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第十六話:新婦へ託された母の願いと、その後――


 季節は晩秋から初冬へ移り、朝には霜が降り、小雪のちらつきが目にされるようになったとある日に。


 商都メラムは季節はずれの花に埋もれていた。


 南国の達羅蓖荼(ダラヴィタ)羅麝沙(ラージャサ)から贈られてきた、色とりどりで、芳香の強い花々を、黒い(はだ)をした師子(シンハ)人と、白い膚をした俄羅斯(リュース)人の軽業師が、城壁や楼塔、商館の屋根の上からまき散らしている。


 交易都市であるメラムの街路は、常日頃からさまざまな色の目、髪、顔が行き交っていたが、いつもはみな、このあたりを旅するのに向いた、波剌斯(パールシ)風、ないし巴刺伯(ハジーラ)風の蓋布(フード)つき外套マントをまとっていた。


 今日は、各々が伝統的盛装に身を包み、華やかさを増している。


 美しく染め上げられた、あるいは、生成りの風合いを最大限に活かす織りかたをされ、花鳥風月、龍や麒麟といった想像上の神獣、無機的だが深みがあり冷たさを感じない幾何学模様などが刺繍で施された、それぞれの習俗、宗派、哲学に基づいた衣装であった。


 居並べば、どれをとってもひとつの完成された美であり、優劣の差はない。


 メラムは、普段の三倍ほどの人であふれていた。


 東の大洋から西の大洋までを統一せんとし、現にその範囲の半ばをいくらか越えたところまで勢力を広げた、大王(ハガン)ズクライの新帝国、その第二位(ナンバー2)である、王弟(テギン)カラツの結婚式が執り行われようとしている。


 大王自身よりも広大な土地を征した、事実上帝国最強の男に(ハトン)として望まれたのは、メラムの公主であるリーシェンであった。


 メラムの珠玉と呼ばれ、大交易路を行き来する商人たちから東西両洋最高の美女と謡われたリーシェンを巡って、王弟は大王に対して剣を向けることすら辞さぬ気勢で迫り、漁色家である兄王の顔色を失わせしめて想い人を勝ち獲った、と一部でうわさが流れたが、これは事実とは異なる。


 とはいえ、リーシェンの顔を見ずにズクライが本拠地へ帰った理由を知っているのは、当事者ふたりだけなので、市井の人々の想像力の翼が翩翻(へんぽん)とはためくのは致しかたないことであった。


 己の本能が、世界の王、諸王の王としてあるべき則を逸脱する可能性を慮って引き返したズクライの代わりに、国母であるエルン太后が息子夫婦を祝福するためにやってきていた。


 式に向け準備していたところへ訪ねてきた太后を、リーシェンは最上級の礼で迎えた。


「お義母さま、お会いしとうございました」

「ほぉう、うわさというのはあてにならないのが常というものだが、実物のほうが上のこともあるのだね。ズクライに『見るな』といっておいて正解だったよ」


 世界に君臨せんとする超帝国の主も、母にかかればいまだに不肖の息子であった。


 太后の思わぬ第一声にとまどうリーシェンに対し、エルンは諸手を伸ばして嫁のほおを包み込んだ。


「ふむ、柔らかい。人形ではないようだね。――カラツを頼むよ。あれには、兄の図太さと、無神経さがない。だれかが『それでいい』といってやらないと、自信を持てなくて動けないのさ」

「はい。かならず、カラツさまを支えてゆきます」

「ちがうちがう。引っ張りなさい。(ウルス)をどうするかは、おまえが決めるのです。カラツをその方針に従わせなさい。ズクライは弟の性質と才能を知って、武器として使った。私は息子たちに、五百万の血を流せというつもりなぞなかったんだ。胡族をまとめさえすれば、帝国(カタイ)には不干渉を守らせるだけでよかった」


 これは、エルンの本心なのだろうか。おそらく、長男ズクライに、戦をやめろと直言したことはないはずだ。父テンゲムを継ぎ、氏族を守り、大きくするよう教え育てたのは、エルン自身なのだから。

 テンゲムを継げば、それすなわち胡族統一が事業となり、胡族を結束させるには、内輪での奪い合いを終わらせ、馬首を外部へ進めるよう訴えて回ることになるのは必然であった。


 君子は自らの言葉に縛られる――王たるものとしてズクライを育てたエルンもまた、父の代わりをも務めねばならなかったゆえ、以前息子に与えた教えを曲げることができなかったのだろう。


大王(ハガン)陛下が胡族を統一するには、力を合わせれば帝国(カタイ)に勝てると、みなに信じさせる必要があったのでしょう」

「おまえは賢いね。ほんとうにできるできないは別として、人を率いるなら、なにかを信じさせるのが一番だ。……カラツに夢を与えておくれ。地上を馬で走れば叶えてしまえる見える目標ではなく、途方もないけれど人生を賭するに足る夢を」


 超越的戦争の才能というものを、息子が遺憾なく発揮させる光景――老母は、もう見たくないのだろう。


 リーシェンは実の母に向けていたのと同じ愛情を込めて、エルンの手を取った。


「カラツさまを馬上で死なせはしません。かならず、牀台(ベッド)の上で、馬にも乗れなくなるほどのしわしわのお爺ちゃんになってから、お義母さまにお返しします」

「ふふ、素敵な言いかただ。ありがとう、一日でも長く預かっておくれよ」


 あたらしい義理の娘をひしとかき抱くと、王ヴィホフと面会するといって、太后エルンは新婦の控え室を辞した。


 リーシェンが涙ですこし赤くなった目もとを整え、ユン婆さんが淹れてくれた(チャイ)を飲んでいると、再び戸を敲く音がする。


「はい」

「リーシェンどの、いいか?」

「どうぞ」


 入室してきたカラツは、総司令としての軍装であって、新調した服ではあったが、これまでしたことのない格好というわけではなかった。

 リーシェンのほうは、刺繍をふんだんに施された白い紗裙(ドレス)で、マリガンタの母方の親類たちが総出で作ってくれたものだ。


 カラツはしばし、呼吸も、まばたきすらも忘れた。


「女神……いや、天使かな」

「飛んでいったりはしませんよ。わたくしは、いつまでも、殿下のお側に」

「その、殿下というのはもうやめてくれないか」

「そうですね、州国(ウルス)を治める(カン)となられる。殿下ではなく、陛下ですね」

「いや、そういう意味じゃなく……」

「冗談ですよ。カラツさま」


 いたずらっぽく笑って、リーシェンはカラツの腕を取って椅子を勧めた。ユン婆さんに茶を所望し、カラツは新妻となる美しい少女の目をまぶしげに見る。


「母は、なんといっていた?」

「秘密です」


 またしても茶目っ気たっぷりに応じられ、カラツは戸惑った。

 もちろん、まったく不愉快さはない。急にリーシェンが年相応の少女になったようで、これまでの大人びた言動との落差におどろきはあるが。


「母が、私には黙っているようにいったのか?」

「ずっとずっとさき、カラツさまが馬に乗れないほどにお歳を召されたら、お教えします。お義母さまとわたくしの約束です」


    +++++


 世界でもっとも美しい花嫁と、世界でもっとも強い花婿の結婚式は、天空の涯てまで澄み切った晩秋の高原の空の下、荘厳ながら、ちょっぴり騒々しく執り行われた。


 十を越える言葉でひっきりなしにかけられる祝福の声が混ざり合って、たびたび意味が取れなくなってしまったので。


大王(ハガン)ズクライ万歳! 王弟テギンカラツ万歳! (ハトン)リーシェン万歳!」


 とひときわ大声で叫びつづけたのは、キドゥバ、ヤヒツ、ドゥーロら、カラツの部下たちで、彼らは式が終われば大王(ハガン)ズクライの指揮下へ転じ、帝国南部の攻略作戦に従事することが決まっていた。


 マリガンタはじめ大交易路ぞいの各商都から、南方の達羅蓖荼(ダラヴィタ)羅麝沙(ラージャサ)師子(シンハ)越南(トゥナン)から、北方の俄羅斯(リュース)から、西方の波剌斯(パールシ)沙斯伯(シャスア)土琉其(テュルカ)から、欧伯(ユアルプ)の数ヶ国からも大使が参列し、これは、メラムが広大な範囲の国々と友好関係を保ってきたことの表れであった。


 参列者として太后エルンと並んで尊貴の身であったのは、花刺子模(クァラザン)(シャー)ムハラズであろう。あらたな盟友のため、莫大な贈物とともにメラムへとやってきたのだった。


 高原に雪が積もりはじめるまで、半月近く華燭の典はつづき、国母エルンなど一部の参列者は、翌年の春までメラムに滞在したという。


    ・・・・・


 メラム州国(ウルス)(カン)として大王(ハガン)ズクライより帝国の共同統治者として認められたカラツは、生涯「胡族の良心」と呼ばれ、各地の統治者、民草から調停者、裁定者として頼られつづけた。


 波剌斯(パールシ)西部と、沙斯伯(シャスア)埃托(エギプテ)軍隷階層(マムルーク)の大乱が揺るがした際には、同盟者ムハラズから三万の兵を借りて二十万以上の叛徒を鎮圧し、地上最強の将帥であることは変わっていないと、事実によって証明して見せもした。


 それでも、ほかに手段がなく、剣を持って即断しなければより多くの血が流れるとはっきりしている場合以外、カラツは武力に訴えようとはしなかった。


 そのかたわらには、いつも(ハトン)リーシェンが、ときには馬に乗って寄り添っていたという。


 兄王ズクライの崩御後、カラツは帝国全体の統治者として推戴されたが、大王(ハガン)即位を固辞した。

 多色家ズクライには、必然として多くの王子があり、ほぼ同時に生ませた最年長だけでも四人いたが、カラツは胡族の流儀に従い、実力で継承者を定めよと命じ、自ら試験した。

 馬術と騎射の腕、王としての知識と器量を問い、母の位は低かったがズクライに劣らず優秀だった、オルトイを次の大王として登極させた。


 ……三世代ほどのちには、東であらたな王朝が興り、胡族たちはだんだんと、もとの北辺の地へと追いやられていくことになる。


 騎馬軍団の遺産が崩れ去る中、武断を否定したメラム州国(ウルス)は地方を徐々に現地の統治者へゆだねながらも命脈を永く保ち、今日でもカラツとリーシェンの子孫は古都メラムの名家として存続している。


 王弟(テギン)カラツは、(ハトン)リーシェンの約束どおり、八十四年の長寿をまっとうし、屋根の下、牀台(ベッド)の上で、三十年先に立っていた国母エルンのもとへ召されたという。


 リーシェンは夫を見送ったのち、さらに二十年生き、その薨去直前の枕元には百二十人を超える直系の子孫たちが集まったと記録されている。

 蓬莱(クケタウ)黒絹(カラユフェク)のごとし――と詠われた髪は白銀となったが、最後まで腰は曲がらず、メラムの珠玉と呼ばれた往年の美しさを、見るものだれでも偲ぶことができたという。



    ――了



実質短編の分量ではありましたが、最後までおつきあいいただきありがとうございました。


カン、カーン、ハン、ハーン、カガン、ハガンといった言葉は、地球においては「王」ないし「帝」を表す同じ語がそれぞれの民族によってイントネーションの変遷を経たのみであり、上下関係はありません。大王(ハガン)が上で(カン)が下、というのはこの作品のみの設定です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 珍しい中央アジアを舞台とした作品、いつもと違う刺激を受けて楽しかったです。小さな町に迫る騎馬軍団…という不穏な始まり方から想像もできない爽やかなラストでしたね。 特にハッとしたのはカラツが…
[一言] 司馬さんの情報ありがとうございます。 借りて読んでみようと思います。
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