第1話:すべてを失った御曹司
この物語に、剣も魔法もほとんど意味はない。
少なくとも、最初のうちは。
あるのは、ゼロから何かを築こうとする人間の意思と、
それを阻む現実だけだ。
すべてを持っていた男が、何も持たない場所に放り出されたとき、
彼は何を選ぶのか。
戦うのか。逃げるのか。諦めるのか。
——それとも、もう一度“作る”のか。
これは、異世界で魔王を倒す物語ではない。
異世界で“資本”と“選択”を武器に、生き残ろうとする物語だ。
そして同時に、
「何もない状態からでも、人はどこまで積み上げられるのか」
その答えを探す物語でもある。
雲の上は、いつも静かだった。
地上の喧騒も、渋滞も、クラクションも、ここには届かない。
あるのはエンジンの低い唸りと、柔らかな革張りのシート、そして——
「ねえレイジ、ほんとにこのまま海外まで行くの?」
向かいの席で、少し不安そうに笑う彼女。
幼い頃からずっと一緒にいた、唯一気を許せる存在。
「今さら?もう引き返せないよ」
神城レイジは肩をすくめた。
手元のグラスの氷が、静かに音を立てる。
「どうせ親父も気づいてる。気づいてて、何も言わない」
「……それって、怒ってないってこと?」
「さあな。あの人の考えてることなんて、誰にもわからないよ」
苦笑する。
だがその表情には、どこか諦めの色が混じっていた。
——神城財閥。
たった一代で築き上げられた、異常な規模の経済帝国。
その中心に立つのが、レイジの父だ。
カリスマ。怪物。支配者。
様々な呼び名を持つその男の息子として、レイジは生まれた。
何不自由ない生活。
最高の教育。
将来はすべて約束されている。
——だが、それは同時に“逃げ場のない人生”でもあった。
「……レイジってさ、本当は継ぎたくないの?」
彼女の問いに、少しだけ間が空く。
「継ぐよ。たぶんね」
「“たぶん”なんだ」
「だってさ」
レイジは窓の外に目を向けた。
青空の向こうに、果ての見えない世界が広がっている。
「俺がやらなくても、あの人は何とかするだろ」
それは冗談のようでいて、半分は本音だった。
父は完璧すぎる。
自分が必要なのかすら、わからなくなるほどに。
「でもさ」
彼女は少しだけ前に身を乗り出した。
「レイジがやるなら、私は応援するよ」
「……ありがと」
短く答える。
その言葉だけで、少しだけ胸の奥が軽くなる。
——その時だった。
機体が、揺れた。
ガクン、と明らかにおかしな振動。
「え……?」
彼女の顔が強張る。
次の瞬間、警告音が鳴り響いた。
赤いランプが点滅する。
コックピットから何か叫ぶ声が聞こえた気がした。
「ちょっと待て、これ——」
言い終わる前に、機体が大きく傾く。
重力が歪む。
視界がぐらりと揺れる。
窓の外——
そこにあったはずの青空が、
歪んだ。
まるでガラスの向こう側が溶けたように、景色がねじ曲がる。
「レイジ!!」
彼女が叫ぶ。
反射的に、その手を掴んだ。
「離すな!!」
次の瞬間——
すべてが、白に飲み込まれた。
⸻
……どれくらい、時間が経ったのか。
静寂。
風の音。
そして、土の匂い。
「……は?」
目を開ける。
そこにあったのは——
青空だった。
だが、それは先ほどまで見ていたものとは明らかに違う。
もっと濃く、どこか“作り物のように美しい”空。
「なんだよ、これ……」
体を起こす。
服はそのまま。怪我は……ない。
周囲を見渡す。
森。
見たことのない植物。
聞いたことのない鳴き声。
そして——
「レイジ……」
すぐ隣で、震える声。
彼女がいた。
「大丈夫か!?」
「う、うん……でもここ、どこ……?」
「……わからない」
レイジは立ち上がる。
だが、その動きはどこかぎこちなかった。
ポケットを探る。
スマホはある。だが——
圏外。
「はは……マジかよ」
乾いた笑いが漏れる。
ジェット機はない。
人もいない。
文明の気配すらない。
あるのは、完全な“未知”。
「これ、遭難……?」
「いや」
レイジは首を振った。
「そんなレベルじゃない」
風が吹く。
木々がざわめく。
その奥から——
何かの気配がした。
重い、圧のある存在感。
人間ではない。
獣とも違う。
もっと異質な——
「……なあ」
レイジは、ゆっくりと呟いた。
「これってさ」
乾いた声で、しかし確信を持って。
「——異世界ってやつじゃないのか?」
彼女は言葉を失った。
否定する材料が、どこにもなかった。
その瞬間、
遠くで咆哮が響く。
地面が、わずかに震えた。
「……最悪だな」
レイジは空を見上げる。
何もかもを失った現実を、ようやく理解した。
金も、権力も、コネもない。
あるのは——
「ゼロから、か」
小さく呟く。
そして、彼はゆっくりと笑った。
それは諦めでも、絶望でもない。
計算を始めた人間の顔だった。
第1話、読んでいただきありがとうございます!
この作品は、いわゆる「異世界無双!」とはちょっと違って、
どちらかというと「異世界で地道に成り上がる」タイプの話です。
……とはいえ、主人公は元・財閥の御曹司。
地道と言いつつ、やることはわりとえげつないかもしれません。
戦って勝つんじゃなくて、
稼いで勝つ。
殴るんじゃなくて、
交渉して勝つ。
そんな感じの物語になっていく予定です。
次からは、いよいよ“初めての商売”が始まります。
果たして無一文から本当に稼げるのか——
引き続き、ゆるっと楽しんでもらえたら嬉しいです!




