四話 懐かれました
ゼインたち第一竜騎隊が西方へ向かって、三日目の夕方だった。
診療所の扉が乱暴なほどの勢いで開き、取り付けられた鐘が大きく鳴った。
「ルミナ先生!」
診療記録から顔を上げると、息を切らしたトーマが立っていた。青と金の隊服は泥に汚れ、額には浅い傷が走っている。
「トーマさん? 怪我を?」
ルミナはすぐに立ち上がったが、トーマは首を振った。
「俺は大丈夫です。それより――」
そこで言葉が途切れた。
いつもなら明るい青年の顔に、ひどく言いにくそうな色が浮かんでいる。
それを見た瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
「……何があったんですか」
トーマは一度唇を結んでから、覚悟を決めたように口を開いた。
「ゼインさんとヴァルドが、戻っていません」
意味を理解するまで、一拍かかった。
「戻って……いない?」
「昨日、発生源の近くで先行していたヴァルドが、突然噴き出した瘴気をまともに浴びました。それで魔物化の兆候が出て暴れ始めたんです。ゼインさんを乗せたまま隊列を離れて……追ったんですが、森の奥で見失いました」
「持たせた浄化剤は?」
「想定より状況が悪化していて、その時点ですでに使い切っていました」
「そんな……」
「隊で捜しています。でも、まだ見つかっていません」
トーマの声が沈む。
ヴァルドが魔物化した。
その言葉が意味するものを、魔獣医である自分は嫌というほど知っている。
瘴気の侵食が進めば理性は失われる。長く共に暮らした相手の声すら届かなくなり、やがては目の前のものすべてを敵と認識する。
その背に、ゼインを乗せたまま。
指先から血の気が引いていくのを感じながら、それでもルミナは魔獣医として口を開いた。
「……ヴァルドの瞳に変色はありましたか」
「少し始まっていました。かなり興奮していて」
「ゼインさんに怪我は?」
「見失う直前ではありませんでした」
「そうですか」
ルミナは小さく頷いた。なんとかいつも通りの声が出せた。
「分かりました。見つかったとき、すぐ治療できるよう準備します。リネット、魔力浄化剤の在庫を確認してください」
「分かりました」
「それから大型竜用の鎮静薬も。量はヴァルドの体重を基準に――」
「先生」
トーマに呼ばれルミナは振り返った。彼は何かを言いかけ、やめた。結局トーマは拳を握ってただ一言だけ告げた。
「……必ず見つけます」
「はい。」
ルミナも、それ以上は聞かなかった。
聞いてしまえば、何かが崩れそうだった。
その夜は眠れなかった。
魔力浄化剤の残量を確かめ、鎮静薬を準備し、魔物化した大型竜の治療記録まで読み返す。考えられる処置はすべて洗い出し、必要な器具も揃えた。
自分にできることは、すべてやった。
机の上には開いたままの治療記録がある。壁の時計の音だけが、妙に大きく聞こえた。
何もすることがなくなると、今度は思い出そうともしていないことばかりが、勝手に浮かんできた。
『君が前に探してるって言ってただろ』
月影草を差し出したときの手。
『俺もまだなんだ。一緒に食べよう』
こちらの返事を半分しか聞かず、勝手に歩き出した背中。
『君に会いにきた』
ヴァルドすら連れずに診療所へ何度もやってきた姿。
『俺、君が好きなんだな』
すっきりしたとでもいうように告げた顔。
ゼインはいつも、清々しいほどまっすぐだった。
押しは強いし、人の話を聞いているのか疑わしいときもある。けれど、好きだと言いながら、その気持ちを押しつけたことは一度もなかった。
『帰ってきたら、すぐに会いに行く』
『じゃあ、行ってくる』
胸が苦しくなる。
最後に見たゼインは、笑っていた。
ルミナが渡した小さなお守りを首に掛けて。
待っている。
だから、帰ってきてもらわなければ困る。
「……嘘つき」
小さな声が漏れて、ルミナはすぐに首を振った。
まだ嘘になったわけではない。帰ってこないと決まったわけでもない。分かっている。
それなのに、もしあれが最後だったらと思うだけで、息が詰まった。
もっと話せばよかった。
昼食くらい、嫌そうな顔をせず付き合えばよかった。
診療所へ来るたびに「帰ってください」なんて言わなければよかった。
会いたかったと言われたときも。
好きだと言われたときも。
もう少しだけ。
ほんの少しだけでも、優しくしておけばよかった。
「……帰ってきてください」
誰もいない部屋で呟く。
「お守りだって、まだ返してもらっていません」
視界が滲んだ。ぽたり、と雫が落ち、開いていた治療記録の端を濡らした。慌てて指で拭う。けれど、次の一滴が落ちた。その次も。
「帰ってくるって……言ったじゃないですか」
声が震えた。
十数年前。自分を救ってくれた飛竜が生きているのかも分からないまま、ずっと忘れられなかった。
もう一度、同じように誰かを待ち続けるのは嫌だった。
◇◇◇
森の奥で竜が咆哮する。
木々が震え、鳥が一斉に飛び立った。
「ヴァルド!」
ゼインが呼ぶが返事はない。灰色だった瞳は濁り、荒い呼吸のたびに牙の隙間から唾液が落ちている。
もう、声が届いていなかった。
「……頼むよ」
一歩近づいた途端、ヴァルドが牙を剥いた。
反射的に足が止まる。
十年、ずっと一緒だった。
十年前、ようやく近づいてきたと思ったら、思いきり頭突きをされて吹き飛ばされた。初めてその背に乗って空を飛んだ日も覚えている。
共に戦い、傷つき、何度も背中を預けてきた。ヴァルドに命を救われたことだって一度や二度ではない。
そのヴァルドが今、自分を、敵として見ている。
「俺だよ」
呼びかけても、濁った瞳は揺れない。低い唸り声だけが返ってきた。
このまま森を抜ければ人里へ出る。魔物化した大型竜が集落へ入れば被害は避けられない。
――誰かに討たせるくらいなら。
ゼインの手が、剣の柄へ伸びた。
「……俺が、やるしかないのか」
声にした途端胸の奥がひどく冷えた。
ヴァルドが再び吼え、地を蹴る。
剣を抜こうとしたそのとき、胸元に突然熱が走った。
「……!」
服の下から淡い光が漏れている。慌てて手を差し入れ引き出した。
ルミナから預かった、小さな宝石。
『帰ってきたら返してください』
次の瞬間。
宝石から、目を開けていられないほど強い光が溢れた。
◇◇◇
それから二日が過ぎても、ゼインとヴァルドは戻らなかった。
ルミナは王城の診療棟で、運び込まれた魔獣の経過をエドガーと確認していた。
「魔力値は昨日より下がっています」
「呼吸も安定してきたな。このままなら――」
そのとき、診療棟の外が急に騒がしくなった。
「戻ったぞ!」
誰かの声が響く。
ルミナの手からペンが落ちた。床へ転がり乾いた音がする。
「行ってこい」
「……ですが」
「こっちは私が見る」
ルミナは一瞬だけ迷い――次の瞬間には走り出していた。廊下を走ってはいけない。診療棟では特に。普段ならリネットへ注意する側なのに、今ばかりは構っていられなかった。
竜舎に着くと、人だかりの向こうに、大きな銀灰色の翼が見えた。
「ヴァルド……」
泥に汚れている。
翼にも細かな傷が残っていた。
けれど、ちゃんと自分の脚で立っている。
その隣に――
アッシュグレーの髪。灰色の瞳。
泥と煤でひどく汚れた隊服。
それでも間違えようがない。
「ルミナ?」
聞き慣れた声で呼ばれる。
ゼインだった。
生きている。
目が合うとゼインが、いつものように笑った。
「ただいま」
数日間張り詰めていたものが、一気にほどける。
「……遅いです」
「ごめん」
「何の連絡もなくて」
「それは本当にごめん」
「分かっています」
責めても仕方がない。分かっているのに、声が震えた。
ゼインの表情が変わる。
「ルミナ?」
ルミナはそれには答えず、彼を上から下まで見た。
「怪我は?」
「ほとんどない」
「ヴァルドは?」
「エドガー先生に診てもらった。もう大丈夫」
「魔物化は?」
「止まった」
「……そうですか」
ようやく息を吐く。
――無事でよかった。
その一言が、どうしてか声にならなかった。
「でも、瘴気にあたったのによく魔物化を防げましたね」
「あ、それなんだけど」
ゼインが胸元へ手を入れた。
「これ」
差し出された手の上にあったのは、出発前に預けた淡い紫色の宝石がついた首飾りだった。ただし、今は中央から大きくひび割れ、すっかり色を失っていた。
「これは私が預けたお守り、ですか?」
「ごめん。壊れた」
「何があったんですか?」
「俺にもよく分からない」
ゼインは掌の上の石へ目を落とす。
「ヴァルドに俺の声が届かなくなって、もう止めるしかないと思ったとき、突然これが光った」
「光った?」
「ああ。そのあと、ヴァルドが少しずつ落ち着いて、気づいたら石はこうなってた」
ルミナは眉を寄せた。そんな話は聞いたことがない。
「君の祖母さんは、何か言ってなかった?」
「いいえ。ただのお守りだとしか」
「そっか」
結局、何が起きたのかは分からない。
「大事なものだったのに、ごめん」
「いいんです」
宝石を受け取る。形見は壊れてしまった。
けれど――
「二人が無事に帰ってきたなら、それだけで十分です」
ゼインが黙った。
ルミナは掌の中のお守りをそっと握る。安心した途端、視界が滲んだ。
「ルミナ?」
ルミナは滲む視界のまま、少しだけ笑った。
「……もう会えないかと思いました。あれが最後になるなら、もっと――」
「最後じゃないよ」
ゼインが静かに言った。
「帰ってきた」
「……はい」
「約束しただろ」
ゼインが笑う。
「お守り、返すって」
壊れていますけど、と言おうとして。やめた。ルミナは目元を拭い、大きく息をひとつ吐いた。
「ヴァルドを診ます。何かあったら大変ですから」
「俺は?」
「あとで人間の医師に診てもらってください」
「扱いの差」
「専門外です」
ゼインがもう一度笑った。その聞き慣れた笑い声を聞いて、ルミナはようやくいつもの自分へ戻れた。
◇◇◇
国を騒がせていた魔物化の事件は無事に解決した。
竜騎士団が鉱石の発生源を破壊したことで、魔物化の拡大も止まったのだ。負傷者こそ出たものの、幸い命を落とした竜騎士も竜もいない。
そして数日後。
昼休憩に入ったルミナの診療所で扉の鐘が鳴った。
「こんにちは、ルミナ。」
「ゼインさん」
聞き慣れた声なのに、一瞬だけ、ルミナは言葉に詰まった。
けれど、すぐにいつもの調子で尋ねる。
「ヴァルドはどうですか?」
「元気」
「怪我や魔物化の後遺症は?」
「大丈夫」
「ゼインさんは?」
「俺も無傷」
「それならよかったです」
そう答えてから、ルミナは首を傾げた。
「でしたら、今日は何か?」
迷いなくゼインが答えた。
「君に会いに来た」
相変わらず、理由を取り繕おうともしない。
「そうですか」
「……やっぱり、それだけ?」
「何を求めているんです?」
「もう少しくらい、嬉しそうにしてくれてもいいと思う」
「注文が多いですね」
いつものように笑って返してくると思った。
けれど、その日のゼインは笑わなかった。
ちょうど通りかかったリネットも二人の空気を察したらしく、何も言わず診療所の奥へ引っ込んでいく。
室内に静けさが落ちた。
ルミナは手にしていたペンを置く。
「どうかしましたか?」
「いや」
ゼインは一度だけ視線を逸らし、それから小さく息を吐いた。
「この前の遠征から帰ってくる途中、ずっと君に会いたいと思ってたんだ」
「……はい」
「無事に帰れたら、まず君に会いに行こうって決めてた。それで実際に顔を見たら安心して、嬉しくて」
そこで一度、言葉が途切れる。
「俺、ずっと返事なんかなくてもいいと思ってたんだ。好きなのは俺の勝手だし、君に会いに行ければそれでいいって。でも、違ったみたいだ」
ゼインは自分でも少し戸惑うように眉を寄せた。
「君がこの前俺に、『無事に帰ってきたなら、それだけで十分』って言ってくれて、嬉しかった。今日も会ったら、顔を見たら安心したとか、会いたかったとか。二人きりならそんなことを言ってもらえるんじゃないかって、少し期待してた」
いつもの軽快な口調ではなかった。
ルミナは何も言えず、ゼインの顔を見つめる。
「それなのに今日はいつも通りだからさ。俺ばっかり君を好きで、なんだか馬鹿みたいだなって、ちょっと思っただけ」
その瞬間、ルミナの表情が変わった。
「ゼインさん……」
「責めてるわけじゃない」
ゼインはすぐに続けた。
「好きになったのは俺の勝手だし、君に同じだけ返してほしいって言うつもりもない。それに、君が仕事を何より大事にしてることも分かってる」
灰色の瞳が、まっすぐルミナを捉える。
「ただ、俺は思ってたよりずっと君が好きらしい」
ルミナは、すぐには答えられなかった。
こんな顔をするゼインを見るのは初めてだった。
いつもなら、多少素っ気なくしても笑っている。帰れと言えば「邪魔しないから」と居座り、会いたかったと言っては平然と笑う。
だからどこかで、彼の好意そのものまで軽やかなもののように捉えていた。
けれど今、初めて分かった。
軽かったのは、言い方だけだった。
それに気づいた瞬間、最初に胸に浮かんだのは申し訳なさだった。
「……ごめんなさい」
思わずこぼれた言葉に、ゼインの表情が止まった。
灰色の瞳がわずかに見開かれる。さっきまでそこにあった柔らかな熱が、すっと引いた。
「……そうか」
次いで口をついて出かけた言葉を途中で飲み込み、一度視線を伏せた。
ほんの一瞬だった。
「……謝ってほしいわけじゃないよ」
顔を上げたゼインは笑おうとしたようだったが、いつものようにはいかなかった。
「好きになったのは俺の勝手だし。君が同じように思えないなら、それは仕方ない」
「え?」
「だから、そんな顔しなくていい」
その言葉に、今度はルミナの方が慌てた。
「違います」
「……何が?」
「今の『ごめんなさい』は、そういう意味ではありません」
ゼインがぴたりと止まる。
「……そういう意味じゃない?」
「はい」
「じゃあ、どういう意味?」
明らかに、さっきまでより食いつきが早い。
ルミナは少しだけ言いにくそうに視線を落とした。
「あなたの気持ちを、今まで軽く考えていてごめんなさい、です」
「……俺の気持ちを?」
「はい」
ゼインと話すのは楽しい。 診療所へ来れば、以前より少し嬉しい。 行方が分からなくなったと聞いたときは、あれが最後だったらと本気で怖くなった。
それなのに、好きだと言われても、なんでもないことのように言うから、どこかで彼の好意まで軽やかなものだと思っていた。
けれど、違った。
ゼインはしばらく黙っていたが、やがて恐る恐る確かめるように口を開いた。
「……それは、拒絶って意味じゃない?」
「違います」
迷いのない返事だった。
その瞬間、張り詰めていたものがほどけたように、ゼインの肩から力が抜けた。
「……よかった」
心の底から安堵したような声にルミナが目を瞬く。ゼインは片手で顔を覆い、そのまま深く息を吐いた。
「今、本気で終わったと思った。もう君に会いに来るのも迷惑だって言われるのかと」
「そこまでは言っていません」
「『ごめんなさい』から始まったら普通そう思うだろ」
「……それは、すみません」
「分かってる。今は」
顔を上げたゼインは苦笑していたが、その瞳にはまだ動揺の名残があった。
ルミナはその顔を見て、改めて思う。
この人は、本当に。
自分が思っていたより、ずっと真剣だった。
「……ゼインさん」
「うん」
「私は、たぶんあなたほどではありません」
ゼインは何も言わず、続きを待つ。
「仕事の方が大事ですし、恋人が欲しいとも今は思っていません。それに、ゼインさんが来るたびに『今日も来たんですか』とは思っています」
「そこは知ってる」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
ルミナもわずかに笑う。
「押しも強いですし、ときどき無茶もします」
「うん」
「人の話を聞いているのか分からないときもありますし」
「……結構出てくるな」
「ですが」
そこで、ルミナは顔を上げた。
「嫌いではありませんよ」
ゼインの表情が止まる。
「むしろ、かなり好ましい方だと思っています」
その灰色の瞳に、かすかな期待が浮かんだ。
「……それって」
「人として、です」
「……そっか」
分かりやすく肩を落としたゼインを見て、ルミナはほんの少し迷った。
ここまで言う必要があるのかは分からない。
けれど、さっき彼が見せた顔を思い出すと、曖昧なままにしておくのも違う気がした。
「ただ」
ゼインが顔を上げる。ルミナは一度だけ視線を逸らしてから、小さく付け加えた。
「……男性としても、嫌いではありません」
今度こそ、ゼインが完全に言葉を失った。
「……ルミナ」
「何ですか?」
「今、それ俺に言って大丈夫?」
「どういう意味です?」
ゼインが一歩だけ近づいた。それまでにあった軽い雰囲気が、すっと消える。
「俺、それを聞いて満足して、じゃあこれで引く、なんて無理だよ」
その低い響きに、ルミナの胸がかすかに跳ねた。
ゼインはそれ以上近づくことはせず、ただまっすぐ彼女を見る。逃げ道を塞ぐようなことはしない。けれど、視線だけは逸らさなかった。
「嫌いじゃないって言ってくれるなら」
一拍置いて、ゼインははっきりと言った。
「俺は絶対に、君を諦めない」
ルミナの胸の奥が、どくりと大きく鳴った。
「……絶対」
「ああ」
即答だった。
「いつか君の方から、俺に会いたいって思わせる」
力強い声に、ルミナは返事をしようとして、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
いつものゼインなら、また大きなことを言っていると呆れただろう。けれど今は、そう思えない。
まっすぐ向けられた灰色の瞳から逃れるように、ルミナはわずかに視線を逸らした。
「ずいぶん自信がありますね」
どうにか普段通りに返したつもりだったが、自分でも分かるほど声がわずかに上ずっていた。
ゼインも気づいたらしい。瞳がわずかに細められる。
「今、ちょっとどきっとした?」
「していません」
「へえ」
明らかに嬉しそうな声だった。
ルミナは眉を寄せる。
「……もう普段のゼインさんに戻りましたね」
「だって、ものすごく希望もらったから」
「そんなつもりでは」
「もう遅いよ」
ゼインが笑う。けれど、その笑顔の奥には、先ほどの真剣な眼差しがまだ残っていた。
そのとき、診療所の外から低い鳴き声が響いた。聞き慣れた声に、ルミナが扉の方を見る。
「……ヴァルド?」
「ああ。連れてきた」
「最初に言ってください」
「俺よりヴァルド?」
「当然でしょう。元患者ですから」
「さっき俺のことを好きと――」
「言ってません。嫌いじゃないと言ったんです」
「でも、男性としても嫌いじゃないって言ったよな?」
「それとこれとは別です」
「……先は長いな」
「諦めないんでしょう?」
何気なく返した言葉に、ゼインが一瞬黙った。それから、今までで一番嬉しそうに笑う。
「ああ。もちろん」
自分から言ったくせに妙に落ち着かなくなり、ルミナは逃げるように立ち上がって扉を開けた。
そこには、青みを帯びた濃い銀灰色の大型竜が待っていた。
「ヴァルド」
名前を呼べば、大きな頭がすぐに下りてくる。
ルミナはその額へ手を添えた。
艶のある鱗も、力強い呼吸も、申し分ない。初めて出会った日の瀕死の姿からは、もう想像もできないほど元気だった。
その隣へ、ゼインも並ぶ。
「ルミナ」
「何です?」
「明日も来ていい?」
先ほどまでの真剣な空気が一瞬で崩れ、ルミナは思わずため息をついた。
「仕事の邪魔をしなければ」
「いいの?」
「今までも来ていたではないですか」
「それは勝手に来てたから。許可もらうのは違う」
嬉しそうな顔をしている。
その姿がなんだか、大きな身体で尻尾を振っている犬のように見えて、ルミナは思わず少し笑った。
「……明日だけではないんでしょう?」
確かめるように呟くと、ゼインは笑みを浮かべたまま、それでも静かな声で答えた。
「君が本気でもう来るなって言わない限り」
その言葉に、また胸の奥が小さく鳴った。
本当に困った人だ。
けれど、その真っ直ぐさに少しずつ心を動かされていることを、もう自分でも分かっていた。
「では、頑張ってください」
ゼインが目を見開く。
「……それ、期待していい?」
「どうでしょうね」
そう言ってルミナが笑う。その瞬間、ゼインの顔がぱっと明るくなった。
「ルミナ」
「何です――」
言い終わる前に、ゼインが両腕を広げて一歩近づいてくる。何をするつもりなのか悟ったルミナは、反射的に半歩下がった。
「ちょっと待ってください」
「今のはかなり嬉しかった」
「だからといって、なぜ抱きしめることになるんです?」
「嫌ならやめるけど」
「その確認をする前に腕を広げないでください」
「じゃあ嫌?」
「今は駄目です」
「今は、か」
「そこを拾わないでください」
ゼインは嬉しさを隠す様子もなく、もう一歩距離を縮めようとする。どうやら本気らしい。
ルミナは困ったように眉を寄せ――ふと、その向こうにいるヴァルドと目が合った。
じっと見つめる。
――助けて、ヴァルド
言葉にしたわけではない。
それでも何かを察したらしいヴァルドが、ぐい、と大きな頭を二人の間へ差し込んできた。
「うわっ」
ゼインが思わず身を引く。その隙にルミナはヴァルドの首元へ回り込んだ。
「ありがとう、ヴァルド」
「グルル」
得意げに喉を鳴らす銀灰色の竜を、ルミナは丁寧に撫でる。
「おい、ヴァルド」
「グル」
「今の絶対わざとだろ」
ヴァルドはゼインを一瞥すると、再びルミナへ頭を寄せた。
「……十年一緒にいる俺より、ルミナの味方するのか?」
「日頃の行いでは?」
「君まで言う?」
ルミナは口元を押さえて笑う。
ゼインは不満そうにヴァルドを睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「まあいいや。今日はヴァルドに譲る」
「今日は?」
「言っただろ?」
ゼインは、もうすっかりいつもの笑顔に戻っていた。
「絶対に諦めないって」
一頭の傷ついた竜を救ったことから始まった縁だった。
その竜が自分に懐き、気づけばその竜騎士まで足繁く通ってくるようになった。
最初は、随分と人懐こい人だと思っていただけなのに。
ルミナはヴァルドの額を撫でながら、わずかに口元を綻ばせた。
それでも今は、この熱心すぎる竜騎士にもう少し懐かれていても悪くない。




