やりなおし
年末の追い込みが始まった十二月後半。会議室では週末ミーティングが行われていた。一花は報告された懸案事項をまとめながら視線を水無月へ向ける
。彼女は無表情に報告を聞いている。いつも通りに。
――もう、終わらせるつもりだったのに。
電話で彼女の気持ちを聞いてから一ヶ月と少し。未だに一花は何も返事をしていないままだ。職場でも必要なこと以外は喋らない。メッセージもあのデートの日から一度も送ってはいなかった。そして水無月からもメッセージは届かない。二人のトークルームは止まったままだ。
――ちゃんと、か。
一花はキーを打ちながら考える。彼女は言った。昔のような遊び半分の関係ではなく、ちゃんと付き合いたい、と。
一花にとっては高校時代の水無月との関係だって遊び半分ではなかった。特別なものだったのだ。
水無月のことをもっと知りたい。
彼女に対する自分の気持ちが知りたい。
だから彼女のそばにいたい。
彼女の笑顔を見ていたい。
そう思っていたのに彼女は言った。一花がそばにいると変になる、と。だからあの日、彼女は自ら嫌われるために心にもないことをしようとしたのかと思っていた。しかし、どうやら違ったらしい。あれが今でも変わらない彼女の本当の気持ち。
彼女は恋愛感情もないのに一花に触れたいと思ってしまう自分の気持ちに苦しんでいた。決して、一花のことを嫌っていたわけではなかったのだ。
――それで秋山さんは。
ようやく一花は理解した。今も昔も、一花のしていることは水無月を傷つけていると言った秋山の言葉。それは何も知らない一花が自分の気持ちだけで水無月のことを考えていたからだ。
自分がいるせいで水無月が苦しむのなら水無月と距離を置けばいい。そんな浅はかな考えしか持てなかった高校時代の一花はそれが最善と考え、ちょうどタイミング良く告白してきた小野寺と付き合うことにした。
それで水無月に笑顔が戻るのなら。そう思っていたのに。
一花は再び視線だけを水無月に向ける。彼女は澄ました表情でノートパソコンに何か打ち込んでいるようだった。そんな彼女の表情はなぜか穏やかだ。まるで何かに安心したような、そんな風に見える。
それは高校時代、図書館裏の公園で一花に寄りかかってきた彼女の表情にとてもよく似ていた。
「では、仕事納めまでに解決できる懸案は各自対応するように。来年に持ち越しになるものは対応時期を明記して報告してください」
ふいに聞こえた坂田の声に一花は我に返る。気づくと会議はすでに終わっていた。それぞれ席を立って会議室から出て行っている。
「如月。その懸案ファイルは共有設定にして作業フォルダに入れといて。みんな、それに入力していくから」
「え、あ、はい……」
――どうしよう。
坂田に返事をしながら心の中で焦る。途中からほとんど会議の内容を聞いていなかった。当然、その間に出た懸案もまとめられていない。
会議室から全員が出て行ったあとも一花は焦りながら手元を見つめていた。
いや、焦ったところでどうしようもない。素直に坂田に謝って、そしてもう一度みんなに聞いて回るしかない。これでまた自分の評価が下がってしまうだろうが自業自得だ。
一花はため息を吐いて顔を上げる。そして「え……」と思わず声を漏らした。誰もいなくなったと思っていた会議室。しかし向かいの席には、まだノートパソコンを広げて座っている女性が一人。
「――水無月?」
名前を呼ぶと彼女は澄ました表情のままノートパソコンを手にして席を立った。そして一花の隣に座ると自分のノートパソコンを一花のものと並べて置く。
「えっと……。メモ書きだけど、良かったら」
彼女は迷うように口ごもりながらそう言った。見ると、彼女のノートパソコンにはメモアプリに懸案事項や会議内容の要点が箇条書きされている。それはまるで議事録の下書きのようだった。
「え、なんで。だってこれ、水無月がやることじゃないでしょ」
「まあ、なんとなく……。必要ないようだったら別にいいんだけど」
彼女は困ったように笑ってパソコンを閉じようと手を伸ばす。その手を一花は「待って!」と慌てて掴んだ。
「いる。必要。めっちゃ必要」
「だと思った」
水無月はフッと笑うと手を下ろす。
「なに? だと思ったって……」
「だって如月、途中からぼんやりしてたから」
「――誰のせいだと思ってんの」
一花は小声で呟きながら水無月のメモから懸案事項だけを抜き出して一覧に追加していく。
静かな会議室にはカタカタとキーボードの音だけが響いている。居心地が悪い。横目で見ると、彼女はじっと一花のことを見つめていた。
「……あんまり見られるとやりづらいんだけど」
「ごめん」
「いや、別に謝るほどのことでもないけど」
「ぼんやりしてたのって、わたしのせいなんでしょ」
水無月の言葉に一花は手を止めた。そして小さく「まあ、うん」と頷く。
「困らせてるよね」
「うん。困ってる」
「そっか」
それきり水無月は黙り込んでしまった。一花は再びキーを打ち始める。
――ああ、嫌だな。
この沈黙が嫌だ。水無月がこんな風に黙り込んでしまうのが嫌だ。水無月とは、こんな気まずい雰囲気を作りたくないのに。
「もし、わたしのことがもう嫌だったら――」
「嫌」
彼女の言葉を一花は遮った。水無月は驚いたように目を見開き「そう、だよね……」と力なく項垂れる。一花はすべての項目を打ち込み終えてから水無月へ顔を向けた。
「嫌だよ。そんな水無月は」
彼女は心細そうに眉を寄せている。そんな彼女を見つめて一花は微笑む。
「わたしに嫌われるはずだって、そう思ってる水無月が嫌」
「え……」
「そうやってわたしの気持ちを勝手に決めてる水無月が嫌」
「でも、聞いたでしょ? わたしは如月とさ――」
「好きじゃないけどしたいって?」
水無月は大きく目を見開いてドアの方へ視線を向けた。
「……ここ、職場だよ。如月」
「誰もいないから平気。盗聴器だってないよ。多分」
「多分って」
不安そうな様子で水無月は左右に視線を向ける。一花は「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「いや、大丈夫かもしれないけど――」
「わたしは水無月のことを嫌いになったりしないから大丈夫。そんなことで嫌いにはならない」
言いながら一花はテーブルに置かれていた水無月の手に自分の手を重ねた。水無月は戸惑ったように一花を見てくるが、その手を払いのけようとはしなかった。
「……如月、嫌じゃないの?」
「嫌じゃない」
「でも困ってるって」
「困ってる。ちゃんと付き合うってどうしたらいいのかわからなくて、すごく困ってる」
一花は水無月の手を握った。彼女の手は冷たい。
水無月は一花の手を見つめ、そしてようやく理解したように「それって……?」と顔を上げた。
一花は答えず、ただ笑みを彼女に向ける。そして「あ、でもね」と彼女の指に自分の指を絡めながら付け加える。
「水無月のこと嫌いじゃないけど、嫌なことはある」
「え、なに?」
「秋山さん」
彼女の手に力が入った。水無月は「やっぱり、美守のことが嫌なの?」と視線を俯かせる。
「うん。だからさ、もう秋山さんとは……」
一花が言葉を止めると彼女は不安そうに顔を上げた。一花は少し身体を寄せて彼女の耳元に口を寄せる。
「一緒に寝ないで欲しい」
そう囁くと、水無月は呆然とした様子で動きを止めた。そして深く息を吐き出す。おそらく一花が別のことを言い出すのではないかと思ったのだろう。彼女は息を吐きながら乾いた声で笑い出す。
「寝ないよ。もう、そんなことはしない」
「当然だよ。だって水無月と付き合ってるのはわたしだからね」
しかし水無月は答えず、ただ不安そうに一花を見てくる。
「わたしは水無月なら嫌じゃないよ。あのときだって嫌じゃなかった」
「じゃあ、なんで……」
言って彼女は視線を逸らし、俯いた。
「なに?」
一花は問う。すると彼女は「なんで、小野寺と付き合ったの」と消え入りそうな声で言った。
「あのとき付き合ってたのは、わたしだったはずなのに」
どこかで聞いたことのある言葉だ。一花は少し考えてから、あのデートの日に自分が言った言葉だと思い出す。
――そっか。
あのときの水無月は、きっとあんな思いをしていたのか。あんなに悲しくて苦しくて、そして腹が立つような思いを。だから彼女は……。
「水無月が言ったんだよ」
一花は当時のことを思い出しながら答える。
「わたしといると変になるって。だからだよ」
「だから……?」
「そう。あれは水無月の為だった」
ただし、一花が勝手に決めつけた押しつけがましい『水無月の為』だ。
水無月は何も言わず、ただギュッと一花の手を握る。そのとき、ふいに会議室のドアが開いた。反射的に二人はバッと手を離す。
「なんだ、まだここにいたのか」
そう言って顔を覗かせたのは坂田だ。彼は二人を見ると怪訝そうな顔をしてから「如月」とその視線を一花に向けた。
「は、はい?」
「みんな、ファイルを待ってるんだが?」
「あっ! はい! すみません。いま上げます。すぐに!」
「それと、早く席に戻って仕事してくださいよ?」
彼はそう言うとドアを閉めて出て行った。一花と水無月は顔を見合わせ、そしてどちらからともなく笑い出す。
「あー、よし。仕事しよっか」
笑いを残したまま、一花はファイルをアップロードしてノートパソコンを閉じる。
「そうだね」
答えながら同じようにノートパソコンを閉じる水無月は、しかしまだ不安そうだ。一花はそんな彼女を見つめて「……ちゃんとってさ、どうやるの」と訊ねた。立ち上がりかけていた水無月は「え?」と首を傾げる。
「どうって……」
「ちゃんと付き合うって、まずは何をするものなの? キス?」
「違うと思う」
「違うんだ?」
「違うよ。普通はやっぱり、デートなんじゃない?」
水無月は眉を寄せながら言った。
「ちゃんとしたデート?」
「そう。ちゃんとしたデート」
「ふうん」
一花は少し考えてから「じゃ、やろうよ。今日」と言った。
「今日?」
目を丸くする彼女に一花は笑って「うん。今日」と頷く。
「どこにしようかな。疲れてるから近いところで、給料日前だから安く済むところがいいな」
「えー、そんなデートある?」
水無月は苦笑しながらも「あ、だったらあそこがいいんじゃないかな」と言った。
「どこ?」
「この会社の近くにあるファストフードのお店」
「……そこって」
「行こうよ」
言いながら彼女は一花の手を握った。
「ちゃんと、やり直そう? 初めてのデート」
彼女の手はもう冷たくはない。柔らかくて温かな手は昔から知っている水無月の手。一花は笑って「わかった」と頷いた。そして二人で見つめ合い、笑みを浮かべる。
「仕事しよっか」
「そうだね」
「手、放してくれないと部屋から出られないよ?」
「そうだね」
しかし水無月は手を放そうとはしない。むしろ逆に強く一花の手を握ってくる。
「水無月?」
「……一緒に行く? ファストフードのお店」
まるで何かを怖がっている子供のような表情で彼女は言った。一花は「それはちょっと無理かな」と苦笑する。そして少し考えてから続けた。
「じゃあ、こうしよう。先に退勤した方が店に行って席をとる。昔と同じ席じゃないとダメだからね」
「二階のカウンター?」
「そう。ちゃんとまったく同じ席で、二人があのとき頼んだのと同じセットを頼んで待ってること」
「……それ、わたしが先に退勤するってわかってて言ってるよね?」
「言ってる」
一花が頷くと水無月は吹き出すようにして笑った。そして「わかった」と手を放す。
「ちゃんと待ってる」
「何か一つでも間違ってたら帰るから」
「うん。いいよ」
水無月は頷くと少し名残惜しそうな表情を見せながらも会議室から出て行った。
――ほんとに覚えてるのかな。
今まで一花は忘れたことがなかった初めてのデートの場所。一花にとっては大切な思い出の場所。しかし水無月にとっては日常の一コマに過ぎない出来事だろうと勝手に思っていた。
もし水無月が何かを間違えていたら、きっと彼女はまた自分を責めてしまうのだろう。一花に嫌われるのではないかと彼女らしくない表情を見せて。
「――わたし、ズルい奴だな」
まるで水無月を試すようなことをしている。新しい関係を築きたいと言っている彼女に、昔の関係で築いた思い出を捨てるなと言っている。
それでも高校時代の思い出を捨てることはできない。あの頃の思い出は一花にとって、とても大切なものなのだから。
一花はため息を吐くと会議室の電気を消してドアを開けた。
すっかり日が暮れた十九時過ぎ。一花はゆっくりとした足取りでファストフード店へ向かっていた。
雪でも降るのだろうか。肌を刺すような冷たい空気に胸元で腕を組んで首を竦ませる。
水無月が会社を出たのは今から三十分ほど前のこと。スマホを見ても彼女から連絡は何も入っていない。本当にファストフード店にいるのかどうかすらもわからない。一花も連絡をしていないので水無月だって同じ不安を抱えているのだろう。果たして一花が本当に店に来るのかどうか、と。
夜のファストフード店はさほど混まないのか、客の数は昼間ほどではなかった。いらっしゃいませという声を聞き流しながら二階へ続く階段を上る。高校生のグループでもいるのだろう。ワッと盛り上がる声が聞こえた。
一花は階段の途中で立ち止まると一つ、大きく深呼吸をする。そして「よし」と小さく気合いを入れると階段を上りきった。
フロアにはやはり高校生が多いようだ。制服姿で楽しそうに談笑しているグループがいくつかある。そんな中、窓際のカウンター席に座っているのは一人だけ。
五つある席のうち真ん中に座っているのは大人の女性だ。一花はその場から動かず、彼女の背中を見つめた。
彼女の右隣の席にはトレイが置かれている。そういえば、あのときも水無月が先に注文を済ませて席をとっていたなと思い出す。一花の席に自分が頼んだセットのトレイを置いて。
一花は微笑む。そこに座る彼女の背中は昔と変わりない。一花のことを待つ、彼女の背中だ。
「お疲れ、水無月」
一花は足を踏み出し、声を掛けながら彼女の隣に座った。水無月はカウンターに頬杖をついて「遅い」と微笑む。
「ポテト冷めちゃったよ」
「いいよ、別に。どうせすぐに食べるつもりじゃなかったし」
一花の言葉に水無月は不思議そうな表情を浮かべた。一花はそれには答えず、彼女の前に置かれたトレイを見ながら「先に食べてくれても良かったのに」と続けた。すると水無月は「あのとき、わたしが先に食べてたら如月怒ったでしょ」と頬杖をやめる。
「えー、そうだったかなぁ」
一花は笑って言いながら水無月のポテトに手を伸ばした。それに気づいた彼女はそっとトレイ同士をくっつけるようにして一花のポテトに手を伸ばす。あのときのように。
一花はポテトを食べながら彼女が頼んでくれたセットメニューを眺める。
「……合格?」
ふいに水無月が笑みを浮かべて首を傾げた。一花は「まあ、合格かな」とカウンターの上に置かれた水無月の手に触れる。水無月は驚いた様子も見せず、今度は素直に指を絡めてくる。
「……これはやらなかったよね」
水無月がドリンクを一口飲んで言う。
「そりゃ、これは今のわたしたちのデートだからね」
「そっか」
彼女は嬉しそうに微笑むとドリンクのカップを置いた。ジャラッとカップの中の氷が崩れたように鳴る。水無月は絡めた指に少し力を入れると「職場の誰かに見られちゃうかもよ?」といたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「金曜日の夜、仕事終わりに会社近くのファストフードで夕飯を食べる大人なんていると思う?」
「いるじゃん、ここに」
「いるね」
一花と水無月は同時に声を上げて笑う。そして窓から見える街並みを眺めた。商店街の灯りはクリスマスバージョンなのか、妙に煌びやかだ。
「――よくとれたね。この席」
「ん?」
「この時間帯、高校生多いのに」
「ああ、うん。先客はいたけどね。ずっと後ろに立って待ってたらどいてくれた」
「……怖っ」
「如月との約束を守れない方が怖い」
水無月はキッパリとそう言った。一花は「ふうん」と笑みを浮かべてポテトを一本つまむ。
「ハンバーガーは食べないの?」
水無月の問いに一花は「まだね」と答える。
「なんで?」
「夜は長いから」
水無月は不思議そうに首を傾げる。一花は窓の外に見えるファストフード店の看板へ視線を向けた。その看板には二十四時間営業の文字。水無月は一花の視線を追うと「――如月」と口を開いた。
「ん?」
「何時までここにいるつもり?」
彼女は苦笑しながら一花に視線を戻した。
「店員さんに注意されるまで、かな」
「注意されなかったら朝までオール?」
「明日は休みだしね」
すると彼女は声を上げて笑い、嬉しそうに一花のことを見つめてくる。
一花は目の前のトレイに視線を向ける。ハンバーガー、ポテト、ドリンク。あのときはこれを食べたらすぐに帰ってしまった。たいした会話もしないまま。だから今度は……。
「一緒にいようよ。今日はずっと」
「ずっと?」
「うん。いっぱい水無月のこと知りたい。教えてくれる?」
すると彼女は一瞬迷ったような表情を浮かべた。そして「いいよ」と柔らかく微笑む。その表情にほんの少し引っかかるものを感じてしまう。
「んー、何から話そうかな」
ポツポツと自身のことを話し始めた彼女の表情は穏やかだ。一花は話を聞きながら水無月の手をギュッと握る。それに応えるように彼女も絡めた指に力を込めた。
――今は、まだ新しく始まったばかり。
一花は彼女の手を握りながら思う。いきなり何もかも打ち解けることができるわけもない。これから少しずつ、前へ進んで行けばいい。
「聞いてる? 如月」
ふいに水無月が不満そうに一花へ顔を向けた。一花は頷く。
「聞いてるよ。あ、言っとくけど秋山さんとイチャついた話は聞きたくないからね?」
「大丈夫。そんな話はない」
彼女は苦笑すると、言葉を探すようにしながら話を続けた。その間も彼女は強く一花の手を握ったまま放さない。それはまるで必死に何かを放すまいとしているかのようだった。




