花火
ジリジリと刺すような日差しによって熱せられていた空気も、太陽が沈むと少しマシになった気がする。それでも湿気は多く、不快な蒸し暑さは続いていた。その蒸し暑さにさらに熱を加えているのは、この駅から吐き出されてくる人の多さだろう。
叶向はコンビニの前に立って、暑さにうんざりしながら駅舎から出てくる人の流れを眺めていた。駅舎の階段近くに設置された大時計は午後七時半を示している。
「遅刻かな……」
小さくため息を吐きながら人混みの中に如月の姿を探すが見つからない。駅から出てくる人たちの中には浴衣姿の者もちらほら見えた。その誰もが楽しそうに浮かれた様子で同じ方角へと向かっていく。
叶向はしばらくそんな人々を冷めた気持ちで眺めてからスマホを確認した。すると、いつの間にか如月からメッセージが届いていた。
『ごめん! 電車混んでて一本後のに乗った!』
そして謝罪のスタンプが何個も連打されている。
『あと五分で来なかったから帰る』
送信するとすぐに既読がついた。
『電車に言ってよー』
泣き顔のスタンプ。叶向はフッと笑って如月とのトークルームを閉じる。そして目に入った名前に眉を寄せた。秋山美守。
――なにがしたいの? 叶向。
放課後の誰もいない教室で自席に座った彼女がそう言ったのは、あの公園で如月とキスしたところを見られてから一週間ほど経った頃だった。
「なにがって、なにが?」
「好きなの? あの子のこと」
秋山の席は窓際の真ん中。叶向の席は中央列の一番後ろ。微妙な距離。それでも二人とも席を立とうとはしない。叶向はじっと彼女を見つめて「美守には関係なくない?」と笑みを浮かべる。すると彼女は「またその顔」とうんざりしたように言った。
「いいから、そういうの。あんたのそういう顔、もう見飽きた」
彼女の言葉には何も感情はない。本当に見飽きただけなのだろう。
秋山とは高校に入ってからずっと同じクラスだ。しかし同じグループで仲良くしていたわけではない。ただごく稀に、こうやって放課後の教室に二人だけ残っているときがあった。
叶向が一人になりたくて教室に残っているのに、いつまで待っても彼女は帰らない。やがて彼女も一人になりたかったのだと気づいたのは二年に進級した頃だった。
秋山は普段から少し変わった子だった。誰かと特に親しくなったりはしない。しかし、決して孤立しているわけでもない。
彼女は自分と似ている。そう思ったのは僅かな間だけ。放課後の教室でポツポツと会話をしているうちに気づいたのだ。彼女は叶向とは正反対の人間である、と。
おそらくは秋山も同じことを思ったのだろう。だから何を話さなくとも彼女は叶向が求めているものに気づいている。
「――別に、好きじゃないよ」
彼女に笑みを向けたまま叶向は答えた。
「ふうん。でもキスするんだ?」
秋山は無表情に叶向を見ている。その言葉は決して叶向のことを非難しているわけではない。もちろん肯定しているわけでもない。ただ純粋に疑問に思っている。彼女はそういう人間なのだ。
「好きじゃなきゃ、キスしちゃいけないものなの?」
叶向が問うと彼女は「知らないけど」と興味なさそうに言って眉を寄せた。
「でも、叶向のやってることは気持ち悪いなって思うよ」
彼女の言葉は自分でも驚くほど素直に心に入ってくる。苛立つことも、反論しようとも思わない。叶向は軽く笑いながら「なんで?」と首を傾げた。
「男でダメだったから今度は女ってわけでしょ?」
「男とはキスしてないけど?」
「そういう問題じゃないでしょ。あんたのは」
秋山はじっと叶向を見つめると「あの子とだったら手に入りそうなわけ?」と静かに言った。ブンッと耳の奥で低く音が響いた。教室の電灯が切れかけているのかもしれない。
叶向は秋山を見返しながら「さあ」と笑みを浮かべたまま答える。すると深いため息が響いた。続いて聞こえたのは彼女が席を立つ音。
秋山は鞄を手にすると無言で叶向の方へ近づいてくる。そして「可哀想だね」と言葉を残して教室を出て行った。
叶向はぼんやりと主の姿がなくなった秋山の席を見つめる。
「可哀想、か……」
それは誰に対してだろう。叶向に対してか。それとも何も知らずに叶向に付き合わされている如月に対してだろうか。
スマホに表示された秋山の名前を見つめながらぼんやりと思う。そのとき「よかった! まだいた!」と慌てたような声が聞こえた。
我に返って顔を上げると、ちょうど駅舎から如月が走ってくるところだった。しかしその歩みは遅い。それもそのはずで、彼女は周囲の浮かれている者たち同様、浴衣姿だったのだ。
慣れない下駄で走れないのだろう。カラコロと盛大に音は響いているものの、なかなか叶向の元へは辿り着かない。叶向は思わず笑いながら「遅い!」と近づいてきた彼女に言った。
「だからゴメンって! 浴衣だと満員電車に乗るのしんどくて一本待ったんだけど」
「一本ずらしても同じだったんじゃないの?」
すると彼女は苦笑しながら「むしろさらに満員になってた」と答えた。そして息を整えてから浴衣の裾を直す。
浴衣の柄はなんだろう。花火か、あるいは何かの花の絵を崩したものなのか、よくわからない。しかし深い青色の布は如月の雰囲気にはあまり似合っていないような気がする。
「なんで浴衣?」
思わず問うと、彼女は「え、だってデートでしょ? 花火大会デート」と目を丸くして言った。
「だから浴衣?」
「そう。だって、ほら」
如月は困惑したように近くを歩くカップルに視線を向けた。その二人は男女ともに浴衣を着ている。
「そういうものなのかなって。むしろなんで水無月は私服なの?」
「持ってないし、浴衣」
「レンタルとかもあるのに」
「興味ない。めんどくさい。お金もない」
「えー、水無月も着ると思ってせっかく用意したのに。ダメ? これ」
少し悲しそうに呟いた如月がなんだか可愛く見えて叶向は微笑む。
「まあ、ダメじゃないけど。ちょっと着崩れてるから残念」
「……次はタクシーで来る」
「――次、か」
どうやら彼女は来年も叶向と花火大会に来るつもりのようだ。それは友達としてか、あるいは恋人としてか。
キスをしてみれば何かが変わるかもしれない。そんな安易な思いつきでした行為に結局は何かを感じることもなく、未だ如月とは別れることもないまま今日もこうしてデートの真似事をしている。
如月はどうだったのだろう。やはり叶向と同じように何も感じることはなかったのだろうか。それとも来年も一緒に花火を見たいと思える程度には好意を抱いてくれたのだろうか。
ぼんやりとそんなことを思っていると彼女が不思議そうに「なに?」と首を傾げた。叶向は首を横に振って「行こっか」と如月の手を握る。
「え、なんで手繋ぐの?」
なぜか戸惑う如月に叶向は「だって、ほら」と前方に視線を向ける。すると周囲のカップルたちは、そのほとんどが手を繋いで歩いていた。
「そういうものなんじゃないの?」
「……そっか」
「うん」
叶向は頷き、ゆっくりと足を踏み出す。きっと下駄で走ったりしたから足が痛いはずだ。別に急ぐ必要はない。今日は如月が花火を見たいと言ったから一緒に来ただけ。どこかで適当に花火が見られたらそれで良い。
何かを期待しているわけでもない。きっと、如月との関係はこれ以上変わったりしない。
――だからもう、キスだってしたりしない。
まるで自分に言い聞かせるように思ったことに叶向は密かに自嘲した。
花火大会の会場は海沿いだ。普段は車が通る道も規制されて開催時間だけは歩行者天国になっている。去年は友人たちと来たのだが、今年は如月と二人。もしかするとどこかにクラスメイトもいるかもしれない。その誰かに如月と手を繋いで歩いているところを見られたら、どう思われるのだろう。
「知ってる人、いたりするかな」
ふいに聞こえた如月の声。視線を向けると彼女は居心地が悪そうな顔で人混みを見ていた。
「嫌? わたしと一緒にいるところ見られるの」
「そういうわけじゃないけど、でも手が――」
如月の視線は繋がれた手に向く。叶向はわざと彼女の手を握り直すと軽く揺らした。
「これが気になるの?」
「普通は女子高生同士が手を繋いだりしないんじゃない?」
「付き合ってるならするでしょ。それに、人が多くて迷子になりそうなときも多分する」
「……そうかもしれないけど」
彼女は何か言いたそうな様子だったが、それきり口を閉ざした。そして無言のまま歩き続ける。
この何となく気まずい空気はなんだろう。如月がこんなに無言でいることが珍しいからだろうか。
周囲には屋台から香ってくる美味しそうな匂いが溢れている。普段の彼女ならきっとアレが食べたいとかあの屋台に行ってみたいとかはしゃぐに決まっている。それなのに隣を歩く彼女は周囲を気にするばかりで楽しそうではない。
――嫌、なのかな。
彼女が嫌がっているのなら無理に手を繋ぐ必要もない。そう思って手を放すと、彼女は驚いたように立ち止まった。そして少し悲しそうな表情を浮かべる。
「水無月……?」
呟いた彼女の声は消え入りそうだった。叶向は微笑むと適当に屋台を指差した。
「お腹空かない? 奢るよ。彼女として」
「……お金、ないんじゃなかった?」
「これくらいなら大丈夫」
「ふうん。じゃ、奢ってもらおうかな」
力なく笑って彼女は屋台の方へと向かう。その背中はなぜか寂しそうで、さっきよりも元気がなくなったように見えた。
――なんでだろう。
その場に立ち止まって自分の右手を見る。彼女の温かさがまだ残っている。彼女の手の柔らかさも。
「……わかんないな、全然」
叶向は呟き、右手に拳を握った。そのとき「あれ。如月?」と男子の声が聞こえた。視線を上げると焼きそばの屋台の前で如月が男子のグループと向かい合って立っていた。そのどれも見覚えのある顔だが、全員別クラスの生徒たちだ。その中でも彼女に声をかけたのは小野寺という男子だった。
たしか前にクラスの誰かが言っていた。春先、如月に告白をして振られた男子。彼は「浴衣なんだな。すげー似合ってる」とはにかんだ笑みを浮かべている。周りにいる彼の友人たちがニヤついているので、小野寺がまだ如月に好意を持っていることは明白だ。
一度は振った相手。きっと如月は困っているだろう。そう思って彼女に視線を向けた叶向は、その表情を見て思わず足を踏み出していた。
彼女は恥ずかしそうに笑みを向けていたのだ。いつもの作り笑いとは違う、叶向には向けたことのない笑みを。
「あれ、如月。髪になんかついてるぞ」
「え、どこ?」
「ちょい待ち。ここに――」
小野寺が如月の髪に手を伸ばす。その手が彼女の髪に触れる前に叶向は「如月」と彼女の手を引っ張った。
「うわ!」
如月は声を上げながらよろけて叶向の腕の中に倒れ込んでくる。
「ちょっと水無月。危ないよ」
「うん。ごめん」
「あ、水無月さんも一緒だったんだ。他にも誰か?」
小野寺は誤魔化すようにヘラっと笑って周囲に視線を向ける。
「どこかにいるかもね。行こう、如月」
叶向はそう言うと彼女の返事も待たずに手を引っ張って歩き出した。
無性に腹が立つ。心がチクチクする。
「水無月? ちょっと待って。速いよ、歩くの」
カラコロと鳴る彼女の下駄の音がときどきリズムを崩す。それでも構わず、叶向は彼女の手を引っ張って人混みの中を歩き続けた。
やがて人の波が途切れた頃、ようやく叶向は足を止めて如月を振り返った。彼女は苦しそうに息をしながら手を振り解くと屈み込み、足をさする。
「もー。水無月、歩くの速いから足痛かったじゃん」
彼女はぼやきながら、腰を屈めたまま周囲を見渡す。
「しかも、なんでこんな外れに……」
「――ここなら人もいないから」
叶向は一つ深く息を吐いてから口を開いた。喉がカラカラで言葉が上手く出てこない。すると如月は短く笑った。
「たしかにいないけど、んー、でもここから花火ってちゃんと見えるのかな」
「さあ、知らない」
叶向は言いながら彼女の髪に手を伸ばす。ふわりと触れたそれは柔らかくてフワフワしている。
「水無月?」
「なんか、綿みたいなのついてた」
「ああ、さっき小野寺くんが取ろうとしてくれてたのに」
彼女は言いながら身体を起こす。しかし叶向は彼女の頭から手を下ろさなかった。
「……なにしてんの?」
「頭を撫でてる」
「なんで?」
「――彼女の頭を撫でるのは彼女の特権だと思う」
すると如月は吹き出すようにして笑った。
「それでさっきいきなり引っ張ったの? 小野寺くん、びっくりしてたじゃん。可哀想だよ、あんな感じ悪い態度とったら」
「どうでもいい」
今、彼女から他の誰かのことなんて聞きたくはない。叶向は彼女の頭を撫でていた手を下ろして頬に添えた。すると如月は心配そうに「どうしたの?」と眉を寄せる。
「なにが」
「だって水無月、変」
「普通だよ」
「泣きそうな顔してるじゃん」
「してないよ」
「ウソだよ。してるって」
「してない」
ただ無性に苛ついているだけだ。どうしようもなく腹が立っているだけ。
そのとき、甲高い笛のような音がして真っ暗だった夜空に光の花が咲いた。パチパチと跳ねるような光のシャワーが暗闇の向こうに落ちていく。
「あ、すごい! ちゃんと見えるじゃん! ここって穴場かも」
嬉しそうな声を上げて如月は夜空を見上げる。しかしその顔は嬉しそうでも、楽しそうでもない。さっきまでは小野寺に笑いかけていたのに。
「如月」
「ん?」
「来年はさ、一緒に浴衣着ようよ。わたしが如月の浴衣を選んであげる」
彼女は目を見開く。そして困ったような笑みを浮かべて自分の浴衣に視線を落とした。
「これ、もしかして水無月の趣味じゃなかった? さっき初めて褒められたから嬉しかったんだけど――」
「わたしならもっと如月に似合うの選んであげられるから」
「そうなの?」
「うん。きっと、もっと可愛いよ」
「もっとって……。でも今日はわたし、ボロボロだし」
恥ずかしそうに俯いて髪に手をやる彼女の姿に、叶向は笑みを浮かべる。
「可愛いよ、如月は」
そう。自分と違って彼女は可愛い。だからきっと男と付き合っても可愛げがないと言われたりはしない。感情がないだの、冷たい女だの言われたりもしない。
――如月は、違うのかもしれない。
「水無月はきっと浴衣を着るとすごく綺麗だね。一番に見せてね。水無月の浴衣姿」
嬉しそうに、そして恥ずかしそうに笑う彼女の笑みはさっき小野寺に向けていたものよりも輝いて見える。その彼女の表情に叶向の心は満たされ、同時によくわからない気持ちが生まれ始めていた。
耳鳴りのような甲高い音のあと、一際大きく空気を震わせて真っ暗な空が色づく。
「如月」
「なに?」
首を傾げた如月に顔を近づけ、その艶のある唇に軽くキスをする。彼女は驚いた様子で動きを止めた。再びドンッと鼓膜が響いて光の雨が落ちていった。
「こんなとこで何してんの……?」
「誰も見てないよ」
「でも――」
まだ何か言おうとする彼女の背中に腕を回して抱きしめる。蒸し暑くて息苦しい空気の中、腕の中で感じる彼女の体温が心地良い。
「水無月? やっぱりなんか変だよ」
「付き合ってるなら普通じゃない?」
変だと言いながらも嫌がらない。キスをしても怒らない。少しだけ身体を離して彼女の顔を覗き込んでみる。如月は恥ずかしそうに視線を泳がせていた。そんな彼女の様子に叶向は心から満足感を覚えて身体を離した。そして手を繋いで夜空を見上げる。
「……何か、悲しいことがあったの?」
花火を見たいと言っていた彼女は、花火を見ようともせずにそんなことを言って水無月を心配している。
何も悲しいことなんてない。ただ、自分が持つ如月に対する想いがほんの少し分かった気がしただけだ。
それはとても醜くて、泣きたくなるほど虚しくて嫌気が差すもの。
――可哀想だね。
きっと秋山の言葉は自分と如月、どっちにも向けられたもの。
バラバラと空を彩っては落ちていく儚い光たちを見ても、今の叶向にはまったくそれが美しいとは思えなかった。




