一式戦闘機隼対メーティス
2041年 6月
絶対に負けるか。
高度五千メートル、時速四百キロの世界で僕はレシプロ戦闘機の操縦桿を握りしめていた。
地上の景色は眼下にあり、目前には見渡す限り群青の空が広がっていた。あの頃と同じ冷たい空気の香り、見据える先、何もかもが青に染められた世界。そこで僕は戦っていた。
僕が操っているのは低翼式の単葉機、旧日本帝国軍の一式戦闘機。隼と呼ばれるレシプロ機だ。基礎となる設計は一世紀も前のものだが、最高速度250ノットと申し分なく精練された機体。
速度が速い分、弱点もある。極限まで軽量化しているため、装甲が薄い。被弾すれば数発で炎上してしまうし、好き勝手にスピードを上げれば機体が耐えきれずにバラバラになってしまう。
とはいえ、旋回性能が高い一式戦闘機はこと格闘戦に関して優秀であることは間違いない。このデリケートな機体をどう生かせるかはパイロット次第というわけだ。
頼むぞ一式、と機体に語りかけるとエンジンが僕の意思と共鳴して大気を震わせる。
AI搭載機と勝負をするため、腕を磨いてきた。この時を待っていた。
勝つんだ、絶対に勝ってやるんだ。
と、見開いた視界の先に同じ一式戦闘機が一機。プロペラ音を轟かせ、青い空を斬り裂くようにして飛んでいるのが見えた。
敵機の一式戦闘機だ。
僕の方が先に見つけた。
目測でおよそ一キロ先に標的を捉えた。
すぐにでも機関銃を発射したいが、そうもいかない。深く深呼吸をして、はやる気持ちを抑えた。
武装している八九式固定機銃の射程には遠すぎるのだ。この距離ではまず当たらないし、不用意に発砲すればこちらの位置を把握される危険の方が大きかった。
空戦においての必勝法は敵機をいち早く発見し、最小の攻撃で撃破することだ。不意打ち戦法、などと聞こえは悪いがこれこそが必勝形である。
このまま敵の上を取る。太陽の光にまぎれて接近し、上空から一気に急降下。銃撃して迫り、そのまま敵の下を抜けていこう。
一撃離脱戦法を考えた直後、水平飛行をしていた敵機が急激な宙返りをする。その両翼が陽の光を受け、彗星の如く夏空に閃くのを見た。
気付かれた。奥歯をぐっと噛みしめる。
インメルマンターン。惚れ惚れするほど鮮やかな宙返りだった。先刻まで明後日の方向を向いていた機首が、今は僕に向けられている。
あのまま気づかれなければ楽に勝てたかもしれないのに。
いや、そんな考えは捨てるべきだ。
女々しい後悔をするより、やるべきことがある。
格闘戦は最後の手段であったが、こうなれば真っ向勝負をするしかない。
敵機と僕は同じ一式戦闘機だ。装備も同様に八九式固定機銃二挺。空対空ミサイルなんて無粋なものはないフェアな戦闘。
勝敗は機体性能ではなく、パイロットの腕と直感で決まる。その事実が流れる血を熱くさせる。
互いに正面からの真っ向勝負。いわゆる正面反航戦、両目を開けたまま照準眼鏡を覗きこむ。照準に写り込んだ敵機が次第に大きく浮かび上がる。
今この世界には僕とあいつだけだ。数秒後に翼があるのはどちらだ。
何も考えず、目の前の敵に全神経を集中させる。プロペラの音が遠のき、胸の鼓動が大きくなっていく。極限状態の集中と緊張が相まって、最後には何も聞こえなくなるのだ。音のない紺碧の世界で、僕たちは対峙していた。
敵機が照準十字に収まった。
「ここだ!」
これまでの沈黙は空を裂く7.7ミリ弾に破られた。
敵機の機銃もほぼ同時に火を吹いた。バババババ、と耳をつんざく音と共に機体が振動する。
互いに正面から弾丸を撃ちこみつつ、ぐんぐん距離を縮めていく。向こうも引く気はないようだった。
相手より一発でも多く撃ちこんでやる。一心不乱に弾丸の雨をかいくぐり、操縦桿を強く握った。
軌道を変えないとこのままでは機体同士で衝突してしまうが、ぎりぎりまでそれをしなかった。僕の体の奥、魂にまで染みついた何かが相手より先に回避することを拒否していた。
意地を張り通し限界まで敵機が迫った所で操縦桿を左手前に引き寄せ、ラダーペダルを思い切り踏み込む。
機体がグイッと傾いて、水平だった機体が縦一文字になる。
敵機も全く同じ方法で回避行動をとる。すれ違いざまに互いのエンジンが獅子の如く唸った。
直前の回避であったため、互いの機体底部が接触するすれすれのところだった。滾る胸に反して、背中には冷たい汗が浮かんだ。
ガガガッ、と通信機から音がした。
『主審から警告、今のような飛び方は非常に危険だ。もう一度やれば失格とする』
大会の主審から警告が入る。その裏では観客の喝采が聞こえていた。
『聞いているのか、応答しない場合は二度目の警告として――』
そんな言葉を聞いている余裕などなかった。僕にとってこれは試合でも見世物でもない。生死をかけた勝負そのものなのだ。
機体の損傷を確認する。有機ガラスを通して左翼に弾痕が見えたが、幸いにも損傷は軽微である。
僕は機体を旋回させつつ、首を動かして後方へ通り過ぎていった敵機を探した。
青い空には白い雲が点々と漂っていたが、ひときわ巨大な入道雲の中心に黒い影が見えた。
ゴマ粒ほどの黒点に目を凝らすと、飛行機のフォルムであることがわかる。
こうゆう時のために目を鍛えておいたのだ。
僕を正面に捉えるため、敵も旋回している。
この旋回が終われば、再び正面からの撃ち合いとなるだろう。一刻も早く銃口を獲物へ向けなければならない、とペダルをめいっぱい踏込んで旋回の速度を上げる。
その時、敵機が旋回を中断して急降下していくのを見た。
一式は速度と旋回性能では群を抜いているが、機体強度に乏しく急降下後の立て直しの際に発生する空圧で空中分解を起こす確率が高かった。だが敵機はそれが起きる寸前の所で、巧みに操縦しているようだった。
優秀すぎるほどの敵だ。加速によって生じる人体への負荷、生への執着から生まれる恐怖心、無人戦闘機にはそれがない。だから人にできないことを平然とこなすことができるのだ。
ドックファイトに応じず、こちらを挑発するような急降下。
敵機の尾翼を見た時「お前にできるか? 追いついてみろ」と言われている気がした。
敵機、すなわち戦闘飛行用AIは様々なマニューバを繰り出し、僕がどう対応するのかを見極めているのだ。パイロットの癖や操縦技術を学習し、インプットされている数千の戦略から最適なものを選んで戦う。
こうしている間にもメーティスは着実に戦略を整えているはず。空戦の経験が少ない僕には、まだ数十の戦略もたてられない。長引けばこちらが不利だ。僕はスロットルを開き、角度に注意しながら急降下した。
このまま下降すれば重力を速度に変換することができる。その分、空中分解の可能性も跳ね上がるが、そう何度も敵機の背後をとれるものではない。
これは好機なのだ。
降下から速度を得た機体は、ぐんと敵機との距離を縮める。
照準器を覗きこめば、十字枠に敵が収まっていた。銃把に指をかけ、数百メートル先へ弾丸を放つ。
ここで敵機はこちらの急速接近に気づき、左急旋回。
機首を敵の尾翼から離してたまるかと、僕も撃ち続けながら急旋回する。弾丸が弧を描いて少しずつ敵機へ伸びていく。
ガスッ、と音が聞こえたような気がした。
確かな手ごたえは感じたので発砲をやめてみると、敵機右翼に弾丸が命中している。
これに驚いた敵機は旋回を止め、一転して急上昇する。
まだ動けるのか。
当たりはしたが、かすめた程度であるらしい。
ここで上昇すればせっかく得た速度を失うことになるが、こうも相手を追い詰められる状況が今後あるかもわからない。
両手で桿を手前に引いて、僕も青空へと駆けあがっていく。
高度三千メートルで再び僕は敵機の背後をとっていた。
僕が同じ高度まで上ってきたことがわかったのか、敵機は両翼を傾けて旋回飛行を始めた。こちらも逃げる敵機の尻尾を掴むため、操縦桿を左へ倒して機体を横滑りさせる。
遠心力でぐいぐいと体が外へ引っ張られる。両足に踏ん張りをきかせ、奥歯を噛みしめて敵機の尾翼だけを見る。
先程から敵機も近接戦闘に持ち込むための旋回を繰り返している。向こうもこちらの尾翼を照準に収めようと奮闘している。
空中戦では追尾して尾翼を捉えた方が有利だ。照準器の枠に捕らえ、後は機銃で敵機を食い破れば勝利となる。
我慢比べだ。
真っ向勝負の基本は意地の張り合いだ。より冷静に、より的確に、より打たれ強くなければならない。一瞬でも隙を見せた方の負けだ。
機影が迫る度、重力に圧迫された肺から空気が抜き取られていき体はどんどん重みを増してくる。だが、ここで意識を失うわけにはいかない。
横目には夏の空を白色で征服する入道雲が、眼下には日差しを受けて輝く海面がある。この世界に溶け込みながら、鋼鉄の鳥を駆る。
突然、敵機が旋回をやめた。
傾けた機体を平行にし、入道雲に向けて突き進んでいく。
まただ。また勝負に応じない。
自然と操縦桿を握る手に力が入る。
押し開いた目で望遠鏡照準器を覗く。
ドッグファイトに勝因を見いだせなくなったため、一度雲に隠れて体制を立て直す気なのだろう。戦闘空域からの離脱を試みている敵機ほど墜としやすい。
ここで勝負をつけてやる。
照準器に移る機影が大きくなる。
照準器に敵機を収めた、後は発射ボタンを押せば勝てる。心臓が胸を突き破るくらいに高鳴る。
だが射撃を決めた瞬間、またあの声が聞こえた。
――人工知能を搭載した戦闘機には決して勝てん。
記憶に張り付いた父の声。黒く淀んで、どろどろした歪な声。
「勝てる、父さん、僕は勝てるんだ!」
機銃発射レバーにかけた指が震えた刹那、敵機が急上昇した。ロール、いわゆる宙返りをしてこちらを振り切るつもりのようだった。
一度噛みついた尻尾を逃してなるものかと、こちらも敵機に続いて宙返りをする。
弧を描いての回転。旋回と違って、上から抑えられるような重力がかかる。
これにはいつまでたっても慣れない。一回の宙返りは、長時間の逆立ちに相当する。何回も繰り返せば体力を奪われて、意識も遠のく。
機体を水平に戻したとき、ようやくその重力から解放されるのだ。
ぐぎぎ、と口から唸り声を上げながら宙返りを終えて、わが目を疑う。
追っていたはずの敵機が背後にいる。
背中にさっと波たつものを感じた。
やられた。ロールは誘いであり、狙いは捻り込みだった。
捻り込み。熟練パイロットでも難しいマニューバを容易く行った敵機に、しばし目を奪われてしまう。
機体をバンクさせ、旋回を縮める技である。範囲を絞った宙返りと、大きな範囲をとった宙返りでは、後者が前に押し出されるのは必然である。
ヒュン、と空を裂く弾丸の音で我に返った。咄嗟に僕は操縦桿を右へ倒した。最大旋回をして、振り切るしかなかった。
まだ負けるわけにはいかない、なんとしてもこの窮地を脱してやる。
背中にかいた冷汗が高高度の冷気に晒されて体温を奪う。吐く息も荒く、冷静や優雅さなど微塵もない。
だが、それでも集中しなければやられてしまう。
ガガガ、と通信機から再び声が聞こえる。
『先ほどの警告に応答がない、従わない場合は――』
こちらはそれどころではない。僕は通信を遮断した。
・・・・・・・・・・
「通信を切っただと!?」
男は思わず舌打ちをした。
地上には蔵雅の試合を審査する管制塔があり、二人の男が遥か上空の戦闘機を見上げていた。
「警告無視だ、片桐蔵雅は失格とする」
男は試合中止を意味する赤の信号銃を手に、外へ出ようとする。
「まあ、待て待て」
もう一人の審判である老齢の男がいきり立つ男の肩を叩く。
「少し様子を見よう」
「何ですって?」
「あの片桐蔵雅という無名の選手、なかなかの腕前だとは思わんかね?」
そのことに関しては返す言葉もない。男は押し黙った。
「試合前に僕は速い、と豪語していたがハッタリじゃなかった。これまで飛行部の大会で名を聞いたことがないから期待していなかったが、こんな動きはそうそう見れるものではない」
老齢の男は感嘆の息をついた。
「何度も旋回するスタミナ、しかも全て敵機の動きを予測して機体を操っている。自機のエネルギー量を正確に把握しつつ、相手の動きを予測する。いったいどれほどの飛行時間があればあれほどの・・・・・・いや天性のものかもしれない。もう少し見ていたいのだが、どうだろう?」
信号銃を手にした男は何も言えなくなってしまった。
・・・・・・・・・・・・・
右急旋回。可能な限り小回りを利かせ、なんとか敵機を振り切りたい。
Gがかかって体が重い。ここに来ての急旋回は体力的に厳しいが、背後から迫る弾丸の音が休息の間を与えてくれない。
敵機の発砲音を聞くと反射的に身を竦めてしまうが、コックピットに埋もれると視界が狭まるのでよろしくない。
奥歯を噛みしめ、ひたすらに耐えた。僕も機体も相当苦しい状況である。だが、この瞬間こそが勝負所であると心得た。
負けるものか。機体に鞭打ち、エンジンを唸らせた。
我慢比べなら負けない、と気合を入れていると、背後からの銃声が止んだ。
後ろを見ると、敵機が急上昇しているのが見えた。こちらに追いつけないと悟ったのか、高高度からの急降下で速度を得て距離を詰めるつもりなのだ。ならばこちらも急上昇して、相手の作戦を崩すしかない。
ドッグファイトは互いの動きの読み合いだ。相手の動きを読み、どう立ち回れば自分が有利になるかを常に考える。そうして相手の尻尾を掴んだ者が勝者だ。
それはゴールのないマラソンのようなもの。隣を走る相手が音を上げるまで、永遠に続く勝負なのだ。
何度も何度も旋回し、上下の感覚がなくなるほどロールした。
しかし、それでも。敵機はどう動いても、こちらの尾を掴んで離さない。
ぐごっ
嫌な音が耳に入った。
こんな時でも機体の音が聞こえるということは少なからず冷静ではいるようだが。この音には聞き覚えがあり、嫌な汗がジワリと浮かんできた。
旋回と急降下を連続して行ったため、耐えきれなくなった主翼のリベット(鋲)が抜けてしまったに違いない。
いい? リベットが抜けたらもう無理な飛行は禁止よ。続ければ空中分解する可能性が高いんだからね。
一式を整備してくれたユキの言葉が蘇る。
だが、この土壇場で旋回や急降下を封じられ、相手に勝つことは不可能であった。
敵が真後ろにいる。その事実が僕の精神を追い詰める。
子供のようにダダをこねても、敵は待ってくれない。
速度では有利な時もあったが、スタミナと精神力が底をつきかけている。ここまでくれば、試すしかないと思った。
僕は操縦桿を引いた。機体を左にバンクさせ、急激に速度を落として背後に回り込むつもりであったのだが、
「うわっ!」
水平飛行に戻す前に失速し、後方に迫っていた敵機と激しく衝突する。
落雷が直撃したような衝撃と爆音が響く。同時に僕の体は空へと投げ出され、パラシュートが開く。
びゅう、と吹く風があまりに冷たくて熱でのぼせていた頭が一気に冷えた。
呼吸をすれば肺まで凍り付きそうだ。
風にあおられたパラシュートの金具がギリギリと軋んだ音を出していて、生きた心地がしない。僕は地上から数百メートルの空へ投げ出されたのだ。
「そうだ! 一式!」
思い出して下を見ると、もくもくと黒煙が上っているのが見える。空の香りの奥に、エンジンやジェラルミンが焼き付く匂いがした。
天空から注がれる夏の陽射しが、業火に焼かれる二機のレシプロ戦闘機へと降り注いでいるのを見た。羽をもがれた飛行機は黒煙を引きつつ、錐もみに回転しながら青海へ落下していく。
父さんの仇を撃つと約束したのに、結果は散々なものだった。