挿話・7 特別な彼女(後)【前世】
「…ありましたわ!」
しばらくして、フロライアが明るい声を上げた。
「これではありませんか?汚れてしまっていますが…」
「……!はい、これです。間違いありません」
青いケースに泥が付着したそれは、確かにリナライトが父から貰ったものだ。
「こちらの草の陰に、誰かの大きな足跡がありました。そこが水溜まりになっていて、中に沈んでいたのですわ」
後ろを指差すフロライアの姿を見て、リナライトは心苦しくなった。
案の定、草むらを探し回った彼女の制服の裾には泥が付着し、汚れてしまっている。
「ありがとうございました。本当に申し訳ありません」
「どうして謝るのですか?困った時はお互い様ではありませんか」
感謝と共に詫びるリナライトに、彼女は優しく微笑んだ。
その細い指先も泥で汚れている事に気付き、慌てて懐を探る。
「どうぞ、使ってください」
ハンカチを手渡すと、彼女はもう一度微笑んで「ありがとうございます」と言って受け取った。
広げたそれで手を拭き、ふいに顔をしかめる。
見ると、彼女の指先はわずかに血が滲んでいるようだった。枯れ草で切ってしまったらしい。
「見せてください」
リナライトはフロライアの手を取った。
まずは水魔術でその手を洗い流すと、傷口に染みたのか彼女はまた少し顔をしかめた。
「痛かったですか?」
「いえ、大丈夫ですわ」
ハンカチの綺麗な部分で慎重に水気を拭き取り、手をかざして治癒をかける。念のために解毒の魔術も使った。傷口が膿んでしまったら大変だ。
「…ありがとうございます。リナライト様、本当に魔術がお上手なのですね」
「大した事はありません」
そう言いながら、顔を近付けてもう一度彼女の指先をよく検める。
問題なく治癒できたようだ。かすり傷だったので、痕も残っていない。
ほっと安心し、それから自分が女性の手を取ってまじまじと見つめているという状況に気が付いたリナライトは、慌てて手を離した。
「す、すみません!」
「大丈夫ですわ」
その焦りようが面白かったのか、フロライアはくすくす笑った。
気恥ずかしさで赤面しながら、隅の方にまとめて置いておいた鞄や教科書へと歩み寄り、拾い上げる。
フロライアはそれらを見て少し眉を寄せた。
「ずいぶん汚れてしまっているように見えますわ。もう使えないものもあるのではないですか?」
「そうですね…」
ぱらぱらとめくってみる。特に汚れが酷いのは数学の教科書と、歴史のノートだ。ちょうど泥水が溜まっている所に落ちていたので、大きな染みができてページ同士がくっついている。
教科書は教師に頼めば新しいものを用意してもらえると思うが、ノートはどうしようもない。
「まあ、仕方ありません」
オットレたちへの怒りを抑えながら、全てを鞄へとしまい込む。もう泥はだいたい乾いているから、鞄の中はそう汚れないだろう。
その間にフロライアも、隅に置いていた自分の鞄を持ち上げていた。蓋を開け、中から何かを取り出す。
「これを。よろしければお貸し致しますわ」
彼女が差し出したのは歴史のノートだった。
「そんなに汚れていては、もう読めませんでしょう。だからこれを写せばよろしいかと…」
リナライトは思わず、まじまじとノートを見つめてしまった。
淡いピンク色の表紙には、綺麗に整った文字で彼女の名前が記されている。
「…あの、余計なお世話でしたでしょうか?」
「あっ!いえ、そのような事は、決して…!」
リナライトは大慌てで受け取ろうとし、すぐにその手を引っ込めた。泥だらけの教科書やノートを触っていたので、すっかり手が汚れてしまっている。
だが、自分のハンカチはさっきフロライアに渡してしまった。
「リナライト様、どうぞ、これを」
「す、すみません…」
もう片方の手で差し出されたのは、美しい刺繍のされた絹のハンカチだった。
申し訳ない気持ちでそれを受け取り、自分の手を拭く。持っているハンカチすら、彼女は女性らしくて美しいんだなと思う。
綺麗になった手でノートを開いてみると、やはり美しく整った文字が並んでいた。
先程言っていた、図書室でまとめたノートなのだろう。授業よりも細かな内容が書かれている。
「…とても丁寧にまとめてありますね」
「まあ、そんな。リナライト様にお褒めいただく程のものではありませんわ」
「お世辞ではありません。とても分かりやすく書かれています」
本当によく出来ている。これを書き写せば、自分の勉強もきっと捗るだろう。
「かたじけない。なるべく早くお返しします」
「ゆっくりでも大丈夫ですわ。次のテストはまだ先ですし、リナライト様はお忙しくていらっしゃるでしょう」
優しく言われ、何から何まで本当に申し訳ないとリナライトは思う。
「何かお礼を致します。…ご希望はありますか?」
「いいえ。言ったではありませんか、困った時はお互い様だと」
静かに微笑んだ彼女に、リナライトは少し驚き、そして自分を恥じた。
彼女は何か目的があるのだろうと思っていた。例えば従者である自分に、王子とのお茶会をセッティングして欲しいだとか。
例え初めからそのつもりだった訳ではなく、ただの親切心からだったとしても、年頃のご令嬢ならこのチャンスを逃しはしないだろう。
制服を汚し、傷を負ってまで手伝ったのだから、そのくらいの「ご褒美」は当然。
…そう考えるだろうと、漠然と思っていた。
「すみません…」
「また謝っていらっしゃいますわ。どうして?」
「いえ、その。…すみません」
「おかしな方」
フロライアは口元に手を当てて楽しげに笑った。
「この事は誰にも言いませんわ。ノートを返す時も、寮の郵便受けに入れて下さって構いません」
そう付け足した彼女に、リナライトは僅かに目を丸くした。
「だって、エスメラルド殿下には知られたくないでしょう?」
「……」
つい無言になる。
自分は、いつもきっちりと真面目に授業のノートを取っている。誰かからノートを借りることなどまずない。
フロライアにノートを返却している所を見られたら、勘の良い王子なら何か気付いてしまうかもしれない。
「…貴女は、何でもお見通しなんですね」
そう嘆息すると、彼女はくすくすと笑った。
「そんな事ありません。ただ、リナライト様は意外と分かりやすくていらっしゃいますわ」
「そ、そうでしょうか…」
「ええ。殿下にご心配をかけたくないと顔に書いてあります」
何だかとても恥ずかしい。
今が夕方で良かったと思う。自分がまた赤面している事は、夕日のおかげできっとばれないだろう。
寮の近くまで並んで歩き、そこで彼女と別れた。改めて礼を言い、頭を下げる。
「ありがとうございました。とても助かりました」
「いいえ。では、また明日。ごきげんよう」
夕焼けの中で去りゆく彼女の微笑みも、後ろ姿も、とても美しいものとしてリナライトの目に焼き付いた。
城に帰り、急いで王宮魔術師団の所へ行くと、だらしなく崩れた姿勢で椅子に座ったセナルモントは、何かの本を熱心に読んでいる所だった。
「やあ、リナライト君、そろそろ訓練の時間かい?」
訓練に遅れた事を気にしていないどころか気付いてすらいないらしい師匠に、リナライトは安心しつつも内心呆れる。
「一体何の本を読んでいるんですか?」
「これはねえ、古代神話王国の文化や言葉について解説した本なんだけど、とても面白いんだよ。今までとは違う解釈をしている単語があって、これを参考にすれば今まで意味がよく分からなかった古代語の本も翻訳し直せるかもしれない。例えばね…」
セナルモントは嬉しそうに解説を始める。
興味をそそられたので、リナライトも身を乗り出して本を覗き込んだ。
「…それで結局、全く訓練ができなかったんです。いえ、つい夢中になった私も悪いんですが…」
「セナルモントらしいな」
夕食の席、向かいに座った王子は話を聞いてわずかに苦笑した。
「今の所、一級魔術師になるための勉強は順調に進んでるんだろう?1日くらい訓練しなくても別に良いんじゃないのか」
「そうですが、今は学院の勉強もしなければなりませんし…」
そう言うと、王子は少しだけ首を傾げた。
「何か良い事でもあったのか?機嫌が良さそうだ」
尋ねられ、咄嗟に頭に浮かんだのは彼女の事だった。
一緒に探し物をし、ノートを貸してくれた彼女。
「…いえ。特に、何も」
「そうか」
王子は特に追及せず、またフォークを動かし夕食を口に運んだ。
リナライトもまた、皿の上のニンジンにフォークを突き刺す。
不思議な人だと思った。
彼女の慈愛に溢れた微笑みは、まるでこちらの心を見透かしているかのようだ。だがそれが不快ではない。
今まで出会ったどのご令嬢とも違う。美しく、優しく、聡明で、温かい。
彼女は何か、凄く特別な存在のように思える。
「…リナライト。どうかしたか?」
声をかけられ、はっと顔を上げる。
「い、いえ、何でもありません。少しぼーっとしていました」
「疲れているんじゃないのか。お前はすぐ無理をする」
「いえ、本当に大丈夫です。考え事をしていただけなので」
「なら良いが」
食事を続けながら、そっと誰よりも敬愛する主である王子の様子を窺う。
その整った顔立ちからはだんだんと少年らしさが抜け、同年代の者たちよりも一足早く大人になりつつあるように思える。まるで周囲の期待に応えようとするかのように。
自分は従者であるというのに、置いていかれないようにするだけで精一杯だ。
今の国王陛下は身体が弱く、政務が随分と負担になっているようで、体調を崩す事が多い。なるべく早くに退位し玉座を引き継がせたいと、王や側近達は考えているようだ。
王子はきっとあと10年もしないうちに、王冠を頭上に戴く事になるのだろう。
その時には結婚し、世継ぎだって出来ているかもしれない。
…特別だというのなら、この方、エスメラルド殿下こそが自分にとって何より一番の特別だ。
そう思った途端、何かが腑に落ちた気がした。
彼女のような人は、きっとこの主にこそふさわしいのだ。
「また手が止まっているぞ。もう少し食べろ」
「す、すみません」
王子に注意され、思考を中断して急いで食事を再開する。
もうだいぶ満腹になってきているが、あまり料理を残すのは申し訳ない。
ほんの少し感じた胸の痛みは、気が付かないふりをした。




