石碑を守護せし天使と、覚悟を決めた女
螺旋を描きながら奈落の底へと穿たれた石段の最深層。冷徹な静寂が、どこまでも重く、息苦しいほどの密度を伴ってその空間を満たしていた。
幾万年もの歳月を経てなお風化しきらぬ玄武岩の階段を踏みしめ、ルシアの足音が規則正しく微かな残響を落とす。
カツン、カツンと乾いた音を立てて落ちるその歩みの果てに待ち受けていたのは、巨大な黒曜石の一枚岩をそのまま刳り抜いて造り出されたかのような、古めかしくも荘厳なアーチ状の門であった。
光を吸い込む漆黒の石材には、かつてこの大陸全土を支配したと伝えられる古代の神の神聖文字が、怨嗟の如くかすかに刻み込まれ、触れようとする者を拒むかのように鈍い光沢を放っている。
ルシアはその冷たい門の敷居の前で僅かに息を整えた。背後を振り返ることはない。彼女は迷うことなく、独りで境界線の外へと踏み出した。
その爪先が未知なる大地に触れた、まさにその刹那――彼女の両腕が、鋭利な刃の如く翻った。
思考を介さぬ極限の身体反応。ルシアの華奢な指先が虚空で複雑怪奇な幾何学軌道を描き出すと同時に、彼女の肉体内部を巡る魔力回路が臨界点に達するほどの異常な高流速で引き絞られ、大気の中に鋭く凍てつく一筋の銀色の流光となって結実した。
――水銀の障壁。
冷え切った唇から放たれた術式。次の瞬間、重く、濃密で、水銀特有の不気味な粘性を孕んだ銀白色の液体金属が、何もない半空から突如として奔流となって噴き出した。
それはまるで意志を持つ有機物のように急速に空間の隅々へと触手を伸ばし、大気と触れ合う端から分子構造を組み替え、即座に硬化していく。
瞬く間に、鏡面の如き滑らかな反射光を湛えながらも、決して揺らぐことのない重厚無比な金属の壁へと変貌を遂げた。
その壁は、ルシアが歩んできた退路を寸分の狂いもなく、微細な隙間すら残さずに密閉した。そして、アーチ門の内側に続く狭隘な石廊の中へと――クレア、ヴァレリー、そしてジュリアの三人を、完全なる別世界へと隔離したのである。
「ルシア――ッ?!」
半透明の水銀の鏡面越しに、クレアの紫光を宿す双眸が信じられないものを見るように激しく揺れた。
その美しい面輪は一瞬にして蒼白へと染まり、次の瞬間には、自らが手にした宝飾の短杖の先端を、無意識のうちにその冷たい金属壁へと乱暴に叩きつけていた。鈍い衝撃音が石廊の中に木霊する。
看過できるはずがなかった。ノースランド帝国の貴族社会において、冷徹な主任教授として君臨するクレアにとって、ルシアという存在は単なる教え子や同盟者などではない。
それは自らの歪んだ愛欲の全てを注ぎ込み、魂の底から独占し、決して他者の指一本触れさせたくない「私有物」そのものであった。
その自らのすべてであるはずの、あまりにも細く脆い背中が、何の前触れもなく独り未知なる死地へと踏み入っていく光景――その事実が、クレアの胸中を異常なまでの焦燥と、内側から身を焼き焦がすような暗い暴虐の感情で塗りつぶしていく。
金属壁を殴りつける彼女の指先は、激情のあまり白く強張っていた。愛する者の身に危険が及ぶのを目の当たりにし、彼女の胸の奥底には、狂おしいまでの焦燥感が黒く渦巻いていた。
「まあまあ、ルシアちゃんを少しは尊重してあげなさいな。彼女が私たちを阻んだのは、リスク管理のためよ」
激情に狂いかけたクレアの背後から、皮肉めいた、しかし酷く落ち着いた声がかけられた。伸びてきた細い指が、クレアの緊迫した肩を上からそっと宥めるように抑え込む。
ヴァレリーだ。艶やかな酒紅の髪を揺らし、その金の瞳の奥底で冷徹な計算を巡らせながら、ヴァレリーは水銀壁の向こうに立つルシアの孤影を見つめていた。
その表情には、ルシアのこの容赦のない立ち回りに対する、得も言われぬ賛賞の色が微かに煌めいていた。
「……リスク管理?」
クレアがギリと奥歯を噛み締め、低く掠れた声を絞り出す。ヴァレリーはただ、冷ややかな苦笑を浮かべて肩を竦めるだけだった。彼女はルシアという人間の根底にある冷酷なリアリズムを、あまりにも深く理解していたのだ。
もしルシアに十分な戦力があるのなら、まずは彼女一人に守護者の実力を試させればいい。勝てるならそのまま一人で片付ければ済むし、対処できない場合でも全滅することはない。
ルシア自身、集団戦が得意ではないことを自覚していた。誰かと呼吸を合わせ、互いの背中を預け合うような戦い方は、孤立無援の環境で育ち、他者を決して信用しない彼女の性質には根本から合致しない。
だが未知の存在を試探する役目なら、ルシアはクレアやヴァレリーよりも遥かに優れている。
理由は他でもない。ルシアは攻守を同時にこなすことができ、さらに多彩な牽制手段を用いることで、仲間たちを安全圏で落ち着いて観察させることができるからだ。
何層もの強固な防御被膜を張り巡らせながら、多彩かつ陰湿極まりない遠隔手段を同時に展開できる。
後ろに残された仲間たちを安全圏に置いたまま、落ち着いて敵の挙動を観測させるための「盾」としても「時間稼ぎ」としても、彼女以上に完成された存在はこの場に存在しなかった。
半透明の水銀の反射越しに、ルシアは腰から高等万能薬を取り出し、仰ぎ見るように一気に飲み干した。
氷のように冷たい薬液が食道を滑り落ちていく。鼻腔を突く刺すような薬草の苦味と鉄錆の匂いが胃袋を強く刺激し、鈍麻しかけていた全身の神経を無理やりに覚醒させていく。
彼女は最高の状態で守護者と向き合う必要があったし、何よりクレアに振り回されて体が本当に辛かったのだ。
激しい頭痛と、クレアによって夜通し弄ばれたことによって軋む腰の鈍痛、そして過負荷によって乱れ切っていた体内の魔力循環を、薬効の暴力によって強引に押し殺した。
今、この瞬間から対峙する存在は、万全の状態を以て迎え撃たねば瞬時に肉片すら残らず消し飛ばされる類のものだ。妥協など一欠片も許されない。
空になった小瓶を足元に放り捨て、乾いた音を立てて砕け散るのを聞きながら、ルシアはゆっくりと視線を上げ、眼前に広がる景色を捉えた。
アーチ門を抜けた先の空間は意外なほどに広大で、ルシアにそこが広い平原であるかのような錯覚さえ抱かせた。
そこは、地底の奥底に掘り抜かれた息苦しい地下室などでは断じてなかった。
見渡す限りの地平線が闇の彼方へと溶け込み、まるで広大無辺な荒涼たる平原そのものが、この地下深くに丸ごと飲み込まれて封印されているかのような錯覚さえ抱かせた。
果ての見えない広がり、そして見上げれば天頂のように高くそびえる岩壁が、ルシアに奇妙な感覚をもたらしていた。
その岩壁からは、数万本にも及ぶ玄武岩の鋭利な鍾乳石が、地上の生きとし生ける者を見下ろす無数の断頭台の如く逆さに垂れ下がっている。
重力に逆らうかのように静止するその岩峰の群れは、人間の平衡感覚を容易く狂わせ、現実と幻覚の境界線を曖昧にしてしまうほどの奇怪な圧迫感を放っていた。
見渡せば見渡すほど、己の存在の小ささと、この閉ざされた世界の不条理さが浮き彫りになり、胃の腑に冷たい鉛を呑み込んだような錯覚に襲われる。
ルシアが躊躇いに沈んだその時、肌寒い一陣の風が彼女の柔らかな髪を優しく撫で、やがて石碑のようなものの前から、一人の柔和で美しい黒い翼の天使がゆっくりとその姿を現した。
それは息を呑むほどに美しい男だった。全身は赤裸で、ただ一枚の純白の布が急所を覆っているに過ぎず、その肉体の筋肉のラインがあまりにも優美であったため、ルシアでさえ思わず何度も見惚れてしまったほどだ。
その肉体には、人間が生まれ持つべき歪みや、傷痕や、老いといった瑕疵がただの一つも見当たらなかった。均整の取れた胸筋から引き締まった腹筋、しなやかな大腿部にかけて流れる筋肉の陰影は、それ自体が完璧な芸術品のように神々しい光沢を放っている。
日頃から感情を押し殺し、冷徹さを保つことに長けているはずのルシアでさえ、その異様なまでに完成された肉体美には、思わず何度も視線を奪われ、息を呑んで凝視してしまったほどだった。
金色の微かにカールした短髪と、開かれた青い瞳。ルシアは一瞬、皇太子クロードの姿を思い出した。
その男を思い浮かべたことで、ルシアはこの黒い翼の天使がクロードに七割も酷似していることにハッと気づき、困惑を覚えた。
鼻梁の高さ、唇の薄さ、そしてあの冷淡でありながら人を惹きつけてやまない青い瞳の光彩――それら全てが、ノースランド帝国の頂点に君臨するあの尊大で冷徹な男の面影と、驚くべきことに七割以上も一致していたのだ。
一瞬の激しい動揺がルシアの思考を白く染め抜いた。
だが同時に、彼女はかつてこれらの神殿を建造した神が大陸全土の統治者であり、凡人を愛して子孫を残したという伝承を思い起こしていた。
(クロードの祖先をモデルにして造られたのかしら……)
ルシアは胸中でその可能性を推し量った。何より眼前の堕天使は、彼女に奇妙な違和感を抱かせていた。
攻撃してくる気配が全くなく、殺気の一片すら感じられないのだ。堕天使はただ、背後に広がる十二枚の漆黒の羽翼を重力から解き放たれたように優雅に漂わせ、虚空に静止している。
そこには、神殿の侵入者を屠るべき番人が見せるべき咆哮も、威嚇の眼差しも、あるいは肌を切り裂くような重圧のオーラすらも存在しなかった。
何よりも異常なのは、彼という存在から、ルシアを害しようとする「殺気」が、ただの微粒子一つ分すらも感知できないということであった。
しかし、ルシアには今、実力を温存する気はなかった。初対面の強敵との戦いにおいて、相手が動いてから対応しようなどと考えるのは、あまりにも甘すぎる。
極限の読み合いにおいて、敵意を剥き出しにして牙を剥く獣など脅威の部類にすら入らない。真に恐るべきは、明確な殺意を一片も見せぬまま、触れた者を音もなく消滅させる不可避の即死トラップだ。
相手が動いてからその出方を窺い、後出しで対処するなどというのは、平和な学院の模擬戦でしか通用しない愚者の思考だ。未知の怪物と対峙した瞬間において、先手を取らないことは自殺と同義である。
迷いは、一瞬で切り捨てられた。
ルシアは両腕を刃のように真っ直ぐ前方へと突き出し、十指を重ね、手のひらと手の甲を重ねて胸の前で死鎖のような十字の封印を組んだ。
その深淵のような墨緑の瞳には、もはや凡人らしい温もりや躊躇いは一片も残されていなかった。
代わりに宿ったのは、社会の陰湿な泥沼の中で幾度も踏み砕かれ、その度に血肉と骨の破片を掻き集めて元通りに繋ぎ合わせてきた亡命者の、神明の遺存を前にした、脊髄の奥底から噴き出す狂気と冷徹さだった!
「――【昇格術式-輪転階位上書き-】。」
指令が落ちた瞬間、地底平原全体の物理法則が、実体を持つかのような乾いた破断音を響かせた。
嗡――!
空気が真空へと引き絞られ、万丈の天穹に聳えていた逆さの鍾乳石が、兆候なき重力反転の中で次々に亀裂を走らせる。
現実の空間が、目に見えない鈍い刃によって乱暴に切り裂かれたかのように、数百メートルに及ぶ漆黒の虚空断層を引き裂いた。
その死寂たる裂け目の奥深くでは、古代の黄銅で鍛造された、直径十丈を超える無数の巨大な歯車が、常軌を逸した狂気の逆回転で噛み合っている!
金属と金属が擦れ合う刺すような焦げ臭さが、千億回の計算誤差を伴う歯車の悲鳴とともに、戦場全体の空間座標を徹底的に絞り砕いていく。
暗金と銀白が交織する昇格の錬金矩陣が裂け目の前に暴虐に展開され、ベテルギウスの白き重装騎士は寸分の躊躇いもなく、足元の岩盤を砕いて踏み出し、一筋の絶決たる純白の流光となって錬金法陣の正中心へと激突した。
融合ではない。吞噬と粉砕である。
黄銅の骨格が高熱の中で融解し、白光の甲冑が虚空で再構成の分子と化す。間髪入れず、巨竜をも生々しく握り潰さんばかりの、淬火された白鋼と魔法を反射する鏡面で覆われた擎天の機械巨手が、破砕された裂け目の奥深くから暴虐に這い出た!
十本の鋭利な攻城杭のごとき重型鋼爪が、現実空間の縁を死に物狂いで掴み取る――
鼓膜を痺れさせるような次元の砕裂音とともに、その双腕が現実の維度をボロ布のように両側へと力任せに引き裂いた!
生とし生けるものの認知を完全に覆す鋼鉄の暴君が、深淵の合間から緩やかに這い出てきた。
それは地下の天頂全体を遮るほどに巨大でありながら、身の毛もよだつほどに歪んでいた。凡人の均衡を象徴する下半身を完全に排し、ただ太古の浮空要塞のごとき重厚な鋼鉄の上半身のみを遺している。
その、躯幹を遥かに超える長さの巨型機械腕は、極圧の下で狂ったように脈打つ数百本の猩紅の液圧パイプを露出し、無数の細かな逆歯車が表層で羽虫のように蠢き、噛み合っている。
ただ半空に浮遊しているだけで、それが投げ落とす漆黒の陰影は、平原の砕石を重圧で粉塵へと変えるほどに重かった。
機体の背脊と底部、実に十二組におよぶ、戦艦をも推進せしめる重型イオン推進器が一斉に爆燃した! 数十丈におよぶ、幽藍に刺し貫く電磁プラズマの炎が海嘯のごとく平原を横切り、凄まじい超音速の音爆が地底に積もった千年の死寂を一瞬で引き裂いた。
それと同時に、絶対的な偏折光暈を放つ数十面もの菱形浮遊鏡盾が忠実な星環のごとく周囲を轟音とともに旋回し、暴君の周囲を高速で交錯しながら切り替わる。
それはルシアの、哀れなほどに単薄な影を、死兆の鋼鉄の陰影の下へと一分の隙もなく庇護した。
しかし、このような天地を塵芥に変えんとする戦争兵器の、胸部の真ん中には――幾重もの重甲と複雑な機巧に守られた核心の凹槽の内側に、極めて脆弱で、どこか刺々しく、僅か手のひらほどの大きさの、深紅の警報光を狂ったように点滅させる球形コアが嵌め込まれていた。
それこそが、こくこくだ。
そして、この弒神の巨神が持つ、唯一の、覆い隠すことのできない心臓。
全ての昇格は、この手のひら大の機械の梟の外殻に、最も暴虐な外装を積み重ねたに過ぎない。
ルシアはそのことを誰よりも理解していた――かつてカリーナが、力の流動に対する野獣のごとき直感によって、この致命的な錨点を重甲越しに精密にロックオンし、自分を絶境へと追い詰めたように。
だが今、彼女には理知的に退く余地など残されていなかった。
巨神を維持するための消耗は、貪欲な巨獣のごとく、一ミリ秒ごとにルシアの体内から生命の精気と魔力回路を、干からびる寸前まで引きちぎっていた。
皮膚の表層の毛細血管が過負荷の反噬で微かに血霧を浮かべ、喉の奥深くには甘く錆びた鉄の味が満ちている。
狂暴な気流が彼女の乱れた黒髪を巻き上げ、重盾と鋼鉄の影の奥深く沈んだルシアの墨緑の瞳は、前方、石碑の前に聳える、一言も発さず、妖美でありながら殺気の一片もない黒翼の堕天使を死に物狂いでロックオンしていた。
これは、命を籌碼とした底牌のめくり合いだ。
神殿の守護者が放つ、あの人を狂わせるような静寂の注視の下で、ルシアは奥歯を噛み砕き、沸騰する魂を終焉を宣告する冷徹な言霊へと変え、一字一頓、虚空へと轟かせた。
「星位の契約もて秒針を逆転させ、引き裂かれし運命の刻印を紡ぎ直せ。
万象の終局に鳴り響く鐘の音、虚無の深淵を焼き尽くす曙光。
神を冒涜する偽典を刻み、不可侵なる禁忌を穿て。
すべてを虚妄へと帰せ――
――全装武装解放、【天刻全装・アルファ・オメガ・キャノン】!!」
咚――!
言霊が落ちた瞬間、巨神の胸元の微小なコアから、すべてを眩ます絶対的な白昼の光が爆発した。その巨大な鋼鉄の鉤爪が耳障りな変形音を立てて並び、ロックされ、深淵の砲身を形作った。
終焉の火が完全に点火されたのだ。機体胸部のコアが高熱を狂ったように滾らせ、終焉の砲身がすでに黒い翼の男の眉間をロックオンし、滅びの光線が次の瞬間にも平原を蒸発させようとしていたその時――
まさに死闘が始まろうとする頂点において、宙に浮いていたあの美しい堕天使が、唐突に言葉を発し始めた。
「……何年ぶりだろう。ようやく生きた人間がこの領域に来てくれて、本当に感動しているよ」
その声は、空霊で、澄み渡り、まるで静謐な聖堂で爪弾かれるハープの音色のように優雅で、どこまでも優しかった。
死の匂いに満ちていた地下平原の空気が、その一言によってふわりと解けていく。美しい堕天使は、そう言って唐突に大粒の涙をポロポロと零し始めた。
そしてそのまま、自分の下半身を覆っていた白い布を無造作に掴むと、それで涙を拭い始めたのだ。
布が体から離れた瞬間、隠すものの何もない、雄性の特徴が極限まで分明な健美な肉体が、幽暗な地底の光の下で一望無尽に晒された。そのせいで、ルシアは至近距離から堕天使の「大宝」をまざまざと目にすることになってしまった。
ルシア:「…………………………」
狂暴な魔力が彼女の体内で猛然と滞り、展開されていた加農砲の超精密な精神回路が、この視覚的暴撃によってその場でショートしかけた。
正直なところ、もしこの堕天使が皇室の遺伝子をもとに造られたのだとすれば、未来の皇后はこのサイズを受け入れるのにひどく苦労するのではないだろうか、とルシアは不意に思ってしまった。
死闘を迎えようとしていたこの地下空間で、ルシアは今が戦うべき空気なのか、それとも交渉の余地があるのか分からなくなってしまった。
可能ならルシアだって戦いたくはない。だが守護者と言われている以上、意思疎通ができるのであれば、何か情報を聞き出せるかもしれない。
「あの……こんなことを聞くのも変かもしれないけれど、あなたたち守護者は、単に石板を守るためだけに存在しているの?」
ルシアは無理やり冷静さを取り戻し、普段人と接する時と同じような口調でその堕天使に尋ねた。
「確かに、私たちが造られた時はそう命じられたし、命がけで石板を守るよう言われていたよ。でも、あまりにも長い孤独のせいで、私自身もこの任務の正当性を疑い始めてしまってね」
彼は己の何一つ傷のない掌を見つめ、その形の良い唇に、自嘲と落胆の混じった微かな翳りを浮かべた。ルシアはすぐにその堕天使の心境を察した。
何年もの間、生きて彼のもとに辿り着けた者はおらず、彼が造られてからの年月と同じだけの時間を、この孤独な地下空間で過ごしてきたのだ。
それは彼にとっても紛れもない拷問であり、己の使命に疑問を抱くようになるのも無理はなかった。
「なら、その石板をそのまま私に譲ってくれない? 石板さえなくなれば、あなただって自由になれるんじゃないの?」
ルシアは大胆にも石板を直接要求した。相手を怒らせる可能性のある行為ではあったが、聞くだけならタダだ。最悪の場合は力ずくで奪い取る戦いに戻るだけであり、それこそが最初からこくこくを昇格させた目的でもあった。
「その願いは、叶えてあげられそうにないね。それから警告しておくけれど、私の能力は『受難同調』なんだ。私が受けた傷と同じだけの痛みを、あなたもそっくり背負うことになる。だから、あなたは私を一撃で殺さなければならない。さもなければ、あなたがとても危険なことになるよ」
堕天使の声はひどく優しかった。彼はあまりにも人間との再会を渇望していたし、ルシアに諦めて立ち去ってほしいと願っていたのだ。
そうすれば、ルシアが何度も自分に挑みに来て、その度に生きて帰れるよう手を尽くすことができる。そうすれば、ルシアは頻繁に自分のもとへ通ってくれるかもしれないではないか。
一体、何年ぶりだろう。孤独な魂は、美しい黒髪の少女を見つめながら物思いに耽っていた。堕天使はルシアを殺したくなかった。だからこそ己の能力を惜しげもなく明かしたのだ。
ルシアがこのまま帰る気になってくれるなら、魔法を使って彼女を入り口まで送り届けてあげてもいいとさえ思っていた。だが、それは堕天使が望んだ結末に過ぎず、ルシアが望む結末ではなかった。
彼女の背後には、虎視眈々と自らを狙うクレアがおり、常に利益を打算するヴァレリーがおり、そしてノースランド帝国の泥沼が口を開けて待っている。
一分一秒、加農砲を維持する代償が、彼女の命と魔力を燃やし続けているのだ。
『反傷……。つまり、一撃で即死させられなければ、死ぬのは私……?』
ルシアは下唇を噛み破り、鮮血の鉄の味が口内に広がる中、瞳の奥の最後の温もりを完全に消し去り、後戻りのない亡命者の、博徒の眼差しを宿した。
『なら、もう……一砲で、あなたの魂をこの神殿ごと、完全に蒸発させて消し去るしかないわ』




