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「あつい…………」
本屋の帰り道、真夏の歩道を歩く少年が一人愚痴を吐く。日本の夏は湿気もあって暑い、それはずっと日本で過ごしている彼ならば当たり前のように知っているはずだが、それでも愚痴りたくなるものである。しかしそれを愚痴ってしまえば実際に暑いだけでなく自分自身でも暑いと認めてしまうため、余計に精神的に暑いと感じてしまうことになるだろう。言葉には言霊が宿ると言われ余計なことは口に出さない方がいいものだ。
暑い中を歩くのはつらい、急いで家に帰り冷えた部屋で過ごしたいが急いで帰るのもまたつらい。走ると余計に暑い。なので、やはり普通に歩いて帰ることになるだろう。そんな帰宅途中の彼はふと空中……いや、空間に走る違和感に気づく。
「…………ん?」
ぴりっ、と空間に異変が起きていることを察知する。それは罅割れのようにも感じられ、穴が開く時の、何かが割れる時のような音のようにも感じられる。しかし、一番の違和感は彼以外の道行く人々がそれに全く気付いていないことだ。
いや、この場合はむしろ彼だけが気づいたということだろう。その違和感は彼にとっては酷く気をひかれるものだ。いい意味でも、悪い意味でもなく、ただ気になるというだけだが。
「こっち……か?」
彼はそれを感じる方向へと、何かに誘導されるかのようにふらふらと歩いていく。飛んで火にいる夏の虫、ちょうど夏の季節らしい。彼がそのまま何かを感じる方向へと進むと、行き止まりに到達する。その行き止まりには、明らかに異常なひび割れが存在した。それは壁や大地に刻まれた罅割れはなく、空間に奔った罅割れだった。
世界の壁、次元の壁、そういったものに刻まれた罅割れ。その向こう側は光がない暗闇……のように見えるが、濃密な何かが渦巻いている。それを見ることは出来ないが、感じることは出来る。たとえどんな人間でも、どんなに感覚が鈍くても、この世界に存在する者であればそれを感じられただろう。それほどに罅割れの向こうにあったものは濃密な存在であった。
「……なんかやばいな、これ」
この場に導かれるように来てしまった彼は、ここにいてはまずいと感じる。誰でも目の前にある罅割れを見てしまえばそう感じてその場から立ち去るだろう。ただ、運命というものは厳しい。彼がこの場に導かれるように訪れたのは偶然ではない……のかもしれない。
ぱきん、という音を彼は聞いた。目の間にある罅割れが大きく破損し開いたのである。そして、その罅割れはまるで宇宙船に空いた穴のように、近くにある物を吸いこもうとする。建物の類は強固に固定され、吸い込むものと言えば周囲に散らばったゴミや大地の砂や土、見えないものでは空気など。そして、そこに立っている人間もまた吸い込まれる。そう、ここに訪れた彼が。
「え、ちょ、うわ、待って!?」
待てと言われて待つはずもない。そもそも生物が吸いこんでいるわけでもなくただの現象によるものだ。それは大きくなった罅割れが存在する限り起こり続けるだろう。叫び声をあげる間もなく、上げようとした叫びも彼とともに罅割れの中に吸い込まれ、周囲に存在する固定されていない物ごとまとめて吸い込まれ、彼は罅割れの中に消えていった。それから少し、ものの数秒程立った後、罅割れは何かが上に塗られるかのように消失した。
「うぐああああああああああっ!!」
罅割れにのみこまれた先で少年を待っていたのは、まるで壁に押しつぶされるかのような圧力の流れだ。通常、波や渦のような大きな流れであれば、体を持っていかれそうになるものかもしれないが、彼が感じているのはまるで大質量の壁に押しつぶされるかのような圧力である。その膨大な圧力は彼を潰すことなく、ぎりぎりと流れの中で彼を圧し続ける。
「いぎいいいいいいああああああああああああああああああああああ!!」
痛いと叫びたくなっても、彼の口から出るのは言葉にならない悲鳴だけだ。それだけ彼の状態に余裕はない。痛みも、もはや痛みとして感じることは出来ておらず、どちらかというと無理やり体が圧されることで声が出ている状態に近いのかもしれない。そんな流れに押しつぶされ、すりつぶされ、ばらばらになりかねないと彼は痛みの中、本能のどこかで感じていた。いや、そのままであったのならば本当にそうなっていただろう。
彼の目の前に、流れをせき止める大きな影が現れる。その影に彼はぶつかり、柔らかいふわりとした感触に受け止められ、からめとられる。何かにすくわれるように彼は拾い上げられ、膨大な流れの中で生き残ることができた。
「うぐう…………」
《大丈夫?》
「うるさい……」
《大丈夫そうだね》
彼の上の方から大音量の声が聞こえる。まるでスピーカーで声を届けているかの大音量だ。うるさいというのも納得だが、その内容は彼を案じたものだ。もう少し言葉の配慮をしてもいいのではないかと思うのだが。もっとも彼も痛みやら状況の唐突さやらで余裕はないのだろう。
「……ここは?」
彼はある程度痛みが緩和されてようやく状況に気づく。今彼のいる周りは黒い空間、光の見えない空間だ。しかし底に渦巻く膨大なエネルギーの潮流は彼も感じられる。そんな中で流れに巻き込まれず無事にいることに戸惑いを覚えた。彼は先ほどその流れに流されていた、しかしいまはそうではない。それは何故なのか。
《大丈夫?》
「っ! だいじょう………………ぶ……です」
声の聞こえたほうを彼は見上げる。その見上げた方向には、巨大な顔があった。いや、巨大なのは顔だけではない。頭、顔、首、体全体が巨大なのである。彼はようやく気付く。自分は今、巨大な人の姿をした何者かの手のひらの上にいることを。
《そっか。よかった……と言っていいかは知らないけど》
「っ……あの、少し声を抑えてほしいんですが……」
いくら少年でも、目の前の存在の機嫌を損ねてはいけないことはわかる。故に少年らしかぬ丁寧な言葉使いをつい心がけてしまっている。
《あ、ごめんね…………これくらいでいい?」
「あ、はい……」
「あんまり人とお話しすることはないから、ちょっと慣れてないんだ。ごめんねー」
そう巨大な少女が軽く言う。そもそも、彼女のいるこの空間に人が訪れるのかは大いに疑問である。
「その……ここはいったいどこなんだ?」
「ここはね、すべての世界の源となるエネルギー、世界を構成するすべての素、<世界源流>だよ。世界の外側の……うーん、人間の世界で言えば、多くのベース世界なら宇宙みたいな感じで通じるとは思うんだけど……」
「宇宙? でも……」
「あ、通じる? 宇宙じゃないよ、ただ、それに近い物とあなたたちは思えばいいの。色々とここにも複雑な内情があるんだけど……まあ、その辺については面倒だからいいよね?」
「……はい」
聞いても彼にとっては大した利益にはならないだろう。それよりはもっと建設的な、現実的な、彼にとって重要なこと必要になることを話し合うべきだろう。
「えっと……俺の……元いた世界には戻れるのか?」
「うーん……場所分かる? 世界源流の流れの中を流されてて、自分の元いた世界の場所はわかる? まあ、わかるならそもそも私のように普通に元の世界に戻るのは容易いと思うんだけど……」
「…………わかりません」
彼の帰るべき元いた世界、その場所はわからない。彼を押しつぶしかねない世界の潮流に流された結果、彼は今どこにいるかも不明だ。彼は帰るところのない漂流者となってしまったのであった。




