思いがけない出会い
僕達二人だけが残された。
ユキを手伝おうにも室内は備品やら古書やらが乱雑に散らばっていて、どこから手を付けていいものか悩む。とりあえず葵衣がしていた机と椅子の撤去作業をすることにした。
机を運びながらユキの方へ目をやると、重そうな段ボール箱を抱えて歩いているのが見えた。
彼女がキャビネットに段ボール箱を押し込むと、その衝撃で棚の上に積まれていた箱が落下した。
「ユキ!」
僕は警告より先にユキの手を取って、胸元に引き寄せた。箱は床にぐしゃりと音を立てて落下した。
「危なかったね」
ユキが何も言わないので、僕は胸元に収まっている彼女を見下ろした。彼女の瞳が真直ぐに僕を見ていた。途端に心臓が波打った。すっかり大人びたユキに目を奪われてしまう。
記憶にあるユキは白糸のように華奢な体をしていたのに今は違う。彼女の体は澄み切った潤いを有し、妖艶な輝きに満ちていた。おまけに、女の子らしい起伏もしっかりとある。
それに気づくと握っていた彼女の手や、押し付けている胸から伝わる温もりを意識せずにはいられない。喉の奥が締め付けられて、頬が熱くなった。
「ありがと」
「うん」
僕たちは耳まで真っ赤にしながら離れた。ユキからは果実のような甘い匂いがした。
「まったく、誰かが中途半端に載せたんだろうね。困った奴がいるよ」
「う、うん、ほんとね」
気恥ずかしくてたまらない。
恋人ってわけじゃないんだよな?
二階堂の言葉が唐突に蘇った。昔はそうやって囃し立てられる度に、二人で恥ずかしくなっていた。そんなことはもうないと思っていたのに。
そっとユキを見ると、頬を桜色に染めて乱れた髪を手櫛で整えていた。
ユキとはずっと一緒だけど、僕たちの関係を枠に当てはめるのは難しい。彼女のことが大切だし、異性に抱く淡い感情がないと言えば嘘になる。けれど、傍にいることが当たり前になってくると、この想いを明確にするのも難しいのだ。
「ごめん」
落下した箱を拾い上げようとした時、ユキが言った。
「なに?」
「今日の怪我。あたしもさっきの蔵雅みたいに助けられたらよかったんだけど」
急にくぐもった声になった。
「それユキが気にすることじゃないよ」
「だってあんた、もし目に怪我してたら・・・・・・空に行けなくなってもいいの?」
ユキはスカートの裾を握りしめて俯いた。
彼女は時折、表情に影を見せることがあった。それを見ると、僕の頭は芯まで冷える。
ユキを変えてしまったのは僕だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
夜遅い時間、父が右足と片目を失ったと医師から告げられた日を思い出す。
病院を飛び出し、一心不乱に走って辿り着いたのはいつもの公園だった。
僕が悲しみに暮れているのに街の光は変わらないままで、世界が酷く残酷であるという片鱗を見た気がした。
「蔵雅」と背後から声がした。ユキが立っていた。
「ごめんなさい、あたしのお父さんの発明のせいで」
今にも泣き出しそうな震えた声。
頭は怒りで煮立っていて、手足の先は凍えた様に痺れていた。誰でもいいから、感情をぶつけてやろうとしている時に来てしまうなんて。もう、本当にやめてほしかった。
「ユキが謝ることじゃない、父さんが勝手にやったことだ」
「でも、あれはメーティスが・・・・・・」
これ以上なにも聞きたくなかった。かろうじて残っている理性が、ユキを責めてはならないと警告している。けど、このまま彼女の言葉を聞き続けたらどうしてしまうかわからない。
「違うって言ってるだろ!」
自分でも驚くくらい、強い言葉が飛び出した。
ユキが息を呑む姿が、はっきりと見えた。
「無茶な空戦をしかけるなんてどうかしてる、自業自得だったんだって、みんな言ってる」
最低だ。
「悪いのは父さんだ、そうでなきゃ・・・・・・ちくしょう、なんでこんなに街の光が綺麗なんだよ! ちくしょう!」
僕は最低だ。
「そうだよね、今日は人工知能の偉大さを称える日だもん。街は華やかに決まってるよ・・・・・・大っ嫌いだ、メーティスもそれに浮かれてる奴らもみんな、大っ嫌いだ・・・・・・もう、いいさ」
こんなことが言いたいんじゃない。本当はユキに感謝しているし、彼女のことが好きだ。
けど、一度感情の箍が外れると語気が鋭くなってしまうのだ。
ぎゅっ、と何かが体に押し付けられた。
「ごめん、ごめんね」
柔らかくて甘い香りのする髪が僕の首筋を撫でた。ユキのぬくもりが、預けられている。
体が触れているからだろうか。
彼女が傷ついているのがわかる。
それなのに、酷いことを言ってしまったのに、僕に触れてくれた。
もっと感情を抑えることができていれば、ユキが傷つくこともなかった。それができなかったことがどうしようもなく悔やまれる。
もし、僕がユキの立場だったら同じことができただろうか。酷いことを言われても、優しく抱きしめて一緒に涙を流すことはできたのだろうか。
たぶん無理だ、ユキだからこそこんなことができるのだ。
この優しさに満ちた女の子を守りたい。
今もらっている全てをいつの日か必ず返そう。
心からそう思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・
そういえば、抱きしめ合ったのはあの夜以来だ。
ユキがしおらしくなってしまったのは、僕と同じように遠い日を思い出しているからに違いなかった。
あの夜からずっと、ユキは僕のために必要のない罪を背負っている。
彼女なりに強くあろうとして、僕の世話を焼くようになった。彼女が僕の前で涙を見せることは、もうなかった。
「もう昔みたいに空の話してくれないけど。あたしはさ、あんたにもう一度――」
「ユキ、もういいって」
僕が言うと、ユキは体を強張らせた。
「ユキには感謝してる。落下した段ボールから救いました、じゃ返せないくらいね」
僕の目をジッと見る。何か言いかけて口を開けたけど、そのまま俯いてしまった。
「ほら、いつもみたいにツリ目と上がり眉して。調子狂うだろ」
ユキの目端を人差し指で押さえ、そのまま斜め上方向に伸ばす。
「なな、ななな! なにすんのよ! 人が真面目に話てんのに!」
迫るユキをどうどうとなだめていると、
ズン、と空気が震えた。
あまりの音に僕たちはぎょっとして固まった。
「なにいまの、ユキおならした?」
「・・・・・・ほんと最低」
ユキの柔らかい手が硬質な氷山の如く握りしめられたのを見て身を翻す準備をしていると、再び地の底から獣の唸り声のようなものが聞こえた。
本能的に動いてはいけないと悟った僕達は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。喉元に獣の牙が迫っているような危機感を覚える。首筋がぞわぞわと波立つ。
「下から聞こえてくる、地震の前触れかも」
がたん、と音がして床が弾んだ。旧校舎全体が飛び跳ねたような衝撃。その衝撃で本棚の本がバサバサと落ちてきた。古い本の匂いと埃がいっぺんに舞う。
「これ危ないね、出た方がよさそう」
「蔵雅、何かのスイッチがある」
ユキが言った。
見てみると崩れた本棚の奥の壁に、銀色の丸いメッキで囲まれた赤いボタンが設置されていた。
「本当だ、なんだろう」
「あたしさっき本を押し込もうとした時に弾みで押しちゃったかも」
ユキは困り顔だ。
「仮に押したとして、この地震とは関係ないと思うけど。でも、なんのボタンだろう」
僕たちは顔を見合わせて首をひねった。
そうしていると、涼太と葵衣が丁度戻ってきた。
「だーかーらー、汗かいてる時はスポーツ飲料の方がいいんだって」
「そんなもの飲むとお腹がタポタポになるじゃないですか、ここはコーラがベスト。一流のアスリートもコーラを愛用してるの知らないんですか?」
「それ炭酸抜いたやつじゃね? お前のシュワシュワじゃん」
それぞれペットボトルを二本ずつ持った彼らは、僕たちが神妙な面持ちでいることにすぐ気づいた。
「な、なんだよマジな顔して。ちゃんとお前らの分も買ってきたって」
「サボっていたわけではありませんよぅ」
二人はペットボトル飲料を前に突き出して言う。
あたふたしていた二人だが、咎められているわけではないと察したようだった。葵衣がきょとんとした顔で言う。
「なにかあったんですか?」
「変なボタンがあって。それに床下から音がしてさ」
「ボタンですか。どこにありますか?」
「あそこだけど」
指差した先を見た葵衣が不敵に笑う。
「ではちょっと拝見します」
ひょこひょこ歩いてきて、そのまま赤いボタンをポチッと押した。
声を上げる暇もなかった。ボタンを押した葵衣は何故か上機嫌で、満面の笑みを顔に貼り付けていた。
「え!? ちょっと待った! よくわからないもの押さないでくれ!」
感情が追いつき慌てて言ったけど、もはや後の祭りである。
「ふっふっふ。科学者はね、赤いボタンを見ると押してしまうという習性があるんです。猫にマタタビ、犬にゴムボール、科学者に赤いボタンです」
んふっ、と満足そうに息つく。
「きみ科学者だっけ?」
「今になります」
「科学者になりたいって願望持ってるだけじゃん!」
「これからなる予定ですので心配いりませんよ」
「心配なんかしてないって」
もはや怯えた小動物のような印象は微塵も残っていなかった。自らの領域に入ると性格が変わるタイプに違いなかった。
僕とユキはひきつった顔で、歪んだ野心を抱きそうな未来の科学者を見ていた。
「えっと、赤いスイッチてさ」
涼太が顎に手を当て、何事か思案しながら言った。
「押しちゃいけない危ないもんだから赤なんじゃねえの? 警告っていうかさ」
涼太の予感は的中した。
ガタン、という音がしたと同時に平行だった床が急に斜めになった。
「えっ」「きゃっ」「ひいっ」「うおお!?」と各々が悲鳴を上げる。
一瞬のうちに足場が不安定になり、僕たちは揃ってずるりと足を滑らせた。
旧校舎の窓には、あまりのことに成す術もなく滑り落ちていく僕たちが映っていた。
巨大な滑り台を滑るようだった。踏ん張りをきかせて留まろうにも、掴むところもなくずるずると落ちていく。上に見える旧校舎の教室の光はみるみる小さくなり、落ちる先の闇が深くなっていく。




