その8 珈琲砂糖 (体験採集地:大学構内)
2005年夏に、創作仲間のサイトで行なわれた百物語企画に投稿し、同時に旧自サイト「よいこのためのアジト」で発表した「怪談十話」の第7話です。
旧自サイトで宣言したように、著作権を放棄します。改変、再使用はご自由に。
学生時代、化学を専攻していた友人がいる。
彼のいた化学実験室と言えば、僕のような門外漢から見たらお化け屋敷みたいなもので、毒薬や劇薬を入れたポットの横にお湯のみが置いてあるとか、古い棚をあけると、ラベルの剥がれた壜に毒だか薬だか分からないものが置いてあって中身が実は砂糖だったとか、実験で合成されたものが予定と全然違って爆発性だったとか、しかも念のため材料を再確認したら壜の中身がいつの間にかすり代わっていたとか、そんな話は枚挙にいとまがないが、そういう環境にすっかり馴染んでいた彼でも、一度だけ薄気味悪く思った経験があるらしい。
彼のいる学生研究室では、夕食後に本物のコーヒーを入れて皆で駄弁るのが日常だったが、ある日のこと、コーヒー砂糖のうちのいくつかの欠片が一向に溶けなかった事があるそうだ。僕の如き門外漢には、そんなことどうでも良いように思われるが、そこは化学者の卵たちだから、早速不思議に思って観察しはじめたそうだ。調べると彼のコーヒーに入れた砂糖だけが溶ける気配を見せなず、お互いにくっついたまま、心無しか成長しているようにすら見える。彼以外にも砂糖を入れた者がいるから、まさか砂糖の壜を間違える筈は無いが、そこは化学の研究室だ。いつ、どんな毒物が間違って砂糖の壜に入れられなかったとも限らない。念のために壜から砂糖の粒々を取り出して吟味した。色も形も臭いも間違いなくコーヒー砂糖で、ついでに一粒嘗めて見たが、味も問題ない。確認したのは彼だけじゃ無いから、この判断に間違いはないだろう。そこで、彼はとうとうコーヒーを少しだけ口に含んでみたが、味にも問題ない。確かに砂糖入りのコーヒーだったそうだ。
そこまでチェックはしたものの、奇妙な物体が沈澱しているコーヒーは気持ちが悪い。大変迷ったあげく、彼は上澄み部分だけを飲む事にした。というのも彼は学生の常にあるように倹約家で、インスタントならいざ知らず、モカを捨てる程の勇気が無かったからだ。彼が僕でもそうしていると思う。それでも、さすがに半分ほどで飲み止めて、残りのコーヒーを捨てたそうだ。もっとも、下に残った奇妙な塊を箸で取り出し、机上の紙の上に置いて皆で吟味したのは言うまでも無い。彼らが見る限り、変形したコーヒー砂糖と区別がつかない。結局、分からないという事で、その時は放っておかれたそうだ。
翌日彼が研究室に行くと、例の奇妙な塊が消えて、ただ、それを乗せた紙だけが、コーヒーのシミを残してそのままに置いてあった。てっきり誰かが片付けたのだろうと思った彼は、気にも止めずに1日を過ごし、やがて夕食後のコーヒーの時間となった。昨日の事があるから、皆の注視の元でコーヒー砂糖を入れた。化学専攻に人間でなくても、多少とも科学に興味のある人間なら矢張りそうするだろう。そうして、いつもと同じようにかき混ぜた。すると、再び同じ事が起こった。砂糖の一部が融けず、皆の注視の元、確かに少し成長したそうだ。しかも彼のコーヒーだけ。
2日連続ともなればさすがに飲む気にはなれない。勿体なくともコーヒーを捨て、沈澱した物体だけ昨日と同じように紙の上に置き、皆で観察して、何処も変わった所のない事を確認してから、更にその上に紙を乗せて、捨てるべからず、と書き置いたそうだ。翌日が土曜で午後がやや暇だから、その時にもっと詳しく吟味しようと言う魂胆だったらしい。大学の化学実験室に週休2日なんてあっても無いに等しいが、週休2日制度のお陰で、土曜日は早めに引けるような習慣になっていたという。
土曜日の朝、彼が研究室に顔を出すと、再び例の沈澱物が消えている。悪戯で無い限り、空気中に昇華した事になる。こうなったら、多少贅沢といえども、豆コーヒーを使ってもっと調べる価値がある。研究室のメンバーが出そろうや…と言っても10時過ぎになる訳だが…早速コーヒーを作り、その全てに砂糖を入れた。
ところが何も起きない。砂糖を加えても同じ事で、結局、普段砂糖を入れずに飲む人間まで、砂糖入りのコーヒーを飲む羽目となって、その日は終った。不気味さよりも目先の勿体なさを取ったのは如何にも学生らしい。
週明けの月曜日、いつも通りに夕食後にコーヒーを作ったら、またも全く同じ現象が起きたそうだ。しかも、またしても彼のコーヒーだったという。こうなると何が何だか分からない。もしもコーヒーカップに問題があったとしても3回連続して彼の所に同じカップがまわる確率は極めて低いからだ。脳天気な化学生も、さすがに少々気味悪く思ったらしい。取りあえず、現物保管と言う事で、それまで2回と違って、コーヒーを捨てずにそのまま置いて帰る事になった。
翌朝、研究室に行くと、例のコーヒーは真っ黒になって、酸っぱい臭いを発している。彼が青くなったのは言うまでもない。起こり得ざる事が起こったのだから。
同輩や先輩が三々五々にそろうや、仕事そっちのけで分析をしたところ、食べ物が腐った時の酸と同じらしいという事になった。そこで、もう一度砂糖を調べてみたが異常が無い。結局、この酸っぱい臭いの原因は砂糖では無くそのあとに何らかの間違いで紛れ込んだものだろうという結論で落ち着く事になった。
如何に砂糖そのものに異常が無いと言っても、気味悪がられるのは当然の成りゆきで、その時以来、研究室で砂糖入りのコーヒーを飲む者はいなくなったそうだ。ちなみに、そのコーヒーを少しなりとも飲んだ友人の体調だが、その年の冬に限って風邪一つ引かなかったそうで、寄生虫の可能性を本気で疑ったという。というのも、寄生虫を体内に持つと身体の抵抗力が高まる事があるからだ。
件の砂糖は捨てられた訳では無い。研究室の乾燥した場所に保管され、何も知らない訪問者が砂糖入りのコーヒーを所望すると使う事もあるそうだ。あまり頻繁に使われる訳でもないので、今でも残っているらしい。誰に使ったのか尋ねたが、友人は秘して決して話そうとはしなかった。
written 2005-8-14