ゼロの動く夜
会議四日目の夜。
ミュリエ村は静けさに包まれていた。日中の喧騒が嘘のように、風の音すら穏やかだ。
だが――その夜は、最初から“平穏”など存在しなかった。
研究棟、地下管理層。
普段は閉ざされたそのフロアに、一人の影が忍び込んでいた。
男の名は――“ゼロ”。
ヴィグルド連合の最上級諜報員。アリアの訓練教官であり、彼女が唯一「勝てなかった」相手。
彼は無言でセキュリティ装置を無力化し、研究データの主回線に接続する。
(今夜中にすべてを奪う。拒まれたならば、力で正させるまで)
その手に握られた装置は、《ルメナ・エリキシル》改良型の開発中サンプルを“暴走”させるコードを含んでいた。
狙いは単純――事故を装い、研究棟そのものの信頼を崩壊させること。
だがその背後に――
「……やっぱり、来たのね」
声がした。
振り返ったゼロの視線の先にいたのは、アリアだった。
白衣の裾を翻し、静かに歩み寄る彼女の顔には、もはや迷いの色はなかった。
「“ゼロ”。あなたが動くなら、それはもう“議論”じゃない。“破壊”の始まりだわ」
「……お前がここにいる理由がわかった。裏切ったのか、アリア」
「違う。“選んだ”のよ。あなたと同じように」
ゼロは短く嘲笑を漏らす。
「選んだ末が、こんな村か? 理想に溺れた女の元で?」
「ええ。そう。だけどね、“誰かを守るために生きる”っていう道を、私は初めて自分で選べた」
ゼロが静かに懐から短剣を抜く。
アリアもすでに、隠し持っていた警棒型の魔導具を構えていた。
言葉はもう要らなかった。
二人の影が交錯し、鋼と魔力がぶつかる音が響く。
狭い地下フロアでの近接戦。アリアは瞬時に防御を優先し、回避を最小限に抑える。
(昔なら、私は避けて逃げていただけ。でも今は――)
「私は、あなたに勝つ!」
短く鋭い交差の後、アリアは身を翻し、ゼロの装置を足払いで吹き飛ばす。
壁に叩きつけられた装置は、外殻が砕け、暴走コードの起動を寸前で停止した。
ゼロが目を見開く。
「……本当に、変わったな。お前は」
「ええ。あなたが作った私だけど、“あなたには支配させない私”よ」
そのとき、背後の扉が開く音がした。
「アリア!」
駆け込んできたのはエリスとクラウス。
エリスは咄嗟にゼロの残した端末を蹴り飛ばし、クラウスが剣を抜いて警戒体勢を取る。
「こいつが……!」
「“ゼロ”。ヴィグルド諜報部の実行工作員よ。目的は、研究の信用の破壊と機密奪取。
でももう、装置は止めた。証拠もある」
アリアの言葉に、クラウスは頷き、フェルナーに連絡を指示する。
「ゼロ。貴様の行動は、協定違反であり、敵対的な侵略工作と見なされる。
この場で拘束する」
「……俺は命じられただけだ。“力なき理想”がいずれ裏切ると、そう判断された」
「だからこそ、私たちはそれを証明しなきゃならないの」
エリスは真っ直ぐに言った。
「力がなくても、理想は裏切らない。誰かを信じる道は、“壊すための言い訳”じゃない」
ゼロはしばし沈黙し、そして微かに笑う。
「……なら、せいぜい信じることだな。
“信じた未来が、誰にも壊されない”って」
そのまま、ゼロは無言で拘束されていった。
敵の牙は折れ、嵐は、ひとまず過ぎ去った。
研究棟の屋上、深夜。
アリアとエリスは並んで夜空を見上げていた。
「怖かった?」
「ええ。とても。でも……後悔はしてない」
エリスは微笑む。
「なら、大丈夫。あなたはもう、自分の足で歩けてる」
「……エリス。ありがとう」
小さな声。けれど、それは確かな想いだった。
こうして、ミュリエ村は再び立ち上がる。
信念を示し、敵を退け、そして――本当の意味で“世界と向き合う準備”を整えた。




