むラサきのベ ※拷問注意(※拷問です)
とーっても暴力的な表現があります。
アレは——“何”だ……?
獣どころか魔獣すらも彷徨くような暗く深い森の中、行く手を阻む背の高い雑草を掻き分け、飛び出た小枝を払い除けながら森の奥へと走る。
触れればたちまち爛れ、目に入れば失明し、吸い込めば幻影に囚われ、呼吸が出来ず死に至る。そういった思いつくもの全てを混ぜた毒の霧を、あらん限りの力で振りまきながら一目散に逃げる。
そう、ヴェスティは逃げていた。
……少し時間は遡る。
気配も隠さずただ付いてくるだけの相手をひと目くらいは見てやろうかと、ヴェスティは森が開けわずかに陽光が漏れていたところで立ち止まり、腕を組んで待ち構えていた。
あれだけの毒の中を迷わず進んでくるのだから、相応の装備に身を包んだ傭兵か、もしくは傭兵ギルドの優秀な斥候か。この森を一人で行動しているのだ、腕に自信があるのは確かだろう。
ただ、どうやって毒を凌いでいるのかは分からない。想像もつかなかった。どんな毒にも耐えうる魔獣の素材があるなど聞いたこともないが、ここは青鉤鳥が生息している森。その毒袋はそのまま解毒剤へと変えられるため高値で取引されている。
一攫千金を狙う者が、青鉤鳥の毒対策としてそういった装備を持ち込んでいても、おかしくはなかった。まあ、そんな高価な装備を用意できる傭兵が、青鉤鳥ごときの報酬で動くとは思えないが。
そう構えていたヴェスティの前に現れたのは——年端も行かない、獣人の少女だった。
可愛らしい、いたって普通の獣人の少女。そう、普通だ。
髪色も、毛色も、金だ。混ぜ色ではない。……話に聞いていたリネッタの特徴とは合わない。
リネッタの容姿を隠匿が変えている可能性はあるものの、セシアルと行動をともにしていてリネッタの容姿を知っている可能性が高いヴェスティの前に、色を変えただけのリネッタを出す必要はない。
本当にリネッタだとすれば、近くに隠匿もいるのだとばらしているようなものだし、不意打ちを狙わずこうも堂々と現れるのは不自然だった。
ふと。その少女の外見に、ヴェスティは見覚えがあるような気がした。
色は違うが、数年前に毒の矢を射かけて殺した少女に、似ている……ような気がする。何年も前のことで、ちらりと姿を見てからアーヴィンに気付かれる前にと即射殺した少女の顔などほとんど覚えてはいないし、似ているというのも、記憶違いの可能性は大いにあるだろうが。
「……。」
その少女の頬は上気していて、何がそんなに嬉しいのか、無邪気そうな喜色をにじませた瞳が、不気味なほどに爛々と輝いている。
「……誰ですかぁ、あなたは。」
そう問いかけると、少女は嬉しそうに目を細めて、口を開いた。
「シるびア!」
なんの悪意も籠もっていない、ちょっと元気すぎるが年相応の可愛らしい声だ。
獣人特有の訛りだろうか、発音に違和感はあるが、それだけ。
しかしヴェスティは、背中にじわりと嫌な汗が滲むのを自覚していた。
隠匿を連れているならまだしも、本来ならばこんな魔獣の巣が近い場所に子どもが一人でいるなど、絶対にあり得ない。あり得るわけがないのだ。
シルビアと名乗った少女は、ヴェスティと同じく何の武器も持っていない。
ヴェスティが鎧をつけず武器を持ち歩いていないのは、ヴェスティの能力そのものが凶器だからだ。体液にも強い毒性があり、返り血で相手を怯ませることも出来る。
では、この少女がこんな簡素なワンピースでここにいることができる理由は何か。
視界も悪く、足場も悪い。熟練の傭兵ですら迷い魔獣を恐れて進むような森の中で、何の装備も無く、毒霧の中を突っ切って進んできた、この、少女は。
そして、まじまじと少女を観察していたヴェスティは、気づいた。
ひどく機嫌が良さそうに目を細める、シルビアの輝く青と緑のオッドアイ。
その瞳孔が——はっきりと“縦”に割れていることに。
瞬間、ヴェスティは用意していた大量の睡眠毒を周囲に撒き散らし、踵を返して全力で森へと飛び込んだ。
様々な毒を思いつくだけ放ちながら、走って、走って、走る。
本能が、警笛を鳴らしている。まるで、自分の核に使うために醜い毒蛇草と対峙したときのように、死の気配に体の芯が冷え切っている。
アレが何かはわからないが、確実に“良くないモノ”であることは確かだ。
それが、捕食者の目をして、満面の笑みで、襲いかかるわけでもなくこちらをただ見ていた。いつでも、どうにもでもできるのだと、自信に満ちた顔で。
最初に放った睡眠毒は、ランクの低い魔獣ならば吸い込んだ瞬間に昏睡させることもできる強力なものだ。人や獣人が吸い込めば最後、一生目覚めずそのまま餓死するだろう。
魔人ですら、まともに浴びれば意識を失う。
しかし安心は出来ない。
勘ではない。獣人の目は人の目のそれであり、たとえ全身を霊獣化して完全に獣の姿になったとしても、その瞳孔が縦に割れることなどないのだ。つまりアレは、獣人などではない。
魔人だと言われたほうがしっくりくるが、獣人は魔人にはなれない。——魔人ですらないナニカ。人の形をした魔獣といわれても、納得するだろう。
まるで無邪気な獣人の子どものように名乗ったアレは、何なのか。
魔獣の巣の方へと逃げながら、ヴェスティはここをどう切り抜けるかを考えていた。
__________
——森の中を進むシルビアは、とってもすっごく幸せな気持ちだった。
力は満ち満ちているし、空気もおいしい。
ようやく、本当にようやく、仕返しができる。
ずっと待っていた、我慢していたのだ、シルビアは!
よくわかんないけど、ずぅーーーっと“マテ”されてた。
寝てなさいって言われたり、よしよしまあまあってされて。
リネッタもアイツを許せないハズなのに!
そう、シルビアは。
おあずけ、されていたのだ。
「シルびあ、ゴーはラ!」
スキップするような軽やかな足取りで、ヴェスティの転がるように走った道を同じ速度で進む。ヴェスティによって草は枯れ、溶け、小枝はモロモロに朽ちて、とても進みやすい。気を抜いたら、追い越してしまうほどに。
毒は臭いが、それだけだ。これからのことを思えば気になどならない。
「クフふ!」
嬉しさが溢れ、笑い声が漏れる。
しかし、シルビアにはちゃあんと分かっているのだ。
相手が、どう考えても遊ぶには足らない、足りなさすぎる、小突けばすぐに死んでしまう弱々しい生き物だろうことを。
だからリネッタは口を酸っぱくして「絶対に殺しちゃダメ」って言っていたし、そりゃあリネッタだって“ふくシュー”したいだろうからと、シルビアも多少は殺さないでおこうとは思っている、けれど。
結果的に死ななければいい。
つまりはそういうことだ。
ゆったりとしたお散歩感覚の追いかけっこに飽きたシルビアは、軽くジャンプして木々を蹴りながら進み、あっという間にヴェスティとの距離を詰めた。
その気配に気づいたヴェスティが、進む速度を落とさず毒をより濃くした、が。
「ソれ、あきタ。」
目を細めたシルビアはそう言って、ヴェスティの側頭部に鋭い膝蹴りを入れた。
その瞬間、ゴチャっという致命的な音とともにヴェスティの視界がブレる。同時にシルビアの膝がめり込んだだろう場所が淡く黄色に輝き、ヴェスティは為すすべもなく弾かれるように真横に飛ばされ、少し離れた大木に頭から叩きつけられた。
「……ッ!?」
慌てて飛び起きたヴェスティは、思わず蹴られた自分の側頭部に手をやるが、側頭部には血が多少付いているものの、そこに傷などはない。痛みも、ない。
「なに、が?」
ヴェスティは血で少し濡れた自分の手を見下ろして、状況も忘れて困惑していた。それはそうだろう、自分の頭が割れ中身が潰れる音を、ヴェスティ本人だってはっきりと聞いたのだから。
「ドした?」
その声にびくっと反応したヴェスティは、恐る恐る顔を上げる。
しゃがんだシルビアが、目の前でニコニコしながらヴェスティを覗き込んでいた。
きらきらと輝くオッドアイが、ヴェスティを射抜いている。
「ニげる、おワル?」
「は、……あ?」
「モウ?」
混乱しているのか、呆けたようにこちらを見上げて動けずにいたヴェスティの喉を、ぴょこりと立ち上がったシルビアが遠慮なく蹴り上げる。
「ン゛ッ……。」
シルビアの華奢なつま先が易易と喉を貫き、骨が容易く折れたような衝撃と音がして——先ほどと同じように、ヴェスティの喉が淡く黄色に輝いた。
シルビアが足を戻すと、ヴェスティの喉は蹴り上げられ貫かれたことなど最初から無かったかのように、つるりとしていた。ただ、血だけがそこに残っている。
ヴェスティはぬらぬらと血がついた、しかし傷のない自分の喉をさすりながら自分の身に今何が起こったのかを考え、そうして、なにかに思い当たったのか、顔を上げる。
「まさか。」
シルビアを見るヴェスティの顔が、はっきりと恐怖に引きつっていた。
「しるビア、いいコ。」
にこにこしていたシルビアが、ふと表情を消して続けた「チャんと……シんで、ない。」という言葉に。
そして、縦に割れたシルビアの瞳孔がぐわりと開かれまんまるになったのを見たヴェスティは、たまらずその場から這うように逃げ出した。
手足を使い、四つん這いでその場から必死に離れる。無様などと考える余裕など、あるわけがなかった。
あり得ない、あり得ない、あり得ない!
ヴェスティは逃げながら、なんとか思考を回転させる。
最初は、幻惑かと思っていた。
痛めつけられた一瞬の夢でも見させられているのではないかと、思った。
しかし、幻惑に囚われているにしてはあまりにも思考はクリアで、音は生々しく、感じる衝撃が本物すぎた。何よりも、出血している。
仕組みは全くわからない。分からないが、ヴェスティには思い当たることがあった。
シルビアと名乗ったあの化物は、ヴェスティを不死身に——つまり、あの“死なない双子の姉のほう”と同じような状態にしているのではないか?と、ヴェスティは気づいてしまったのだ。
なまじ目の前で、ダリハが繰り返し致命傷を受けて死に、その度に肉体が再生するのを——“死に慣れる”という訓練を見ていたからこそ、ヴェスティはその真実にたどり着いてしまった。
ダリハの再生時間を考えれば、ヴェスティの再生?は明らかに異常な速度だが、そんなことは今はどうでもいいことだ。確実なのは、相手が油断しているうちにどうにかして逃げ切らなければ、あの化物が飽きるまでなぶられ続ける、ということ。
這々の体で逃げたヴェスティの背中をシルビアは楽しそうに見送って、それから手近な石ころを持ち上げて、ニッコニコのるんっるんで詠唱しながらそれをぶん投げた。
「はい!ナス!ひーーーール!」
淡く黄色い治癒の輝きがふんだんに込められた石ころは風を切り、光の残像を残しながらそのへんの小枝などを軽々とへし折って真っすぐ飛び、ヴェスティの足に命中した。生々しい、骨が折れ肉が裂ける音とヴェスティの悲鳴が聞こえる、が、怪我はないだろう。怪我をさせた石そのものが、足を完璧に治癒するから。
シルビアがやっているのは簡単なことだった。
単純な暴力に、過剰治癒を乗せるだけ。
裂いた皮膚も、貫いた臓器も、潰した骨も。治せば、また裂けるし、貫けるし、潰せる。
相手がただの人ならば痛みで即死する可能性があるが、どんなに戦闘が不得手で打たれ弱くすぐに死んでしまいそうなヴェスティでも、魔人は魔人。魔核が壊れるようなよっぽどのことがない限り、きちんと治してやれば死にはしない。
ナイすアイであというやつである。シルビアは誰も見ていないのに、ドヤ顔を浮かべていた。
ヴェスティは、それでも諦めずに逃げていた。
あの余裕ぶった姿は、もう見る影もない。木の根に足を取られ無様に転げては起き上がり、顔すら土に塗れていた。
ジグザグに走っているが、少しでも障害物がなければ何の変哲もない石ころが明確な殺意をもってヴェスティの体を貫く。躓いて追いつかれたら最後、小さな拳で殴られ、まるで乾いた小枝のように簡単に骨が折れる。
必死で逃げているのに、軽やかな笑い声が聞こえたかと思えば腹を蹴られ、内臓が潰れるどころか簡単に胴体に穴が開く。気配が遠のいたと思えば何かの衝撃で木に叩きつけられ、何かの攻撃が手足を貫き、耳元で絶叫され鼓膜が破裂する。
そして、それらの傷は最初から存在しなかったかのように、痛みさえも一瞬で消える。
——そしてヴェスティは、また、逃げる。
痛みに慣れているわけではない。シルビアの一撃一撃はひどく重く、当たれば痛みと恐怖に思わず声が出る。それでも、魔人化したときの一生続くかと思われた痛みと比べれば、まだ耐えることが出来た。しかも、痛みは一瞬で、すぐ走り出せる。
たとえそれが遊ばれているだけだとしても、心が折れるまでは、そして相手が油断している間ならば、ヴェスティは逃げ続けることが出来ると思った。
ヴェスティは、もうシルビアへの毒を振りまいてはいなかった。
代わりに、どこか生くさい、甘ったるい何かを撒き散らしている。
シルビアにはそれがなにか分からなかったが、まあでも特に問題も無かったので、気にもとめなかった。ただ、まだ逃げてくれるのかと、心地良いヴェスティの無様な悲鳴を聞きながら、きゃっきゃと笑い声を上げた。
そして。
ただひたすらに理不尽な暴力を受けつつも逃げていたヴェスティは、突然、開けた場所に出てしまった。
茂みから飛び出してたたらを踏み、隠れるところも何もないそこに、ひゅ、と息を飲む。
しかし、ヴェスティの視線の先には、ヴェスティを窮地から救うものがいた。
鮮烈な燃える赤いたてがみをもった、巨大な一つ目の、熊の魔獣。爪は長く鋭く、さきほどまで何かを食べていたのか口の周りや爪にはべっとりと血が付いている。
それが、鼻をひくひくとさせながら、四足歩行でのそのそとこちらに向かってきていた。
「ああ……いい子だ……!」
ヴェスティは振りまいていた魔獣寄せの毒に、魔獣を支配するための毒も混ぜ込んだ。
他にも魔獣が近寄ってきているかもしれないが、しばらくはこいつで足止めできるだろう。ようやくだ。いかにあの化物でも、魔獣に襲わせれば時間稼ぎくらいにはなる。その間に、あの化物が入り込めないほど森の奥へと逃げ込むのだ。
ヴェスティがその魔獣に走り寄っていこうと一歩を踏み出した、そのとき。
細い光がヴェスティの真横を通り過ぎて、魔獣の左目に当たった。遅れて、ぴう、というひどく軽い音が聞こえる。
その光は、左目から魔獣を一直線に貫いて向こう側まで伸びて消え……魔獣は断末魔の叫びさえ上げることなく、小さく呻いて力なくその場に崩れ落ちた。
「……は。」
全身が氷漬けになったような感覚に襲われ、ヴェスティは息を詰めた。
何が起こったか、分からない。分からないが、起死回生の一手になるはずだった魔獣は、ヴェスティがなにかする前に……おそらく、すでに事切れて地に伏している。
「何、が……。」
呆然としていると、ガサガサと音を立てて、シルビアも開けた場所へと出てきた。
思わずヴェスティは振り返る。
「何を、した?……今、お前は、何を……。」
しかし、シルビアは何も言わず、可愛らしい顔でヴェスティを見ているばかりだった。
耳はぴこぴことあらぬ方向を向いて、尻尾はゆらゆらと揺れている。
シルビアは……ヴェスティに視線を向けながらも、全く関係ないことを考えていた。
シルビアが魔獣であったころ、息吹は口から出すものだった。だから人の姿でも、いつもの息吹をいつもどおり口から出してみたのだ。
魔獣だったころも狙いを定めるのはあまり得意ではなかったが……それにしても、人の口からだと息吹の狙いがすっごくつけづらかった。走って逃げるヴェスティになかなか当てることができず、何回も外してしまった程度には難しかった。
まあ、止まっている相手ならば魔核をしっかり狙い撃てたけれど。
そうしてほんの少しの間、人の顔の構造の不便さについて衝撃を受けていたシルビアは、思い出したようにヴェスティに意識を戻した。
ヴェスティは、シルビアが自分の顔に気を取られている間に、再び森の奥へと逃げよう背中を向けている。
追いかけっこは楽しかったが……戦いとも呼べないそれに、流石のシルビアも飽きた。
反撃を全くしてこない、ただ怯えて逃げていく相手を一方的になぶるのは楽しかったが、それは恨みがあったからで、通常、シルビアはそんなことはしないのだ。
弱いものは弱いなりに頑張って生きているので、そういったものたちで遊んではいけないのだと、リネッタの中で学んだし。シルビアだって、最初は“弱いもの”のほうだったし。
だからシルビアは、そろそろリネッタに変わってあげることにした。
「しゃ?……どバンい?」
シルビアが拙いどころではない詠唱モドキをするが、それでも魔法は恙無く発動し、ヴェスティの体はきちんと逃げている姿のままで固定されたようだった。
突然体が硬直したヴェスティは、冷や汗をだらだらと流す。
動けない、声も出ない。毒を出すことすら、できなくなった。
「ハイなスひーる。」
淡く黄色く輝く治癒の光がヴェスティの体を完全に癒す。痛みも疲れも何もなくなったが、ヴェスティは安心などできない。ヴェスティは完全に囚われたのだ。この、化物に。




