皇子のまなざし
客間の窓から、やわらかな光が差し込んでいた。
ミュリエ村の春の空気は穏やかで、鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。だがその室内に流れる空気は、ほんの少しだけ張り詰めていた。
エリスは深く息を吐き、対面する青年の瞳を見つめた。
「まさか、帝国の第三王子殿下がこのような場所まで足を運ばれるとは思っておりませんでした」
「こちらこそ、突然の訪問をお許しください。ですが、どうしても貴女と――貴女の手による薬草と技術を、この目で確かめたかったのです」
クラウス・フォン・アルヴィオン。
帝国でも知る者の多い賢王の息子であり、軍政と外交の両面で実績を上げている若き皇子。王国の貴族社会から遠ざけられたエリスとは、まるで対極にある存在だ。
だがその男が、今目の前で静かにティーカップを手にしている。
そして――手にしているのは、エリス自らが淹れた薬草茶だった。
「……これは、驚きました。香りがまず穏やかで、飲みやすい。そして、身体の芯から温かくなる」
「それは、カモレールと呼ばれる薬草です。リラックス効果と、血流促進作用があります。前世――いえ、前に学んだ薬草の知識を応用した配合です」
「前に学んだ、とは?」
クラウスの瞳が一瞬だけ鋭く光る。
その表情の変化に、エリスは笑みを浮かべながら首を傾げた。
「夢で見たんです。不思議な国の、不思議な学問。けれど、その記憶が、今の私を支えてくれている気がして」
「夢……ですか。ですが、単なる夢でここまでの知識と技術は身につきません。私は、貴女が本物であると確信しています」
まっすぐに向けられるまなざしに、エリスは少しだけ驚いた。
これまで彼女に向けられてきたのは、利用、侮蔑、同情。けれどクラウスの目には、それらのどれもなかった。ただ“対等な興味”と、“敬意”だけがあった。
「殿下。私がここで薬草を育て、薬を作っているのは、ただ誰かの役に立ちたかったからです。王宮で学んだ“貴族らしさ”では、人の苦しみを救えなかった。だから私は、土と向き合うことにしたんです」
「その選択は、尊いものです。王冠の影に隠れた人々を救う力こそ、我が帝国が求める“真の力”でもあります」
静かな声だった。けれどその言葉に、エリスの胸は少しだけ熱くなった。
否定され続けた過去が、無駄ではなかったと思わせてくれる言葉。それを、よりによって他国の王子が言ってくれるとは思わなかった。
「実は、もうひとつ目的があってここに来ました」
クラウスが懐から小さな小瓶を取り出す。中には褐色の液体が入っていた。
「これは、我が帝国の辺境部族が用いる古式薬草液です。だが、効果にばらつきがあり、保存も困難で……」
「成分が不安定なのですね。保存容器と魔力共鳴の制御が必要かもしれません。見せていただけますか?」
「もちろん。……やはり、貴女に頼って良かった」
言葉は、自然で、どこか柔らかい。
まるで初めから信頼があったかのように、彼はエリスを見つめていた。
(不思議な人……。でも、嫌じゃない)
王宮では感じたことのなかった穏やかさが、今、目の前にある。
そして――その夜。
クラウスは村の宿舎に滞在することとなり、エリスはその日の出来事を日記に記しながら、ひとり深呼吸をした。
「帝国の皇子……。関われば、また風が動く」
だが今の彼女は、以前のように追い詰められることはなかった。
自分の意志で築き上げた居場所、自らの力で生み出した技術。そして、支えてくれる仲間がいる。
「……だったら、少しくらい、巻き込まれてみてもいいかもしれないわね」
月明かりが静かに差し込む部屋の中で、エリスは小さく笑った。
それは、運命の交差点に立つ者の、柔らかな決意だった。