状況を打開する策は、すぐには浮かばなかった。
営業スマイルのまま冷や汗をかきつつ、必死にうまい言い訳を考えていると……意外にも、ゆとりがフォローに回ってくれた。
「ち、違うんだよ、雪城さん! これはあたしが今日、剣道着を忘れたことが原因で……!」
「……なら、別の日に練習すればよかったんじゃないの?」
「あぅ!?」
ゆとりがブリザードに呑み込まれていく!
ていうか、ゆとりが吹雪に勝てる道理など無い!
「え、えっと……そ、そうだね! でも、あたし、気づかなくて……!」
「……ヒロは、もちろん、気づいてたよね?」
「そうなの!?」
まさかの造反だった!
ゆとり少女も相手しなくちゃいけないのかっ!?
「い、いや! そんなこと……!」
「……あるよね? 頭のいいヒロが、そんなことに気づかないなんてこと、ないでしょ?」
「……。……。…………はい」
弁解のしようが無かった。
伊達に13年間、人生の半分を同じ部屋で過ごしていたわけではないらしい。まるで僕の心を透かして見ているようだ。
「そうなの!? ひどいよ、神無君!」
ゆとり少女の追撃! 神無紘に150ポイントのダメージ!
「……ヘンタイ」
吹雪女のフィニッシュブロー! 神無紘に999ポイントのダメージ!
……今回のそのセリフは状況にピッタリですネ!
「「「…………」」」
……心中で明るくツッコんでみたが、場の空気は停滞したままだ。
うぅ……因果応報って本当なんだね……。
「え、えっとね、雪城さん! あたし、スカートの下、体操服着てたから大丈夫だし、それに、別にあたしは神無君になら見られても……なんとか、セーフっていうか……!」
ゆとりがテンパってなんか変なこと言い出した!
やめてぇー!
これ以上、状況を悪くしないでぇー!
「…………」
そんなゆとり少女の必死のフォローに対するブリザード女の対応は……無言だった。
「…………」
さすがの能天気ゆとりも、これは堪えたらしい。
同じく無言になってしまった。
「「「……………………」」」
空気が、痛い、です。
なにこの『恋人に浮気がバレてしまった二股彼氏』みたいな状況。
夕希とは付き合っていないどころか仲良しですらないのに、どうしてこんな空気にならなきゃいけないの……?
神様……僕は今日、そんなに悪いことをしましたか……?
「はっはっは。両手に花だな、神無少年!」
再び入り口から声がして、振り返ると、今度は学園長が立っていた。
「学園長!」
なんて素晴らしいタイミング!
こんなに貴女と話がしたいと思ったことなど、未だかつてありません!
僕はこの非常にしんどい空気をどうにかすべく、学園長と無理矢理会話を進めることにする!
「お久しぶりですね! いやぁ~、今日はどうなさったんですか?」
優等生の完璧営業スマイルで、最大限の親しみを持って学園長に話しかけた。
「いや、なんか神無少年がゆとり少女にエロいことしようとした挙句、その場を吹雪少女に目撃されたような、非常にいたたまれないドロドロした空気を感じたので、近くで見学しようと思ってな」
「最悪だぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああ!!」
まったく状況が好転しなかった。
むしろ、悪化した気さえする。
「むふふ……神無少年も純朴そうな顔して、結局、盛ってる獣だったんだな。いやん、怖い! 私、身の危険を感じちゃうぅ~」
あー……。死にたいなぁ~。
認識したくない現実に、思わず遠い目をして、現実逃避し始める。
天国って、どんなところなのかな? やっぱり楽しいのかな?
天使とかいて、温かい気持ちで、ずっと平和に暮らせるのかな……?
「おーい、少年~? 帰ってこーい」
学園長が僕の顔をぺちぺち叩いているような気がしたが、意識はすでに天国だ。
どんな現実も、シャットアウト。
「『ダメだ、こいつ……! 早くなんとかしないと……!』……ということで、吹雪少女よ。神無少年だって男なんだ。多少のエロは目を瞑ってやれ。それに、最近のライトノベルじゃ、まったくのエロ無しで読者のハートを射止めることは難しいんだぞ?」
なんの話をしてるんですか、なんの。
「……別にあたしは、ヒロが誰と何をしていても関係ありません。それと、『吹雪少女』ってなんですか?」
「ん? 違うのか? 神無少年は心中でずっとそんな風に呼んでいるが」
「…………」
もし僕の現実がライトノベルなら、この話のストーリーを変更してくれと、切に作者へお願いしたい。
「……別にいいです。どうせわたしは冷たい女ですから!」
「ぷろっ!?」
手に提げていたビニール袋を僕の顔に投げつけて、夕希は剣道場を出て行ってしまった。
「うーむ……選択肢をミスったか? 神無少年を二人の少女に取り合いさせて、その現場を楽しむのが私の予定だったのだが……」
「あんた本当に最低だな!」
僕は心の底から本音を叫んだ。
うぅ……剣道部の主将さんに慰めてもらいたい。
「スカートのことを黙ってた神無君も悪いと思うよ……」
ゆとり少女のつぶやきにより、ちくちく良心を追撃される。
「おや。少年、それは剣道関係のグッズじゃないのか?」
学園長が夕希の投げていったビニール袋を指差しながら言う。
中を見ると……なんかヤスリっぽい金属片やテープ、包帯、消毒液、絆創膏なんかが入っていた。
「いや……どうなんでしょうか? 剣道グッズというよりは、医療関係のものに見えますけど……」
「あ、そのヤスリは竹刀のささくれを削る道具だよ。テープもテーピングみたいだし……ちゃんと剣道関係のものだよ!」
横からビニール袋を覗き込んだゆとりが説明してくれた。
ふむ。これは……
「剣道部の主将さんからの差し入れだな! いや~、ほんといい先輩だよなぁ~、あの人」
年上好きの僕としては、そろそろマジで惚れちゃいそうです!
「……少年。吹雪少女の差し入れという可能性は無いのか?」
「ええー。無いですよ~、そんな可能性。大体、戦う相手に塩送ってどうするんですか」
「……いや、差し入れついでにゆとり少女と神無少年の雰囲気でもチェックしに来たのかと……いや、まぁ……そんなこと言っても無駄だな、この少年には……(ぼそぼそ)」
「?」
学園長がなにやらぶつぶつ呟いているが、よく聞こえないので、独り言だろう。
「ん?」
ごちゃごちゃした医療関係の下に茶色い袋が入っているのに気づいた。
なんだこれ? これも医療道具か?
開けてみると……
「……『はじめての剣道』?」
なんか剣道入門書っぽかった。
そういえば、ネットでこそ調べたが、本を買うという選択肢をすっかり忘れていたな……。これは、非常にタイムリーでありがたいかもしれない。
とりあえず、パラパラとページをめくってみる。
「お~。かなりちゃんとした本だねー」
剣道経験者のゆとりがそう言うなら、そこそこの良書なのかもしれない。
なになに……ふむふむ。『剣道は足裁きから始まる』。
おお! 奇遇にもゆとりと同じことが書いてあるじゃないか!
「……あたしの指導がどれだけ信用されてないか、わかったよ……」
本の序盤のページを驚きの顔と共に読む僕を見ながら、うんざりしたように呟かれた。
くっ……ゆとりにまで心中を読まれるとは……屈辱!
「よし。それじゃあ、一本をとるために最も必要かつ有効な技は――」
「あー! ダメだよ、神無君! ちゃんと基本からやらないと!!」
一瞬の隙を突いてゆとり少女が僕から本を奪い、素早く後ろに飛び退いた。
……猫か、お前は。
「神無君、絶対この本読んだら必要なところしかしないよ! 順番すっぽかすよ! それじゃあ、強くなれないよ!?」
「別にいいじゃないか。あと6日後にある夕希との勝負に勝てればそれでいいんだから……」
「うぅ~! できればその後も続けてほしいって気持ちもあるけど、それを抜きにしても、絶対、基本をおろそかにすることは良くないのっ!!」
そう言った後、本を背中の後ろに隠された。……子供かっ!
「はぁ……わかった、わかった。仕方ないからショートカットは諦めるよ。お前の指導方針だからな。その代わり、今やってる足裁きと素振りの所だけでも見せてくれ。そっちは今の練習に参考にするんだから、いいだろ?」
「む。まあ、それなら……」
ゆとり少女から本を受け取る。
ここで約束を破ってショートカットの道を探す選択肢も勿論あったが、それじゃあまたゆとりのご機嫌とりに段階が逆戻りする。
少々面倒だがこれが最短なのだと信じて、今は足捌きと素振りの練習に集中することにしよう。
「ほうほう……なるほど。なんだ。写真付で説明されれば、かなりわかりやすいな。とりあえず僕は左足で押し出すのが足りてないみたいだ」
練習中ずっと『ペチペチ、ペタペタ』音がしていたのはそのためだ。
もっと左足に力を入れて、本当に床のスレスレを、足を滑らすように進ませる必要があるのか……。
「確かに神無君なら本があればすごい勢いで上達しそうだけど、それはそれでなんか不服だよ……」
本から多くを学んでいる僕の横で、ゆとりは不満気に唇を尖らせていた。
だが、こっちだって時間が無いんだ。この本は有効活用させてもらう。指導役として機能しないほど拗ねてるわけでもなさそうだしな。
「やれやれ……。神無少年が真面目に剣道の練習を始めたらつまらないな……。そろそろ私も帰るか」
ずっと二人の状況を見ながらパイポを吸っていた学園長が踵を返す。
本当に僕で遊ぶためだけに来たんだな、この人……。
「さぁー! 練習再開するよー?」
ゆとり少女がやけくそ気味に元気良く宣言する。
どうやら今のごたごたで、さっきのスカート事件についてはすっかり忘れたようだ。
こいつの『ゆとりっぷり』が役に立ったのは初めてのことである。
「うぃ~」
気だるげに返事をしつつ、僕も素直に練習を再開した。
この本で、少しは勝機を見つけられればいいのだが……。
そうこうしている内に、さらっと一週間が過ぎた。
…………。
…………。
…………………………………………って。
「ええええええええええええええええええええええええええ~~~~~~~~~~~!?」
「ど、どうしたの、神無君!?」
ゆとり少女は突然叫び出した僕に大層驚いたようだが……そんな場合じゃない!
「どうしたもこうしたもあるかっ!! マジでミスった! お前に付き合って真面目に練習している内に、明日はもう試合じゃないかよ~~~~~~~~~~~~~~~!!」
半泣きだった。
神無紘、久々にマジの半泣きだ。
「結局この一週間、足捌きと素振りばっかだったじゃん! 他に、なにもしてないじゃん! こんなんで勝てるわけねぇだろぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「うにゃあっ!?」
一週間従順に修行を積んできた弟子に久々に詰め寄られて、ゆとりが変な発声と共に後ろへ下がった。
僕は当然距離を詰め続ける!
「お前が『あたしの指導力は天下一品なんだよ!』とか! 『足捌きを制するものが剣道を制するんだよ!』とか! 果てには『ちゃんと言うこと聞いてくれないと……な、泣いちゃうもん……』とか涙目で文句言うから付き合ってきた結果が、これだよ!!」
「う、うぅ……今日までは真面目にあたしの指導に着いてきてくれたのにぃ~!」
「僕がバカだった! ある意味僕もこの一週間『ゆとっていた』と言わざるを得まい! そこまで足捌きが重要であると洗脳され、必死に足裁きと素振りばかりやっていたから、当初の目的を忘れていた!! 足元ばかり見て、進行方向をまったく見てなかったぁ~~!!」
これがゆとり教育の恐さか!
最初は違和感を感じていても、周囲と自分の足元だけを見せることにより、違和感すら感じさせなくするマジック! なんという孔明の罠!
「だー! もう! 今日という今日は僕の方針に従ってもらうぞ!? 明日が試合なのに足裁きばっかやってられるかぁ~~~っ!!」
「うぅ~……た、確かに未だに防具も着けたことないのはマズイかもね……。今日は防具着けて、神無君の希望を少しは叶えるよ……」
「少しじゃない! 全部だっ!!」
ええいっ! この僕が追い詰められるなんて何年振りだ!?
勉強は常に予復習をしている上、テスト週間の前半に集中してやるからテスト前日とかは体調管理に気を使ってるくらいだし。その他のことに対しても、基本的に前準備をしっかりやる方で、こんな前日ギリギリになって焦る経験なんて久々だぞ!?
「わ、わかったから……。えーっと……とりあえず、じゃあ、防具をつけてみようか。あたしも今日は剣道着と防具持ってきてるから相手するし……」
「当然だッ!!」
僕はゆとりに教えてもらいながら、なんとか防具を着ける。
焦りからなかなか胴紐が結べなかったが、ゆとり少女に手伝ってもらって、どうにかこうにか装備に成功した。
そして、面を――
「って、なんだよその意味の分からん被り物はっ!?」
「ふぇ? だって直接面を被ったら痛いし、汗落ちてくるでしょ? だから間に手ぬぐいをするんだけど……」
「それはいい! 問題はなんでそんなに複雑な被り方なんだってことだよっ!」
手ぬぐいを正面に持ち、前髪を上げつつ後ろに被り、両手に持っていた両端を額で交差。余って顔に垂れてた手ぬぐいの余りを頭上に上げ、装着完了。
「結んでないからすぐ落ちるし、手順複雑過ぎだろう!? もっと現代的なアイテムを使えよ!」
「はわわ……。神無君が普段に増してツッコんでるよ! ……よっぽど余裕が無いんだね……」
「当たり前じゃあー!!」
思わず地元の方言が出るほどに切羽詰ってる僕。
今どれくらい時間経った?
どれくらい防具をつけるのに時間をロスした?
今日練習できるのって、あと何時間何分?
勉強と違って徹夜するとさらにひどい結果になるのは目に見えている!
明日授業サボってここで半日練習してる方がいい?
それとも――
「あぅあぅえうあう~~~~」
「普段冷静な神無君からは想像できない姿だね……」
ゆとり少女が苦笑しながらなにか言っていたが、そんなことを聞いている余裕も無い。
なにか方法を考えないと……!
どうにかして成功のルートを作らないと……!!
――きゅっ。
僕がすごい勢いで面を結ぼうと動かしていた手(しかし焦りすぎて全くうまくいってない)を――ゆとりが握った。
そこで、僕の手の動きも止まる。
「にゃはは……。そんなにあせらないで、神無君。人生あせったって、きっといい事ないよ? もっと『ゆとり』を持って、のんびり、ゆっくり頑張ろうよ」
そのゆったりした口調と、暖かい手の温もりで……徐々に僕も冷静になっていった。
「……悪い。ちょっと、テンパってた」
「にゃはは。かなり、ね」
いつも通りの猫みたいな笑顔にほっとする。
「ごめんね。あたしも、もっと説明すればよかったね。……やっぱり、一週間で剣道の全てをものにして、雪城さんを軽~くやっつける……なんて、難しいんだ。だから、神無君はイヤかもだけど、一番大事な基礎を教えることにしたの。……にゃはは。それで勝てるかどうかはわからないけどね。それでも……剣道経験者は、もっと、基礎をやってれば良かったなーって思ってるから」
そんなことは今日まで一言も言ってくれなかったが、その思いが真実であることだけは、僕にきちんと伝わった。……ゆとりのくせに。
「……ふう。よし、落ち着いた。今日で最後だけど、最後まで全力を尽くそう。ここまで来たんだから仕方無い。もうお前の指導を信じるよ」
「にゃはは。ありがと」
そうして、練習最終日であるこの日。
僕は初めて防具を着けてゆとり……ゆかりと対峙し、今までのおさらいと踏み込み、面打ちを教わった。
今までの状態でも四苦八苦だったのに、防具を着けたことで体が重くなったため、当然ながら全然満足に動けなかった。
何度も失敗したし、何度も転んだ。
でもそれは、ここ一週間ずっと同じだ。
一度でうまくできたことなんて、一つもない。
だから僕はその度に立ち上がり、また同じ事を同じ失敗をしないように気をつけながら繰り返し続けてきた。
それでもできない事がたくさんあったし、できるようになった事も少しだけあった。
別に今でも、剣道が面白いなんて思わない。
暑いし。しんどいし。面倒だし。辛いし。汗臭いし。
そう思いながら練習し続けた一週間の最後日である今日、最後の時間、最後の練習でゆかりの面にいい音がして竹刀が当たり――
「すごいよ、神無君! 今のは一本だよ!!」
一本をとられたのに、あたかも自分の学校が全国優勝を果たしたかのように喜ぶゆかりを見て――僕は少しだけ、剣道が好きになった。
――どくん。
心臓の音がうるさい。
時刻は16時12分。朝霧学園の部活動は16時30分から始まる。部活の後にすると体力的に問題があるかもしれないということで、僕と夕希の試合は部活開始直後に行われる運びとなっていた。
――どくん。
僕は一年生だからクラスは一階。格技場までは5分もあれば行けるだろう。着替えの時間を考えても、20分に教室を出れば間に合う。
――どくん。
気を落ち着かせるためにルーズリーフのファイルを開いた。
ゆとり少女は僕の邪魔をしたくないのか、教室にいない。トイレにでも行っているようだ。
鞄からペンケースを取り出し、お気に入りのシャーペンで、文字を書いていく。作戦タイムだ。
――どくん。
僕の武器は……構え、足捌き、素振り、踏み込み、面打ち。
これが全てだ。この一週間やってきたことはこれ以外に無い。胴打ちも篭手も、もちろん突きも、僕にはできない。
一本をとるなら面しかない。
――どくん。
しかしそれは、全く戦えないというわけでもない。
少なくても昨日一回、ゆとり少女から一本とることができた。一本をとることが出来る以上、たとえ勝率が低くても、戦えないということは絶対に無い。
――どくん。
僕は鞄の中から本を取り出した。『はじめての剣道』。
昨日、『もう練習は終わったのだから知識はいくらついても構わない』とゆとりが渡してくれた。一通り読んでみて、今からでは時間的に遅いものばかりだったが……一つだけ、非常にためになる記述を見つけた。
【剣道で一本をとりやすい場面は、出先と居ついた所】
出先とは、技が発生する瞬間のことらしい。即ち、『面を打とう』と思って動作に入ろうとした瞬間である。
反対に居ついた所とは、技を出し終わった瞬間のことで、剣道で言うと残心の動作(ゆとり的に言うならキメポーズらしい)を行う瞬間である。
要するに、技の始めと終わりが攻撃のチャンスなのだ。
これはゆとり少女から聞いた勝負のテクニック……というか、ちょっと反則チックな裏技なのだが、もし面を叩かれても、体勢・構えが崩れていなければ、一本とは認められないらしい。
剣道の構えでは、お互いがお互いの喉元に向けて竹刀を構える。
たとえ相手の頭を切ろうと、喉元に刃を突きつけられているのなら相打ちだろう、というのが剣道の考えであるらしい。
この情報がどこまで正確かはさておき、とりあえず実際の試合でも面を叩いただけでは一本にならないという例は存在する。……そこまでが正確なら充分。
僕の方針はこうだ。
まず、僕からは絶対に攻撃しない。なぜなら、僕が攻撃しようとした瞬間を夕希に抑えられて、それでゲームオーバーになるからだ。
僕には全然出来ないけど、剣道には相手の面を弾いて面を打つ技や、相手が面を打ってくるスピード利用して相手の面より先に篭手を打つ技が存在する。ゆとりはいくつか出来ると言っていたから、同じ段位の夕希も当然出来ると考えるべきだ。
だから、僕からは絶対、安易に攻撃しない。
しかし、攻撃しないと勝てない。それなら、僕が攻撃するのは、『絶対に一本がとれる瞬間』か、少なくとも『一本をとれる可能性が高く、逆に一本とられない可能性が高い瞬間』――即ち、『居ついた所』だ。
作戦なんて簡単だ。
僕は試合が始まってすぐ、真っ直ぐに竹刀を構える。構え続ける。
たとえ相手がどんな攻撃をしてきたとしても関係ない。ただ僕は、相手の喉元に竹刀を……刃を突きつけ続ける。
そうして時間を稼ぎ、勝機を窺い――夕希が『居ついた瞬間』に、思いっきり竹刀で叩いてやる!
女の子を叩くなんて趣味じゃないが、ちゃんと防具をしているし、なにより向こうの方が強いのだ。今回だけは例外ということで、勘弁してもらおう。
これが僕の、唯一の作戦だ。
このカードで、勝負するしかない!
「……そろそろ、時間だよ?」
ルーズリーフを見ながらシャーペンを回していた僕に、控え目な声がかかる。……ったく、お前はそんな風に気を遣う人間じゃないだろうに。
「おう。んじゃあ、行くかっ!」
竹刀袋と剣道着を持って、ゆとり少女と一緒に教室を出た。
……戦争に行った兵隊さんも、こんな気持ちだったのかねぇ……。
「遅い」
着いて早々、夕希に怒られた。
「30分から部活開始だったら、10分前には来て準備を始めておかないと、着替えや防具を着けるのに時間がかかるでしょ?」
ごもっとも。
本日の対戦相手とは言え、言っていることは完全に正論だったので素直に謝り、急いで着替えと防具の装着を済ませた。
「うお……自分でもびっくりするくらい緊張しているんだな……」
この胸の内側がくすぐられているような、静電気が走っているような感覚。
ちょっとだけ震えている手と、早い動悸。
情けない話だが、結構緊張しているようだ。
「神無君、神無君」
胴まで防具をつけて立ち上がると、ゆとり少女が僕の篭手を手にはめて手招きしていた。
……なんだ?
「とりゃっ!」
「ごふっ!?」
まるでサンドバッグを殴るボクサーのような動作で、僕の鳩尾を思い切り殴られた。
「な、なにすんだ!」
「いや、ここをこういう風に殴ると、気持ちよくない?」
「僕はMじゃねぇ!」
「ええっ!」
「なにその斬新な驚き! 今まで僕がM体質を疑われるようなエピソードがあったか!?」
「確かに無いけど……それじゃあ神無君は、女の子にいじめられるより、女の子をいじめる方が好きなんだね……?」
「その言い方もどうだろう!」
「そっか……。神無君、女の子をいじめたいんだね……」
「表現がどんどんヤバイ方に行ってね!?」
「……う、うん。あんまりひどいのは嫌だけど、ゆる~い感じなら……なんとか、頑張るよ」
「なんの話!?」
「……大丈夫! あたし、いじめられるのそんなに嫌いじゃないしっ!」
「お前がMだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああ!!」
僕の絶叫に、準備体操をしていた剣道部の皆さんが振り返る。
「……すみません」
うぅ……僕は悪くないのに……。
このゆとりが全ての原因なのに……。
「なんか汗かいてる? もう一回殴ろうか?」
「さらりとバイオレンスな発言をするな! 僕はMじゃないって言ってるだろう!」
「そうじゃなくて……緊張してる時、ここを殴ると少しは楽になるかなー、と思って。中学の剣道部でよくみんな殴り合ってたんだ~」
「…………」
そういうことなら、最初からそうだと言ってくれ。頼むから。
そうすれば、今僕がかいた恥は必要なかったのに。
「ああ……確かに緊張は和らいだよ」
「ほんとに? にゃはは。やったー!」
もっとも、緊張が緩和されたのは殴られたからじゃなく、お前とのバカな会話で恥をかいたのが原因だけどな。
少しだけ楽になった身体で、準備体操と素振りを始める。
一週間、この基礎ばかりやってきたせいか、大して考えなくても勝手に身体が動くな。
「そろそろいいかしら?」
あらかたウォーミングアップが終わったあたりで、剣道部の主将さんが話しかけてきた。
「はい、大丈夫です」
「……ほんとに、ごめんね。同じ言い訳の繰り返しになるけど、ここは朝霧学園だから……」
最後まで申し訳無さそうに言う主将に、僕は笑顔を返した。
「わかってますよ。仕方ないです。たとえこの試合の結果がどうなっても、主将さんを恨むようなことは無いんで、安心してください」
「そう言ってもらえると、ありがたいわ」
苦笑いだったけど、笑ってくれた主将さん。
やっぱり、人――特に女の子は笑顔が一番だな……と、なんとなく思った。
「それじゃあ、試合を始めるわよ!」
主将さんが部員に声をかけ、部員が全員、白線で区切られた試合場の外側に移動する。
僕は隅で防具をつけ、竹刀を持って試合場に歩いていく。
「にゃはは。がんばってね、神無君! 神無君なら、絶対勝てるよ!」
「当たり前だ。なんのために一週間もしんどい思いをしたと思ってるんだ」
僕の右拳とゆとりの右拳を打ちつけて、白線の一歩外まで移動した。
「…………」
対面の白線の一歩外には、同じく剣道着と防具に身を包んだ夕希。
僕の紺色の剣道着とは違う、白い剣道着に身を包んだ夕希は……落ち着いた様子で、本当に強そうに見えた。
落ち着け。
相手の喉下に竹刀を構えることだけ考えろ。
お互いに場外で礼、その後一歩試合場に入って再び礼。
三歩で試合場の中央にある白線まで辿り着き、お互いにお互いの目を見たまま蹲踞をする。
……怖い。
元から目つきの悪い夕希だが、竹刀を構えた今の目つきは普段の3倍増しだ。
くそっ。ビビってられるか。
ゆとりも言っていたな。『剣道は精神の戦い』だと。
心が折れたらすぐにでも負ける。絶対に――
「始め!!」
主審の声がかかり、二人同時に立ち上がった。
よし、竹刀を――
「いいいやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
それだけで、僕の頭の中は真っ白になった。
なぜかは分からない。
現実で起きたことを表現するなら、ただ目の前で夕希が気合の発声をしただけだ。
剣道では『気』も充実していないと一本をとれないから、大きく気合の発声をすることは知っていた。
だから、これは全然予測の範囲外ではない。
普段から必要最低限しか会話しない夕希の絶叫に少しは驚くかもしれないけど、それにしたって、ちょっと大きな声を出しただけだ。
頭ではそれが分かる。
あとで冷静に考えても、きっと同じ答えを僕は出す。
それなのに――
「めえええええええええええええええええええええええええええええええええん!!!」
どうして、動けずに固まってしまったのか。
全然わからない。
ただ、僕の頭に鈍く重い痛みが走り――
「面あり!!」
審判三人が揚げる赤い旗と、そんな主審の声を知覚した。
「はぁっ……! はぁっ……!」
まだ僕は何もしていない。
三歩で試合場に入り、蹲踞して立ち上がり、夕希に面を打たれただけだ。
それなのに、まるで短距離を全力疾走した直後のように呼吸は乱れていた。
――怖い。
何に対して恐怖を感じているのかは、わからない。
昔から知っている夕希に恐怖を感じるわけはないし、防具を着けて安全に守られている剣道に恐怖を感じているわけでもないと思う。
にも拘らず、手足は震え、視界はチカチカと定まらない。
頭を振り、無理矢理に視界を戻しながら、再び白線についた。
……考えろ。
冷静になれ。
今ので一本とられた。三本勝負だから、あと一本とられたら勝負が決まってしまう。
制限時間である3分をこのまま経過しても、僕の負けだ。
試合が始まる前は延長戦に持ち込み、ずるずるとチャンスを探すつもりでいたが、そのためには少なくとも僕も一本とらなければいけなくなった。
そのために、どうすればいいか――。
いや、作戦なんて最初から一つしか無いんだ。さっきは失敗したけど、今度こそ竹刀を正確に構える。
相手の一本を阻止し、チャンスを見極める。
それしかない。
それしかないんだ――!
「二本目、始め!!」
「いいいやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
くっ……!
さっきと同じ発声。
身体が強張り、動けなくなる寸前で、なんとか竹刀を構えた。
「めえええええええええええええええええええええええええええええええええん!!!」
僕を見下しているのか、それとも作戦なのか。
夕希の行動は先程とまったく同じだった。
だが、今回の僕は先程とは違う。僕は、ちゃんと竹刀を構えている。
――バチッ!
僕の竹刀に遮られたせいで、狙いがはずれ、面ではなく僕の肩に竹刀が振り下ろされた。
当然、有効打ではない。
審判も旗を上げることなく、二人の剣士の戦いを見守っている。
よし! 防い――
「――っ!?」
面を防いだ次の瞬間、身体全体に重い衝撃を感じた。
夕希が面を打った勢いそのまま、タックルさながらに体当たりしてきたのである。
(……鍔迫り合い!)
タックルまがいの体当たりは別に反則ではない。むしろ、試合では普通のことだ。
打突を行った後、互いに竹刀の鍔を合わせて密着し、ゼロ距離から相手の体勢を崩したり、隙を探したりする。
「……っ!」
気を抜けば後ろに倒れそうになる身体を、必死に留めた。
なんて重い体当たりなんだ!
僕と大して背丈の変わらない夕希から繰り出されたとは思えないほどの衝撃だ!
「…………っ」
「…………」
夕希が僕の竹刀を押し付けようと、竹刀の上から鍔で圧力をかけてきた。
くそ……っ!
このまま好きにばっかされてたまるかよっ!!
こんな容姿でも、僕は男なんだぞ――!
無理矢理に竹刀を押し付けて僕の体勢を崩させようとする夕希に対抗して、僕も思い切り竹刀を鍔で押し返す。
――――瞬間。
「……え?」
夕希がいきなり、何の前触れも無く竹刀と身体を半歩引いた。
今まで自分を上から押さえていた力が突然無くなり、僕の手と竹刀が宙に浮く――!
「しまっ――!」
「どおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
僕の右脇腹に衝撃が走り、竹刀と胴がぶつかる、とてもいい音がした。
「――っ!」
僕は必死になって相手を……夕希を追いかけた。
竹刀は……刃はちゃんと夕希に向けて構えている! 今のは一本じゃないんだ!
そう、審判にアピールするために。
でも……僕自身分かっていた。
今のは素人の僕でも分かるくらい素晴らしい打突、有効打だった。
「胴あり!!」
審判が三人共再び赤い旗を揚げ、主審が一本を宣言する。
僕はのろのろと中央線に戻り、夕希と竹刀を構えた。
「勝負あり!」
審判の判定を聞き、蹲踞をして竹刀を納め、礼をして試合場を出る。
僕側の白線の傍にゆかりが居ることは気配で分かったが、目は合わせられなかった。
試合場を出てすぐに、面も外さず格技場の外に走り出す。
防具をつけたままで恥ずかしいとか、そんなことを気にしている余裕は全く無かった。
ゆかりが何か言ったような気がしたが、それも聞こえなかった。
僕はただ、格技場の外へ出て、誰も居ないどこかへ向かって必死に走る。
――まただ。
また僕は、救えなかった――。




