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001 使い魔じゃなくて、人間が出ました

目を開けた瞬間、知らない天井があった。

……いや、待て。

知らない天井、という表現はまだ優しい。

天井と言っていいのかも怪しい。古びた木の梁。そこに絡まった蜘蛛の巣。ところどころ黒ずんだ石壁。鼻の奥に入ってくる、埃と湿気と、何かよく分からない薬草みたいな匂い。

少なくとも、俺がさっきまでいたコンビニのバックヤードではない。

「……どこだ、ここ」

声を出したら、喉が少し痛かった。

身体を起こそうとして、背中に鈍い痛みが走る。どうやら床に直接寝かされていたらしい。

俺は顔をしかめながら上半身を起こした。

床には白い粉で大きな円が描かれていた。円の内側には、意味の分からない文字。周囲には溶けかけた蝋燭。割れた水晶。黒く焦げた紙切れ。

……魔法陣?

いやいやいや。

寝起きにそういう単語が自然に出てくる時点で、俺の脳もだいぶ疲れている。

俺は自分の服を見下ろした。

白いシャツ。黒いズボン。胸元には、バイト先のコンビニのロゴが入ったエプロン。

最後の記憶はある。

深夜二時すぎ。

客が途切れたタイミングで、俺はバックヤードに入った。廃棄予定の弁当を確認して、発注表を見直して、少しだけ椅子に座った。

少しだけ、のつもりだった。

目を閉じた瞬間、床が光った気がした。

疲れていたから、たぶん幻覚だと思った。

普通はそう思う。

普通は、コンビニの床が光ったあと、魔法陣みたいな場所で目覚めたりしない。

「スマホ……」

ポケットを探る。

出てきたのは、ボールペン、メモ帳、レジ袋を結ぶための輪ゴム、それからスマホ。

電源ボタンを押す。

反応なし。

もう一度押す。

真っ暗な画面に、疲れた顔の俺が映っただけだった。

「終わった……」

思わず呟いた。

その時だった。

「きゃあああああっ!」

「うわあっ!?」

すぐ横で悲鳴が上がったせいで、俺まで変な声を出した。

振り向くと、そこに女の子が立っていた。

銀色の髪。青い瞳。黒を基調にした制服に、古びたローブ。

年は十六、七くらいだろうか。

顔立ちは驚くほど整っている。けれど今は、それどころではないくらい真っ青な顔をしていた。

少女は震える指で俺を指さした。

「あ、あなた……」

「えっと……」

「何ですか!?」

「人間ですけど」

「人間!?」

少女は、世界が終わったみたいな顔をした。

俺が人間であることって、そんなにまずいのか。

「どうして……人間が……」

少女は床の魔法陣を見た。

それから自分の両手を見た。

最後に、もう一度俺を見た。

そして、その場にへたり込んだ。

「終わりました……」

「いや、俺もだいぶ終わってるんだけど」

「退学です……今度こそ退学です……」

少女は両手で顔を覆った。

俺は困った。

知らない場所で目覚めた俺のほうが泣きたいはずなのに、目の前の女の子が先に絶望している。

こういう時、どうすればいいんだ。

コンビニなら分かる。

酔っ払い客なら水を渡す。クレーム客なら責任者を呼ぶ。コピー機の使い方が分からないおばあちゃんには、横について一緒に操作する。

でも、魔法陣の前で泣きそうになっている銀髪の女の子への対応マニュアルは、さすがに習っていない。

「あのさ」

俺はなるべく刺激しないように声をかけた。

「まず、ここがどこか教えてくれないか?」

少女はゆっくり顔を上げた。

「……リュミエール王立魔法学院です」

「魔法学院」

「はい」

「王立」

「はい」

「ちなみに日本では?」

「ニホン……? それは、どこの国ですか?」

ああ。

なるほど。

認めたくないけど、だいたい分かった。

ここは日本ではない。

ついでに言えば、たぶん地球でもない。

俺は床の魔法陣を見下ろした。

「もしかして、俺、召喚された?」

少女は小さく頷いた。

「本当は、使い魔を召喚するはずだったんです」

「使い魔」

「はい。火蜥蜴とか、風兎とか、灯り鳥とか……。初級召喚の試験だったので、本当に小さな使い魔でよかったんです」

「それで出てきたのが俺」

「はい……」

少女はまた泣きそうな顔になった。

「人間を召喚するなんて、聞いたことがありません。契約印もありませんし、魔力のつながりもありません。先生に見つかったら、私は本当に退学です」

「退学って、そんな大げさな」

「大げさじゃありません!」

少女は思ったより強い声を出した。

けれど、すぐに肩を落とした。

「私はもう、あとがないんです」

その声が、少しだけ震えていた。

俺は何も言えなくなった。

倉庫の外から、風の音が聞こえた。

すきま風だ。

しかもかなり寒い。

よく見ると、この倉庫はひどい状態だった。木箱は壊れているし、棚は傾いているし、床には埃が積もっている。壁のひびから冷たい空気が入ってきている。

魔法学院と聞いたから、もっとこう、きらきらした場所を想像していた。

大理石の廊下とか、空中に浮かぶ本とか、優雅に紅茶を飲む貴族とか。

でも、目の前にあるのは、完全に放置された倉庫だった。

「あの」

少女が急に立ち上がった。

「とにかく、ここから出てください」

「出ていいのか?」

「いえ、違います。外に出るのはだめです。見つかったら困ります。けれど、この倉庫にいるのも危険です。先生が確認に来るかもしれません」

「じゃあどうすれば」

「隠します」

「俺を?」

「はい」

少女は俺の腕をつかんだ。

細い手だった。

でも、必死だった。

「こっちです」

連れて行かれた先にあったのは、古い衣装棚だった。

扉は片方外れかけている。中には、古いローブや布きれがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

「入ってください」

「いや、これはさすがに」

「お願いします!」

少女が深く頭を下げた。

俺はため息をついた。

分かった。

いきなり異世界に召喚されて、最初にすることが衣装棚に隠れることになるとは思わなかったけど。

俺は身体を縮めて、衣装棚の中に入った。

狭い。

埃っぽい。

そして、なぜか古いハーブみたいな匂いがする。

少女が扉を閉めようとした時、俺は慌てて聞いた。

「そういえば、名前」

「え?」

「君の名前。聞いてなかった」

少女は一瞬だけ目を丸くした。

それから、小さな声で言った。

「リゼロッテです。リゼロッテ・エーレンベルク」

「俺は天野悠真」

「ユーマ……?」

「悠真でいい」

リゼロッテは少し迷ってから、こくりと頷いた。

「分かりました。ユーマさん」

扉が閉まった。

暗くなった。

衣装棚の隙間から、わずかに倉庫の中が見える。

リゼロッテは慌てて魔法陣の粉を足で消し、割れた水晶を布で隠した。動きは雑だけど、必死なのは分かる。

その時、倉庫の扉がノックされた。

「リゼロッテさん。召喚試験の結果を確認します」

大人の女性の声だった。

リゼロッテの肩がびくりと跳ねた。

「は、はい!」

扉が開く。

入ってきたのは、眼鏡をかけた教師らしい女性だった。

背筋が伸びていて、いかにも厳しそうな人だ。

「使い魔は?」

「あ、あの、その……」

リゼロッテは明らかに挙動不審だった。

嘘が下手すぎる。

コンビニで未成年が酒を買おうとした時くらい、分かりやすく目が泳いでいる。

「召喚に失敗しました」

「またですか」

教師の声が冷たくなる。

また、という言葉に、リゼロッテの顔が少し曇った。

「灰羽寮の生徒は、ただでさえ問題が多いのです。リゼロッテさん、あなたはエーレンベルク家の名を背負っているのでしょう?」

「……はい」

「次の月末考査で結果を出せなければ、灰羽寮は正式に廃寮となります。あなたたちの処遇も、学院会議で決まります」

廃寮。

処遇。

俺は衣装棚の中で息を止めた。

どうやらこの子は、本当にまずい場所にいるらしい。

教師は倉庫の中を軽く見回した。

俺は動かなかった。

埃が鼻に入って、くしゃみが出そうになったけど、死ぬ気でこらえた。

「……まあいいでしょう。今日は報告だけにしておきます」

「ありがとうございます」

「次はありませんよ」

扉が閉まった。

足音が遠ざかる。

しばらくして、リゼロッテが衣装棚の扉を開けた。

外の空気が入ってくる。

俺はやっと息を吐いた。

「死ぬかと思った」

「すみません……」

リゼロッテは申し訳なさそうに頭を下げた。

俺は棚から這い出しながら、さっきの言葉を思い出していた。

「灰羽寮って、何?」

リゼロッテは少しだけ視線を落とした。

「この学院で、一番成績の悪い生徒が集められる寮です」

「落ちこぼれ寮ってこと?」

「……はい」

否定しなかった。

その代わり、彼女は少し悔しそうに唇を噛んだ。

「でも、みんな本当にだめなわけじゃないんです。ただ、魔法が安定しなかったり、家の事情があったり、少し変わっていたりするだけで……」

そこで、リゼロッテのお腹が鳴った。

小さく、くう、と。

彼女の顔が一瞬で赤くなった。

「い、今のは」

「聞こえた」

「忘れてください」

「無理だな」

俺がそう言うと、リゼロッテはますます赤くなった。

緊張が少しだけ緩んだ気がした。

俺は倉庫の隅に置かれていた皿を見た。

そこには、黒っぽく固いパンが一切れだけ置かれている。

「もしかして、それが夕飯?」

「今日は、そうです」

「今日は?」

「昨日も似たようなものです」

「……普段から?」

リゼロッテは答えなかった。

答えないことで、だいたい分かった。

俺は倉庫の扉から外を覗いた。

薄暗い廊下。欠けた窓。冷たい風。遠くから、誰かが咳き込む音が聞こえた。

魔法学院。

王立。

貴族。

そういう言葉から想像する場所とは、ずいぶん違う。

ここは、たぶん見捨てられた場所だ。

少なくとも、今の俺にはそう見えた。

「リゼロッテ」

「はい?」

「厨房ってある?」

「一応ありますけど……」

「食材は?」

「少しだけなら。野菜の切れ端と、古い豆と、昨日の固いパンが」

「鍋は?」

「穴の空いていないものが一つだけ」

「火は?」

「火の魔石が小さいですけど、まだ使えると思います」

俺は腕まくりをした。

リゼロッテが不思議そうに俺を見る。

「何をするんですか?」

「飯を作る」

「え?」

「そのパン、そのまま食べるよりマシにできる。豆と野菜があるなら、スープくらいは作れるだろ」

「ユーマさん、料理ができるんですか?」

「コンビニ夜勤をなめるな。料理人じゃないけど、冷蔵庫の残り物で何か作るくらいはできる」

俺がそう言った瞬間だった。

視界の端に、淡い光が浮かんだ。

最初は、疲れすぎて目がおかしくなったのかと思った。

でも違う。

目の前の空中に、半透明の文字が表示されていた。

日本語ではない。

なのに、不思議と読める。

【生活改善図鑑が起動しました】

【対象:灰羽寮】

【快適度:3/100】

【現在の問題:空腹/冷え/睡眠不足/衛生環境の悪化】

【最優先改善案:温かい食事】

俺は固まった。

リゼロッテが首をかしげる。

「ユーマさん?」

俺は光る文字を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。

異世界。

魔法学院。

落ちこぼれ寮。

そして、生活改善図鑑。

なるほど。

意味は分からない。

分からないけど、一つだけ分かる。

この寮、思った以上にひどい状態らしい。

俺はもう一度、腕まくりをした。

「リゼロッテ」

「はい」

「まずは、温かいものを食べよう」

彼女はぽかんと俺を見た。

俺は倉庫の外へ歩き出した。

勇者でもない。

魔法使いでもない。

召喚された使い魔ですらない。

ただのコンビニ夜勤明けの大学生だ。

だけど、冷えたパンを温かいスープに変えるくらいなら、俺にもできる。

たぶん、この世界で最初に俺がやるべきことは、魔王を倒すことじゃない。

この寮の夕飯を、少しだけマシにすることだった。

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