帝国の申し出
午後の陽が柔らかく差し込む中、ミュリエ村の別荘には静かな気配が流れていた。
エリスは研究室の机に向かい、乾燥させた薬草の成分変化を記録していた。調合は順調で、すでに数種類の製品は村内だけでなく、王都にも流通し始めている。
けれど、その静けさを破ったのは、控えめなノックの音だった。
「エリス様、殿下がお話があると……」
マリーの声の向こうから、すでに落ち着いた足音が聞こえていた。
「……分かったわ。通してちょうだい」
応接室に入ると、クラウスはすでに紅茶を一口飲んでいた。彼が淹れたそれは、少しだけ濃く、香りが深かった。
「この紅茶、先日いただいたカモレールとのブレンドです。帝国でも流行りそうですよ」
「ふふ、それは光栄です。……それで、今日のお話は?」
エリスが椅子に腰掛けると、クラウスは真剣な表情で正面に座った。
その視線に、これまでの柔らかさとは違う、ひとつの“決意”が宿っているのをエリスは見逃さなかった。
「エリス嬢。私は、貴女に正式な提案をしたくて参りました」
「……提案?」
「アルヴィオン帝国内に、貴女の研究所を設立しませんか? 資材も土地も、必要な人材も、すべて用意します」
一瞬、空気が止まった。
冗談ではない。彼の声音にも表情にも、一切の飾りがなかった。
「帝国に、私を?」
「そう。今や王国の貴族社会は腐敗しきっている。貴女のような才能を理解もせず、追放するような場所に、未来はない」
「……私を、引き抜くおつもり?」
「いえ、“尊重した上で迎え入れる”つもりです。貴女のやりたい研究を、貴女のやりたい方法で。私はそれを支えたい」
クラウスのまなざしは真剣だった。
その眼差しに、野心はあっても軽薄さはなかった。あくまで、“共に何かを創る”という意志だけがそこにあった。
エリスは、少しだけ視線を落とした。
「……ありがたいお話です。でも、すぐには答えられません」
「理由を聞いても?」
「この村には、私を信じてくれる人たちがいます。マリーもリーナも、村の子どもたちも――それに、弟のアルフも。この土地に根を張って、私はようやく“自分の足で立てた”のです」
「……なるほど。簡単には引き抜かれない女性だ」
クラウスはわずかに笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめる。
「ならば、こうしましょう。帝国に拠点をつくるのは、“貴女の意思で動けるようになった時”に。私は、それを急かすつもりはありません」
「……え?」
「私はただ、いつでも貴女の隣に“支える手”を置いておきたいだけです」
その言葉は、思いがけず――優しかった。
利益でもなく、野心でもなく。ただ、ひとりの人間としての“敬意”が滲んでいた。
(なんて、やっかいな人……)
けれど、嫌ではなかった。
王太子レオナルドには、決して向けられたことのなかったその眼差しが、今はまっすぐに自分に注がれている。
「では、今は“保留”で」
「了解です。私は待つことに慣れていますから。……ただし、王都の動きには気をつけてください。どうやら、そろそろ“噂”が王宮にも届いてきたようですから」
その一言に、エリスの目が細まる。
「……面倒なことになりそうね」
「いえ、貴女はもう“追われる者”ではない。むしろ、彼らが恐れているのは――“貴女に無視されること”でしょう」
クラウスの言葉に、エリスはくすりと笑った。
「なるほど、それは……気持ちいい話ね」
そして彼女は、立ち上がって彼に向かって微笑む。
「帝国の申し出。ありがたく“取っておきます”。でも今は、この村と、私のやりたいことに全力で向き合いたいの」
「ええ、それでこそ、私が目を止めた“エリス・フォン・ベルグランド”です」
帝国と王国――
ふたつの国の未来に、今、ひとつの名前が静かに根を張り始めていた。




