第十一章 みっつめのちから
「ちょっ、ちょっと!」
これ、一体どういうこと? わけが分からない。
「何これ? どうして幻想魔法が、あたしなの?」
「まほうしょうじょ、クルクル。……のぞみ」
うーたんがあたしを見つめた。
「げんそうまほう、のぞみ」
「え?」
「げんそうまほう、のぞみじしんつくりだした」
「な、何それ。あたしが? 意味分かんないよ?」
「さあ」
うーたんは大きく息を吸いこんだ。
「まほうしょうじょ、クルクル。げんそう、きえた。もう、かえる。そしていま、しんじつ、みる」
いつの間にか辺りには濃い霧が立ちこめていた。うーたんの姿が徐々に霞んで見えなくなる。あたしは怖くなってきた。
「うーたん! はるか!」
「のぞみ!」
はるかが駆け寄ってきて、あたしの手を取った。
霧が晴れた時、あたしとはるかは元いたリビングに戻っていた。
あたしたちは顔を見合わせ、そして辺りを見回した。部屋の様子にも別に変わったところはない。
「はるか。大丈夫?」
「う、うん……。のぞみは?」
「うん、平気だよ」
「……って、ちょっと、平気じゃないよ! 血が出てるじゃない!」
「え?」
そう言われて見てみると、腕から血が滲んでいた。綺麗に三つ並んだ、「魔法少女の印」から。それは何か鋭いもので腕に刻まれた、星形の傷跡だった。
「……のぞみ」
はるかが真剣な顔をした。
「あのさ、あたし、そういうの良くないと思うんだ。せっかく産んでもらったのに自分で傷つけるとかさ。あっ、もちろん、すごく辛い事があったんだよね? だからでしょ? それは分かるけど、やっぱり……」
あたしはすっかり困ってしまって、首をかしげた。
あたし別に、辛いことなんて、ないよ……?
その時だった。玄関の方でドアの開く音がした。
「あ、パパが帰ってきたみたい」
はるかがそう言っている間に、玄関からリビングに向かって足音が近づいてきた。
「はるか。いるのか?」
なんだか聞き覚えのある声。
「パパ、おかえりなさーい」
はるかがリビングのドアを開けた。
「ただいま。ん? お友達が来て……」
その言葉は途中でかき消され、部屋の中は静まり返った。
――部屋の入口に立っていたのは、あたしのお父さんだった。
「ここに来てたのか、のぞみ……」
お父さんはあたしと目を合わせようともせずにそう言った。冷静なふりをしてるけど、本当はものすごく慌ててるみたい。
「と、とにかく今、お母さんに電話するから……」
そそくさとスマホを取り出して電話をかける。
「――うん、大丈夫だ。とにかく送っていくから……」
お父さんは用件だけを伝え、さっさと電話を切った。
「……パパ」
はるかの声が、少し震えてる。
「じゃあ、じゃあのぞみが……。パパの娘なの? 向こうのお家の子……」
「ああ、そうだよ」
お父さんが気まずい様子で頷いた。
――何これ。
「パパの娘」ってなに? お父さんはあたしのお父さんだよ。あたしだけの。
「じゃあのぞみが、あたしの腹違いのお姉さんなんだね……」
「……ああ」
お父さんはあたしを見ようともしない。どうして? 久しぶりにあたしに会ったんだよ、お父さん。どうして何も聞かないの? 元気だったか、とか。どうして何も言わないの? 会いたかった、とか。
「のぞみ」
あたしの名前を呼ぶお父さんの声は、ちっとも嬉しそうじゃなかった。
「どうして黙って来たりしたんだ。お母さんが心配してるぞ。お父さんに会いたかったのか? それとも……、はるかに会いにきたのか? そういう時はまずお母さんに話して……」
それは突然のことだった。
お腹の底から笑いがこみ上げてきた。我慢しようとすればするほど、おかしくてたまらなくなる。あたしは吹き出した。そしたらもう耐えきれなくて、まるで爆発するみたいに大笑いし始めてしまった。
アハハハハハハハ!
急に大声で笑い出したあたしを、お父さんとはるかがギョッとして見つめた。
アハハハハハハッ! キャハハハ!
な、何コレ!
おもしろすぎでしょ! おかしくて笑い死にそう!
キャーッハッハッハ!!
あたしの甲高い笑い声がどこか遠くから響き、それをもう一人のあたしが静かに聞いている。
アハハハハッ! ハハッ!
もう無理ムリ! 笑い過ぎて息が苦し~!
ヒーッヒッヒッ!! アハハハハハ……
「の、のぞみ、どうしたんだ。大丈夫か……?」
お父さんがあたしに近寄り、肩に手を置いた。
その手を、あたしは振り払った!
「大丈夫なわけないよ!」
「…………」
お父さんはうなだれ、黙りこんだ。
うーたんが音も立てずにふわりとあたしの肩に乗った。その柔らかい感触に、あたしの怒りが爆発した。
「うーたんのウソつき! お父さんは世界のためにがんばってるって、うーたん言ったじゃない!」
「おとうさんはおとうさんのせかいのため、がんばる」
「そんな……、おかしいよ! お父さんはあたしのお父さんだもん!」
「おとうさん、はるかのぱぱになった」
「あたし嫌だよ! そんなの!」
「げんじつ、かえられる。でも、じじつ、かえられない」
「…………」
あたしは、あたしの身体の細胞の一つ一つが今、プチプチと音を立てて割れていくような気がした。まるでシャボン玉のように。
「まほうしょうじょ、くるくる」
うーたんは肩の上から降り、あたしの目の前に立った。プラスチックの瞳が真っ直ぐにあたしを見つめる。
「くるくる、いま、えらぶことできる」
「選ぶ? 何を……」
「まほうしょうじょ、じぶんじしんのため、こうげきまほうつかう。なににつかう、えらぶことできる。だれころす。なにこわす。えらぶことできる」
「誰を殺すか……? 何を壊すか……?」
「えらぶことできる」
「――そんなの決まってる!」
あたしは叫んだ。
「殺してやる!」
あたしは両手をかざした。その手の先には、お父さんがいる。
裏切り者。お父さんは、裏切り者だ。家族を裏切った。お父さんなんか殺してやる。そう、あの子も一緒に。そこはあたしの場所だよ。なんであなたがそこにいるの?
殺してやる。はるかなんかいなければいい。
あたしの身体から、青紫色の憎しみがじわりと吐き出された。そしてそれはマントになり、あたしを包んだ。頬に手をやれば、指先に触れるのは、氷のように冷たい仮面。
憎しみのマントを身につけ、怒りの仮面を被ったあたし。
――お父さんが憎い。はるかが憎い。息ができないほど憎い!
「太陽は天上で静止せよ。完全世界を照らせ。来たれ、大いなる正午よ……」
目を閉じ、ゆっくりと呪文を唱える。身体の中に力が湧いてくる。暗い、紫色の、渦巻く力が。
「メタモルフォーゼ=イントゥ=クルクル!」
閉じた瞼の内側で、紫色の光が煌めく!
「お父さんもはるかも……、死んじゃえ! スルピリド!!」
あたしは両手を高く掲げた!
指先から放たれた紫の光が、二人を目がけて飛んでいく!
やった。
あたしの放った攻撃魔法が命中し、大きな爆発音が響いた。辺りが煙に包まれる。
やった。あたし、二人を殺してやったんだ!
ゆっくりと煙が晴れていく。あたしはじっと目を凝らした。ところが……。あたしの目に映ったのは、二人の前に立ちはだかっているうーたんの姿だった。
「うーたん!? どうして……」
「わるいことば、わるいまほうになる。うーたん、のぞみにつかってほしくない……」
「……!」
あたしは唇を噛んだ。今更遅いよ。何を言っても無駄だ。
「うーたんに何が分かるのよ!」
「うーたん、しってる。のぞみ、しってる。まほうしょうじょなるまえから、ずっと……」
「じゃましないでよ、うーたん!」
「うーたんほんとは、うーたんちがう……」
蛍みたいな小さな光の球が、うーたんの身体からふわりと離れた。そしてうーたんは、パタリと床に倒れた。まるでただのぬいぐるみみたいに。
そのかわり光の球はどんどん大きくなり、やがて、人の形のように見えてきた。一瞬、光が強くなり、あたしは眩しくて目を閉じた。再び目を開いた時、そこには――。見知らぬ少年の姿があった。
「誰……? あなた、うーたんなの……?」
少年はゆっくりと首を振った。そして、真っ直ぐにあたしを見据えた。
「僕の名は……『ファンタジー』。またの名を――幻想、妄想、空想、狂気。のぞみの好きなように呼ぶといい」
そう言うと、少年はあたしに向けて大きく両手をかざした。その指先に黒い炎が踊る! あたしはとっさに呪文を唱えた。
「アリ=ピプラ=ゾール!」
紫の光の盾が、あたしに向かって放たれた黒い炎を受け止めて鋭い音を立てた。
「魔法少女クルクル。僕と戦え」
「……!」
うーたん、あたしの敵に回る気なのね。
そうだ。始めから、うーたんだった。あたしに魔法のことを教えたのは、うーたんだ。ここまでずっと、あたしを導いてきたのは、うーたんだ!
――全部、うーたんのせいだ!
少年は穏やかな声で、歌うように呪文を唱えた。その手に黒い剣が現れる。剣を大きく振りかざし、少年はあたしに切りかかってくる!
もう一度、アリ=ピプラ=ゾールで防御した。だけど少年は構わずに黒い剣を突き立て、光の盾を破ろうとする!
「クルクル! 戦え、本気で!」
ダメだ。防御しきれない!
「リスペリド!」
紫の霧が辺りを包む。あたしがいったん身体を引くと、濃い霧の中でお互いの姿はすぐに見えなくなった。だけど勢いよく後ずさったあたしは、何かに足を取られ尻もちをついてしまった。まずい! 手に触れた物をとっさにを掴む。
次の瞬間、剣が風を切る音!
「ジア=ゼパム!」
手にした折りたたみ傘は姿を変え、煌めく剣となった。振り下ろされた少年の剣を、夢中で受け止める!
鋭い音を立て、二本の剣が重なった。
素早くいったん引き、そしてまた、お互いに斬りかかる!
――殺してやる。うーたんなんか、殺してやる!
何度も何度も、二本の剣はぶつかりあった。だけどどちらも決定的な一撃を放つことができない。
ダメだ。剣じゃ勝負がつかない!
「……太陽は天上で静止せよ。完全世界を照らせ! 来たれ、大いなる正午よ!」
呪文を唱えながら大きく身体を引き、いったん少年の間合いから離れた。
「スルピリド!!」
紫水晶の矢が空中に現れ、流星のように飛んでいった。だけど少年が呪文を唱えると、それは黒い炎に巻かれて消えてしまった。
「!」
魔法の力が足りないんだ!
どうしたいい。どうしたら、うーたんを殺せるだろう。
あたしが必死に考えている間にも、少年は呪文を唱えている。まずい!
「スルピリド!」
黒い炎と紫の光。二つの力が、あたしたちの真ん中でぶつかり合った。だけど……、
――苦しい!
力が全然違う。あたしはいとも簡単に押され始めた。紫の光が弱まっていく。そして黒い炎はだんだん大きくなり、あたしに向かってくる……。
あたしは力を振り絞り、必死に炎を押し戻そうとした。二つの力がせめぎ合う。だけどそうしているうちに、あたしはなんだか馬鹿らしくなってきた。
あたしどうして、うーたんと戦わなきゃいけないんだろう。どうしてこんなことになったんだろう?
こんなはずじゃなかった。あたしは、世界を救う魔法少女だったはずなのに。正義の味方だったのに。
「うーたん……」
あたしの頬を、涙が一筋伝った。
――違う。それこそが、幻想だったんだ。それが、「幻想魔法」の正体だった。正義のために戦う魔法少女。清く正しく美しい、「魔法少女」。全ては、あたし自身の歪んだ像から生まれたファンタジーだ。
だけど……。どうしてこんなことになっちゃったの? どうして? どうして? どうして?
炎が目の前に迫ってきた。苦しい。あたしの魔法の力じゃ、もう抑えきれない。
「のぞみ……」
絞り出すようなうーたんの声が、炎の向こうから聞こえる。そのとたん、身体の力がふっと抜けた。
ああ、そうだ。別にうーたんを殺さなくたって、いいじゃない。
誰を殺すか選ぶなら……。それが「あたし」でもいい。あたしは、あたしの幻想ごとあたしを殺してしまえばいい。どうしてすぐに気づかなかったんだろう。バカだな、あたし。それが一番スッキリするじゃない。
あたしは身体を楽にして、大きく両手を広げた。あたしの放った紫の光は消えてしまった。そして、襲いかかってくる黒い炎。怖い! あたしはギュッと目を瞑った。
恐るおそる目を開いた時、あたしは、目の前に立ちはだかるうーたんの背中を見た。黒い炎が、あたしたちを取り囲んで円を描くように渦を巻いている。うーたんは必死に呪文を唱えて炎を消そうとしていた。
「それだけは――ダメだ! のぞみ!」
「……どうしてうーたんがそんなこと言うの。あたし、好きに選んでいいんでしょ? 誰を殺すか」
「そうだ。そうだよ! だけど――。僕は、のぞみに、それを、させないため、存在、して、いる!」
黒い炎は消えていった。うーたんはようやく肩の力を抜き、振り返った。あたしの手を取って黒い剣を握らせる。
「さあ、魔法少女クルクル。君が殺すのは……、僕だ。そうすれば、君はもっと楽に生きていける」
――楽に、なれる?
あたしは思わず剣を握り締めた。
楽になれる。本当に? うーたんを殺せば?
あたし、もう嫌だ。何もかも嫌だ。こんな、悲しみだけで満たされた世界はいらない。もう嫌だ。あたし楽になりたい。
あたしは剣を構えた。うーたんはあたしの前に跪き、俯いた。
うーたん、あたしに殺されてくれようとしてる。分かってる。あたしはお父さんやはるかを殺しても楽にはなれない。うーたんもそれを知っている。だから自分を……。
「大丈夫――。涙、流れる。悲しみ、涙になって流れる。悲しみの河になる……。いつか海へゆく」
うーたんはあたしの顔を見上げ、勇気づけるように優しく微笑んだ。そして、そっと目を閉じた。
あたしは剣を振り上げた。
ぞんざいに放り投げた剣は、思いのほか軽い音を立てて転がった。
「のぞみ!?」
うーたんが咎めるように叫ぶ。
「あたし嫌だよ、うーたん」
「……だめだ、のぞみ。そうしなきゃいけない。自分を守るために」
「嫌だよ! ずっとあたしのそばにいてくれたのは……、うーたんだもん。うーたん言ったじゃない。魔法少女とマスコットはいつも一緒、二人で一つ、って……」
そう口にした時、あたしは初めてこの言葉の真の意味に気づいた。そして、あたしが間違ってないってことも。
そうだ。うーたんを殺すなんてダメだ。だってうーたんはあたしの――!
「僕は君に、お父さんもはるかも、君自身も殺して欲しくない。だから僕が……」
「もう一つは?」
「え?」
「うーたん言ったよね。破壊の魔法で誰を殺すか、何を壊すか選ぶことができるって。殺すんじゃなくて――、『壊す』ものは……」
「のぞみ!」
あたしにはもう分かっていた。
幻想と共に、汚れてしまったあたしの心。歪んだあたしの幻想世界。堕ちたあたしの正義。壊れてしまった、あたし。あたしのやってきたことに……、意味なんてなかった。
――あたし、もう、いらない。そんな世界は、もういらないんだ!
あたしは目を閉じた。そしてゆっくりと、呪文を唱え始めた。
「太陽は天上で静止せよ! 完全世界を照らせ! 来たれ、大いなる正午よ……!」
身体の中に、力が湧いてくる。
「メタモルフォーゼ=イントゥ=クルクル!」
閉じた瞼の内側で、紫色の光がキラキラと煌めく!
「あたしの魔法よ――、世界を壊せ! スルピリド!!」
あたしは両手を高く掲げた!
指の先から眩い光が放たれる。パパがはるかを庇ってうずくまるのが見えた。
全てが、壊れてゆく。全て砕け散り、金色に輝く欠片になってゆく。
世界が……。あたしの周りで、世界が、壊れてゆく。
静かだ。何も聞こえない。
あたしはそっと目を開いた。
真っ白。
辺りはただ、真っ白だった。光に満ちていた。どこから届くのかも分からない、柔らかくぼんやりとした光に包まれ、ただ一面、真っ白だ。何もない。何も。
ここはどこなんだろう。さっきまではるかの家にいたはずなのに、あたしどうしちゃったんだろう。
ああ、そうか。そうだった。世界が、壊れちゃったんだ。だからこんなに真っ白で空っぽなんだ。
――あたしが壊した。
あたしはもう一度辺りを見回し、そして深呼吸した。あたしの身体は真っ白い「無」の中を、ただふわふわと漂っていた。
暑くもなく、寒くもない。お腹も空いていないし、どこも痛くない。あたしもこの空間と同じ、「無」だった。あたしは空っぽだ。
――あたしこれから、どうしたらいいんだろう。
心の中で誰にともなく問いかけてみたけれど、あたしはすぐに、それがばかばかしい質問だと思った。答は分かりきってる。
――どうもしない。
どうかする必要なんてない。だってもう、世界は壊れちゃったんだもん。なあんにも、なくなったんだもん。だからどうにかする意味も、価値もない。そんなこと考えなくたっていい。
あたしは、あたしが失ってしまったもののことを考えた。今はもうなくなった世界のことを考えた。
壊れてしまったあたし。あたしが信じていた、歪んだファンタジー。価値も、意味もなかったもの。だけどあたしにとっては、とてもとても大切だったもの……。
今のあたしは不思議と穏やかな気持ちで、そのことを考えることができた。全てなくなってしまったけれど、同時に、ここには絶望もなかった。悲しみも、痛みも、もうここにはなかった。「価値」や「意味」は、いざなくなってみたら、辛いことや苦しいことも一緒に連れていってくれた。今のあたしの心は夕方の凪のように静かで、あたしの心臓は落ちついた心地よいリズムで鼓動している。
――心臓はあるのね。
あたしはふと思った。
胸に手をあててみると、やっぱりそれは動き続けていた。
――手。
手もある。あたしの手。
――だけどそれが何だって言うんだろう。
あたしはばかばかしくなって、胸から手を離した。どうだっていいことだ。
目を閉じて、ぼんやりと、半ば眠ったようにあたしは漂っていた。
「…………」
なんでだろう。
なんで、まだあるんだろう。あたしの手。心臓。
あたしはそっと目を開いた。目線を落とすと、そこにあたしの足があった。
そっと頭に手を触れてみる。あたしの髪。柔らかい。
――「あたし」は、確かにまだここに在った。
こんなに、なあんにもないのに。まだ「あたし」がいる。変なの。どうしてなんだろう。
あたしは両手をそっと目の前に持ってきた。じっと眺める。裏にしたり表にしたり、指を伸ばしたり、握ってみたり。
他にも何かあるかな。あたしはもう一度辺りを見回したけど、やっぱりどこまでも真っ白なだけだった。何にもない。ここに在るのは、あたしだけ。
――退屈だな。
何もしなくていい、っていうのは楽でいいけど。
そうだ。
何もしなくていいけど、それは逆に、何かしてもいいってことだ。つまり、自由だ。
あたしは足元に目を落とした。
すると――、いつの間にか、地面がそこにあった。
足を動かしてその上に乗せてみると、あたしの身体は漂うのを止めた。あたしの両足が、地面をしっかりと踏みしめている。
しゃがんで地面に触れてみる。真っ白い、さらさらの砂だ。あたしは両手で砂をすくってみた。指の間から砂がこぼれる感触が気持ちよくて、あたしは何度もそれを繰り返した。
そうだ。例えばこの砂で、お城を作って遊んだっていいんだ。それに意味なんかない。価値もない。ただ、面白いだろうから。そうしたって別にいいんだ。
あたしは顔を上げて空を見た。さっきまでどっちが上か下かも分からなかったけれど、今は地面があるから空もある。
空はやっぱり真っ白だった。でも、それは確かに空だった。
そう。例えば、この真っ白な空に綺麗な絵を描いたっていい。
「…………!」
あたしは思わず息を止め、大きく広く、何もないその場所を見渡した。
世界は壊れて、ここには何もない。何もないのに……、「あたし」が在る! そして、「自由」が在る!
「クルクル」
ふいに声をかけられて振り向くと、そこに、うーたん――少年の姿をしたうーたんがいた。あたしとうーたんはしばらくの間、無言のまま見つめ合った。
「魔法少女、クルクル」
うーたんはゆっくりと、言葉の一つ一つを噛みしめるように言った。
「……太陽、昇った。世界、壊れる時、来た」
「始めにうーたんが言った通りになったね。『世界が壊れる時が来る』って」
あたしはせせら笑った。
「あたし、ぜんぶダメにしちゃったんだね……」
だけどうーたんは静かに首を振った。
「違う。ダメじゃない。世界、壊れる。何度でも」
「え?」
「壊れる。そしてまた、産まれる」
「世界が、産まれる……?」
「そう。今が、その時! ――大いなる正午!!」
うーたんが、彼方を指差した。
誰かが歩いてくる。白い砂の上を、ゆっくりとした歩みで、あたしたちに近づいてくる。
「グラン・パ」
うーたんが呟いた。
あの人が、「グラン・パ」?
あたしは目を凝らしてその人を見た。近づくにつれ、姿がはっきりしてくる。それは真っ白でゆったりとした服を身に纏ったお爺さんだった。服と同じ真っ白で長い髪。そしてやっぱり真っ白いお髭。
この姿って……? もしかして……?
その人は穏やかな微笑を浮かべ、あたしの目の前に立った。無言のまま、優しい瞳であたしをじっと見つめている。あたしは思いきって聞いてみた。
「あの……。あなたは……、神様なの?」
「違う。彼は死んだ」
グラン・パは、柔らかい声でそう答えた。
「……神様、死んじゃったの!?」
「そうだ」
グラン・パはゆっくりと頷いた。
「神は死んだ。君も知っているはずだ」
――ああ、そうだ。
グラン・パの言う通りだった。
お父さんは、あたしの神様だった。お父さんを信じていれば、最後には全てよくなる。お父さんがそうしてくれる。お父さんさえいれば、大丈夫。あたしも、いつも優しい良い子でいられるように、正義の味方、魔法少女になってがんばる。お父さんを信じて、がんばる。悲しくても、寂しくても、大丈夫。お父さんが家族を守ってくれる。だってお父さんは、家族を愛してるんだから……。
信じていた。
だけどそれは、あたしの幻想の神だった。そしてその幻想は、今や粉々になってしまった。それは死んだのと同じことだ。
「神は死んだ。そして今は、『のぞみ』だけがここに存在している……」
グラン・パは呟いた。
「ねえ、グラン・パ。どうして? どうしてこんなことになっちゃったの? 何が悪かったの? どうして、悲しくて辛いことが起こるの? どうして? ねえ、どうしてなの……?」
グラン・パは、あたしの頭にそっと手を置いた。
「『三つの力』を、見つけたね」
「……はい」
拓海くんのママに見つけた、「体験する力」。それから、お姉ちゃん……、有須さんに見つけた、「創造する力」。それからもう一つは……?
「誰でも皆、三つの力を持つ権利がある。分かるかね?」
「はい」
「時々、誰かの力と誰かの力は、ぶつかり合う。それは、辛いことだ。苦しいことだ」
「どうしてそんな風になるの? どうして神様は、世界をそんな風に作っちゃったの?」
「それはね、人は誰も皆、自由だからだ。三つの力は、三つの自由でもある」
「自由……?」
「そう。自由。そして自由は、痛みや苦しみや孤独と兄弟なのだよ」
「…………」
あたしにもなんとなく分かる気がした。あたしは自分の両手を開いて、じっと手のひらを見つめた。今、あたしが持っているもの。世界が壊れても、最後に残ったもの。それは確かに、痛みや苦しみや孤独と強く結びついていた。
でも……?
「グラン・パ。あたし、三つ目の力をまだ見つけていません。あたし、それが何なのか、知りません」
「三つ目の力は……」
グランパは答える代わりに、ゆっくりとうーたんの方に振り返った。
「魔法少女クルクル。共存を、望むかね?」
「えっ」
「この者を、消すこと。この者と、共に在ること。どちらを望む?」
「消すか、ともに在るか……?」
「ダメだよ! のぞみ!」
うーたんがグラン・パとあたしの間に割って入った。
「僕がいたら、ダメだ!」
「それは、魔法少女クルクルが決めること」
グラン・パはうーたんを制した。
「さあ。良く考えて、選びなさい」
あたしは、じっとうーたんを見つめた。うーたんは祈るような目つきであたしに訴えかけている。その紫色の瞳が、まるで雨上がりのすみれの花みたいに輝いていた。もう、プラスチックの瞳じゃない。
「……共存を、望みます」
あたしはグラン・パにそう言った。声が少し震える。それでも、あたしは言った。
グラン・パは、厳しい顔であたしを見た。
「分かっているだろう。上手くいかないことも、辛いことも多い。それでも、望むかね?」
「はい」
「なぜ、そう望む?」
「あたしの、一部だからです」
グラン・パの目尻に皺が寄った。
「……良い子だ」
「のぞみ!」
うーたんの悲しげな声が響く。
「言ったじゃない、うーたん。魔法少女とマスコットはいつも一緒、二人でひとつ、って」
「だけど……! だめだよ、どうか考え直して!」
あたしは静かに首を振り、グランパの方に向き直った。そしてその目を真っ直ぐに見つめて、言った。
「考え直さない。あたしは、共存を、望みます。未来が過去に繋がって、世界が何度巡っても、いつかまた同じ選択をすることがあったとしても、何度でも、あたしの答えは同じです。あたしはあたしの答えを――、肯定します!」
あたしはうーたんに手を差し伸べた。うーたんはためらいながら、その手を取った。
「のぞみ――いや、魔法少女クルクル。今、三つ目の力見つけた……」
「三つ目の力って、何なの?」
「世界にどう臨むか、決める力」
「世界に、どう臨むか?」
「悲しいこと、あった。辛いこと、あった。どう、臨む? 何、望む? それ、決められる。自分で決められる。誰かに勝手に決められない」
「どう臨むか。何を望むか……」
腕に熱を感じ、あたしはそこに並んだ魔法少女の印に目を落とした。三つの魔法少女の印は虹色に輝き始めたかと思うと、皮膚に吸いこまれて見えなくなった。
「三つ目の力。最後の力。――魔法少女、最強の力!」
うーたんは、まだ泣きそうな顔のまま笑った。
「今、魔法少女クルクルに与える。『究極魔法』を」
「『究極魔法』!? 魔法は、攻撃魔法で終わりじゃないの?」
「終わりじゃない。攻撃、そして破壊。その後に来るものは……」
うーたんがそっと手のひらを差し出すと、そこに虹色に輝く魔法のタネがあった。うーたんに促され、あたしはそれを受け取って口に入れた。最後の魔法のタネは、口の中でシュッと溶けていった。
「究極魔法。創造の魔法……、『コギト・エルゴ・スム』!!」
「創造の魔法……? コギト・エルゴ・スム……?」
あたしは声に出して言ってみた。不思議な響きのその呪文は、弾むようにあたしの口から飛び出した。
「……あっ!」
真っ白い砂の地面から、何かが顔を覗かせた。近づいてよく見ると、それは小さな草の芽だった。芽は見る間に大きくなり、どんどん伸びた。何枚かの葉が現れ、まるで赤ちゃんが手のひらを開くように、小さな可愛いらしい花を咲かせた。鮮やかな黄色。この真っ白い世界で初めて産まれた、色だ!
「見て! うーたん!」
あたしが指差すと、うーたんも嬉しそうにその花を眺めた。
「のぞみ、立派な魔法少女になった。おめでとう」
「ありがとう、うーたん」
あたしたちは、じっと見つめ合った。
「そろそろ、時間だ。のぞみ。僕は、眠くなってきた……」
「……うん」
グラン・パが言った。
「では、この者はしばし眠らせておこう。必要な時にはいつでも目覚める。……良いかね?」
「……はい」
これでうーたんとお別れするわけじゃない。分かってはいても、少し不安だった。だけどそんなあたしの心を見透かしたように、うーたんは言った。
「大丈夫。のぞみは……、魔法少女だから。もう大丈夫だよ」
だんだんに、うーたんの輪郭がぼんやりしてくる。それがあたしの目に滲んだ涙のせいなのか、分からなかった。
最後に、うーたんの声が聞こえた。
「魔法少女とマスコット、いつも一緒。二人でひとつ……」
そしてうーたんは、光の球になった。
光の球は、あたしの鳩尾のところから身体の中に吸いこまれていった。
「グラン・パ……。もう行っちゃうの?」
いつの間にか、グラン・パの身体も眩い光に包まれている。あたしは目を瞬かせた。
「行くのは、君でも良い。魔法少女クルクル」
グラン・パがそう言って指差す方を見ると、そこにあるのは螺旋階段だった。ぐるぐると円を描きながら、遥かな高みへと向かってそびえ立つ螺旋階段。上の方は白く霞んでいて、一体どれくらいの高さなのか見当もつかない。
行くの? あたし。あの螺旋を登って。でも、どこへ? それに、登りきることができるんだろうか?
だけど……。行かなくちゃ、あたし。
――新たな世界を創造し、体験することを望むから。
「あたし、行くね。グラン・パ」
あたしはグラン・パに微笑みかけた。
「覚えておいで。三つの力は、三つの自由。そして……、三つの、生きる喜び」
「生きるよろこび……」
「そう。そして、辛くても悲しくても、誰も皆、三つの力を求める。それが、力への意思」
グラン・パは、あたしの背中を軽く叩いた。階段の一段目に足をかけた時、あたしはふと振り向いて尋ねた。
「ねえ、グラン・パ。あなたは……、誰なの?」
グランパの最後の言葉が、滑るように心地よくあたしの耳に届いた。
「私は、君の……、『生きる力』だよ」
その声はそう言った。グラン・パの姿はすぐに霧に包まれて、見えなくなった。
あたしは、灯台のてっぺんにいた。目の前は海だ。ずっと遠くまで広がっている。地平線が少しだけ、カーブを描いているように見える。学校で、地球は丸いんだって習った。でもあたしは今始めて、それを知った気がする。
地平線の向こうに沈もうとしている夕日に照らされた海は、金色に輝いている。カモメが一羽、あたしの頭上を通り過ぎていった。
何も変わらないように見える。でも、そうじゃない。
「行こうか、うーたん」
あたしは胸の中のうーたんに心で語りかけた。いつもあたしの隣に在る、あたしだけのファンタジー、うーたんに。そして最初の一歩を踏み出した。
世界は、壊れた。
そしてわたしはいま、あたらしいせかいにまいおりたところだ。




