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取引の始まり

 朝靄の残るミュリエ村に、静かな陽光が差し込み始めていた。

 薬草園では、若葉が露を弾きながら風に揺れ、温室の中には仄かなハーブの香りが漂っている。


 その中心に、エリスとクラウスの姿があった。


「……なるほど、これは確かに保存性に問題がありますね。液状の薬草成分が揮発しやすく、封をしていても成分が劣化する可能性が高いです」


 エリスはクラウスから預かった帝国産の薬草液を、細かく分析していた。

 色、香り、沈殿物の量。すべてが中途半端で、調合した者の“勘”だけで作られた代物だった。


「加えて、魔力を込めた保存器が使われていません。薬草液は魔力に弱い成分が多いですから、適切な遮断処理が必要です」


「魔力遮断……そのような技術は、王国では既にあるのですか?」


「いいえ、まだ理論段階。でも……私には、できそうな気がするのです」


 そう言って、エリスは棚からひとつの瓶を取り出した。

 それは彼女自身が調整した魔力結晶を封じたガラス瓶。前世で使っていた「医療用遮光瓶」の構造を、魔力で再現した試作品だ。


「これは……中に魔力がほとんど届かない。なるほど、魔力遮断の仕組みを“ガラスと結晶”で調整しているのですね」


 クラウスが目を細めた。知的な興味と、深い尊敬の色がその眼差しに宿る。


「これが実用化されれば、帝国でも保存に悩んでいた多くの薬草が安定供給できます。これは、革命的ですよ」


「まだ理論の段階ですが、実用化できれば薬の効能を数段上げることができるでしょう。……そこで、ご提案があります」


 エリスは真っ直ぐにクラウスを見つめた。


「私と正式に、技術提携しませんか? 帝国と王国の枠を越えて、薬草と錬金術の共同研究を――この村で、始めましょう」


 しん、とした空気が流れた。

 クラウスは目を閉じ、数秒だけ黙考する。そして、すっと手を差し出した。


「クラウス・フォン・アルヴィオンとして、そして一人の人間として――その申し出を受けましょう。これは個人の契約です。国家間の思惑ではなく、貴女と私の、対等な取引として」


 その手を、エリスは迷わず握った。


 彼女の手は、かつて王太子レオナルドに拒絶され、社交界で嘲笑され、すべてを失った“悪役令嬢”の手だった。

 だが今、その手が新たな協力者を得て、自ら未来を創ろうとしている。


「それでは、まずは必要な道具と人員の整理から始めましょう。貴族の後ろ盾はありませんが、私はこの地を守りながら、錬金術を進めてみせます」


「道具の輸送はこちらで手配します。信頼できる者を通じて、秘密裏に進めましょう。……この場所は、まだ誰にも荒らされたくない」


 言葉の端に滲むやさしさに、エリスは少しだけ頬を緩めた。


「殿下、あなたは意外と、繊細な方なんですね」


「繊細ではありません。ただ、壊してはならないものの価値を知っているだけです」


 


 その日から、ミュリエ村には新たな風が吹き始めた。

 帝国からの物資が少しずつ届き、研究に必要な器具や資材が揃っていく。村の人々は戸惑いながらも、エリスの言葉を信じ、協力を惜しまなかった。


「本当に、すごいことになってきましたね、エリス様……!」


 マリーが目を丸くして笑う。

 リーナも村の若者たちと共に、薬草園の整備に奔走していた。


 皆が少しずつ、この村の“変化”を感じ始めていた。


 


 夜。静かな研究室で、エリスはふと窓の外を見つめる。

 灯りのついた村の家々、小さな子供の笑い声、薬草の香り――


 そのすべてが、確かに“ここが居場所だ”と教えてくれていた。


「前世でも、王宮でも、得られなかったものが……今、ようやく手に入ったのかもしれない」


 それは名誉でも、地位でもない。

 ――必要とされること、信頼されること、そして、自分の価値を“自分の手で示すこと”。


 新たな取引が生まれた日。

 それは、エリスが“悪役令嬢”ではなく、“錬金術師”として歩む、真の始まりだった。

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