煙草の香り
カタカタとキーボードを打つ音に混じって耳障りな機械音が微かに天井から聞こえる。空調の具合が悪いのだろう。誰かが設定を変えたのか、午前よりも冷たくなった風がデスクの上に積み上げられた用紙をパタパタと煽っていく。その音に苛立ちを覚えた一花は用紙の束を掴むと位置を変えた。
「如月。それ、今日中に仕上げないと客先でのミーティングに間に合わないからな。ちゃんとまとめとけよ」
一花が乱暴に資料を移動させたのが目に留まったのか、プロジェクトリーダーの坂田がすかさず釘を刺してきた。一花は「わかってますよ」と笑ってみせると、ひそかにその視線を坂田の隣のデスクに向ける。そこでは水無月が無表情にモニタと向き合う姿があった。
彼女の席が移動となったのは先月の終わり。とくに理由は聞いていない。この職場では席の移動なんて日常的なものだ。
作業の都合上での移動。
そのはずだ。決して水無月が一花から離れたいと坂田に申し出たわけではないはず。しかし、席を移動してから水無月と会話をした記憶がない。業務上の会話すらなくなってしまった。席移動の理由はどうであれ、彼女が一花を避けているのは疑いようもない事実だった。
一花は深くため息を吐いて、何度目ともわからない同じ思考に囚われる。
なぜ水無月がキスをしてきたのか。そして、どうしてあんな表情をしたのか。悲しそうで苦しそうで、怒っているようで、しかしどこか諦めたような、そんな表情。しかし何度考えてもわからない。
水無月のことは今も昔も一花にはわからない。
「如月さん、これも明日のミーティングに必要な書類なので一緒にお願いしますね」
声と共に再び用紙の束がドサッと置かれる。一花はうんざりしながらも「了解です」と力なく答えた。八月に入ってからというもの残業が続いている。今日もまた、定時には上がれそうにない。
――水無月と話をしたいのに。
しかし、たとえ一花が退勤時間を彼女と合わせたところで彼女は一緒に帰ってくれないだろう。一花のことなど無視してさっさと帰るに決まっている。一花は再び水無月へ視線を向ける。彼女の向こうにある窓から見える空は、絵に描いたような夏の青に染まっていた。
そんな状態で迎えた金曜日。すでに時刻は二十一時を回ろうとしている。フロアには、もうほとんど働いている者の姿はない。
「なー、如月。まだ終わんねえの?」
そう言ったのは暇そうに椅子に座ってスマホゲームをしている松本だった。一応、気を遣って音は消してくれているのだろうが指の動きが視界に入って邪魔である。一花はそんな彼を横目で睨んでから「なんでいるの?」と冷たく言ってやる。
「金曜の夜なのにヒマだから呑みにでも行こうかと」
「……行けば?」
すると深いため息が聞こえた。
「冷たいなぁ。冷たいよ、如月。金曜の夜だぞ? それなのに一人で残業してる可哀想な同期を励ましてやろうという俺の気持ちをありがたく受け取れよ」
「いや、なに? けっこう意味わかんないから。なんでわたし残業してるのが可哀想になってんの」
「だって最近は毎日じゃね? 残業。仕事の振り分けとかちょっと考えてもらった方がいいんじゃないの」
「ああ、これはわたしが悪いからいいの。最近、ちょっと集中できてないから」
「……最近じゃないだろ、それ」
その声が予想外に真剣なもので、一花は手を止めて彼を見た。松本は真面目な顔で「何かあったんじゃねえの?」と続けた。一花は笑う。
「この前もそんなこと言ってたね。わざわざコンビニで待ち伏せしてさ。あれ、マジで怖かった。ストーカーかと思ったよ」
「うっせ。心配してやってんだろ」
「はいはい。ありがとうございます。でもあのときも言ったけど、別に何もないから」
「ほんとかよ?」
「ほんとだって。あ、それから松本。気軽に人の頭を撫でる癖、気をつけたほうがいいよ? 妹や弟が多いから癖になってるって前も言ってたけど、何も知らない子がいきなり頭撫でられたら勘違いするかもしれないし。とくに女の子は」
「ほう? 俺が好きなんじゃないかと?」
「いや、セクハラだって」
「おい、こら」
一花は声を上げて軽く笑うと、ファイルを保存してパソコンの電源を落とした。
「お? ようやく終わりかよ。長かったわー。ヒマすぎて死ぬかと思った」
「……わたし帰るけど?」
「いや、待て。何でこの状況で帰るんだよ。俺が奢るから呑み行こうって。な?」
「一人で行けば良いじゃん」
「一人じゃ寂しいだろ!」
子供のように喚く松本に苦笑しながら一花は「しょうがないな」とため息を吐く。
「行ってもいいけど、店はわたしが選ぶ」
「おう、いいぞ。ただし高級すぎる店は無理だ」
「値段は知らないけど、たぶん大丈夫」
帰り支度をしながら一花は呟く。脳裏に浮かんだのは六月のジメジメとした夜、水無月と抱き合う秋山の姿。
二度と近づかないと決めたはずだった。それでも行こうと思ったのは水無月がいるかもしれないからだ。水無月に会えるのなら秋山と会うことだって我慢ができる。
「……大丈夫」
グッと奥歯を噛みしめ、一花は松本と共に彼女の店へ向かった。
外は日が暮れたというのに、未だ昼間の熱が尾を引いているような蒸し暑さだった。一花は細い路地を歩きながら息苦しさに眉を寄せる。少し前を歩く松本は、そんな一花の様子に気づきもせずに「俺、その店って初めて行くわ」と楽しそうな様子だ。
「どんな店なんだ?」
「知らない」
答えた一花の声が不自然に聞こえたのだろう。松本は不思議そうに振り返ってから「まあ、行ってみりゃわかるか」と楽しそうな様子のまま歩みを速めた。
店のドアには、お洒落なフォントで店名が刻まれていた。英語ではないような気がする。なんという名前なのだろう。少し考えていると松本が「こんばんはー」と入って行った。まだ心の準備も出来ていなかった一花は「ちょ、待って」と慌てて追いかける。
店内は水無月が言っていたようにとても狭かった。テーブル席は二人掛けが二つ。あとはカウンター席が四つだけ。少し照明が暗いが、スッキリとしたシンプルな内装である。流れている曲はジャズだろうか。どうやら静かに酒を楽しむのがコンセプトのバーのようだった。
テーブル席はすでに埋まっており、空いているのはカウンター席のみ。そのカウンターの向こうには当然のことだが、見たくもなかった顔がある。
「二人なんですけど、大丈夫ですか?」
松本の暢気な声に彼女は「カウンター席でよろしければ、どうぞ」とさして愛想が良いとも言えない態度で答えた。その視線が松本から一花に向けられる。しかしそこに驚きはない。
「如月? こっち座れって」
「ああ、うん」
一花は頷き、松本の隣に座った。目の前には澄ました表情の秋山が立っている。まるで一花のことなど知らないように。その態度や表情が職場での水無月と重なって、なぜか嫌な気持ちが広がっていく。
「何にします?」
「あー、なんか適当にお任せしていいですか? オススメを」
「そちらは?」
「……わたしも、一緒で」
「わかりました」
そう言って彼女は無表情にカクテルを作り始めた。秋山は無愛想で、特に客を楽しませようという様子もない。それでも松本が話しかけると会話が途切れないように上手い返しをしているあたり、高校時代の彼女とは違うように思う。
――恥ずかしくない? 人前でああいうことして。
彼女の声を聞いているうち、記憶の底に押し込めていた言葉が蘇ってくる。
松本が笑う。しかし彼女は笑わない。ただ薄く口元に笑みを浮かべるだけだ。一花は知っている。彼女のその笑みには何の感情も込められていないことを。
――理解できない。わたしには。
容赦なく蘇ってくる彼女の声が忘れていた嫌な気持ちを呼び起こしていく。彼女がそう言うから外で水無月と二人で会うのが怖くなった。誰かに見られて、また同じことを言われたらと思うと怖かった。
――来るんじゃなかった。
ここに来れば水無月がいる。そう思っていたのに彼女の姿はない。代わりに会いたくもなかった人間がいる。声も聞きたくなかった相手が。
一花は息を吐いて狭い店内を振り返った。テーブル席の客はいつの間にか帰ってしまったようだ。あっちに移ってしまおうか。そしてもう少し水無月を待って、それでも来なければ――。
「――叶向は来ないよ」
その声に一花は思考を止め、ゆっくり視線を戻した。気づけば、いつの間にか隣の席にいたはずの松本がいない。
「彼ならトイレ。けっこう強めのカクテル出してたから、そろそろ限界なんじゃないかな」
「そう、ですか……」
「あんたは全然呑んでくれないけど」
その口ぶりから、おそらく秋山は一花のことを覚えているのだろう。彼女の声は、変わらず一花の心をかき乱す。
「叶向がこの店を教えたのは知ってたけど、なんで来たの?」
秋山は洗ったばかりのグラスを丁寧に拭きながら淡々と続ける。
「あんた、わたしのこと嫌いでしょ」
「別に、そんなことは――」
「わたしは嫌い」
コトッと彼女はグラスを置いた。
――あんたのことが嫌い。
そう言われたのは夏休みが始まる前くらいだっただろうか。帰り道に偶然会った彼女は一花に水無月とのことを聞いた後、唐突にそう言った。
「……それは、わたしが水無月と一緒にいるから?」
手元に視線を落としながら声を振り絞る。すると彼女はなぜか笑った。
「なにそれ」
そして少し間を置いてから「ああ」と納得したように続ける。
「もしかして、昔わたしが言ったこと? だったら違うよ。あのときはこう言ったはず。叶向と一緒にいて何をしたいのかわからないあんたのことが嫌い」
「秋山さんのそういう回りくどい言い回しが嫌い」
思わず口をついて出てしまったのは、多少なりともアルコールが入っているからだろうか。
「ふうん、そっか。わかった」
秋山は苛立った様子もなくそう言うと「それじゃ今日は簡潔に言う」と続けた。
「あんたさ、見せつけに来たの? 叶向に」
「え……?」
何を言われたのかわからずに一花は顔を上げた。秋山は冷めた表情で松本が座っていた席に視線を向けた。
「自分は今この男と付き合ってるって見せつけに来たのかって聞いてるの」
「付き合……? ち、違う! そんなんじゃない。松本と来たのは、ここに一人では来たくなかったからで……。わたしは誰とも付き合ってなんか――」
「ふうん? 今までは?」
「今まで?」
「高校を出てから今までは? さすがに誰とも付き合ってないなんてことないんじゃない?」
「……そんなこと、秋山さんには関係ない」
「そうだね。関係ないし、微塵も興味ない」
「だったら――」
「でも叶向は違う」
突然出てきた水無月の名前に一花は思わず言葉を呑み込んだ。秋山は「あの子は、違う」と悲しそうに繰り返した。
「叶向、たぶん今の仕事辞めると思うから」
「え! なんで!」
「決まってるでしょ。あんたと一緒にいるのがしんどいからだよ」
「わたしと? なんで……」
「なんで? そんなこともわかんないの?」
「だって水無月は何も言ってくれない。話もしてくれない。それなのに、わかるわけない……」
それでもきっと秋山にはわかるのだろう。彼女は一花よりもずっと水無月のことがわかっている。それは高校時代から変わらない。
一花は目の前に置かれた真っ青なカクテルが注がれたグラスを見つめる。
――ズルい。わたしには、何もわからないのに。
沸々と沸いてきた嫌な感情は一気に溢れ出していく。一花はグラスを見つめたまま短く息を吐き出した。
「――秋山さんは、水無月と付き合ってるの?」
「付き合ってない」
「でも水無月は秋山さんのことが好きなんじゃないの? だから水無月のことよく知ってる。きっと水無月は秋山さんには何でも話すんでしょ? ああ、そうだ。もしかしたら高校時代から――」
「ウザい」
心からの嫌悪が込められた声に一花はビクッと言葉を止めた。
「わたしは叶向とは付き合ってない。そんな気持ち、微塵もないし叶向もわたしのことなんか好きじゃない」
しかし彼女は水無月と抱き合っていた。水無月は一花以外の誰かに触れられるのを嫌がっていたはずなのに。
「まあ、身体の関係はあるけど」
「え……」
思いもよらぬ言葉に一花は目を見開いて顔を上げた。彼女は無表情のまま、ケースから煙草を一本取り出した。
「わたしは叶向が求めるものを拒まないって決めてるから。ま、叶向以外はお断りだけど」
カチッと秋山がライターを鳴らす。しかし火はつかない。
「じゃあ、やっぱり水無月は――」
「でも叶向が求めてるものはわたしじゃない」
カチッと再びライターが鳴る。微かに焦げたような匂いが漂ってきた。
「わたしは叶向が求めてるものの代わりをしてるだけ」
「代わり……?」
わからない。では、彼女は何を求めているのだろう。
水無月は一花のことを避けている。友達にもなれないと言っていた。だからきっと、彼女が求めているのは一花でもない。
「高校時代、あんたはどうして叶向と付き合ったの?」
秋山は点かないライターを諦めてマッチを取り出した。
「……水無月が、付き合おうって言ったから」
「じゃあ、どうして断らなかったの?」
――どうして。
何かが変わるかもしれないと思ったからだ。同性と、いや、水無月と付き合えば何かが分かるかもしれない。そう思ったから。
「なんでキスされたときに拒まなかったの?」
「それは……」
嫌ではなかったからだ。むしろ、もう少し彼女に近づきたいと思った。そうすれば欲しかったものが手に入るような気がしたから。
「あのとき、あんたが叶向を拒んでたらあの子もこんなにしんどい想いしなくてもよかったかもしれないのにね」
「――なんで?」
「なんでって、そんなこともわかんないの?」
呆れたような声に苛立ちが含まれているのがわかった。一花は顔を俯かせる。
「わからないよ……。わかるわけ、ない」
彼女は深くため息を吐いた。
「ほんっとめんどくさい。あんたさ、あのとき叶向のこと好きだった?」
――わからない。
「今は? 今は叶向のことどう思ってるわけ? 好きなの?」
わからない。今も昔も彼女を束縛したいと思ったことはない。キスをしたいとも思わない。身体の関係をもちたいと思ったこともない。それでも一緒にいたいと思ってしまうのだ。誰よりも彼女の隣にいたい、と。
その気持ちは高校時代から変わっていない。しかしその気持ちが何なのか、今も昔もわからないままだ。じっと俯いたまま答えないでいると、彼女は「やっぱりわたし、あんたのこと嫌い」と高校時代と変わらぬ口調で言った。
「十年経っても何も変わってない。あんたがしてることは叶向を傷つけてるだけだよ」
「……水無月が苦しんでるのは、わたしのせい?」
「そう」
「最近、水無月の様子がおかしいのも?」
「あんたのせい」
そんなつもりは微塵もなかった。自分の言動が彼女を傷つけているなんて思いもしなかった。その理由だってわからない。
「どうしたらいいの?」
一花は顔を上げる。秋山はただ無表情に一花のことを見つめて「自分で考えれば?」と肩をすくめた。
「わたし、嫌いな奴に助言できるほど人間できてないから。知ってると思うけど」
「……話を、したい。水無月と。ちゃんと昔のことも、今のことも」
「すれば?」
「でも、避けられてるから」
きっと話をしたいと言っても彼女は拒否するだろう。ふいにマッチを擦る音がした。火薬の匂いが鼻を刺激する。そして香ってきたのは、いつだったか水無月から香ったのと同じ煙草の匂い。
「――この店に通ってれば、そのうち来るかもね。叶向も」
一花は目を丸くして彼女を見つめた。
「……いいの? ここに来ても」
「ちゃんと注文してくれるなら。でも叶向、最近は店に来るの遠慮してるみたいだからいつ来るかわかんないよ?」
嫌な顔もせずに彼女は言う。水無月のこともわからないが、秋山のこともよくわからない。
水無月と秋山はよく似ていると思う。しかし秋山は水無月と違って他人を寄せつけない。何かを求めたりもしない。だから苦手だった。だから嫌いだった。自分とは違う彼女のことが。
今だってそうだ。彼女のことは嫌いだ。自分よりも水無月のことをよく知っている彼女のことが。
煙草を吹かす彼女をじっと見つめていると、ふとその後ろの壁に貼られたポスターが目に留まった。それは、いつの間にか終わってしまった今年の花火大会のポスター。
――浴衣、選んでくれるって言ったのに。
あの花火大会の日にした約束は未だ果たされないまま記憶の中に残っている。思えば、あの日から水無月の様子は少し変わった気がする。
水無月が求めているものは一花と同じものだと思っていた。だけど違った。そのことに今まで気づかなかったわけではない。ただわからなかったのだ。わからないから考えないふりをしていた。
――ああ、だから。
一花が考えず、受け止めることもせず、ただフラフラと逃げていたから水無月は離れてしまったのかもしれない。そして秋山は逃げることもなく水無月のことを受け入れた。水無月と向き合い続けた。だから今、彼女の隣には水無月がいる。
――間違えていたのは、わたし。
「如月……。俺、もう帰るわ」
ようやくトイレから出てきた松本は、真っ青な顔で言って会計を始めた。
「タクシー呼んであげるから少し待って」
「あー、すんません」
「あんたは? 一緒に帰るの?」
秋山がどこか挑発的な視線を一花に向けた。一花はそんな彼女をまっすぐに見返して首を横に振る。
「まだもう少し、ここにいる」
――水無月が来るまで。
「今日は来ないと思うけどね」
彼女はつまらなさそうな表情でそう言うと、松本に荷物を持たせ始めた。
灰皿に置かれた煙草から水無月と同じ香りが緩やかに立ち上っている。その香りが一花の全身に染みつくまで待ってみたものの、秋山が言うとおり、彼女が店を訪れることはなかった。




