005 三ヶ月ぶりのお風呂
お湯が出た。
たったそれだけのことなのに、浴室の空気は昨日までとまるで違っていた。
壊れた魔石炉。ひび割れた床。水染みの残る壁。三ヶ月間、冷たい水しかなかった場所。
その隅に置かれた木桶から、薄い湯気が上がっている。
俺はそれを見ながら、思わず息を吐いた。
「……よし。もう一回、試すぞ」
「はい!」
リゼロッテが火の魔石に両手を添える。
昨日より、少しだけ表情がしっかりしていた。
最初に見た時の彼女は、召喚事故を起こして、退学だと青ざめて、俺を衣装棚に押し込んだ少女だった。
今は違う。
まだ不安そうではある。
けれど、目の前の装置をどうにか動かそうとしている。
ミアは床にしゃがみ込み、管の接続部分をじっと見ていた。
「三番の接続具、さっきより締めたよ。たぶん漏れない」
「たぶん禁止」
「漏れない。たぶん」
「増やすな」
「漏れない。八割くらい」
「減ったな」
俺が言うと、ミアは楽しそうに笑った。
ノエルは少し離れた場所に立っている。
彼女の役目は、管が熱くなりすぎた時の冷却だ。昨日は冷やしすぎる寸前だったが、今は指先に集まる冷気をかなり細く抑えていた。
少なくとも、浴室全体が凍る気配はない。
「ノエル、管の温度は?」
「少し高いです。でも、まだ危険ではありません」
「分かるのか?」
「触らなくても、空気の揺れで少し」
「すごいな」
俺が素直に言うと、ノエルは一瞬だけ目を伏せた。
「すごい、ですか」
「ああ。助かる」
「……分かりました」
短い返事だった。
でも、昨日より声が冷たくない。
いや、物理的には少し寒いけど。
フィリアは浴室の入口で、畳んだ布を抱えていた。
正確には、抱えたまま半分寝ていた。
「フィリア」
「寝てません……」
「まだ何も言ってない」
「少しだけ、目を休ませていました……」
「それを寝てるって言うんだ」
フィリアは眠そうな顔で、こくりと頷いた。
「では、少し寝ていました」
「認めるの早いな」
リゼロッテが困ったように笑う。
俺は木桶の位置を少し調整した。
今日の目標は、浴室を完全に復活させることではない。
そんなことは無理だ。
壊れた魔石炉はそのまま。浴槽もまだ掃除しきれていない。床の水はけも悪い。
だから、今日は湯船に入るのではなく、温かい水で身体を拭けるようにする。
それだけだ。
それだけでも、冷たい水で震えながら身体を拭くよりは、ずっとマシなはずだった。
「リゼロッテ、火力は弱めで」
「はい」
「ミア、接続具を見る。漏れたらすぐ言ってくれ」
「了解」
「ノエル、熱くなりすぎたら冷却。ただし凍らせない」
「努力します」
「そこは自信を持とう」
「……凍らせません」
「よし」
俺は管の入口に水を流した。
水が銅色の管を通る。
火の魔石の熱が管に伝わり、その中を水が進んでいく。
最初に出口から出た水は、まだ冷たい。
昨日と同じだ。
でも、俺たちはもう分かっている。
すぐに止める必要はない。
管そのものが温まるまで、少し待つ。
リゼロッテはじっと魔石を見つめていた。額にうっすら汗が浮かんでいる。火力を安定させるのは、思ったより集中力が必要らしい。
ミアは床に寝そべる勢いで接続部分を見ている。
「漏れなし。たぶん」
「だから禁止」
「漏れなし」
「よし」
ノエルは細く息を吐き、管の周囲だけを冷やす。
白い霜は出ない。
熱だけが、少しずつ落ち着いていく。
桶に水が溜まり始めた。
俺は指を入れて温度を見る。
ぬるい。
もう少し。
「リゼロッテ、そのまま」
「はい……」
「ノエル、今の冷却を少し弱められるか?」
「やってみます」
「ミア、管の固定は?」
「大丈夫。今回は本当に大丈夫」
水が流れる音だけが、しばらく浴室に響いた。
ぽこぽこ、と管の中で小さな音がする。
桶の水面が揺れる。
薄く湯気が立った。
俺はもう一度、指を入れた。
熱くはない。
でも、はっきり温かい。
「できた」
そう言った瞬間、全員が桶を見た。
リゼロッテの肩から力が抜ける。
ミアが小さく拳を握る。
ノエルは無表情のまま、でも少しだけ目を見開いていた。
フィリアは布を抱えたまま、ぽつりと言った。
「お風呂の匂いがします……」
「まだ風呂じゃないけどな」
「でも、あったかいです」
彼女はそれだけで、幸せそうに目を細めた。
その顔を見て、俺は思った。
本当に、三ヶ月は長かったんだな、と。
日本にいた頃、俺にとって風呂は当たり前だった。
バイトから帰って、シャワーを浴びて、適当に寝る。
それだけのことだ。
でも、ここでは違う。
温かい水があるだけで、人の顔色は変わる。
身体を冷やさずに済むだけで、少し安心できる。
「今日は湯船じゃない」
俺は全員に向かって言った。
「まずは温水で身体を拭く。浴槽はまだ使わない。床も滑るし、排水も怪しい。無理はしない」
「はい」
リゼロッテが真面目に頷く。
「あと、俺は外にいる」
その瞬間、リゼロッテが少し顔を赤くした。
「そ、それはもちろんです」
「もちろんだな」
「当たり前」
ミアがにやにやしながら言う。
「ユーマ、追い出される管理人さん」
「追い出されるくらいでちょうどいいんだよ」
俺は入口のほうを指さした。
「装置の様子だけ外から確認する。何かあったら呼んでくれ」
「覗いたら凍らせます」
ノエルが静かに言った。
「覗かないから凍らせないでくれ」
「分かりました」
「今の返事、少し本気だったな」
「半分くらいです」
「十分怖い」
ミアが笑った。
リゼロッテも少しだけ笑った。
昨日まで冷えきっていた浴室に、笑い声がある。
それだけで、少し変な気分だった。
最初に入るのはフィリアになった。
理由は単純だ。
一番眠そうで、一番体調が心配だったからだ。
「私からでいいんですか……?」
「いい。というか、フィリアは先に温まったほうがいい」
「でも、途中で寝たら……」
「リゼロッテがついてる」
「はい。私が一緒にいます」
リゼロッテがそう言うと、フィリアは安心したように頷いた。
俺は浴室の外へ出た。
扉が閉まる。
廊下は相変わらず寒い。
でも、扉の向こうからは、水をすくう音が聞こえた。
「熱くないですか?」
「大丈夫です……あったかいです……」
フィリアの声。
次に、リゼロッテの少し慌てた声。
「フィリア、そこで寝ないでください」
「寝てません……幸せを確認しているだけです……」
「それは寝る前の声です」
俺は廊下の壁に背を預けて、少し笑ってしまった。
中を見ないよう、扉から少し離れる。
手持ち無沙汰だったので、俺は厨房から持ってきた包丁を取り出した。
昨日使った時から気になっていた。
刃が鈍すぎる。
これでは料理をするたびに余計な力がいる。
近くに落ちていた平たい石と、少しの水を使って、簡単に刃を整えることにした。
完璧には研げない。
でも、何もしないよりはマシだ。
石に水を垂らし、包丁をゆっくり滑らせる。
しゃっ、しゃっ、と小さな音が廊下に響いた。
浴室の中からは、時々リゼロッテとフィリアの声が聞こえる。
笑い声も聞こえた。
まだ控えめな笑い声だ。
でも、確かに笑っていた。
しばらくして、扉が開いた。
フィリアが出てきた。
髪は少し湿っていて、頬にほんのり赤みがある。肩には乾いた布をかけていた。
さっきまで今にも眠りそうだった目が、少しだけ開いている。
「あれ」
俺は思わず言った。
「起きてる」
「はい……起きています」
フィリアは自分でも不思議そうに瞬きをした。
「身体が、軽いです」
「温まったからだろうな」
「お湯、すごいですね」
「すごいのはお湯というより、三ヶ月なかったことのほうだと思う」
フィリアは少しだけ考えてから、ふわりと笑った。
「でも、今日はありました」
その言葉に、俺は返事をしなかった。
何となく、軽く返せなかった。
今日はあった。
たぶん彼女たちにとって、それだけで十分なことだった。
次はノエルだった。
本人は少し迷っていた。
「私は最後で構いません」
「どうして?」
「水が冷えます」
「冷えたらまた温めればいい」
俺がそう言うと、ノエルは黙った。
白い睫毛が少し伏せられる。
「凍ったら?」
「溶かす」
「装置が壊れたら?」
「直す」
「迷惑では?」
「冷たい水を三ヶ月我慢してるほうが、ずっと問題だ」
ノエルはしばらく俺を見ていた。
感情の読みにくい顔だった。
でも、何かが少しだけ揺れた気がした。
「分かりました」
彼女はそう言って、浴室に入った。
扉が閉まる。
俺はまた廊下で包丁を研ぎ始めた。
しばらく静かだった。
それから、中からミアの声がした。
「うわ、ちょっと冷えた!」
「すみません」
ノエルの声。
いつもより少し焦っている。
リゼロッテがすぐに言う。
「大丈夫です。ミア、火力を少し上げられますか?」
「上げる! でも爆発しない範囲で!」
「絶対に爆発しない範囲でお願いします!」
俺は扉の外で包丁を持ったまま苦笑した。
数分後。
また水の音。
今度は、少し落ち着いている。
「……温かいです」
ノエルの声が聞こえた。
小さくて、でもはっきりした声だった。
俺は包丁を研ぐ手を止めた。
その後、扉が開くまで、浴室の中は静かだった。
ノエルが出てきた時、彼女の周囲の冷気はいつもより弱かった。
完全になくなったわけではない。
でも、さっきまで近づくだけで肌が痛いような冷たさがあったのに、今は少し和らいでいる。
「大丈夫だったか?」
「少し水を冷やしました」
「聞こえてた」
「でも、戻りました」
「ああ」
俺は頷いた。
「戻せたな」
ノエルはその言葉を聞いて、目を伏せた。
「壊しても、戻せるんですね」
「全部が全部そうとは言わないけど、少なくとも今日は戻せた」
「……はい」
ノエルはそれ以上何も言わなかった。
でも、廊下の窓に残っていた霜が、少しだけ薄くなった気がした。
その次はミアだった。
彼女は浴室に入る前から興奮していた。
「装置の内側見ながら入っていい?」
「だめ」
「じゃあ、管の音だけ聞いていい?」
「それは好きにしてくれ」
「お湯に入りながら構造を考えるの、すごく贅沢だね」
「普通はそういう楽しみ方をしない」
ミアは笑いながら浴室に入った。
中からは、やたら楽しそうな声が聞こえた。
「リゼ、これ改良しよう! 管をもう一段増やして、出口を二つにしたら、同時に二人分いけるかも!」
「今は身体を拭いてください」
「でも思いついた時に書かないと忘れる!」
「ではあとで書いてください!」
灰羽寮は大変だ。
でも、少しだけにぎやかになった。
最後はリゼロッテだった。
彼女は全員を見送ったあと、空になりかけた桶を確認して、装置の火を落として、布を片づけようとしていた。
「リゼロッテ」
「はい?」
「君も入るんだろ」
「私は、あとで」
「あとでって、いつだ?」
「片づけが終わってからで」
「片づけは俺がやる」
「でも」
「火の魔石を安定させてたのはリゼロッテだろ。今日の装置は、君がいなかったら動いてない」
リゼロッテは一瞬、言葉を失った。
「私が、ですか?」
「ああ」
「でも、私は失敗ばかりで」
「今日は失敗してない」
俺は包丁を布で拭きながら言った。
「少なくとも、俺は助かった」
リゼロッテは何かを言おうとして、言えなかった。
それから、小さく頷いた。
「……では、少しだけ」
「ゆっくりでいい」
リゼロッテが浴室に入る。
扉が閉まる。
俺は廊下に座り直し、また包丁を研いだ。
しゃっ、しゃっ。
石と刃が擦れる音。
浴室の中から、水音がする。
それから、リゼロッテの小さな声が聞こえた。
「……温かい」
たった一言だった。
でも、その声は、どこか泣きそうにも聞こえた。
俺は聞こえなかったふりをして、包丁を研ぎ続けた。
しばらくして、リゼロッテが出てきた。
銀色の髪が少し湿っていて、頬が赤い。古い布で髪を押さえながら、彼女は廊下に立った。
俺は一瞬だけ見て、すぐに視線を包丁へ戻した。
こういう時、じろじろ見るのは違う。
「ユーマさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
その声は、さっきよりずっと落ち着いていた。
「俺は桶と管をいじっただけだ」
「でも」
「火を安定させたのはリゼロッテだろ」
リゼロッテはまた少し黙った。
それから、胸の前で布をぎゅっと握った。
「私にも、できることがあったんですね」
「あるだろ。これから増やせばいい」
「これから……」
「ああ」
俺は研いだ包丁の刃を確認した。
昨日よりは切れそうだ。
「とりあえず明日は、この包丁で野菜をまともに切れる」
リゼロッテは小さく笑った。
「それも、生活改善ですか?」
「かなり重要な生活改善だな」
浴室の応急使用が終わったあと、俺たちは厨房に戻った。
夜の灰羽寮は相変わらず寒い。
廊下の窓は隙間風を通すし、床は軋む。壁のひびもそのままだ。
でも、厨房に集まった四人の表情は、昨日より少しだけ明るかった。
フィリアは椅子に座っている。
眠そうではあるが、完全に寝落ちしてはいない。
ノエルは窓際に座っているが、周囲にできる霜は薄い。
ミアは紙に何かを描いていた。たぶん湯沸かし装置の改良案だ。時々「ここを二股にして……いや、爆発しないように……」と物騒な独り言を言っている。
リゼロッテは小さな鍋で湯を温め、全員に薄いお茶のようなものを配っていた。
俺はテーブルの端で、研ぎ終えた包丁を置いた。
「明日の朝、少しは料理しやすくなる」
「ユーマさん、本当に何でもしますね」
リゼロッテが感心したように言う。
「何でもはできない。できることを探してるだけだ」
「それが、すごいと思います」
そんなふうに言われると、少し困る。
俺はただ、目の前の不便を放っておけないだけだ。
コンビニでもそうだった。
補充されていない棚を見ると気になる。
汚れた床を見るとモップを取りに行ってしまう。
冷蔵庫の奥で倒れたペットボトルを、そのままにはできない。
たぶん、性分だ。
けれど、この寮では、その性分が少し役に立っている。
それなら、悪くない。
その時、視界に淡い光が浮かんだ。
【改善達成:浴室の応急修復】
【灰羽寮 快適度:13 → 20】
【報酬:寝具乾燥法を解放しました】
【追加診断】
・フィリアの疲労度に軽微な改善
・ノエルの魔力制御に改善傾向
・リゼロッテの魔力安定に微弱な変化
・ミアの錬金作業意欲が上昇
【次の推奨改善】
・寝室の湿気対策
・寝具の乾燥
・窓の隙間風対策
快適度、二十。
まだ低い。
百点満点なら赤点だ。
でも、最初は三だった。
たった二日で、三から二十。
薄いスープと、簡易保温箱と、桶一杯のお湯。
やったことは地味だ。
それでも、確かに数字は上がっている。
そして何より、目の前の彼女たちの顔が少し変わっている。
リゼロッテが全員にお茶を配る。
ミアが改良図を見せて、ノエルが冷静に「その配置だと凍ります」と指摘する。
フィリアがそれを聞きながら、眠そうに笑う。
昨日までここは、ただ古い建物だった。
でも今夜だけは、少しだけ寮に見えた。
「ユーマさん」
フィリアが湯気の立つ器を両手で包みながら言った。
「今日は、よく眠れそうです」
「それならよかった」
俺はそう答えた。
けれど、その夜。
彼女たちの寝室を見た俺は、すぐに考えを改めることになった。
湿った毛布。
軋む寝台。
隙間風の入る窓。
床に置かれたままの古い布。
温かいお湯で身体は少し楽になった。
けれど、俺はもう一つ気づいてしまった。
この寮のベッドは、人を休ませるためのものじゃない。




