仮面の笑顔と本当の涙
ミュリエ村の研究棟。新設された実験区画では、今日も淡々とした作業が続いていた。
アリア・レーヴェントは、白衣に身を包み、冷静かつ正確な手つきで器具を扱っていた。
彼女の動作には無駄がなく、帝都の研究者たちからも一目置かれていた。
「アリアさん、さすがですね。初めてのはずなのに、ここの手順、もう完璧じゃないですか?」
声をかけたのはリーナだった。
若き助手は、心からの賞賛を込めて微笑んだ。
アリアも同じように微笑み返す――だがその裏にあるのは、どこか温度の低い“作られた笑顔”だった。
「観察力は私の得意分野なの。応用すれば、理解も早いわ」
「応用……?」
「ええ。“仕組み”を理解すれば、あとはどう使われているかを見るだけ」
その言葉に、リーナは一瞬だけ首を傾げた。
アリアの視線の奥に何かを感じ取ったのかもしれない。
だがすぐに、明るい声が入った。
「ここにいたのね。アリアさん、少し手を借りてもいい?」
エリスだった。
作業用ノートを手に、穏やかな笑みを浮かべている。
「もちろん、エリス様」
アリアはすぐさま立ち上がり、無表情に近い笑顔を浮かべたまま後を追った。
二人きりになった調合室で、エリスは新しい試作薬の調整作業を始めた。
「この試薬は、魔力応答の安定性が課題なの。前回の失敗で、副作用が増加して……」
「なるほど、原因は魔力の回転反応。ここ、攪拌の温度が不安定ですね」
「……気づいたのね」
エリスは驚きもせず、淡々と応じた。
だが内心では、アリアの洞察力に警戒心を強めていた。
(分析力も、応用力もずば抜けている。でも――なぜか“感情”がない)
エリスは、さりげなく言葉を探った。
「アリアさん、前の職場ではどんな研究を?」
「……さほど大したものじゃないわ。統計と管理。人間の行動の予測、反応の傾向、そういうもの」
「“人を救う”研究じゃなかったの?」
一瞬、アリアの指先が止まった。
「……救う、ですか。難しいですね。救う側に立ったことがないから、わからない」
その言葉に、エリスは何も言わなかった。
ただ一歩だけ、彼女に近づいた。
「私は、“救ってもらえなかった側”だったの。でも、だからこそ今、“救える側”でいたいと思ってる」
アリアの瞳に、わずかに揺らぎが生まれる。
「……理想家、なのですね」
「ええ。そう思われても構わない。でも私は、“理想”がなきゃ歩けなかった」
会話は、そこで終わった。
それ以上、エリスは追及しなかったし、アリアも答えなかった。
だが、その日の夜。アリアは研究棟の片隅で、ひとりベンチに座っていた。
手には報告用の魔導記録石。
“ミュリエ拠点の動向・情報獲得状況”を整理し、簡潔に報告するべき任務の一環。
……なのに、彼女の指は止まったまま動かない。
「……何を迷ってるの、私」
その呟きには、苛立ちと戸惑いが入り混じっていた。
任務は任務。感情を挟む余地などない――はずだった。
だが、エリスの言葉が何度も脳裏に蘇る。
『私は、“救ってもらえなかった側”だったの。でも、だからこそ今、“救える側”でいたいと思ってる』
仮面のような笑顔が崩れそうになる。
「理想家……本当に、ただの理想家なら……どうして、こんなに……」
その夜、アリアは記録石を報告用の鞄に戻した。
送信はしなかった。
――まだ、決定は早すぎる。
彼女の中で、“任務”と“疑問”の天秤が揺れ始めたのは、この夜が初めてだった。




