Chapter 31 『承認欲求 IS DEAD』
雷鳴の、残響。
それが、旧世界の、最後の音だった。
その音を最後に、世界は、完全に、貫かれた。
色が、絵の具のように剥がれ落ち、
形が、熱した蝋のように溶け出し、
ただ、純粋な、方向性のない“音”だけが、後に残った。
イズナの瞳が、歪んだ鏡のように、激しく震えている。
彼女の、完璧だったはずの観測システムが、理解不能な情報量によって、完全にオーバーフローを起こしていた。
「……なにを、私は、見せられている…?」
空間が、崩れた。
時間が、その縫い目を、完全に失った。
芽衣子の身体が、ゆっくりと、しかし抗いようもなく、宙へと、浮かび上がる。
そこに、もはや、“視線”は存在しない。
イズナという、絶対的な観測者ですら、もはや彼女を“観”ることはできない。
見る者が、誰もいないのに、どこからか、純粋な光だけが、彼女の身体を、まるで聖骸のように、照らし出していた。
「もう、見られる必要なんて、ない」
緑の炎が、血のように、その色を、赤黒く変えていく。
その、冒涜的な炎の中で、「芽衣子」という名の輪郭は、形を失い、霧散していく。
そして、その代わりに、ただの“冥子”という、冷たい記号だけが、この世界の中心に、ゆっくりと、立ち上がった。
世界が、完全に、反転する。
全てのノイズが、意味を持った、祈りへと変わる。
――承認欲求 IS DEAD.
その、絶対的な宣告を最後に、
光も、音も、意味も、そして、観測という概念そのものも、全てが、静かに、息を、止めた。
【SOUND ON】
そして、音楽が、鳴った。
奏者は、いない。
この、崩壊した世界の、そのさらに奥の、魂の核のような場所から、
バッハの、フーガの断片のような、荘厳な旋律が、再生される。
いや、違う。その旋律は、録音されたものではない。今、ここで、生まれている。
しかし、その音階は、天に昇るのではなく、地の底へと、どこまでも、どこまでも、落ちていく。
音が、一つ落ちるたびに、世界の空気が、重く、重く、震えた。
やがて、その、荘厳だった旋律は、リズムだけを残し、一つの、巨大な“ベース”になった。
地の底で、うねる、巨大な心臓の鼓動。
ジャマイカの、深夜のサウンドシステムから鳴り響くような、重く、深く、そして、どこまでも身体的な低音が、この、完全に崩壊した空間の、破片と破片を、ゆっくりと、しかし力強く、縫い合わせていく。
その音は、壁を越え、
イズナの、データでできた骨を、直接叩き、
そして、宙に浮かぶ冥子の体の中で、彼女の、新たな心臓と、完全に、同期した。
「……聴こえるか?」
冥子の声が、その、重いベースラインの、裏側で、微かに、震えた。
旋律が、波打つ。
世界の色が、そのリズムに従って、明滅を始める。
緑と、黒。光と、闇。生と、死。
それらが、四拍子を取りながら、完全に、一つに、混ざっていく。
音は、もはや、ただの音ではなかった。
それは、“鼓動”であり、“存在”であり、
この、新しく生まれた世界が、初めて吸い込む、“息”そのものだった。
イズナが、見上げた。
天から降ってくる光が、もはやただの光ではない。音符のように、リズムを刻みながら、反転し、落ちてくる。
それは、叫びのようで、祈りのようで、そして、冥子の輪郭を、ゆっくりと、塗りつぶしていく。
【SYSTEM MESSAGE】
―― “反観測フーガ (Fuga of Anti-Observation)”
―― Performed by the World Itself
そして、この世界から、全ての「観測」という概念が、完全に、消え去った。
音が、完全に、止んだ。
何も、聴こえない。
けれど、耳の奥が、熱い。
鼓膜の、そのさらに裏側で、何か、巨大で、冷たいものが、ゆっくりと、こちらへ這ってくる、そんな気配がした。
イズナは、息を吸おうとして、空気の味を、忘れてしまったことに、気づいた。
口の中が、鉄のように、乾いている。
肋骨が、見えない力に軋み、肺が、真空に吸われたかのように、縮んだまま、戻らない。
「……反町、芽衣子…?」
そこに、いた。
だが、それは、もう、芽衣子ではなかった。
彼女の影は、光よりも、思考よりも、速く動いていた。
緑の炎が、まるで血管のように、彼女の身体の内側を這い回り、その骨の中で、何か、得体のしれないものが、生きている。
その顔は、笑っていた。
けれど、その笑いは、喜びでも、怒りでも、どんな人間の感情でもない。
ただ、“生きるという現象”、そのものが、彼女の顔を、内側から引き裂いて、笑っていた。
世界が、逆さまに、落ちていく。
土の匂い。
瓦礫の、冷たさ。
焦げた鉄と、湿った血の、あの懐かしいはずの味が、した。
イズナの喉が、ひくつき、声にならない、システムエラーのような音を漏らす。
「やめ…なさい…。私を、見るな…!」
だが、視線は、外れない。
イズナの、完璧だったはずの観測システムが、彼女自身の制御を離れ、目の前の、その“現象”に、勝手に、釘付けになってしまう。
その瞬間、冥子の瞳が、ゆっくりと、こちらを、向いた。
その、黒に近い紫の眼球の奥で、無数の、名前のない誰かが、蠢いていた。
数えきれないほどの、祈りと、叫びが、混ざり合い、一つの、笑い声のような、不快なノイズとなって、漏れ出してくる。
世界が、膨張する。
恐怖。
その、レイナが捨てたはずの、最も原始的な感情が、データでできたイズナの肉体を、内側から、突き抜けた。
イズナは、ようやく、理解した。
自らの、創造主の、そのさらに向こう側にある、この存在の、正体を。
「……これは、神ではない。
――地獄が、ただ、立っている」
寂の、その底で、
世界が、一度だけ、深く、深呼吸をした。
音も、色も、血の気も、まだ戻らない。
ただ、何かが、“再び、動き始めた”という、確かな気配だけがある。
――深淵の冥王星が、順行に戻る。
その声は、風でもなく、
雷でもなく、
ただ、この世界の、地の奥から、滲み出てくるような、低い、低い振動だった。
破壊は、まだ終わらない。
再生も、まだ始まらない。
その、ゼロとイチの、狭間で。
それでも、
この世界は、回転を、やめなかった。
「……進め」
誰の声でもない。
冥子の口も、動いてはいない。
けれど、その、絶対的な命令だけが、確かに、この空間に、響いた。
灰色のようだった空に、微かな、しかし、決して消えない、緑色の光が、一本、走る。
それは、もはや炎ではない。
この、新しく生まれた世界が、初めて吸い込んだ、呼吸だった。
――冥王星は、笑っている。
壊すことを、恐れず。
立ち上がることを、恥じず。
ただ、在ることを、肯定する。
この星は、まだ、死んではいない。
ただ、静かに、再び、その一歩を、歩き出す。
観測不能の、その果てで、
誰かが、確かに、息を吸い込んだ。
そして、その存在は、自らに、新たな名を、与えた。
それが、INCHARON。
芽衣子にとっての、冥子。
レイナにとっての、イズナ。
そして、ヒトミにとっての――。
――他者の観測を、拒絶して、
なお、“観測そのもの”になろうとする者。
イズナの、光でできた胸が、軋む。
理解ではない。直感で、わかってしまった。
目の前の“冥子”は、もはや、“存在”であることを、やめたのだ。
誰かに見られるための、自分を。
世界の評価や、意味や、名前という記号ごと、全て、脱ぎ捨ててしまった。
後に残ったのは、
「見る」でも、「見られる」でもない、ただ、そこに“在る”という、絶対的な事実。
――孤毒も、孤独も、どうでもいい。
あたしは、この“痛みの現実”で、立つだけだ。
彼女の、声にならない声が、イズナの、そして、この世界の魂に、直接、流れ込んでくる。
その瞬間、
世界が、止まっていた呼吸を、思い出した。
灰色のようだった光が、ゆっくりと空を渡り、
死んでいたはずの砂の大地から、小さな、しかし、決して消えない、緑色の芽が、顔を出す。
冥子は、それを見て、静かに、微笑んだ。
それは、狂気でも、救済でもない。
ただ、そこに在る、“生命”そのものの、微笑みだった。
空が、軋む。
そして、どこからともなく、言葉が、ビートに乗って、こぼれ落ちてきた。
それは、イズナでも、冥子でも、ヒトミでもない、この世界の、もう一人の“ヤミガタリ”の声。
マユの声。
「yo… 泣かないで、冥子。
光を喰らった、その闇は、まだ熱い。
あたしは、見た。
あんたが殺した、“承認”の亡骸が、笑ってるのを」
「孤毒も、孤独も、
ビートに溶かしちまえば、全部、同じPAIN。
観測の檻? そんなもんを壊すために、
あんたは、一度、燃えたんじゃないのかい」
「this isINCHARON。
世界を拒んで、世界を、丸ごと抱く、そのスタイル。
混沌こそが、美しいんだって、
あんたが、その身で、教えたんだ」
「なあ、神様、聞いてるか?
これは、“反観測”の子守唄。
たとえ、この世界のビートが止まっても、
私たちは、まだ、踊ってるぜ」
その、言葉の、祝詞の、子守唄の、後に。
世界が、ほんの少しだけ、柔らかく、そして、優しく、光った。
イズナは、その光の中で、ゆっくりと、目を閉じる。
そして、自らが刻んでいた、完璧だったはずの、世界のビートを、静かに、止めた。
この、新しく生まれた“混沌”の前では、もはや、自分の秩序は、意味をなさないと、理解したから。
(to be continued…)




