第1話「暇を極めたトリックスター」
見渡す限りの木々。
片手にはたった一つの携帯浄水器。
「本当にこれ一つで異世界に放り込みやがった……あの神。どうしろと……?」
◇
六月の終わり。
仕事を終えた俺──水瀬凪は、いつものようにホテルの裏口から出た。
客室清掃員として働き始めて数年。
華やかな仕事ではないけど、嫌いじゃない。
寧ろ向いてるとすら思う。
決められた場所を綺麗にして、決められた時間内に終わらせる。
そういう単純作業は好きな方だ。
「今日も疲れたなぁ……」
伸びをしながら空を見上げる。
梅雨明け前だというのに雲一つない空は茜色に染まっている。
明日は休みだ。
帰ったら夕飯の後にでも途中まで作ってあるジグソーパズルの続きをしよう。
冷凍庫には作り置きの餃子もある。
今日は大葉入りにするか、はたまたラードをたっぷり使った肉汁ジュルジュルの方にするか……。
想像するだけでお腹が鳴りそうだ。
「そうだ、帰る前にホームセンター寄らないと」
餃子の焼き過ぎか唐揚げの揚げ過ぎか、愛用しているフライパンのコーティングが剥げてきた事を思い出した。
ゴミ袋も切らしていた気がする。
フライパンの新調ついでにゴミ袋も買おう。
餃子は焼き加減も大事なんだから。
俺は駅前のホームセンターへ向かった。
◇
店内は平日の夕方という事もあって、それほど混んでない。
目当てのフライパンとゴミ袋を買い物カゴへ放り込む。
会計へ向かおうとして、ふと防災用品コーナーが目に入った。
非常食。
懐中電灯。
携帯ラジオ。
簡易トイレ。
どれもこれも一度は見た事のある物ばかり。
日本は自然災害が多い国だ、備えはあって困る物じゃない。
何となく棚を眺めながら、自分の肩掛け鞄に視線を落とした。
中には数年前に防災用として買った携帯浄水器が入ってる。
幸いながらまだ一度も使った事はない。
「ま、お守りみたいなもんだよな」
売り場を後にすると、会計を済ませてホームセンターを出る。
夕暮れの街は仕事帰りの人々が行き交っている。
信号を渡り、商店街を抜ける。
あとは十分ほど歩けば自宅だ。
今日は餃子を焼いて、風呂に入って、パズルを完成させてから寝る。
完璧な休日の前夜。
そう思っていた。
──視界が白く染まるまでは。
「……は?」
思わず足を止めた。
辺り一面真っ白で何も見えない。
人も、建物も、全部消えた。
「な、んだ……これ……」
身体が浮くような、足元が消えたような感覚。
頭がクラクラする。
そして、次の瞬間。
俺は見知らぬ場所に立っていた。
「……」
言葉が出ない、脳がフルスロットルしてるけど理解が追い付かない。
広い。
とにかく広い。
床は磨き上げられた黒い石。
壁には見た事もない宝石が埋め込まれている。
高い天井からは巨大なシャンデリアが幾つも吊り下げられていた。
まるでどこかの王宮だ。
いや、王宮だとしても良い趣味をしているとは到底言えない。
豪華過ぎる。
宝石が多過ぎて成金趣味にも程がある。
そんな感想が頭を過ぎった時だった。
「へぇ」
男の声がした。
ゆっくりと振り返り視線を上げる。
そして俺は固まった。
部屋の最奥。
数段高くなったその場所。
そこにあったのは──
玉座だった。
しかも無駄に豪華な。
金色で宝石だらけの装飾。
威圧感だけは一流。
そして、その玉座に座る男。
長い黒髪。
金色の瞳。
整い過ぎている顔立ち。
長い足を組み、肘掛けに頬杖をつき、ひどく退屈そうな気怠げな顔でこちらを眺めている。
顔だけなら芸術品の域だ。
だけど──
(なんか胡散臭い)
何故か真っ先にそう思った。
男は俺の視線に気付くと、口元を僅かに緩めた。
「来たか」
「……」
「どうした」
「いや」
どうしたと言われても困る。
困るどころの話じゃない。
「あのぉ……ここ、どこですか?」
「俺の領域だ」
「だから、どこですか?」
「俺の領域だ」
会話が全く成立しない。
頭が痛くなってきた。
誘拐だろうか。
いや、誘拐にしては規模がおかしい。
そもそも、どうやって一瞬にしてこんな場所に連れて来た?
さっきまでいつも通りの帰り道だったはずなのに。
「……どちら様ですか?」
恐る恐る尋ねると、男は当然のように答えた。
「ロキだ」
「知りません」
「そうか」
そうか、じゃない。
この状況の説明をして欲しい。
「神だ」
「もっと訳分かりません」
「そうか」
「そうかじゃないんですよ」
思わずツッコんでしまった。
男──ロキは少しだけ目を丸くした。
そして何故か面白そうに笑う。
「お前、面白いな」
「何がですか。全然面白くないです」
「そうか」
そうか、じゃない。
本日二度目である。
「まず、状況説明をお願いします」
「暇だった」
「はぁ……で?」
「だからお前を呼んだ」
「意味が分からない」
本当に意味が分からないし、何一つ説明になっていない。
「いや、待って下さい」
「何だ」
「暇だったから俺を攫ったんですか?」
「そうだ」
「犯罪ですよ」
「神だぞ」
「免罪符になってません」
なるほど、この男は駄目だ。
顔は良いが駄目だ。
非常に駄目だ。
胡散臭さの正体が分かった気がする。
「まぁ、安心しろ」
何も安心出来ない。
「お前を異世界へ送るだけだ」
「すみません。安心材料が一つもないんですけど」
「そうか?」
「寧ろあります?」
「……ないな」
どうやら自覚はあるらしい。
尚更質が悪い。
ロキは玉座の肘掛けに頬杖をついたまま、退屈そうに金色の瞳を細めた。
「俺は退屈が嫌いだ」
「はぁ」
「だから面白そうな事を探した」
「はぁ」
「そして見付けた」
「嫌な予感しかしない」
「お前だ」
やっぱり俺か。
何となく知ってた。
「普通に嫌なんですけど」
「そうか」
「帰して下さい」
「嫌だ」
「何故」
「面白そうだから」
理不尽である。
ここまで理不尽な理由を聞いたのは人生で初めてかもしれない。
ロキはゆっくりと玉座から立ち上がった。
長い黒髪がさらりと揺れる。
顔は良い。
本当に顔だけは良い。
「とは言え、手ぶらで放り込むのもつまらん」
「つまるつまらんで判断しないで下さい」
「好きな物を一つだけ持って行け」
「持って行く……?」
「異世界へ」
サラッと言われた。
異世界。
小説やアニメならよく聞く単語だ。
だけど実際に言われると全く笑えない。
「一つだけだ」
「いや、急に言われても……」
財布。
スマホ。
社員証。
家の鍵。
思い浮かぶ物はどれも異世界で役立つ気がしない。
日本円が異世界で使えるか、電波が異世界に飛び交ってるか……確実に無いな。
ロキは面倒そうに溜息をついた。
「鞄ごと見せろ」
「嫌です」
「見せろ」
「人権」
「神権」
「聞いた事ないです」
ロキが指を鳴らした次の瞬間──
「うわっ!?」
肩に掛けていた鞄が勝手に浮いた。
「返して下さい!」
「後で返す」
「信用出来ない!」
鞄はゆっくりとロキの元へ飛んでいく。
当の本人は玉座に座り直しながら、中身を一つずつ宙へ取り出し始めた。
「財布」
「はい」
「板」
「スマホです」
「ふむ」
「社員証」
「返して下さい」
「鍵」
「だから返して下さい」
完全に家宅捜索ならぬ鞄捜索だった。
しかも勝手に。
神様に個人情報保護法は適用されないのだろうか。
いや、して欲しい。
切実に。
そんな事を考えていると、ロキの手がぴたりと止まった。
「ほう」
金色の瞳が興味深そうに細められる。
その視線の先にあったのは──
「携帯浄水器?」
見慣れた筒状の道具だった。
防災用として常に持ち歩いている物。
「これだ」
「いや」
「これにしよう」
「いや」
食い気味に否定する。
「ただの携帯浄水器ですよ?」
「水を綺麗にする物だろう?」
「そうですけど」
「面白そうだ」
駄目だ、嫌な予感しかしない。
「いやいやいや」
俺は慌てて首を振った。
「異世界ならもっと良い物ありますよね?」
「例えば」
「剣とか」
「使えるのか?」
「無理です」
「却下だな」
「魔法の本とか」
「読めるのか?」
「多分無理です」
「やはり却下だな」
「……」
どれもこれも駄目だった。
と言うか、異世界へ行く前提で話が進んでる。
まだ俺は了承した訳じゃない。
「どうせ携帯浄水器など役に立たんだろう」
「ですよね!?」
「だからこそ面白そうだ」
「何でそうなるんですか」
ロキは楽しそうに笑った。
嫌な笑顔だ。
「決めた」
「俺は決めてません」
「これを持って行け」
「人の話を聞いて下さい」
「聞いている」
「聞いてないですよね?」
「聞いている。……何か話していたのか?」
やっぱり聞いてないじゃないか。
会話が一向に進まない。
ロキは満足そうに携帯浄水器を俺に放り投げた。
それはふわりと浮かび、そのまま俺の胸元へ届く。
「では行ってこい」
「待って下さい」
「何だ」
「まだ心の準備が……」
「不要だ」
「いや」
「不要だ」
「だから」
「不要だったら不要だ」
駄目だ。
この神、会話で説得出来る相手じゃない。
俺が絶望しかけたその時。
ロキは何かを思い出したように顎へ手を当てた。
「ああ、そうだ」
「帰してくれるんですか」
「誕生日は三月十三日だな?」
「何で知ってるんですか」
「財布の中の免許証」
「最悪だ」
個人情報が筒抜けだった。
ロキは満足そうに頷く。
「良い日だ」
「何がです」
「俺の日だ」
「違います」
「三も十三も俺の数字だからな」
「違います」
心底どうでもいい話だった。
だがロキは本気らしい。
金色の瞳がやたらと輝いてる。
この神様、もしかしなくてもかなり面倒臭いのではないだろうか。
今更ながらそんな事に気付いた。
「では」
ロキが笑う。
この笑顔に嫌な予感しか覚えない。
「良い異世界ライフを」
「待てぇええええ!!」
世界がひっくり返った。
視界が光に埋め尽くされる。
浮遊感の直後に落下感。
胃が持ち上がるような感覚。
そして──
どさり。
背中に衝撃が走った。
「っ……!」
目を開けると、見えるのは青々とした木々。
湿った土の匂い。
鳥の鳴き声。
風に揺れる葉。
「……」
森だった。
「本当に送られた……」
呆然と呟く。
帰宅して餃子を焼くはずだった。
ジグソーパズルを仕上げるはずだった。
なのに俺は今、何故か森に居る。
何もかも意味が分からない。
と言うか、分かりたくない。
手には筒状の何かの感触。
見てみると携帯浄水器。
「本気でこれだけ……まぁ、海外の水道水は飲めないって聞くし……異世界なら尚更、か」
辺りを見渡し、もう一度手元の携帯浄水器を見る。
「……だからって」
これでどうしろと。




