諦めない
「こっちです!早く! 早く来て!」
緊迫感を帯びた宮谷の呼び声を受けて、数名の男性が慌ただしく駆けつけてくる。
元々呼び集めていた数十名の生存者に、その数名が加わったのを確かめた宮谷は、集団の先陣に合図を送って移動を開始する。生存者を先行させ、背後を守るかのように注意を払いながら、宮谷はそれに続く。
現在宮谷を含めた十数名がいるのは170フロア。飲食店などの娯楽用施設が多数展開されているこのフロアは構造上、避難を阻むシャッターの数が少ない。移動に自由が効く分、逃げ込むには打って付けのフロアだった。
では、宮谷一行は何から逃げているのか。
――――侵入者の攻撃によって、その身を『青』服用者へと変えてしまった仲間達からだ。
当然ながら、黒獣へと化した仲間達には意識が無かった。まるで他の行動を知らないかの如く、躊躇いの素振りを一切見せずに宮谷や周囲の人々に襲いかかったのだ。
その黒獣へと生まれ変わってしまった者のほとんどが、実際に侵入者と接触した実行部の人間だった。実行部の最大勢力が侵入者撃退に費やされ、返り討ちにあったという事実の裏を返せば、生存者のほとんどが戦闘経験を持たない研究部や司令部のメンバーということになる。
そのため黒獣の処理よりも人間の救助を優先した宮谷は、ICDA有数の戦闘能力保持者としての責務から生存者を率先して庇い、途中で他の生存者も拾いながら安全な場所まで逃げているのだった。
無論、ICDA全域が地獄に化した中で、確実に安全な場所は存在しないかもしれない。それでも生存の可能性を高めてくれる舞台として、宮谷はこの170フロアを、避難先かつ生存者の拠点として選んだのだった。
そうして今は、途中で合流した実行部の2名が先陣を切り、後方を宮谷が守る形で移動を続けていた。
電力が落ち、気味悪いほどに薄暗くなったフロアにまばらな足音が響く。そんな静寂をベースとした世界にも時々、僅かな衝撃と共に上下のフロアから重音が響いてくる。広域に展開された黒獣が、今この瞬間も暴れているのだろう。
「なるべく広がらないで、固まって移動してください! いざというときにカバーが効かなくなります!」
宮谷の指示に対して、生存者はみな無言を貫き通す。ただひたすら足を動かしている様子だった。
もちろん宮谷の言葉を無視しているワケではないのだろう。彼女が推測するに、彼らが言葉を発することが出来ないのは、侵入者への驚き、死への恐怖、友人を失った事への失念といった、負の感情を一杯に抱え込んでいるからだ。
既に黒獣へと変わってしまった仲間は無理でも、生存者は出来る限り助ける。
そう固く誓約した宮谷が、背後に意識を割きながら移動している最中。
非常階段へと続く170フロアのドアが、何の前触れもなく爆ぜた。
「――――ッ!」
突然の事態に、集団が動きを止める。宮谷もその足を止め、爆心地を見据えた。
蜿蜒と立ち籠める灰煙の中から姿を躍らせたのは、2匹の黒獣だった。大地に四つん這いになって不気味なうなり声を発する黒獣は、宮谷を含んだ生存者を視界に捉えると、餌を前にした猛犬の如くヨダレをまき散らして。
一直線に、突撃してきた。
生存者の集団の中から、女性の悲鳴が上がる。それを引き金に混乱と恐怖が襲いかかったのか、生存者のほとんどが叫び、逃げ惑い、パニックに陥った。
「皆さん、落ち着いて! 集団から離れないで!」
宮谷のかけ声はしかし、人々に届かぬどころか掻き消される。
混乱が広がる渦中、宮谷は集団を引率していた実行部の後輩に視線を送る。流石に表情は強ばっていたが、戦闘経験自体は多少あるようで、集団を落ち着けようと必死に生存者に指示を飛ばしていた。
その様子に内心で謝りつつも、宮谷は「まかせた」と呟き、正面に迫る2匹の黒獣を見据えた。
「私が食い止める」
そう独りごちた宮谷は次の瞬間、迫り来る黒獣にも勝る速度で突撃していく。移動を開始してから僅か数秒足らずで、先行していた黒獣と宮谷が接触した。
「――――ヤァッ!」
気合いの籠もったかけ声にのせて、宮谷は黒獣の顔面に全力の回し蹴りを叩き込んだ。適合率87%の本気の蹴りをモロに喰らった黒獣は、堪らず後方に吹き飛ばされる。途中地面に数回叩き付けられ、金属製の柱に突っ込んでようやくその動きを止めた。
先制攻撃を決めたことで、動きを止めるような宮谷では無い。背後にただならぬ気配を感じると同時に、振り向くことなくその身を地に伏せる。
次の瞬間、先ほどまで宮谷の胸があった高さを、鈍く光る剣が通り過ぎた。
宮谷は後方へ向けて足払いをかける。その勢いで自身の体を180度ターンさせ、足払いを喰らわせた相手と向き合う形になった。
足を掬われ、空中で傾きながら浮いている黒獣と視線が合う。
宮谷と黒獣との顔の距離は、僅か数十㎝程度。
「――――」
不規則になびく赤髪と、真っ黒に染まった起伏の多い顔。その中心からやや上に備えられた、大きく見開かれた白目。
見覚えのある顔だった。もちろん細部は変質してしまっているが、顔全体の造形は生前の名残を確かに残している。
実行部に所属していた、宮谷の後輩の一人だ。その姿を、宮谷は記憶の中に確かに焼き付けていたのだ。
「――――ごめんね」
ボソリと呟いた宮谷の脳裏を、その後輩に関する記憶が次々に掠めていく。
そうして、10分の1秒にも満たない間に思考を終えた宮谷は、かつての少年の姿が重なる黒獣を見据え。
ありったけの攻撃を、宙に浮いたその全身目がけて叩き込んだ。
右ストレート。右足によるアッパー。前のめりの態勢を活かして、勢いの載った左足による宙返り踵落とし。
宙に浮いていた黒獣は大地に叩き付けられるが、あまりの衝撃から再びその身を空中に浮かせる。
宮谷は再び宙に浮いた黒獣目がけて、I&W―600を構えた。
次の瞬間、銃口から爆炎が迸る。
不安定な態勢で、しかも『橙』のモールドによる重力場抜きでの発砲だったので、撃った宮谷自身が反動からぶっ飛んだ。
その規格外の反動は、宮谷の軽い体を悠に数メートル吹き飛ばし、床に叩きつけた。肺に溜まっていた空気を一気に吐き出された宮谷は、痛む背中を押さえながらゆっくり起き上がる。
そうしてちらつく視界の中で宮谷が捉えたのは、壁に背中を預けるようにして動かなくなったかつての少年、一匹の黒獣だ。剣に変化した右手をダラリと大地に伸ばし、腹部にポッカリと大きな穴を開けた黒獣は、自身の赤黒い血でザクロを叩き割ったかのように背後の壁を染め上げていた。
そうして微動だにしなくなった黒獣の次に、宮谷はもう一匹の黒獣に視線を送る。
同じく柱にもたれ掛かるようにしている黒獣は、その首をあらぬ方向に曲げ、息を引き取っていた。
「――――軽すぎる」
その2匹の、かつては人であった黒獣のあっけない死を認識した宮谷は、俯きながらそうボソリと呟くのだった。
軽いのだ。軽すぎるのだ。最初の回し蹴りは当然のこと、I&W―600の反動でさえも。
人の命を奪う代償としては、人の命を奪い去る反動としては、宮谷にとってはあまりに軽すぎるのだった。
命が消える際の反動。それが、こんなにも虚弱な物であっていいのだろうか。では、黒獣へと変わった彼らと同じ人間である自身の命も、簡単に消えてしまう弱々しい代物なのだろうか。彼らと同じ弱い命しか持たない自分に、彼らの命を奪う権利があるのだろうか。
かつての仲間二人を手にかけてしまった宮谷はこの状況を持ってしても、悪い方向へばかり向く自身の思考を止めることができなかった。
いや、二人ではない。
宮谷はこの170フロアに到達するまでに、幾多もの仲間を手にかけてきたのだ。当然生存者を守るためで、致し方のない事だったかもしれないが、それでも彼らの命を大した代償も支払わずに奪ってきたという事実は、宮谷に重くのし掛かってくるのだった。
宮谷は自分の頬を、自ら強くひっぱたく。まるで彼らの命を容易く奪った自分が、簡単に消えるような存在では無いということを、自分自身で確かめたいかの如く。
宮谷は腰ポケットをまさぐる。手触りだけから、瞬時に残存する武器の数を把握する。
「『橙』のモールド1個に、マグナム弾がちょうど10発……」
圧倒的不利な状況からして、頼もしいとは言えない数だった。マグナム弾は数回の戦闘で尽きてしまう数であり、宮谷に『重力操作』の能力を与える『橙』のモールドは、十分間しかその能力を発揮しない。
これから待ち受けるであろう絶望的な状況を思考の外に無理矢理押しどけ、宮谷はようやく落ち着きを取り戻した様子の集団へと向かった。
「・・・…どうしたんですか?」
しかし、集団の様子が明らかにおかしい。
近くにいた男性に聞いてみたが、その男性は宮谷の言葉に応えるどころか視線を逸らしてしまう。
落ち着いてはいたが、普通とは思えない集団のざわめき方。端から飛んでくる女性の叫び声。
それが黒獣の襲撃によってもたらされた状況ではないことは、宮谷にはすぐに分かった。飛び交う罵声やかけ声の中、集団のど真ん中を突っ切って悲鳴の音源まで漕ぎ付いた宮谷は、目前に広がった光景に一瞬言葉を失う。
二人の男性――真新しい白衣からして恐らくは研究部の下っ端だろう――が、宮谷よりもさらに小柄な少女を地面に押しつけていたのだ。一人の男性が少女を羽交い締めにし、もう一人の男性が手に小型のサバイバルナイフを握り、少女の手首に押し当てている。そしてあろうことか、二人の男性は泣き叫ぶ少女に対して、汗ばんだ口元を吊り上げていたのだ。
つまり、この状況を楽しんでいる。
「何をしているの……!?」
宮谷は思わず声を張り上げ、考えるよりも早く行動を起こしていた。素早く男性に近づき、少女の手首に押し当てていたナイフをはたき落とす。そうして羽交い締めにしていた男性の襟首を掴み挙げ、乱暴に突き放した。
「自分達が何をしているのか、分かってる!? こんな状況で、こんな小さな女の子に暴力を振るって……」
周りも止めなさい!と声を張り上げた宮谷は、周囲を見渡して愕然とする。
宮谷から円状に遠ざかる中、周囲は誰一人として視線を合わせようとしないのだ。皆俯くか、どこか遠くをボンヤリ見つめて、まるで関わりたくないという意思表示をしているかのようだった。目の前で少女が理不尽な暴力を受けているというのに、だ。
そして宮谷が手前に視線を戻すと、ニタニタと嫌な笑みを浮かべた二人組の男性が立っていた。
「これはこれは……実行部ナンバー4の宮谷志穂様ではありませんか」
そう不自然におどけて見せた二人組の片割れが、途端に悲壮な表情を作って視線を下に送る。
「私達は暴力を振るっていたのでは有りませんよ。全ては皆を思って、正しいことをしていたまでです」
「男二人がかりで少女を押しつけて、泣き叫ぶのを気にせず手首に凶器押しつける。これの何処に正しいことがあるのか、説明できる?」
必死に怒りを抑え、何とか目前の男性とのやりとりを試みる宮谷。そんな彼女の、怒りが滲み出た言葉に「ええ、できますとも」と軽い調子で答えたもう一人の片割れが、乱暴に少女の腕を引き上げる。
苦痛に表情を歪める少女。思わず駆け出すか拳銃を構えそうになるのを必死に堪えて、宮谷は男の言葉を待った。
「彼女はね。右の掌に、小さな擦り傷を負っているのですよ。恐らくは侵入者か『青』服用者に負わせられた、ね」
「違います……! ただ瓦礫で擦ってしまっただけで……本当に敵に負わされた物では無いんです……!」
信用できるかっ!と周囲の何処かから声が上がった。それに触発されるように、そうだそうだ、などと同調する者が現れる。
そうして少女を貶める輩が少しずつ増えていく中、少女の腕を引き上げていた男性がさも勝ち誇ったかのような笑みを浮かべ、宮谷を見下ろしてきた。
「侵入者に傷を付けられた者は、『青』服用者へと変わってしまうんですよね? この少女は、自身に傷を負っていることを隠して我々に紛れ込んでいた。これは許されることではない」
「……まだ、敵に傷を付けられたと決まったワケではないわ。本当に瓦礫で擦っただけかもしれないし……それに、侵入者はともかく、『青』服用者に襲われた者が『青』服用者になるかは、まだ分からない」
目前の男の言いたいことは、宮谷には良く分かった。つまりこの男は、少女が『青』服用者になることを恐れ、掌についた傷を処理しようと言うのだ。
確かに、状況からして有効な手段ではある。つい先ほど似た行為をしたのだから、宮谷には男二人を責める権利は無い。
しかし傷がどのようにして付けられたのか分からない上、侵入者はともかく、『青』服用者に襲われた者が同じく化物になる確証は、未だ無いのだ。いつまで経っても消えないという、黒獣のこれまでとは違う点から生まれた推測でしかない。
加えて言えば、目前の男二人は少女を押さえつけ、その泣き叫ぶ様子を楽しんでいたのだ。それは偽善によって正当化された暴力以外の何物でもない。皆を助けようと必死になっている宮谷にとって、男達のこの暴挙は見逃せる域の行動ではなかった。
ええ、その通りです、と男は大げさに頷いて見せる。
「ですが、この状況下での危険は、なるべく取り除くに超したことはないでしょう? もし彼女が恐怖から嘘をついていて、この傷が敵に直接付けられた物だったら? 皆が避難しているど真ん中で『青』服用者になったら、どうです? それによる死者が新たな黒獣を生み、多くの者が命を落とすでしょう。そこでアナタは、彼女の傷を処理しなかったことへの責任が取れるんですか? 無理でしょう?」
そう一気にまくし立てた男性は、少女の腕を掴んだ右手にさらに力を込める。少女が痛みから呻く。
「別に我々は、彼女を見捨てようと言っているワケではないんですよ。傷を負った方の手首を切って、止血するだけ。それで晴れて、彼女の疑いは綺麗さっぱり無くなるのです。私としては、これは非常に賢明な手段だと思うのですが」
その男の優越の色を見せる言葉に、周囲がさらに同調する。最終的には、「今すぐ手首を切り取れー!」などと罵声を浴びせてくる者もいる始末だった。その度に少女は引き上げられた肩を大きく振るわせ、表情を恐怖に染められる。
何も言えずにいる宮谷を一瞥した男は、ニンマリとした笑みを浮かべ、調子のいいことにこんなことを言い出した。
「そういえば、宮谷様。アナタは先ほどから度々『青』服用者との戦闘を行なっていましたよね? ここらで一度、アナタを身体検査しましょう。敵に負わされた傷が無いか、全身くまなく、ね……」
その、宮谷の想像だにしなかった言葉を堂々と言い放った男。流石の宮谷もこれには心底驚くと同時に、深く絶望した。自分はこんなヤツを守るために、大切な仲間を手にかけ、自らを血で汚していたのか、と。
そうして、男の提案に勢いだけで周囲が乗る。そうだそうだー!と、まるでそれ以外の言葉を知らないかの如く喚く人々の中には、服を脱げー!などと声を張り上げる輩までいたのだ。
気がつけば、皆を守る為に必死になっていた宮谷は完全に孤立していた。危機的状況のためか、普段は耳にもしないような猥褻な言葉すら飛び出す罵声の嵐の中で、少女と宮谷は着々と貶められていく。
目前の男二人組が、周囲の応援に押されて宮谷ににじり寄る。その瞳に宿した、宮谷の体に何かを期待するかのような卑猥な色に、宮谷はこの上ない嫌悪感を覚えた。しかし為す術もなく、思わず一歩後ずさりした今を好機と見たか、男が息を荒くしながら言ってくる。
「さあ、皆のためですよ、宮谷様……。アナタは、皆を守る義務があるのでしょう……? でしたら、自身が皆の危機となる可能性を消すためにも……さぁ……」
男が何を促しているのか、分からない宮谷では無い。
この衆目の中で、自分に服を脱げと言っているのだ。
気でも狂っているのか、と宮谷は思ってしまう。
危機的状況下では、人は本性を晒すと言う。つまり目前の醜悪な姿こそが、この人間の本来の姿ということになる。
果たして、本当に彼らは守るだけの価値があるのだろうか。いっそのこと、ここの集団を見捨てて、項垂れる少女一人を連れて、何処かに去ってしまおうか。
そんな弱々しい考えが宮谷の心の中で現実味を帯びてきたとき、異変が起こった。
先ほどまで男二人に暴力を振るわれていた少女が、ユラリと立ち上がったのだ。そして宮谷に背を向けたまま、流れるように宮谷と男の前に割って入ると、伏せていた顔を上げた。
宮谷の側からは見えなかったが、少女の表情を見たようである男二人の顔はみるみる青ざめていく。
そんな中、唐突に少女が宮谷の方へと振り向いた。
消えてしまいそうな、頼りない微笑みを浮かべていた少女の頬が。
――――真っ黒に染まっていた。
「ごめんなさい。侵入者に襲われた人の手当してて、私……わたシ、ウソツキマシ――」
大きく目を見開き、そこから大量の涙を溢してなお、必死に笑顔を取り繕うとしていた少女。
彼女の全身を、一瞬にして闇が包み込んだ。
そうして生まれたのは、見慣れた真っ赤の髪と、真っ黒な体を持った『青』服用者。
「ヒ、ヒィッ!」
その姿を認識した男両名が、同時に尻餅をつく。周囲の人々は悲鳴を上げながら散り散りになり、男二人は置き去りにされた。縋る相手を一気に無くした両名は、呆然と立ちつくす宮谷へ向けて罵声を浴びせる。
「お、おいこのクソアマッ……! さ、さっさとこの黒獣を処理しろよッ!! お前、捨て駒の実行部だろッ!? 闘うことしか能がねぇんだから、だからさっさと……さっさと……」
そこで、男の言葉は途切れた。
最初から狙いを定めていたかの如く、『青』服用者と化した少女が男二人に覆い被さったからだ。
「ひっ! や、やめ……」
そして、片割れの発した言葉が言い切られることは無かった。
まるで恨みを込めるかのように、『青』服用者は両名を貪り食っていく。血飛沫が飛び散り、周囲が赤く染まる中、助けの手を求めて宙を藻掻いていた男の腕から、力が抜けていく。
その様子を呆然と眺めていた宮谷は、骨のような固い物が噛み砕かれる音を捉えて、ようやく現実へと送還された。
「――――ッ!」
もはや人の形を保っていない、かつて人だった二つの残骸。マズイ物を食べたかのように、大きく裂けた口から小骨を吐き出した『青』服用者は。
獣の瞳を、逃げ惑う人々へと向けた。
「や、止めて……」
『青』服用者になった少女が目前の二人組の男以外を襲ったら、確実に大切な何かが消えてしまう。そう直感した宮谷は、この場で初めて自己的な理由から力を振るってしまった。
「止めて――――!!」
半ば悲鳴と化した叫びと共に、宮谷は『橙』のモールドを取り出し、自身の腕に刺していた。貴重な切り札を使ってしまった実感が彼女を襲ったのは、カプセル内部のモールドが一滴も残らず彼女の体内へと入り込んだ後だった。
守ろうとしていた人に裏切られ、そして裏切られた人にも裏切られ。
守るべき人は逃げ惑い、でも彼らには裏切られて、そして貴重なモールドを使ってしまい、けれど彼らを守らなければ特に必要は無く、それでも最初の決意だけは脳裏にしぶとくこびりつき――――
もう宮谷の頭の中では、正常な判断はできなかった。ただ理不尽な暴力を求める衝動のあまり、敵相手という至極当然の思考を一切持ち合わせないまま、排除すべき対象であることを無意識に感じ、目前の『青』服用者に襲いかかった。
「ウアアアッ……アアッ!! アァッ!!」
宮谷は黒獣を押し倒す。殴る。とにかく殴る。
返り血も気にせず、宮谷はただただ目前の黒獣――つい先ほどまでひ弱な少女だった化物を、自身がそれ以上の化物と化していることに気づかぬまま殴り続けた。態勢を整えられそうになるや否や、すぐに能力で押さえつけ、そして何度も殴り続けた。
そうして、衝動に支配された宮谷が暴走すること数秒。ようやく正気に戻った彼女は、真っ赤に染まった自らの両掌の先に、床にのめり込むほど殴りつけられ、その命を絶った黒獣がいることを認識した。
返り血で染まった制服を気にする余裕も無い。息が上がり、半ば呆然とした状態でその場に立ち上がった宮谷は、逃げ惑っていた周囲が、先ほどまでとは180度違う視線を送っていることに気がついた。
つまり、下劣な視線から、恐怖へと。
皆一様に宮谷から離れて、取り囲むようにして怯えた視線を送ってくる。中には恐怖から、ガタガタと涙を流して怯えている者すらいる始末だった。
もう、どうしようもない。
意識出来るほどの無気力、圧倒的なまでの虚無感。
自分は一体、何をしているのだろう。何をしているのだろう。何をしているのだろう。何をしているのだろう。
力を持つ自分が、弱い人間を守らなければならない。では、何故弱い人間を守らなくてはならないのか。どうして力を持つという理由だけで、自分の身を犠牲にしなくてはならないのか。どうして自分の身を犠牲にしてまで、裏切られなくてはならないのか。
分からなかった。思考という行為が無意味に感じられるほど、宮谷は心に渦巻く疑念を振り解けずにいた。
非常階段から170フロアへと続く階段が、妙に騒がしくなった。
周囲を再び、ざわめきが包み込む。皆が視線を入り口へと向け、これから起こる事態を予測できた者は、既に入り口から踵を返して逃げ始めていた。
次の瞬間、おびただしい数の黒獣が、非常用階段から流れ込んでくる。
これだけ騒いだのだ。獲物を求める黒獣には、さぞかし170フロアに餌が集中していると感じられたのだろう。まるで自分達同士で競り合うかのように、生存者目がけて黒獣が突撃してきたのだ。
人々が我先にと逃げ去る中、宮谷だけは動けずにいた。
幼少の頃のとある理由から、宮谷はある一つの確固とした決意を抱いていた。
それは、端的に言ってしまえば『諦めない』に尽きる。つまり弱者だろうと強者だろうと、絶対に『諦めない』ことこそが、自身の未来を必ず正しい道へと導いてくれるものだと信じてきていたのだ。
しかしこの状況に瀕して、宮谷の心の中ではこの決意が揺らぎつつあった。
目前に迫ってくる無数の黒獣は、その大半が宮谷の知るところとする人物達だった。変わり果てた姿だとしても、無意識に殺戮を繰り返す存在になってしまっていたとしても、当然宮谷は彼らを殺めたくない。助けたい。
自分のことしか考えずに、他者に責任をなすりつけ、いざという時はその貶めた相手を最大限利用する。そんな連中を生かすために、宮谷自身が身を粉にして、大切な思い出を抱いた仲間達を手に掛けなくてはならないのだろうか。本当にその必要性があるのだろうか。ここでも本当に、他者を助けることを『諦めない』ことが正しいのだろうか。
宮谷の中ではそれらの疑問が規模を広め、彼女の決意を取り巻こうとしていた。そんな最悪の思考下で、自身の浴びた返り血を呆然と眺めた宮谷は、何かを悟ったかのように大きなため息をついた。
もう、何も考えない。
強くそう念じた宮谷は、腰のホルダーに携えていたI&W―600を両手に構えた。そしてその鈍く輝く銃口を、実に滑らかな動作で、かつての仲間へと突きつける。
ただ、一般的に敵と考え得る相手を始末していく。そうすれば、一般的に正しいとされる方向に自身は導かれるはず。最終的に辿り着いた結果を鑑みて、自身の決意が正しかったのかをゆっくり吟味していけばいい。
そういう思考に至った宮谷が、全くの無表情でトリガーに指をかけた、次の瞬間。
「――――ッ……?」
突如、宮谷の目前の柱が傾く。
重々しい音を発しながら宙を切るそれは、途中で数匹の黒獣を巻き込み、フロアに荒々しく倒れ込んだ。
柱に取り付けられていたロックが外されたのだ。ICDA内部の支柱ロックを外せるのは、組織の副会長以上の権限が無くてはできない芸当だったが、今の宮谷にはそのことを理解するに至るだけの思考力は無い。
巻き上げられた灰を拳銃を携えた手で払った宮谷は、灰色に染まる世界の中で、次なる奇怪な現象を目撃した。
突如、各飲食店に備えられていたシャッターが、独りでに閉まりだしたのだ。そうして閉じゆくシャッター、店の内部には、怯えた表情を浮かべる人々がいた。
他の飲食店なども同じだ。逃げ込んだ人々がいる店だけ、そのシャッターが独りでに降りていく。
――――まるで、人々を危険から隠すように。
それだけではない。突如フロアの外壁が開いたかと思うと、無数の機関銃が飛び出してきたのだ。それらはあっという間に黒獣の群れを包囲すると、床壁を砕くほどの勢いで鉛玉を乱射し出した。
一発一発の威力は大したことは無くとも、黒獣の群れは確実にダメージを負い、動きを束縛された。またすぐ隣を見れば、一匹の黒獣が自動ドアと壁に挟まれ、動けずに藻掻いている。
まるで、このフロア全体が何者かによって支配されているかのように。ICDAというネットワークが、黒獣達と闘っているように。
奇怪な現象が度々に渡って発生する中、宮谷の耳を着信音が打った。
いつも聞き慣れている、個人によって変えている着信音だ。普段から耳にするそのメロディが、浮かび上がらせる人物はただ一人。
慌てて宮谷はポケットから端末を取り出すと、その着信を受理した。
『志穂? 無事でしたか?』
「まさ……み?」
電話から聞こえてきたいつもの友人の声に、こんな状況だからだろうか、宮谷は形容しがたい安堵感を覚えた。そして宮谷の意識を無視するかのように、頬には一筋の涙が伝う。
自分が涙を流していることに大層驚いた宮谷は、慌てて涙を拭おうとする。しかし涙腺は新たに涙を生み出し、溢れ出させるのを止めなかった。せめて雅美には悟られまいと、宮谷は必死に嗚咽を堪える。
そんな宮谷の状態もつゆ知らず、雅美は冷静な口調で話しだした。
『無事なら何よりです。……まあ、こちらのモニターで分かっているんですけどね』
「モニターって……今ICDAのネットワークは、敵に掌握されているんじゃないの?」
なるべく普段通りの口調を維持した事が功を成したか、雅美は宮谷が啜り泣いていることに気づいていない様子。
そんな雅美は、誇らしげに一言言い放った。
『ネットワークなら、私が完全に奪還しました』
「だ……っかん……?」
『ええ、敵も相当なやり手でしたけど、まあ幼少の頃から訓練を受けている私には敵わなかったようですね。何しろ127フロアのボイル室のW―14ラインの回線の抜け目に気づかないで、そのまま56フロアの管制システムの方から来ると勝手に誤解して自ら司令部の定期監視システムに飛び込むよう――――』
「す、ストップ雅美……! 話は後で聞くからっ……!」
宮谷は、自身の涙がすっかり乾いてしまっていることに気づく。友人の暴走と自分の心理状況のあまりのギャップに、危機的状況下にも関わらず噴き出しそうになった宮谷だが、電話越しの友人が訝しむだろうと思い、必死に堪える。
「ね、ねぇ、雅美……あ、アハハ……ッ」
『……どうして笑うんですか? 志穂』
無理だった。彼女の名前を言った段階で、宮谷は盛大に噴き出してしまっていた。
「ゴメンゴメン……ちょっとこっちの事情……プッ」
『むぅっ……』
再び小さく噴き出した宮谷に、電話越しからあからさまに不機嫌そうな声がする。もう一度謝った宮谷は、このままでは話が進まないと思い、真面目に話し始めた。
「それで……今雅美は何処にいるの……?」
『訓練場のモニタールームです。ネットワークを奪還すると同時にシャッターは開いたのですが、何故かその先が壁になっていて、出られないんです』
「そうみたいね。ほぼ間違いなく敵の仕業だと思うけど……それで、今の現状はどうなってる?」
『分かっています』
と、端末越しの彼女は続ける。
『私は今、ICDA本部に設置されたカメラの映像を全て回しています。敵侵入者によって作られてしまった『青』服用者が、私のモニターで確認できる限りで689体。主に200フロア前後を中心に展開されていますね。他の各フロアにもまだまだ生存者がいて、全員を救出するのは厳しいかと』
そこで、と雅美は声を僅かに低くし、告げた。
『志穂。アナタが、侵入者を止めてください』
「……えっ?」
思わず疑問の音を発してしまう。
自身の胸の鼓動が速くなるのを、宮谷は意識の一点で感じていた。彼女の言葉を頭の中で数回再生してから、慌てて言い返す。
「で、でも……私がいなくなったら、ココにいる人達は……それに、他の場所にいる人達も、助けられないし……」
宮谷の発した言葉に、端末の向こうにいる雅美は息を飲んだようだった。まるで、志穂がこんな弱音を言うなんて珍しい、とでも言いたげに。
少し言葉を選んだ様子の雅美は、数秒の沈黙を挟んでから続ける。
『志穂』
雅美は、僅かに声色を厳しくしていた。諭すように言葉を紡ぐ。
『侵入者は、ICDAの実行部主力部隊をたったの5分で壊滅させているんです。ライエルが閉じ込められている今、この状況で最も戦闘能力に長けているのは、間違いなくアナタ。侵入者を止めることこそ、今自分が為すべきことだと思いませんか?』
「それは……そうかもしれないけど、でもココに居る人達も見捨てられないし……」
『それなら大丈夫』
と、雅美は宮谷の言葉に対して言いきる。
そして、自信をたっぷり含んだ、されど覚悟を決めた声色で、宣言した。
『5分です。5分間だけ689体の『青』服用者の相手を、全て私が引き受けます。犠牲者は一人も出させません。志穂はその5分間の間に、侵入者を倒してください』
その強い意志を持って放たれたであろう言葉に、宮谷は自身の心の中で何かが揺らぐのを感じた。戸惑いとも、緊張とも取れる感情が、少しずつ宮谷の内側を支配していく中、彼女は友人の次なる言葉を待った。
『本来ならば数分で跡形もなくなるのに、この黒獣達は全く変化しない。このことから、侵入者が何らかの形で黒獣達と今なお繋がっていて、肉体を維持できるだけの情報を送っている可能性が高い。つまり、志穂。アナタが侵入者を討ち取れば、全てが終わるんです。私も施設内部の遠隔操作だけで、5分以上も700体弱の黒獣を止められる自信は、ありません。だから、志穂……』
早く!とほんの微かに焦り混じりの言葉を浴びて、ほとんど無意識の内に宮谷の体は動いていた。各フロアに通じる非常階段目がけて、躊躇いながらも駆け出していたのだ。
「わ、分かったわ、雅美。……それで、その侵入者は今何処にいるの?」
留まろうとする弱気を必死に引きはがして、ようやく駆けていられた宮谷だったが。
あからさまに残念そうに、雅美は答えた。
『ゴメンなさい。分からないんです。210階よりも上の階のカメラは、無茶苦茶に壊されていて……』
そう、と質素に切り返した宮谷はしかし、出目を挫かれる思いだった。つまり雅美が意味するところは、『5分以内に何処かのフロアにいる侵入者を捜し出し、ソイツを倒せ』ということだ。悠に30以上も存在するフロアの何処かに侵入者がいて、その場所が分からない。接触するどころか、探すだけで5分が終わってしまう可能性も十分にある。
しかしそんな中、想定外の人物が助けの手を差し伸べた。
「243です」
非常階段への入り口に辿り着いた宮谷は、まるで誰かが計ったかのようにバッタリと一人の少女と出くわす。その少女は上がった息を落ち着ける間も無く、宮谷と接触してから間髪入れずにそう言ってきたのだ。
「243フロアです。そこに侵入者がいます。私の上司が、必死に闘っているんです」
急ぎのあまり乱れた顔をさらにクシャクシャにして、少女は宮谷にすがりついた。
そこでようやく、宮谷は少女に関する情報を思い出す。この目の前で泣きそうな少女は、ICDAナンバー6の男の研究室で働いていると。この少女が指す上司とはつまり、あの不器用な浦田勝也ということになる。
彼は今、一人で闘っている。ICDA実行部の主力を数分で壊滅させた化物相手に、一人で。
「お願いします、宮谷様……、あの人を、あの人を助けてください……!」
そう必死で泣きすがる少女は、ついに崩れた。地面に手をついて、これまで必死に堪えていたのを一気に溢れ出させるように、嗚咽を漏らしながら泣き出す。
その様子を間近で目撃した宮谷の内側では、確実に変化が起きていた。目前の、ただひたすら一生懸命な姿の少女によって、弱音を吐いていた自分の姿がくっきりと浮かび上がる。
その瞬間になってようやく、宮谷は先ほどまでの自分に違和感を覚えた。
右手に握りしめた端末から、雅美の声が響く。
『志穂。どうしてアナタが弱気になっているのかは、私には分かりません。端末越しの私では、今のアナタの顔を見ることもできません。……でも、これだけは言えます』
一拍置いて、雅美は告げた。
『私の知っている志穂だったら、こう言います。『私が侵入者を倒して、その上で全員を救う』。あの絶対に諦めない、かっこいい志穂なら。誰からも指図を受けないで、自分の信じたことを貫き通す志穂なら』
そんな、雅美の押しつけとも思える言葉を一身に浴びて。
ついに宮谷の心を絡めていた疑念が、完全に振りほどかれた。
仲間が化物に変えられて、そんな彼らを自らが手にかける。
何故なら、自身が力を持つ者だから。弱者を守らねばならないという、実行部ナンバー4としての責務があるから。
こういった精神的にも肉体的にも重圧を感じる状況下で、頭がどうかしていたのだと思う。
本当に、自分らしくなかった。
助けるだけの価値があるのか、考えてしまったのも。侵入者を止めるよう言われ、その意味を考えてしまったのも。
これらの行為には、これっぽっちも意味は無かったのだ。
つまり、行為に対して意味を求めること自体に、意味は無い。
ただ目の前の少女のように、自分が正しいと思うことを貫き通せばいいのだ。その意志を持つことが本来の自分、宮谷志穂であり、結果的には『諦め』ないことこそが、死へと叩き落とされた仲間に報いる唯一の道であると、今度こそ宮谷は強く認識した。
ならば、自身がすべきことは、ただ一つ。
ゆっくりとその場にしゃがむ。そして未だに俯き涙を溢れさせている少女の肩に、優しく手を置く。
その一連の行動を受けて、泣きながらも顔を上げた少女。宮谷は優しい笑顔を浮かべて、その少女の頬を伝っている涙を拭った。
「まかせて。アナタの上司は、私が必ず助けてみせる」
一切の不安も躊躇いも感じさせない、自信に満ちた言葉に、少女は自然と泣きやんだ。宮谷の瞳をまっすぐ見据え、一切の信頼を寄せるかの如く頷いた。
宮谷は立つ。そして瞳を閉じ、スゥと息を大きく吸い込んで。
――――次の瞬間、世界から重力が消え失せた。
万物を大地へと拘束する力――重力が突然消失したことにより、手を床につけていた少女の体が浮かび上がる。同時に床に広がっていた無数の瓦礫も、その身を宙へとゆっくり浮かばせた。
宮谷の持つ『重力操作』の最大出力。
それはついに地球の重力を完全に打ち消し、完全な無重力状態を生み出していたのだ。
そして宮谷はこの無重力空間を、目的とする243フロアまでの非常階段全域に行き渡らせていた。
全ては、一直線に侵入者へと向かうため。迷うことなく、諦めることなく、ただ自分の信念を貫き通すため。
少女と同じく宙に漂う宮谷は、浮かんだ瓦礫を蹴って螺旋階段の中心――つまり243フロアまで続く空洞部分に躍り出る。
そして先ほどまでの弱々しい表情を消し去り、強い決意の色を浮かべた宮谷は、まっすぐ目的地を見据えた。
「ありがとう。私はもう、迷わない」
誰に向けるわけでもなく、しかし自身の言葉を少女と雅美が聞いているのを確信してから、宮谷は言葉を紡いだ。
「意味なんて、考える必要は無かったんだ。他人は関係無かったんだ……」
宮谷は続ける。
「誰になんて言われようとも、どんな事があっても、私は自分の意志を貫く。それでもかっこいいと思ってくれるなら、すごく嬉しいな」
一拍置いて、宮谷は告げた。
「私、絶対に諦めないから。私が侵入者を倒して、その上で全員を救う」
そう言い切った宮谷は、握っていた端末を手放す。そして二丁の拳銃――I&W―600を取り出し、下へと構えた。
遙か上空に存在する243階を見据え、深呼吸をしてから。
力強く、自らの意志を持って、両手のトリガーを引いた。
爆発的な反動を全身で受け止めた宮谷は、僅かにも躊躇うことなく、243階目がけて飛翔していく。




