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わが青春の泉荘  作者: 田久青
15/22

夏の福岡(後編)

東京の最も南のエリアに大田区がある

大田区の中で最も大きな街が蒲田だ

新編武蔵風土記によると、かつて蒲田は梅の木村と呼ばれ、梅の名所だった

江戸時代には歌川広重が蒲田の梅を描いていて、蒲田梅屋敷と呼ばれたらしい

現在でも蒲田の属する大田区の「区の花」は梅である。

JR蒲田駅より東急池上線の蓮沼駅の方が近い場所にそのアパートは建っていた

年季の入った木造モルタルの2階建

ひび割れ模様の広がった外壁

歩くとギシギシときしんだ音がする渡り廊下

風呂なし共同トイレで部屋は6畳一間

そのアパートの名前は「泉荘」

やっとの思いで高橋君のアパートを見つけた頃は日も大きく傾き夕暮れ時になっていた


そして真夏の熱風も少しだけ柔らかくなっていた


高橋君のアパート住人は全て福岡大学の学生だった


共同玄関には何足もの靴が氾濫している


「泉荘」より狭くて汚かった


入口の下駄箱の上には小さな水槽が置いてあり赤い金魚が1匹泳いでいた


「なんで金魚一匹しかおらんと?」


高橋君に何気なく質問すると


「前は5匹くらいおったけど、酔っ払った勢いで酒の摘みに食べてしまう奴のおるっちゃんね」


想像したら気持ち悪くなった


お腹がペコペコだという僕らの事情を高橋君に話すと


飲み代は高橋君に後で返すことを条件に高橋君の行きつけの焼き鳥屋に3人で向かった


小さな焼き鳥屋だったがほぼ満席の店内には活気があった


入口に近い2人掛けのテーブルに小さな丸椅子をつけてもらい僕ら3人はそこへ座ることができた


僕はその店で生れて初めてホッピーという飲み物を飲んだ


今でこそホッピーはポピュラーな飲み物になっているが、


当時は生ビールより安いというだけの怪しい飲み物だった


「ホッピーって安かね~」


僕が言うと


「そうたい、ホッピーば飲んでハッピーにならんばたい!」


いつもは笑えない高橋君のジョークにも


高橋君のおかげでやっと食べ物にありつけるため


「面白かことば言うねぇ~」


と無理やり受けて笑って見せる


約2時間くらい経つと


「僕は今日中に長崎に帰らんば!」


と言って、上田君は天神行きのバスに乗って慌ただしく帰って行った


僕は高橋君の部屋に泊めてもらうことになり高橋君のアパートに向かった


8部屋くらいある2階建てアパートのいくつかの部屋から


賑やかな声が聞こえていた


高橋君が言うには


丁度その日が福岡大も夏休みに入ったばかりで


実家にまだ帰っていない学生たちが安酒での宴会を開いているのだろうということだった


高橋君の部屋で飲みなおして小一時間くらい経った頃だろうか


「なんか、くそない?」


高橋君が鼻を上に向けて言う


「ん?・・・ほんとや、たしかに臭か!」


焦げくさい臭いがどこからか流れてくる


高橋君と廊下へ出ると、その臭いはどうやら隣の部屋からだった


高橋君が隣の部屋のドアをノックするとほぼ同時に手前に開けた


高橋君と二人で中に入ると真っ暗な部屋の中で丁度真ん中あたりに炎が上がっている


「え~?火事か?」


二人で慌てて中に入り部屋をよく見渡すと、誰か座っている


「内藤君、なんしよっとや?」


内藤君は高橋君の知りあいらしい


「あ、ご、ごめん高橋君、で、でんきばクサ、と、とめられてしもうてクサ


 へ、へやの暗かけんクサ、ゴ、ゴミ箱にあったゴミば燃やしよったとさクサ」


ちょっと変わった高橋君の友達内藤君は少し吃音でやたらクサが多い


高橋君は、内藤君の部屋に上がり込むと締め切った窓を全開にした


「内藤君、二酸化炭素中毒になってしまうばい」


怒った口調で高橋君が言う


「あ、そ、そ、そうクサね」


内藤君が言う


その後、内藤君も高橋君の部屋に来て3人で飲みなおす


内藤君は少しおっとりしているが気のいい奴でその後ずっと


「高橋君はぼ、ぼ、ぼくの命のお、お恩人クサ」


と言い続けていた



翌朝、僕は早めに起きて長崎に帰ろうと、まだ寝ている高橋君に


「そいじゃあね」


と言って共同玄関に向い、靴を履こうと自分の靴を探す


「あれ?靴の無か!」


独り言を呟きつつ、下駄箱の中を探してみる


しばらく、何度も何度も下駄箱を開けたり閉めたり


いくら探しても僕の靴がない


段々、目の前が暗くなってくる


東京を出る前の日、長崎での夏休みを充実させるために


丸井のクレジットで12000円を2000円の6回払いで買った


当時流行っていたトップサイダーのデッキシューズが無い


長崎で素敵な女性と出会い


待ち合わせをしたヨットの上で


お洒落に裸足で履きこなしていたはずのデッキシューズが無い


簡単にあきらめられる金額でも妄想でもない


半べそをかきながら30分ほど


アパートの共同玄関で自分の靴を探し続けた


諦めきれないまま、もう一度T君の部屋に戻り


「高橋君、靴の無か!」


寝ぼけ眼の高橋君も起きてきて


一緒に玄関で靴を探してくれたが見つからなかった


「誰かが持っていったかもしれんね」


僕の新品のデッキシューズを誰かが持っていったのだろうか


裸足で長崎に帰るわけにもいかず途方に暮れていると、高橋君が


「こいばやるよ」


と言って、靴を持ってきた


見るとアディダスのスニーカーTOBACCOだった


高橋君のお古だったが若者の中では人気のアディダススニーカーのシリーズものだった


僕は高橋君に礼を言うと外へ出た


外へ出る時、下駄箱の上の水槽を見ると


さっき靴を探しているときは気が付かなかったが


一匹だけ泳いでいた金魚がいなくなっていた


僕の靴と金魚はいったいどこへ・・・



100円玉を告白できなかった自分本位の行動への罪悪感


自分本位の行動に予期せぬ試練が待ち受けるという現実


靴を盗む人間がいるという事実


気持ちよくブランドの靴をくれる優しい友人がいるという事実


そして、履いてもいない靴のローンを払い続けるこれからの僕


19歳の夏は二度と帰ってこない



お読みいただきありがとうございました。

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