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平野を直走る一つの影がある。それは狼のように見えなくもないが、少々異常な出で立ちをしている。まずはその見かけ、大きさが通常の狼よりはるかに大きい。体の大きい狼は稀にいるかもしれないが、それでも人間の子供を丸呑みできるような大きさはしていない。その牙は禍々しく黒色に変色しており、眼は普通に存在する二つ以外にも額に一つ存在している。さらに言えばその尾は二つに分かれ、後ろ足が異常に発達している。四足歩行で動いているが立って歩くことも可能だろう。
そんな異常な姿を持つ狼は通常の動物ではなく魔物である。ここまで魔物とわかりやすいのは珍しいが、魔物はそういった特殊な特徴を持つことは少なくない。そんな魔物は平野を走りその本能を振るう相手を探している。
魔物の本能、それは獣性であり暴力と暴食の暴走である。生き物を見ればその生き物を襲い、生き物を見ればその生き物を食らい、唯々襲い喰らい殺し喰らい襲い殺し喰らう。見つけた生き物をただ蹂躙し暴力で未来を散らす、そんな恐ろしく凶暴なものが魔物の持つ本能である。
その本能を持つこの魔物はこの平野の主のようなものだ。魔物の持つ本能である獣性で見かけた動物を、魔物を、人間を、すべてを殺して殺して喰らい襲い喰らい、この場に生存する生物を殺して回ったのである。今やこの場に生き残っているのは魔物が襲うに足らない虫くらいの大きさである小生物か地面に逃れることができ地下に生息圏を持つ生物か、魔物の接近に気づき空に逃れることのできる飛行可能な生物であるかのいずれかである。
魔物を退治に人間が来ることもあるが、この場所はあまり人間の行動範囲には含まれておらずまた魔物もそこそこ強くそうそう倒せる相手ではないらしく積極的に退治しにこようとはしない。たまに退治しに来る人間は大半が勇敢だが無謀な人間であり、魔物にその命を散らされるのがほとんどだ。もしくは魔物を見て自分たちでは勝てないと冷静に判断するかそれとも恐怖から逃げるかのどちらかの行動をとる場合もあるがこちらは少数である。
そんな狼の魔物は遠くに二つの影を見つける。二つの影、人間の男と女の影だ。遠くゆえにそれは影としてしか見えないが人間がいるとなれば魔物はそこに赴き殺しを、殺戮を、暴食を、その本能に従って行うだけである。魔物はその人影に向けて走り出す。距離はあれどその距離を詰めその喉に、頭に、腕に、腹に、足に、食らいつき抉り引きちぎり破壊するのに時間はかからない。それだけの身体能力を持っている。
そうして近づいている途中で人影が何か動きを見せる。しかしそれは魔物に届くものではなく、そもそも魔物がそんな人の動きを気にするはずもなく何も考えず……本能に従い人影を殺そうと向かうだけだった。
魔物が異変に気付いたのは人影が動きを見せた直ぐ後、上から魔物を押しつぶすような圧力が発生し、それが魔物を地に押し付け潰そうとしたのである。魔物はなぜそのようなことが起きたかわからない。まるでその兆候も気配も感じられず、本当に突如発生した圧力だったためである。魔物は何が起きたのか、そう考えようとした。
魔物が考えられたのはそこまでだった。そのまま圧力に潰され、魔物はその意志を消失させ、二度と醒めることのない眠りに呑まれた。
「今なにしたの?」
「事前の危険排除」
構えを取り、拳を降ろした状態のルフェに対しアイネが尋ねる。アイネには現状がどうなっているのか分かっていないようだが、人の目には見えないくらい遠くに魔物がいてそれがルフェとアイネの方に向かってきていたのである。魔物の大きさもあり見えないこともないが、それでも人の目で見るには少々遠くにいた。ルフェがその魔物を見ることができたのは単純に異常な身体能力の高さゆえにである。
しかし、魔物との距離が明らかに離れている状態でいったいルフェがどうやって魔物を攻撃で来たのか。
「……結局何が起きたの? ルフェがただ地面に向けて腕を振り下ろしたようにしか見えなかったんだけど」
「えっと、向こうの方に魔物がいてそれに拳圧を当てて潰したんだ」
「…………どういうこと?」
アイネの疑問ももっともである。ただ拳を振り下ろしただけで目に見えないくらいの距離にいる魔物に対し何もない上空に拳圧を発生させそれにより魔物を押しつぶしたと言われても理解できないだろう。それが明確な事実であるが、理解しろと言われても無理である。そしてルフェも言葉が足りていない。
「見に行くか?」
「……そうね、ちょっとルフェの強さは知っているつもり……っていうか間近で見たけど、それでもやっぱり信じれないような感じなのよ」
素手で剣を使ったかのように切断したり、地面に大穴をあけたり、光線を拳から撃ちだしたりなどしていのを直に見ていても、ルフェの話は少々分かりづらい上に信じられないような内容が多い。人間にできることなのかと思い理解の範疇外においてしまう。
ルフェに案内され、ルフェが潰したという魔物を見に行く二人。少々……というにはかなり遠くにその魔物はおり、移動時間が結構かかっている。
「はあ……はあ……」
「大丈夫か?」
「……はあ、大丈、夫、よ!」
全然大丈夫ではない。もともとただの村人であるアイネはその身体能力は一般人の域を出ず、女性と言うこともあってそこまで肉体労働に従事しておらずそこまで体力があるわけではない。一応村で生活するうえで仕事や家事などで体力はある程度あるがその体力は結局村での活動で使われるものであり、旅に使うようなものはまた別である。ゆえにアイネの体力ではそこまで長距離を移動するのは厳しい所がある。
「なんで、ルフェはそんなに元気なのかしら……」
アイネがぼそりと呟く。
「そりゃあ神様のところでした修行の方がきつかったからなあ……」
「……ルフェは神様のところにいたって話だけど、どんなところだったの?」
「えっと……あそこには何でもあって、何にもない感じだったな。最初は特に何もない光に包まれた世界だったんだけど、神様が俺に修行をつけるってことで大地とか空とか海とかいろいろと生み出したんだ。他にいきなり殴ったかと思ったら首がもげて……あの時は流石に死んだと思ったんだよな。だけどあそこで死ぬことはなくてすぐに神様に頭を取り付けられて傷を治された。その後も死ぬような大怪我や、実際死んだけど死ななかったみたいなこともあったし……一番きつかったのは水の底に石を結び付けられて沈められた時かな。水を弾いて水の上に立てるようになれ、なんて言われて……まあなんとかなったけど」
「……………………………………………………」
ルフェの語った内容にアイネは言葉が出ない。それが真実であるか、はともかくとしてその内容の壮絶さに驚いた様子である。修行の過程でルフェは何度も神様に殺されている、またその過程で大怪我を負わされているというのは誇張して話すにしても盛りすぎではないかと思うような内容だ。しかしルフェの語り口は嘘をついているようなものには感じられない。相手が神様ならばそんなことをできてもおかしくはないだろうと思うことができるだろう。
また、世界創造に匹敵するような事象についても神様であるならば納得がいく。もっともそれがこの世界に影響をもたらすことができるかはまた別で神様の住んでいる所のみで可能なものなのかもしれないが。それでもやっていることはやはり神様である。
「……あ、見えてきたわね」
アイネはルフェの語ったことに対し思考することを放棄した。神様のやることを人間が気にしても仕方がない。考えても意味がない。話を逸らす目的でアイネはルフェの倒した魔物の姿が見えてきたことを話題にあげる。
「あれを……倒したの?」
「ああ。遠目で分かりづらかったけどかなりでかいな」
「…………そうね」
見えた魔物は異常な大きさと見かけをした狼だ。しかしその異常な容姿を示す大部分、人間で言えば上半身に当たる部分は何か大きく固いものを叩きつけたかのように拉げてその元々の形態が分かりづらくなっている。それでもある程度は形が残っているのでわからなくはないが。
そんな魔物を遠くから、拳を振り下ろしただけで倒したと言われればその異常性が分かる。ルフェの能力、強さはいったいいかほどの物なのか、アイネは少しの恐怖を覚える。本来は想い人ともいえるような相手にそんな気持ちを持ちたくはないが、流石に散々見せられるその異常な強さはそんな気持ちを抱くのも仕方がないと思わせるようなものだ。
「……っ」
「魔物の確認はいいよな? 近くの街へと向かおう。流石にそろそろ休みたいしな」
「そうね…………」
アイネはルフェへの恐怖を抱く。そしてそんな想いを抱いたことに対し後悔を抱く。ルフェはアイネの我がままに最大限付き合い、手助けをして、割と辛辣に当たっても許してくれているのに、自分はそんな気持ちをルフェに抱いていいものか。相手に甘えすぎではないか、そうアイネは思う。
ルフェはそんなアイネの心情に気づいているのか、気づいていないのか、アイネの手を握り先へと進む。




