雪深い森の中へ
《シアン視点》
オレがペンダントを懐に仕舞い直していると、イヴが口を尖らせながらレイルに言った。
「じゃあ、薬局のおじさんも私と勝負しようよ。ちょっとだけ遊ぼう?」
「うーん、だけど僕は今のままじゃシアンよりも弱いから、イヴちゃんの相手にはならないよ」
「そうなの? シアンより弱いの?」
レイルの答えに、イヴは少し残念そうに肩を竦める。
その様子に、オレは意を決してイヴに言った。
「―――……あー、その事だけどなイヴ。今後、ガラム叔父さんに訓練をみてもらおう」
「え?」
イヴが驚いたようにオレを見上げてきた。
叔父さんは、以前オレにこう言ったのだ。
『―――もしあの子が、自分の手に余ると感じれば、いつでも私に預けてくれて構わない』
あの時はなんのことか分からず、愚かにもその好意を鬱陶しくすら思ったものだ。
でも叔父さんは、オレがイヴに戦い方を教える前から、こうなることに気付いていた。そしてオレは気付けなかった。……完全な力不足だ。
この数カ月、何とか無理して粘ってはみたけど、もう流石に限界だった。
完全にオレのキャパシティーを超えている。これ以上は、もうイヴの足を引っ張るだけでしかない。
……正直、手を離すことに寂しい思いはある。
でもイヴの為には、自分の力不足を認めて、ちゃんと背中を押してやるべきなんだ。
「なぁ、イヴ。ハッキリ言って訓練に関しては、オレもイヴに教えられる事はもう無いんだ。だがイヴはまだ強くなりたいんだろ? オレもイヴなら、もっともっと強くなれると思う。だからその為にも、今後は叔父さんに教えてもらおう。な?」
それを聞いたイヴは、急に焦ったように顔を歪ませた。
オレはイヴの肩に手を置きながら、笑顔を浮かべながら優しい口調で言う。
「別に叔父さんと暮らせって訳じゃない。訓練の間だけだよ。オレと訓練してた時間が、叔父さんになるだけだから」
その時ふとクロが声を上げ、オレに駆け寄ってきた。
「あれ? ロゼ寝ちゃったの? 父ちゃん! ロゼがなんか急に寝ちゃった」
「ん? 本当だ。どうしたんだろうな? 雪遊びで疲れたのかな?」
クロは手のひらの上で眠るロゼをオレに差し出し、オレはそっと受け取ると、ロゼをポシェットに寝かせつけた。
そしてまたイヴに向き直った時、イヴは眉間にシワを寄せ、口を尖らせていた。
そして不機嫌そうにオレに尋ねる。
「……クロは?」
「ん? クロ? 訓練の事か? クロはオレがみるぞ。クロは叔父さんに頼むどころか、まだ基本も始めてないしな」
オレがそう答えた瞬間、突然イヴの顔が歪んで、その目にジワリと涙が浮かんだ。
「イ、イヴ? どうした?」
「―――……いやだ。シアンがいい」
「え、でもオレじゃあ……」
イヴは泣きながらポツリと拒絶したかと思うと、次の瞬間、堰を切ったようにオレを怒鳴りつけてきた。
「っちゃんとやってよシアン! 何でそんなに弱いの!? シアンは弱すぎるんだよ!」
「……うん。ゴメン」
……ハッキリ言われるとキツイなぁ……。
「シアンが私に教えてくれるって言ってたのにっ、シアンのウソつき!!」
イヴは震える声でそうオレに叫ぶと、くるりと踵を返し森の奥へと向かって走り出した。
「イヴ!?」
オレはイヴを呼び止めようとしたがイヴは振り返らず、瞬く間に森の奥へと消えた。
「待ってよイヴ!!」
「あっ、ちょっとクロ君!?」
「待てっ、イヴ! クロ!!」
直後クロが飛び出し、イヴを追って森へと走り出す。
オレも当然の如く二人を追って駆け出すが、その腕を掴まれ、オレは引き止められた。
「待って、シアン!」
オレは腕を掴んだレイルを睨んだ。
「何すんだよっ、離せっ!」
「落ち着きなよ。あんだけやられといて、シアンが早々に単独でイヴちゃんを見つけられる筈ない。まず応援を呼ぶんだ」
「ならお前が呼んでくれよ。子供だけで森の中は危険すぎる」
「……僕の呼び出しには誰も応じないよ。それに今のイヴちゃんなら“内情”を知らせていない【下級魔物】程度には間違っても負けないよ」
「だがクロはただの子供だ」
オレがそう反論すれば、レイルはどこか微妙な表情をした後、腕を離して溜息混じりに言った。
「―――クロ君も大丈夫。あの子はこの【獣の国】ではある意味最強の存在だ。下手すれば僕らの誰より、イヴちゃんを迅速に見つけ出せるよ。なら人手は多いに越したことはない」
「はぁ?」
オレはあまりの買い被りにレイルを睨んだが、この男の言う事は大抵正しいことも事実。
「何れにしろ、クロ君には【コアの御守】を持たせてる。どこに行こうが僕にはすぐ分かるよ」
「何?」
「僕なりの保険だよ。別にそれで何かしようなんて気はない」
ソッポを向きながらそう断言したレイル。
オレは焦りを必死で抑えながら頷き、レイルの言ったように【仲間達】に集合をかけたのだった。
◇
《クロ視点》
森の奥へと続くイヴの足跡を追って、おれは雪の中を走っていた。
雪の上に続く足跡を追いながら、おれは唇を噛み締める。
―――イヴが泣いてた……怒ってた。イヴの怒ってるところなんて初めて見た。
……でも父ちゃんは悪くない。父ちゃんはいつもイヴの事を一番に思ってる。……悪いのはおれなんだ。
おれの身体が弱いから、父ちゃんをいつもおれが取ってしまってる。
イヴは優しい。
おれがイヴに怪我させても、おれのせいで父ちゃんと遊べなくなっても、それでもイヴはおれに笑ってくれてた。
仲良くしてくれてた。……それにおれは甘えてた。
でもちゃんと謝らなきゃ。『ゴメン』って。
父ちゃんは悪くない。おれがちゃんと謝って、イヴと父ちゃんを仲直りさせてあげないと……。
だけどイヴの足跡は唐突に途切れた。
最後の一歩がより深く雪を沈ませてるから、多分木に登ったんだろう。
そして今は木の上を伝って、もう何処か遠くに移動してる。
足跡はなく、もう付近にイヴの気配もない。
おれは途方に暮れ辺りを見回した。
すると視界の一点……一本の樹の後ろで、何か大きな黒い影が動いた。
グルルルル……
低い唸りをあげながらのそりと出て来たのは、真っ黒い狼【シャドーウルフ】だった。
図鑑で見たことがある。光の魔法を使って影で撹乱するA級の魔獣。
体長は二〜三メートル程で、単体でもかなり強いけど、群れで狩りをすることが多いとのこと。チームワークがずば抜けた『森の狩人』の異名を持つ有能なハンターだ。
おれはジリっと一歩後退った。
おれはイヴみたいに強くないし身軽でもない。
いつもは助けてくれる父ちゃんもいない……。
震える手を突き出しながら、二歩三歩と下がりながら、ゆっくりとシャドーウルフに話しかけた。
「ごめんね。君の縄張りだったの? おれ、イヴを探してたの」
高位の魔物は知能も高く、人語を話す者もいると聞いたことがある。
だけどそれ以前に人間は彼らにとって食べ物以外の何者でもない。
唸っていたシャドーウルフが、突然ザッと雪を蹴って跳躍した。
「わ!?」
そのひと蹴りでシャドーウルフは、数メートルは離れていたおれの目の前に着地する。
……大きい。全長三メートルを越すその巨体は、同種の中でも最大クラスだろう。
おれはその巨体に震え上がってしまい、身体を硬直させた。
シャドーウルフはおれを見下しながら、突き出したままのおれの手に鼻先を近付けてきた。
フンスン……フンフン……フンス……
シャドーウルフは何かを確認する様に、おれの手の匂いを嗅ぐ。……おれが食べられるものか、確認してるのかな?
そして次に牙の並んだ大きな口が開かれた時、おれはもう駄目だと思って固く目を閉じた。
―――ペろ……
だけど直後に手に感じた思いがけず柔らかい感触に、おれは驚いて目を開けた。
「……え?」
シャドーウルフが親しげに、おれの手を舐めていたのだ。
しかも耳を伏せ、喉の奥から掠れた甘えるような声をあげている。
「クーン、キュン、キュン、キュン……」
おれは思わず手を延ばし、この友好的なシャドーウルフの眉間から鼻先をそっと撫でた。
おれに撫でられ、嬉しそうに目を細めるシャドーウルフに、おれはおそるおそる声を掛ける。
「―――君、友達になってくれるの?」
「ウォン!!」
シャドーウルフは間髪入れずそう一吠えすると、尻尾をバサバサと振った。
おれはその風圧に巻き上げられる雪を、頭から被りながら笑った。
「おれクワトロ。みんなにクロって呼ばれてる。君は……“シャドウ”って呼んでいい?」
「ウォン!」
尻尾を振りながら吠えるシャドウ。どうやら気に入ってくれたみたいだ。
「ねえ、イヴを知らない? おれと同じくらいの人間の女の子なんだ」
するとシャドウはおれに背を向け、乗れとでも言うように腰を降ろした。
おれはありがたく思い、この友達の背に登ろうとその毛皮に手をかける。
―――だけどその時だった。
突然森の中から、幾十もの獣達の唸り声が森を揺らす程に響き渡った。
「フーッ!!」
「カココココッ」
「ジュララララララ!!」
「グルルルル……」
驚いて周りを見渡せば、今まで何の気配も無かった木陰や雪の下から、次々と様々な獣達が這い出して来る。
スノーウルフに、コカトリス、バジリスクに、ジャイアントベア……図鑑で見た事があるけど、どれもシャドーウルフと同格、若しくはそれ以上に強いとされる、凶悪な魔獣達だった。
―――何故こんな所に? 彼らの住処はもっと森の深層のはず……。
おれはそう疑問を感じながらも、一つの事実に再び身を強張らせた。
……そう。目の前の獣達がおれ達に向ける、明らかな“殺意”に。
おれはその寒気のする殺意にあてられ、膝から下の力がカクンと抜けた。
……あ、こける。
そう思った時だった。
シャドウがおれを背中に掬い上げるように乗せて立ち上がった。
そしてシャドウはおれを背に乗せると、数多の獣達を振り切ろうと、高く高く跳躍したのだった。
この駄犬め!




