4.私より不幸な人
次の日。
頼子は黄色い旗を持ってアパートの階段を駆け下りていた。
7時30分よりも前に横断歩道へ到着し、交通委員のママさんたちの輪に入る。
頼子を見つけるなり、美樹が言った。
「ふーん、今日は時間通りについたのね。良かった~」
頼子はカチンとくるが、殊勝に頭を下げた。
「すみませんでした……」
周囲の母親たちの視線が刺さる。
ふと、声が飛んだ。
「大城さん。田中さんに関しては、ちょっと大目に見てあげようよ。旦那さんは目が見えないし、陣君だって病気で大変なんだよ?」
頼子は驚いて顔を上げた。交通委員のメンバーのひとり、竹下がそう美樹に声をかけたのだ。
頼子は正直なところ、竹下と会話をしたことなど一度もなかった。
それなのに、随分と田中家の内情に詳しいではないか。頼子は助けられた形になったようだが、これはこれでゾッとするのだった。
(え?何で一度も話したことない竹下さんが、そんなことまで知ってるの……?)
一方、美樹は豆鉄砲を食らったような顔をしている。しかしすぐに真顔に戻ると、
「田中さんだけじゃない、みんな大変なの。障害のあるなしに関わらず、係になったからには時間は平等に守ってもらわないと困ります!」
確かにこれも正論である。頼子は全く自分の意思ではないところで対立が生まれてしまい、より委縮した。
交通委員のひとり、綺堂玲はそのやり取りをぼうっと眺めながら言う。
「時間ですよ。皆さん、持ち場へ散りましょう」
黄色い旗を持った集団は同時に我に返ると、いそいそと持ち場の横断歩道で児童を待ち構えた。
玲は華やかなネイルを施した手で旗を振り、ヒールを履いた足で交通誘導する。小学生の母親ながら、ゆるくかけたパーマをふわふわと風になびかせ、ネイビーのセットアップスーツを着ている。彼女はどこから見ても隙のない、ファッション誌から抜け出してきたように洗練されたスタイルを維持していた。
玲は交通誘導しながら、自分の胸の中が久々に優越感で満たされるのを感じていた。
(この街に、私より不幸な人がいた)
それだけで嬉しかったのだ。
(田中頼子さん……旦那さんは盲目で……息子さんは病気、か)
しかも頼子の格好といったら、全てがよれよれだった。夫が盲目だから、服に頓着ないのだろうか。
(私はきっと、あの人よりは幸運なはずだわ)
交通誘導を終えると、速足で帰ろうとする頼子の肩を叩く手があった。
頼子は振り返る。
竹下だ。
「さっきは、ごめんね。つい、言わなきゃいけない気がして」
頼子は一瞬
(謝るぐらいなら、人前であんなこと言わないでもらえます?)
と言いたかったが、あっちは親切でやった事なのだから、こう言って欲しいのだろうと解釈した。
「あ、全然」
と頼子が言うと、竹下はホッとしたような表情を見せた。それを確認してから頼子は尋ねた。
「ところで……何でうちの、そんな細かいこと、知ってたんですか?」
竹下は言う。
「田中さんの旦那さんの勤め先、うちの夫の勤め先と同じビルでしょう?」
頼子は首をひねった。
「へー?そうなんですか?」
「田中さん、按摩さんですよね?」
「!そうです、そうです!」
「あのビルの中のマッサージ屋さん、すごく人気なんですってね。うちの夫、最近四十肩になっちゃって、勤務帰りによく寄るらしくて」
「へー」
「そこで田中さん本人から聞いたそうですよ」
頼子は「ショーマめ!」と叫び出したかったが、ぐっと堪えた。
「あはは、そうでしたか。お恥ずかしい……」
「旦那さん、妻には感謝してもし切れない、っておっしゃってたそうですよ」
頼子は脳内で鼻をかきかき、「ショーマめ☆」と照れ笑いした。
竹下と頼子は都営アパートの群れの中に入った。
すると。
「あの、大城さんって人……」
竹下は低い声で囁いた。
「偉そうですよね?何様なんだろう」
頼子はぎくりとして、竹下の姿を横目でとらえる。
「田中さんも、むかつくと思いません?」
ああ、そういうことか。
頼子は一気に白けて、こう答えた。
「いいえ、ちっとも。大城さんの言うことは全部正論です。時間に遅れた私が悪いんです」
すると竹下の柔和な顔は、すぐに鬼の形相になった。
「田中さん、えらーい」
思った反応が得られないだけで、この面だ。
頼子はふんと鼻を鳴らした。
(こちとら生涯にわたり随分「オタク地味子」としていじめられて、全てのイジメやカースト謀略パターンを把握しているのだ。年季がお前とは違うのだ。下がれい、小悪党めが!)
大方、竹下は次のイジメターゲットを探しているのだろう。もしかしたら頼子をいじめたかったのかもしれない。だが自分の夫が翔馬と懇意であることを知ってしまったため、頼子を味方に引き込み、大城美樹をターゲットに移そうとしたのかもしれない。
誰かを憎まないと生きられない、産まれながらにして怨霊みたいな女は多いものだ。こういう手合いとは、一切の関りを絶った方がいい。
頼子は竹下に家を知られるのが嫌で、いつもとは違う角で方向転換した。
「じゃあ、私はここで」
「はーい、交通当番頑張りましょうねっ」
二人は違う道を歩き始めた。
頼子は歩きながら、大城よりやばい女が交通当番にいることを知り、ため息をついた。
(偉そうって……あんたも人のこと言えないでしょうがっ)
人を偉そうと断じる方が偉そうなことに気づけない馬鹿さ加減。あれで人の親なのだから笑えない。
頼子は家に戻った。
陣は相変わらず、鮫の抱き枕と寝ている。翔馬はもう出勤したようだった。
学校への連絡を終えると、頼子は何となくテレビをつけた。
画面には、すみだ水族館の様子が映し出されている。
「そうだ。最近、陣は寝てばっかりだから、みんなで外出してないなぁ……」
アンソロジーの締め切りまでにはまだ余裕がある。
「陣が起きたら、たまには二人でどっか行かない?って聞いてみようかな」




