episode:2
―繰り返す毎日。僕の中にあった思い出たちは徐々に忘却の彼方へと消えていく。
泣いた事も笑った事も全て、まるで無かった事の様に平淡な日常へと溶けていく。
僕は気付かないまま、また繰り返す。
そして、大事にしてきたあの人との記憶さえも忘れ始めていた。
―僕にとってかけがえのない、大切な存在。それは誰だっけ?
―
私はクラスの人たちからいじめを受けていた。
毎日が辛かった。
私に向けられる視線は冷たく、助けを求めたって誰も私の声を聞こうとしない。
そんな毎日。
しかしそれはある日突然覆された。
「こんなのおかしいよ。なんで誰も気付かないの?」
クラスメイトの一人が言った。
「つまらない。」
その一言で全てが変わった。
明るい性格でクラスでも人気者。彼の言葉の影響力は大きかった。
最初の内はクラスの雰囲気も気まずかったが、次第に私にも友達が出来るようになり、今は普通に学校生活を送る事が出来ている。
あの日から私は彼の事ばかり考える様になっていた。
(今日こそは…ちゃんとお礼言わないと。)
私はまだ彼にお礼すら言えていなかったのだ。情けなくなり溜め息を吐く。
「空ちゃん?」
突然話しかけられ、体がびくんと反応する。
振り返ると親友の葉月がいた。
「わああ!びっくりしたぁ!いきなり話かけないでよー!」
「ごめんごめん。驚かせるつもりは無かったんだけど…。」
葉月は申し訳なさそうに言った。
「どうしたの?何か用?」
「あぁ、そうだった。私ちょっと用事があるもんでこれを先生の机に提出してきて欲しいんだ。」
「えぇ~。なんで私が。」
ちょっと渋ってみると葉月は困ったような表情をした。
「えっ…ご、ごめん。」
「嘘だよ嘘。冗談。ほんと、葉月は可愛いなぁ~。」
「ふえぇっ。」
戸惑って変な声を上げる葉月の腕から提出物を受け取る。
クラスの提出物だからちょっと重い。
「とりあえずこれは提出しておくよ!」
「ありがとう!」
葉月は安心したように去っていった。それを見届けて私も職員室へと向かって歩き出す。
―
(うーん…。話かけるきっかけとかないかなぁ…。)
葉月と別れた後、私はまた彼の事を考えていた。
ぐるぐると考え事をしながら歩いていて周りが見えていなかった私は不意に誰かとぶつかってしまい、その拍子に持っていた提出物をばらまけてしまった。
「わっ。ご、ごめんなさい!」
慌てて拾っていると、ふと目の前に提出物が差し出された。
顔を上げると目の前にいたのはまさにさっきまで考えていた『彼』北野くんがいた。
「ごめんね。大丈夫?」
彼は気遣う様な視線を私に向けた。
「あ、えと、だ、大丈夫!こっちこそごめんね!」
緊張してしまい挙動不審になる。きっと顔は真っ赤になっているのだろう。
北野くんはそんな私を不審そうに見る訳でもなく去っていった。
私も慌てて提出物を出しに行く。
その後はずっと頭の中がぼんやりしていた。
ただ少し声をかけられただけでこんなにも舞い上がってしまうなんて…。
恥ずかしいと思う反面、もっと話したいと思う気持ちはより膨らんでいた。
―
翌日の昼休み。私は図書室で本を眺めていた。
(良いの無いなぁ…。)
浮かない気持ちで教室に戻ろうとしてドアに手を伸ばそうとした時、入り口付近から北野くんが入って来るのが見えた。
私はつい立ち止まり、振り返る。
(北野くんってどんな本読むんだろう。)
北野くんが本棚に本を返すのを見て私は急いで本棚へ行き、その本を手に取った。
少し厚い本。題名を見るものの私の知っている本では無かった。
(なんか難しそうな本だな…。)
そう思ったものの私はその本を借りることにした。
―
ちょっと見てみるだけ、そう思って本を借りたが、それが思った以上に面白くて私は夢中になって読んでいた。
「あれっ?音羽さんそれって…。」
不意に声をかけられ顔を上げると、私の方をじっと見ている北野くんがいた。
(えっ…な、何だろう?)
落ち着かない気持ちでいると、北野くんはパアッと顔を明るめて言った。
「あぁやっぱり!その本好きなんだよね!」
北野くんは嬉しそうに笑った。
「話がちぐはぐでまるで誰かの日記みたいでさ。周りの人はよく分からないって言うけどそこが良いと思うんだよね。」
楽しそうに語る北野くん。北野くんがまさかこんなにこの本が好きだとは思わなかったが確かにこの本は面白いと思う。
「昨日図書室で借りたの。面白くてさずっと読んでたよ。」
「そうなんだぁ。近くにこの本読んでる人がいてなんか嬉しいよ。」
「でもなんか難しいね。この本。謎が多いっていうか。」
「そうだね。僕もまだ分からない所あるよ。とりあえずさ、全部読んだら感想聞かせてよ!」
明るく笑う北野くん。これは近付くチャンスなのか…?
私は満面の笑みを浮かべ、答えた。
「うんっ!!」
私は北野くんと話が出来た事がただただ嬉かった。
しかも今度はこの本の感想を言うということで、また彼と話が出来る。
(あぁ…嬉しすぎて頭がどうにかなりそう。)
それをきっかけに私たちはすぐに仲良くなった。
私と北野くんは本の好みが似ていてよく互いの本を貸し借りしていた。
その度に感想を言い合う。たったそれだけの時間が、私にとってはとても幸せな時間に感じられた。
―
ある日、私のクラスに転入生が来た。
内気で大人しそうな雰囲気の女の子。
彼女は桜木明音と名乗った。
クラスの人たちは何やらひそひそと喋っている。決して好意的ではない。
その光景を見て私の脳裏にずっと嫌いだった、虐められ続けた日々が蘇る。
私に向けられる冷たい目。絶えず聞こえるひそひそ声。
(嫌だ…イヤだ!!)
「空ちゃんっ!?大丈夫!?」
誰かの声が聞こえた気がする。あの声は葉月、かな?
―
「―って感じで、まぁとりあえず寝かせてあげて下さい。」
「そうね。とりあえず寝かせた方が良いわね。」
「空ちゃん…大丈夫かなぁ。」
保健室の先生と二人ほど、生徒の声が聞こえる。
「ん…。」
「あっ!空ちゃん、大丈夫!?」
私が体を起こすとすかさず葉月が声をかけてくる。
状況が呑み込めず辺りを見渡す。どうやらここは保健室の様だ。
「あれ…私…なんで…?」
まだぼんやりした頭で必死に状況を呑み込もうとしていると、心配そうに私を見ていた北野くんが口を開いた。
「音羽さん、また倒れちゃったんだよ。」
「あぁ…また…。」
私は虐めから解放された。それでも深く根付いたトラウマから、陰口だとか悪口に過剰に反応するようになってしまい、気分が悪くなったり倒れてしまう事もしばしばあった。
「最近は良くなってきたと思ったのになぁ…。」
「仕方ないよ。音羽さん、桜木さんが来た時にクラスの人たちが妙な反応だったから怖くなっちゃったんだよね。」
確かに、そうなのかもしれない。ひそひそ声は自分に向けられているものではない。それは分かりきっている事なのに、私はどうしようもない恐怖を覚えた。
「誰が流したか分からないけど、桜木さんについて変な噂が流れてて。」
「変な噂…?」
「彼女は精神的な病気を患っていて、そのせいで前の学校の先生と色々問題になってこっちに来たんじゃないかって。」
「何それ…酷い…。」
「まぁ、それが本当かどうか分からないけどクラスの人たちは別に桜木さんの事を嫌っている訳じゃないみたいだから安心しなよ。」
その言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろす。
「あ…そろそろ学校始まっちゃう!空ちゃんは…休んでる?」
「ううん。授業行くよ!」
「大丈夫?」
二人はまだ心配そうに私を見ている。
「そんな心配しないでよ!私は大丈夫だって!」
そんな二人に向かって私は笑ってみせた。
「そういえば、葉月と北野くんが一緒にいるのって珍しくない?」
「音羽さんが倒れた時っていつも僕が保健室に連れてってるんだけど、虹原さんが心配だからどうしてもついてきたいって言うから。」
「だって…久しぶりだったんだもん。それに…凄く動揺してるみたいだったから…。」
「そっか。心配かけてごめんね。」
葉月は私に対して少し心配性な所があるからなぁ…。
(ていうかいつも私を保健室に連れてきてたのって北野くんだったんだ…。)
そう思うと何だか恥ずかしくなってきた。顔が赤くなってきているのを感じる。
私はそれを隠すために俯いて早足で歩いた。
教室に着いてふと隣の席を見ると、転入生である桜木さんがいた。
(隣の席が空いていた筈なのに机が置いてあったからまさかとは思ったけどやっぱり。)
「…大丈夫?」
静かな声が聞こえる。隣を見ると桜木さんが私を見ていた。
「あはは…変なとこ見せちゃったよね。全然、平気だよ。」
「そう…。」
「えぇっと…桜木さん、だよね?」
私が聞くと桜木さんはこくりと頷いた。
「下の名前…何だっけ?えぇっと…あきね?」
「あかね。」
「そうだったね。ごめんごめん。明音って呼んでも良い?」
「…別に。」
「私は音羽空っていうの。宜しくね!」
「音羽さん…宜しく。」
どうやら明音は見た目は大人しそうだけど実は…なんて事はなく本当に大人しい性格の様だ。
―
それから何度か明音と話をする機会があり、明音もだいぶ打ち解けてきた。
最初はあまり笑わない印象が強かった彼女も最近は少し笑う様になった。
笑っている明音はとても可愛くて、改めて笑顔って良いななんて思ってしまう。
人は笑っているのが一番だと思う。
笑っている時が一番幸せなのだ。
「…音羽さん?」
不意に声をかけられ顔を上げると北野くんがいた。
「北野くんじゃん。どうしたの?」
「いや、なんか楽しそうだったから。」
「あはは。顔に出てた?なんか恥ずかしい。」
「………。音羽さんって笑うと可愛いよね。」
「えっ?」
それってどういう意味?
口を開きかけた瞬間、北野くんはそれを遮る様に言葉を発した。
「あ、そうそう。この前借りた本返すね!凄く面白かったよ!」
「でしょ?私この本好きなんだ!」
聞こうと思っていた事も忘れてすっかり本の話で盛り上がる。
「あ、じゃあそろそろ授業始まるから席着くね。」
「うん。またあとで!」
北野くんが自分の席へ戻っていく。私も次の授業の準備をしていると、隣の席にいる明音が声をかけてきた。
「音羽さんって…さぁ。」
「んっ?」
「北野くんの事好きなの?」
いきなりの質問で驚く。
「えっ?どうして?」
「なんとなく、気になって。」
そう言っている明音の顔はいつもと変わらず大人しそうな表情で、実は私もあの人の事が好きなんです!というパターンにはとても見えない。
だからか、つい素直な言葉が出てしまう。
「まぁ…好き、かな。」
その言葉を聞いた明音は小さく微笑み、言った。
「そう…応援、する。」
私はその言葉で背中を押された様な気がして嬉しかった。
「ありがとう。」
―
私は明音に言われて、最近あまり意識しなくなっていた北野くんの事を改めて考えてみる。
そういえば私は北野くんに近付くことが出来ただけで満足しちゃって、本当に言いたい事は言えないままだったな。
(このままだと私、ずっと言えずじまいになっちゃう。)
それだけは絶対に嫌だな。
(そうだ…。今度の文化祭の時に想いを伝えてみようかな。)
そんな勇気が私にあるのか分からないけど、ただずるずると引っ張っているよりも一歩前に進んだ感じがして良いんじゃないかな。
―
それから私は頭の中であれこれと考えた。
どのタイミングでどういう風に告白するのか。
そうやって考えていると時間があっという間に過ぎていって、一日一日がとても短く感じられた。
そして、文化祭の日がやって来た。
「音羽さん、頑張って。」
明音に言われて緊張する。それでも私は笑顔を作って言った。
「うん!ありがとう!」
「空ちゃん応援してるよ!頑張って!!」
何故か葉月にも応援される。
(あれっ?葉月に言ったっけ?まぁいいや。)
「葉月もありがとう!」
二人に背中を押され、北野くんを探しに行く。
校内はとても人が多く賑わっていて北野くんを探すのはかなり大変そうだ。
(北野くんどこにいるのかな?)
探してみるものの見つかる気がしない。
このままではきりがないと思い、私はダメ元で紙に簡潔な言葉を書き、靴箱へ行き、北野くんの場所に入れる。
―文化祭の片付けが終わったら教室に来て欲しい。
(流石に気付かないかな…。)
紙に書いたはものの私はまた北野くんを探し始めた。
校舎内を周っているものの校舎内の賑わいなど私の頭には入って来なかった。
北野くんを探すついでに食べ物を買ってみたりもしたが味が分からないくらい、私は落ち着かないでいた。
―
結局私は北野くんと会うことが出来なかった。
(どうしよう…。このまま会えなかったらせっかく応援してくれた明音や葉月に合わせる顔がないや。)
不安な気持ちのままそそくさと片付けを終え、教室に行く。
北野くんはいなかった。
それでも私は待っていた。不安や緊張に押し潰されそうな気持ちだ。
不意に私は北野くんにまだ、あの時のお礼が言えていない事に気がついた。
忘れていた訳では無いのに…いや、忘れる訳が無い。
私を助けてくれたあの時からずっと、私はお礼すら言えていなかったのか。
(情けないなぁ…。)
私はとてつもなく彼に会いたくなった。
ふと時計を見ると文化祭が終わってもう随分と時間が経っていた。
片付けだってもう終わっているだろう。
(やっぱり気付かなかったのかな…。)
大体あの紙だってダメ元で書いたんだし。これ以上待っていたってきっと来ないだろう。
帰ろうと思って荷物を持った時、唐突に教室の扉が開かれた。
「!!」
扉の方を見るとそこには北野くんの姿があった。
「良かった…音羽さん、まだ…いた。」
急いで来たらしく息を切らしている。私は即座に声を出すことが出来なかった。
「遅くなってごめんね。片付けが長引いちゃって…。」
「ううん。全然、大丈夫だよ。そんなに…待ってないし。」
そんなに待っていないなんていう嘘はきっとばれていただろう。それでも彼は安心したように笑った。
「それで…どうしたの?」
北野くんはとても落ち着いた様子で、その様子を見て私も何だか落ち着いてくる。
「私、さ。まだあの時のお礼言えてなかったなって思って。」
「お礼?」
「ほら。私、虐められてた時に、さ。助けてくれたから。」
「あぁ…あんなの気にする事じゃ―」
「私にとっては大きな事なの。だから、言わせて。」
北野くんの言葉を遮る様に、声を少し強くして言う。彼は驚いたように私を見て、口を開きかけたが、つぐんだ。
それを確認して私は微笑み、言った。
「ありがとう。」
私の言葉を聞いた北野くんは照れくさそうに笑った。
(まだ、まだ、続きがあるんだ。言わなくちゃ。)
「あのっ。」
心臓の音が早くなっていくのを感じる。
「私、ね。北野くんの事…好き、です。付き合って…くだ…さい。」
顔が赤くなっているのを感じる。全身が熱い。最後の方なんか最早何を言っているのか分からない。
精一杯の気持ちは伝わっただろうか?
「ありがとう。」
北野くんは言った。
「えっ?」
「ううん…こちらこそ、かな。」
彼はそう言って笑い、その言葉を聞いた私は恥ずかしさやら嬉しさ、照れくささなどから頭が混乱する。
今の私はどんな顔をしているだろうか。
ただ、北野くんは優しい表情のまま、私を見ていた。
「あ、あのさ…。下の名前で呼んでも良い?」
「うん。もちろん。改めて宜しくね。空。」
「…宜しく。光也。」
―
翌日、教室に着くと明音と葉月が落ち着かない様子で寄ってきた。
「どうだった?」
まるで自分の事かの様に緊張する葉月と、私を気遣う様に見ている明音。
私は二人に満面の笑みを向けて言った。
「うまくいったよ!」
その言葉を聞いた二人はとても嬉しそうにはしゃいだ。
「本当!?良かったじゃん!!」
「おめでとう!」
二人があまりにもはしゃぐものだから私もまた、嬉しくなってきた。
「二人ともありがとう!」
やっぱり持つべきものは友達だな、なんて思ってしまう。
私、幸せだなぁ。