旧校舎
葛城高校の広い敷地には五年前に完成した新校舎と、使われなくなった旧校舎が隣接している。新校舎の磨き上げられた窓ガラスは朝陽や夕陽を反射させ、光の欠片を振りまいてくれていたが、暗い竹林を背負った旧校舎は違った。今にも倒壊しそうなこの古い校舎は竹林の影に呑まれ、朽ちた壁の切れ目からは澱んだ空気の漏れる音が常に聞こえていた。その音は辺りが夕闇に包まれると、巨大な生き物の唸り声に思えて不気味だった。
放課後になった今、僕たちは旧校舎の昇降口前にいる。
午後の陽射しと夕闇の間にある太陽は、昼間よりも黄金の色が強い。どっしりとした雲の下腹と旧校舎の曇った硝子窓が黄色く光っていた。
「なんで僕がこんな目に」
我が校と無人航空開発部のレシプロ機を破壊した罰でここにいる僕。
「それ、あたしが言う台詞だと思うけど」
同じ飛行部の一員であるユキは僕の逃亡を防ぐ監視役。
「俺は自業自得か」
今朝、サッカーボールで窓硝子をぶち抜いた男子生徒。
「私は悪くないです、学校のセキュリティが甘かっただけなのに」
それと、さほど親しくない隣のクラスの小柄な女生徒が一人。
絡みのない僕たち四人の唯一の共通点は、それぞれが何らかの形で事件を起こしたことである。
罰則と不運が複雑に絡み合った結果、廃材にまみれた旧校舎を整理することを先生から命じられた。要は単なるお仕置きだった。
「仕方ない、とっとと片づけちゃいましょ」
ユキはそう言って先生から預かった鍵をちらつかせ、ドアにかけられた褐色の南京錠を外しにかかる。
その姿を見て思わないことがないわけではない。彼女がここにいるのは僕のせいだ。
「あのさ、ユキ」
「なによ?」
「無理して付き合うことないよ。これは僕への罰だ、ちゃんとやる」
鍵を開けたユキが驚いたふうにこちらを振り返ると、彼女の髪がふわりと舞った。
「逃げる気?」
ユキの表情が固くなる。腕組みをしながら訝しげな目を僕に向けた。
「違うよ、雑用に付き合って汚れることないだろ。ユキがそうなると申し訳ない気持ちになる」
「ただの雑用じゃないわ。誰かさんが壊したせいで、うちの部の手持ち飛行機はゼロ。旧校舎の廃材からレシプロ機に使えそうな部品があれば集めろって言われてんのよ、これも飛行部としての立派な活動なの」
「必要そうな部品なら僕もわかるよ」
「こうゆうデリケートな仕事はがさつなあんたには無理」
「なんてことを、僕は繊細なのに」
「繊細な人は飛行機を二度も壊すような無茶はしません」
「わりとショックなんだけど、心ボロボロなんだけど。だいたい僕、操縦うまいし。一式が壊れたのは僕の能力に一式がついてこれなかっただけだし」
「はあ~、これだもん・・・・・・あんた飛行機なくてどうすんのよ。このままじゃほんとに廃部よ」
「それは嫌だ」
「あたしだって嫌よ」
ふん、とユキは不機嫌な顔で鼻を鳴らす。
「飛行部、廃部になっちゃうんですか?」
小柄な女生徒が体をくの字に曲げ、おそるおそるといった具合に聞いてきた。
「このままじゃそうなるわね」
それにユキが頷いて肯定する。
「部員は私達だけだし、蔵雅が無茶ばかりするせいで部費は底をついたわ。大会で結果を残さないと存続が危ぶまれてるんだけど飛行機なくなっちゃったし・・・・・・ああ、もう。頭痛くなってきた」
「僕もなんて言っていいのか言葉もないよ」
「誰のせいだと思ってんのよ!」
犬歯を剥きだしたユキが厳しい表情で怒鳴る。
それを見た男子生徒が僕とユキの顔を交互に見やり、とても自然に聞いてきた。
「えーっと・・・・・・君達って付き合い長い?」
僕もユキもキョトンとする。
「ユキとは幼馴染だけど、それがなに?」
「恋人ってわけじゃないんだよな?」
男子生徒は頬を掻きながら言った。
「「違うけど」」
僕たちは示し合わせたように言う。
「ああ、そうなんだ。すっげー仲いいように見えるの俺だけかな。うん、こういうの本当にあるんだな。初めて見たわ」
納得したというように腕を組んでうんうんと頷いている。
実際、この手の質問は何度かされたことがある。最初は二人とも顔を真っ赤にしてあたふたしたものだが、近ごろは慣れてしまっていた。
「俺、二階堂涼太な。涼太でいい」
涼太という男は颯爽とした姿勢を崩さず、シシシと笑いながら言った。
彼は僕の方をじっと見ているので、僕も名を名乗り、ユキがその後に続いた。最後に残った女の子へ自然と視線が集まる。
その子はおっかなびっくりと、懐いてくれない野良猫みたいに怯えて。
「霜月葵衣、です。葵衣でいいですよ」と言った。
全員の自己紹介が終わった所で、僕は旧校舎の扉を開けた。中はすえた空気が充満しており、コンクリートがむき出しになっている床は埃と虫の死骸で溢れていた。あまり長居はしたくない場所だ。僕たちは鼻をつまみながら、がらんとした廊下を進んで行った。染みだらけの灰色の壁は陽を塞ぎ、そのせいで校舎は薄暗くて寒々しくもあった。
長い廊下の先の突き当りに使われなくなった用具を保管しておく教室がある。教室の扉を開けると静止していた空気が噴き上げた。中は段ボールやら錆びたライン引きやらが置かれていて、雑然としていた。
長方形のくもり窓があるものの、押し込められた備品が溢れて塞いでいるので、白光が差し込むことはない。日中でも見通せないほどの暗闇に包まれていた。
その光景を見てうんざりしていると、涼太が背後から身を乗り出してきた。
「うげ、カビくせえ」
「大半はゴミだが、中には教材も混じっているから注意。それとゴミの分別も変わったからゴミ袋に入れる時は注意しろ、だって」
「なんだそれ?」
「先生が僕たちによこした指示書にそう書いてあるの。あ~あ、今日中に終わるかなこれ」
「これ今日中に終わらせるってことで話進めてたのかよ! アホ教師共、終わるわけねえじゃん。見ろよ、猫の這い出るすきもない」
「蟻だから。それと微妙に使い方間違ってるから」
僕は鼻をつまみながら言った。
だが、文句を言っていても終わらない。僕たちは淀んだ空気の中、ぷりぷりしながらも黙々と作業に没頭した。
教材を段ボール箱に詰めつている時だった。いつのまに隣に来ていた涼太が、唐突に肘を突いて聞いてきた。
「今朝は本当に悪かった」
二階堂という男は颯爽とした姿勢を崩さず、すまなそうに頭を下げた。
「いいって」
「そっちにとっては嫌な出会い方だろうけど、よろしくな蔵雅」
「うん、よろしく」
僕が手を差し出すと、二階堂は驚いた。握手をしてもらえるとは思わなかったようだが、白い歯をのぞかせて笑顔で手を握ってきた。緊張が解けたのか、それからは強張った話し方をしなくなった。
「それでさ、マジでユキちゃんと付き合ってねえの?」
突然そんなことを聞いてくる。二階堂は外見も性格もさっぱりとした男のよう
だった。ぐいぐいと距離を詰めてくるが、本人に悪気はないのだと思う。
「だから違うって」
「ふーん、じゃあ俺が狙ってもいいわけだ」
「やっぱユキって人気なの?」
「男グループがこの二カ月でかき集めたデータの統計によると、ユキちゃんてかなりランキング上位だぜ」
「なにそれ? そんな統計聞いてないよ」
「お、出遅れたな。でもユキちゃんには彼氏がいるってみんな諦めてたんだよなあ。そっかー、フリーなのかー」
僕がいなければ鼻歌でも歌いだしそうなくらい嬉しそうに笑う。
「嬉しそうだね」
「あったりまえじゃんユキちゃんかわいいし・・・・・・あっ!」
急に二階堂が叫んで止まる。僕も驚いて立ち止まった。
「どうかした?」
「忘れてた、俺って蔵雅にボールぶつけて恨まれてたんだ」
にやけていた表情が一変に曇った。手ががくんと落ちて、口端を歪めたまま項垂れてしまっていている。
「それ、ユキには言うなよ。本人まだ気づいてないみたいだから」
「うわーやらかしたぜ。ちゃんとユキちゃんにも謝らないとなあ、口説くのはそれからだ。ま、それまでは他の子を狙おう」
「涼太って女の敵って言われない?」
「いんや、俺って女の子に不自由したことないんだわ」
「すげえこと言ってる」
世の中間違っている。
「そういえば蔵雅はさ、なんで飛行機に乗ってんの?」
なんともコロコロと話題を変える男であった。
頭の回転やら口やらがリスのようにせわしなく動いている。
そんな暇があったら手を動かしてほしいものだと僕は額の汗を拭いつつ、答えに窮していた。
「さっき聞く前から飛行部の噂は知ってたんだ。先輩が引退して、今の部員はお前とユキちゃんの二人だけ。片方のパイロットがとんでもねえって・・・・・・文字通りぶっ飛んでるってさ」
酷い噂のようだ。
「でも俺は、そいつはそれだけ必死なんだと思った」
涼太は裾を捲り上げ、引き締まった二の腕を撫でながら言った。僕を非難しているのではなく、どこか憧憬めいた含みのある言い方だった。
「わけありなんだろ? 飛行機に因縁でもあるのかよ?」
その言葉は僕の心の奥底に刺さる。
ユキと夢を語り合った頃と違い、今は空が嫌いだ。父の夢を奪ったものが平然と飛んでいる空を、昔のようにまっさらな心で見ることができない。
「別に。パイロットだった父さんの影響ってだけだ」
暗澹たる思考の溝に嵌らぬように、僕は強く息を吐いた。
「わりい、つい聞いちまった」
僕の言葉には嫌悪が混じってしまっていたと思う。それを敏感に察知した涼太は、それ以上聞いてこなかった。
「誰かの言葉に励まされたかったのかも」
涼太がぽつりと言った。
「なんだいそれ?」
「いや、こっちの話。気にすんな」
話しかけてきた張本人が一方的に会話を終わらせてしまった。
一度沈黙を帯びた後で話すのも変なふうに思える。それにせっかく涼太の手が動き始めたのだから、ここでまた手を止められては作業がはかどらない。
だから僕もそれ以上の言葉を紡がなかった。喧嘩をしたわけではないが、おかしな空気になってしまう。
ふとユキと共に荷物の整理をしている女生徒に目がいった。僕たちの中でも一番背の低い彼女は全身を使って息をしながら懸命に作業を続けていた。
小さな女子生徒も僕に気づき、びくりと体を震えさせた。ユキと違って幼さの残る容貌に肩までかかるくらいのショートヘアが特徴だ。
「大変そうだね」
僕に警戒の視線を送りつつ、少しクセのある髪の先を指で弄びながらもじもじしていた女生徒が、僕の声を聞いて今一度びくりと震えた。
「君も何かの罰でここにいるの?」
「私ですか? その、自作のデバイスで、学校のデータベースに、ハッキングしたら見つかっちゃって」
女の子は頬を掻いて言った。
「え、なにそれ凄い」
僕が言うと女の子は一瞬だけパッと顔を明るくした。
「簡単だったんです、あの程度のセキュリティならいつでも破れます」
「ハッカー志望?」
「もっとできることあります。機械いじりは得意ですけど・・・・・・体動かすの苦手なんです。ふぃいい・・・・・」
そう言ってうなだれる。彼女の気持ちを代弁するように、額の汗もずるずると頬を流れていく。
人見知りのようだけど話してみると案外、人懐っこい性格なのかもしれないと思う。
「ほら葵衣、手が止まってる」
「うえー、わかってますけどもう手に力が入りませんよぅ」
ユキの言葉に葵衣と呼ばれた女の子はますます萎れてしまった。
机を運ぼうとしているが、背丈の低い彼女の場合は胸よりも高く持ち上げなければ四脚が床に擦れて進めない。
「ぬおお、重いです、腕が千切れそうです」
かろうじて教室の隅まで運びきったが、相当に消耗しているらしい。彼女にこの作業は酷だ。先ほどまでの瞳の輝きは失われていた。息をぜえぜえ言わせ、そのまま教室を出ていこうとする。
「おい、どこ行くんだ」
ジト目をした涼太が言う。言葉のニュアンスから葵衣は彼のストライクゾーン圏外らしいことが伺える。
「ちょっと飲み物を、なんか飲まないとやってられません」
「足取りやばくねえ? 自販機まで行けるか?」
彼の言う通り葵衣の足取りは頼りなく、だらんと下がった腕には筋が浮いていた。
「大丈夫です、コーラかドクペ飲めば元気になりますから」
「んなもん飲んでっから余計のど渇くんだって。しょうがねえな、ちょっと俺も付き合ってくるわ」
葵衣は丸めた背中をピンとのばして身を引いた。
「ひっ、男の人は触らないでください妊娠します」
「するかアホ。すぐ戻っから蔵雅はユキちゃん手伝ってやれよ」
小さく言って、そのまま彼も教室を出て行った。