8.職歴なしのシングルマザー
直也の嘲るような言い方に、玲は逆上した。
「はあ!?誰のせいで私が職歴なしになったと思ってるのよ!あなたと結婚して、不妊治療を続けていたからでしょ!?」
「そんなことまで考慮してくれるほど、社会は甘くないよ」
「何よ。あんたなんか就活もしたことがない、次期社長の椅子を用意されただけの甘えん坊クソドラ息子のくせに!」
玲は夫をそう罵りながらも、内心痛いところを突かれたと感じていた。
ひとり息子の春流はこれからお金がかかる。たとえ今から玲が就職出来たとしても、今まで想定していたような教育は受けさせられない可能性が高いだろう。
直也の浮気のせいで、人生設計が滅茶苦茶だ。
やりきれなさに言葉を失っている玲を見て、直也は彼女がトーンダウンしたと勘違いしたようだ。
彼は畳みかけるように言った。
「もう、浮気はしない。誓うよ。そうだ、ずっと探偵をつけていてくれてもいい」
「……」
「GPSだってつけるよ。だから……」
玲は絶望した。
彼は何も分かっていない。
浮気に〝許す〟〝許さない〟の二択があるなどと思っている。自分に〝許される条件〟があるなどと自惚れている。その妻に甘え切った態度に、更に玲は失望したのだ。
(自分の浮気を、その程度のことだと思っているのね。許される可能性があるんだ、などと)
もう、直也に情は残っていない。
玲は宣言した。
「私、就活するわ」
途端に直也の顔が曇る。
「就職したらあなたと別れる。そうしましょう」
それで直也はようやく、自分が有責であり、弱い立場にいるという現実に思い至ったようだ。
「え?就職したら……?」
「だって、直也言ったじゃん。就職経験があればいいんでしょ?」
「その歳で就職は難し──」
「やってみなきゃわかんないじゃない!」
思わず玲は大声を出した。
その久しぶりに腹から出た自分自身の声が、自分を勇気づけてくれたような気がした。
直也は既にもう怯えている。
「しばらくはここに住まわせてもらうわ。私と春流の荷物は少しづつ実家へ運び込むから」
「えっ」
「え、じゃないわよ。話はまとまったってことでオーケー?」
すると、直也は再びがっくりと椅子に座り、しょんぼりとして見せた。その演技がかった態度が、余計に玲の離婚への決意を固くさせるのだった。
玲はパジャマに着替えると、すうっと寝入って行った。
就職さえすればいい。就職すれば──
そういうわけで、玲は就職活動を開始した。
ネイビーのスーツや革のビジネスバッグを買って、準備は万端だ。
かつて大学で習ったように、エクセルで履歴書を作る。
それを何枚かストックとして作り、バッグに押し込んだ。
自分の適性などよく分からないので、とりあえず事務職の正社員を目指すことにする。
ハローワークのサイトをチェックする。区内を条件に正社員採用でチェックすると、大量の採用情報が表示された。検索条件に「事務職」のチェックを入れ、内容を精査して行くと、通いやすそうな事業所をいくつか見つけた。
しかし、「35歳以下」の条件がやたらと目につく。
(これが直也の言っていた〝難しさ〟なのね)
日本の企業は何よりも〝若さ〟を求めると聞いたことがあるが、こうして目の前に突きつけられると暗澹たる気持ちになる。
玲は急いでメモをすると、最寄りのハローワークへ向かった。
ハローワークは平日昼にも関わらず、人でひしめいていた。彼らが皆求職者だと思うと、玲の心も少し慰められる。
求職者登録を済ませ、相談窓口の順番を待つ。
呼ばれたので、早速目当ての事業者に連絡を代行して貰った。しかし──
「ああ、経験者……?ではないみたいですね。あ、そうですか……はい」
職員は電話を切った。
「すいませんね、綺堂さん。どこも〝経験者優遇〟だそうで、未経験者は無理なんだそうです」
玲は「話が違う!」と思った。
「何でですか?そんなこと、求職票に書いて無いじゃないですか」
「おもて向き、書かないでいるようですね。若い人ならオッケー出すとか、男性なら可とか、そういった〝裏〟条件を設定している企業さんは多いですよ」
「ひどい……そんなの、ただの嘘つきじゃない」
「社会ってそんなもんですよ。人手不足人手不足って言ってますけど、企業の設定する条件が氷河期世代のおかげで高止まりしているだけという見方もありますね」
「そんな……」
「ええっと、どうしても事務職じゃないと駄目ですか?営業や販売も視野に入れてみては」
「……」
玲は項垂れた。何のスキルもない自分ができるものなど、事務職ぐらいしかないと思い込んでいたからだ。
「あの……私、自分の適性を知らないんです」
玲は思い切って職員に打ち明けた。
「就職活動をロクにして来なくて……リーマンショックの時期に新卒だったし、すぐに結婚してしまって」
ハローワークの職員は頷いて話を元に戻した。
「職歴を作るには、働くしかありません」
玲も頷いた。
「適性が分からないのなら、まずはパートなど、入りやすいところから始めてみるのもいいですよ。職歴はお金を貰いながら作ることが出来ます。動きながら探したらどうですか?」
玲は思った。
(そんな悠長なことをしていたら、離婚できない)
しかし、会ったばかりの職員に離婚の話を打ち明けることは出来なかった。
「……早急にお金が必要なんです」
職員は頷いた。
「綺堂さんの学歴からすると、勉強がかなりお出来になるように思いますが」
「は、はい」
「もしお時間があるようなら、職業訓練をしてみてはいかがですか?有資格者なら、職に繋げられるかもしれませんよ」
職員に職業訓練のパンフレットを差し出されると、玲はそれを読み込んだ。
仕事は一種類ではないし、この世には様々な資格が驚くほどあるようだ。
迷う玲に、職員は言った。
「道はひとつじゃありません。みなさん、色んな経験を経て色んな職場を出たり入ったりしています。難しく考えず、とりあえず興味のあることから始めてみませんか?」




