歩き出す灯
ミュリエの朝は、変わらない静けさの中にあった。
だがその日、ひとつだけ“違う”ものがあった。
中枢棟の前庭を、小さな歩幅で歩く者――
リュミエ。
かつて“ゼロ”と呼ばれたその存在は、今、村の空気の中にゆっくりと足を踏み入れていた。
「おはよう、リュミエ」
そう声をかけたのは、食堂担当の女性だった。
リュミエは、一瞬止まり、そして小さく頭を下げた。
言葉はない。けれど、その動作に、はっきりと“意志”があった。
厨房の一角では、ネイが皿を運んでいた。
リュミエに気づき、すぐに笑顔で駆け寄る。
「来たんだね、散歩。いい天気だし、いろんなとこ回ってみようよ!」
リュミエはネイの顔を見て、ふっと首を傾げた。
「まわる……?」
それは、問い。
声ではなく、魔導触感板に記された単語だったが――ネイは嬉しそうにうなずく。
「うん、“見る”ってこと。知らない場所を、自分で見るって、楽しいんだよ」
ネイはリュミエの手を取り、ゆっくりと中枢棟の裏庭へと誘った。
そこでは、研究班の若い補佐員が資料を運んでいた。
彼はリュミエに気づき、一瞬だけ身構えたが――
すぐに表情をやわらげ、頭を下げた。
「……おはようございます。リュミエさん」
“さん”――
その呼びかけに、リュミエは立ち止まり、小さく目を見開いた。
ネイが耳元で囁く。
「それ、嬉しいときの名前の使い方だよ。
“あなた”を、ちゃんと“人”として呼ぶってこと」
リュミエの触感板が、ゆっくりと淡く光った。
「オボエル」
フェルナーが庭木の影からそれを見ていて、アリアにぼそりとつぶやいた。
「……ちゃんと“反応”してる。あれはもう、感情だな」
アリアはにっこり笑った。
「違いがあるなら、“それがどんな命か”ってことじゃなくて――
“誰がその命をどう受け止めるか”なんだよね」
夕暮れ、ネイとリュミエは診療棟の裏手に腰を下ろしていた。
日が落ちる寸前、風が光を巻いていく。
ネイがぽつりと言った。
「リュミエってさ、本当に“光”って感じがするよ。
まだちっちゃくて、揺れてて、だけど……ちゃんと、そこにある光」
リュミエは触感板に文字を浮かべた。
「ネイ ノ ヒカリ モ ミエル」
ネイはきょとんとしてから、破顔した。
「え……えへへ。そう言ってもらえると、ちょっと照れるね……」
ふたりの影が、長く地面に伸びていた。
リュミエの足元には、迷いも不安もある。
だが――その歩みは確かに、“命としての一歩”を刻んでいた。
その夜、エリスは日誌にこう記した。
「名を得た命は、まだ世界を知らない。
だが、知ろうとしている。
その光が、誰かを照らす日を、私は信じている」




