3.私は頑張ってる
駒崎は美樹に怒りを露にした。
「あなたが言ったことはね、〝ハラスメント〟って言うんですよ。店長になる前に、本社でハラスメント研修を受けましたよね?なのにあなたこそ、業務に必要なことを覚えられていない。人に向かって、社会がどうのこうのと言えないはずですよっ」
美樹はもはや、ぐうの音も出なかった。
しかしその胸に去来するのは、採用を断る電話を、彼女たちが店舗ではなくなぜか本社にかけたことへの怒りだった。
(何よ。あの人たちったら私を悪者に仕立て上げるために、大袈裟に本社へ連絡するなんて!)
美樹が口を尖らせるや、駒崎の怒りは一気に憐れみに転じた。
「大城さん。こういうことが続くとね、こちらも色々考えなければならないのでね……」
美樹は他人の痛みには鈍感だったが、上司の言葉には敏感に反応した。
「えっ、そんな……」
「大城さんは本当に頑張ってるよ。店長コースは今まで短大卒以上じゃないとなれなかったけど、大城さんは売り上げと情熱でその天井を撃ち破った」
「あ、ですよね?」
「けれど、あなたはパートさんの上司になったという自覚が足りない。店舗運営は一人では出来ないこと、分かっていますか?」
「……はい」
「言葉には気を付けてください。恐らくもう一回やったら、こっちもかばい切れませんから」
人一倍、仕事を頑張って来たつもりだった。
(なのに、あんなしょうもないことで評価が下がって行くなんて)
力の入らないまま仕事が終わり、美樹はよろよろと自宅へ帰って行く。
家では彼女より先に、夫の武尊が息子の悠斗を学童から連れ帰り、食事の用意をしていた。
武尊はメーカー勤務で、今は法務部にいる。家事は美樹と折半しており、彼は子どもの送迎と食事と買い出し、美樹は洗濯と皿洗い、掃除と学校行事を担っている。典型的な共働き家庭だ。
今日の食事は白身魚のバターソテーとポトフだ。武尊は学生時代に長く料理屋でバイトをしていたので、料理の腕はピカイチである。夫の料理を目にすると美樹もようやく思考の渦から解放され、ほっと息をついた。
夫と息子と三人で食卓を囲む。
「いただきまーす!」
固まった肩を、料理の温度がほぐして行く。
ほどなくして武尊が尋ねた。
「美樹どうしたの?なんか今日、全然喋んないじゃん。いつもはやめろってぐらい話しかけて来るのにさぁ」
さすがは結婚から十年連れ添った夫。勘が鋭い。
美樹は端的に言った。
「採用しようとしている人に、逃げられちゃったの」
「ああ、そう。どこも人手不足だから、どっかいいとこでも受かって蹴られたんじゃない?」
「そうかもね……」
それでも美樹が沈んでいるので、見兼ねた武尊がこんなことを言った。
「そうだ、美樹にいい知らせがあるんだよ」
「へー、何?」
「俺、昇進する。この前の昇進試験の結果が出てさ、係長から課長になるんだよ!」
美樹の心に、ぐさりと何かが刺さる。
「へー、おめでとう」
「それで相談なんだけど……来月から悠斗のお迎え頼めないかな?引継ぎの量がえげつなくて、しばらく帰るのが遅くなるんだよ」
美樹はがしゃん、とスプーンを取り落とした。
「は?そんなの無理よ」
「ちょっとしばらくは美樹にお願いしたい」
「だから、無理なんだけど」
「その代わり……掃除はやるからさ」
「そういうことじゃないっ!」
美樹は語気を荒げた。
「学童は7時までしか預かってくれないんだよ。私は店長だし、どんなに早く上がってもそのお迎え時刻には間に合わないの。今だって副店長に頭下げて早番にしてもらって何とか時間に都合つけて働いてるのに!」
美樹も武尊も東北地方出身で、両親は雪国にいる。祖父母の助けも二人にはない。
「は?俺に昇進すんなって言う気?」
武尊の言葉に美樹は歯ぎしりした。武尊のよくやる方便だ。話を飛躍させ、こっちをねじ伏せようとする。
「そんなこと、言ってない!じゃあどうするの?って話よ」
「美樹より俺の方が稼いでるんだけどなー」
「またその話?だから、何。どうすんのよ」
「たまには美樹も考えろよ。いっつも学童と習い事の送迎は俺頼みじゃん」
「……ん?習い事?」
美樹は、〝見つけた!〟と思った。
「そうだわ。悠斗にもっと習い事させたらどうかしら?」
武尊の勢いが少し削がれた。
「ああ、なるほど。それ、いい案かもな!」
悠斗はじっとうつむいたままでいる。
美樹は息子のことは気にせず、夫と話を続けた。
「学童から送迎してくれる塾がいくつかあるのよ。どの塾も、学童から6時にバスに乗って行って8時に終わるみたい。その塾に直接、私が迎えに行けばいいわ。これなら引き継ぎ期間も安心よ」
悠斗は黙っている。
「塾の送迎があるの?知らなかったなー」
「私も今、思い出したのよ。確か学童にいくつかパンフレットがあったはず。明日にでも持って帰って来て」
「よーし、そうしよう。おう、悠斗!また頭よくなっちゃうな!あはは」
悠斗は父親に頭を撫でられながらも、恨めし気に黙っている──




